「でも、私は本当に救われているだろうか。」
以前の記事で書きましたが、子どもの頃、私はその疑問をよく抱いていました。
正直に言うと、その疑問に答えるのは難しいことなのです。なぜなら、神様だけが人間の心をご存じだからです。
また、私たちが神の子どものしるしを自分に当てはめようとするとき、自分の失敗をよく見るのです。私たちは罪を犯すこともあれば、人を愛さないこともあるのです。
それでも、私たちは少なくとも確信をもって「イエス様を本当に信じています。私の救いのためにイエス様に信頼しています」と言えるはずです。
けれども、もし自分の救いに関して確信を持てないなら、私はこの心強い言葉をお伝えしたいと思います。自分の欠点を見て心配するのであれば、私はあなたが救われていると思います。
私が疑うのは、自分の罪を気にせずに「私はクリスチャンだ」と主張する人です。
以前も言いましたが、本当のクリスチャンはイエス様のようになりたいと願います。なぜなら、彼らはイエス様を愛しているからです。だから、罪に陥るとき、彼らは自責の念に苦しみます。
一方で、偽クリスチャンはイエス様のようになりたいとは思いません。だから、罪に陥っても気にしないのです。
さらに、偽クリスチャンは自分の罪や愛の欠如について常に言い訳をします。本当のクリスチャンはそれらを悲しみ、悔い改めるのです。
とはいえ、あなたが自分のクリスチャン生活を振り返ると、変化が見られるはずです。周りの人々に対するあなたの態度が変わっているはずです。つまり、ますます彼らをあわれみ、愛するようになっているはずです。
また、自分の罪を見たとき、以前よりも違和感を覚えるはずです。以前は気にならなかった罪が、今では気になるものになっているでしょう。
ヨハネは、クリスチャンがそのような変化を経験しないという考えを一切想像しませんでした。
しかし、もう一つ注目すべきことがあります。それは、最近の英語訳聖書で見られることです。
日本語の聖書では、こう書かれています。
そうすることによって(つまり、人を愛することによって)、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:19-20)
新改訳では、19節は18節を指しています。
けれども、最近の英訳では、別の訳を見ることができます。それによると、19節は20節を指しています。つまり、
以下のことによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。
要するに、自分があまり変わっていないと感じて罪悪感を抱いたり、変化を見ていながらもなお罪悪感を持つなら、次の大切な真理を理解してください。それは、自分の感情があなたの裁判官ではないということです。裁判官は神様です。
そして、神様はすべてをご存じです。神様は、あなたが本当に神様を愛しているかどうかを見分けることができます。また、神様はご自身がどのようにあなたの人生を変えたかを完全に理解されています。
だから、罪悪感に苦しんでいるのなら、神様を追い求め続けましょう。イエス様のようにもっと近づけるよう努めましょう。周りの人々にイエス様の愛を示しましょう。
もし罪に陥ったなら、立ち上がって悔い改め、もう一度歩み始めましょう。神様がいつもあなたの味方であることを心に留めておきましょう。
神様はあなたをいつも責めているわけではありません。もしあなたが神様を愛しているなら、神様はその愛を認め、決してあなたをあきらめません。
さらに、神様の恵みを深く知れば知るほど、その罪悪感は次第に消えていくでしょう。だからこそ、ヨハネはこう言います。
愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(21-22)
言い換えると、あなたの恐れは消え、神様の愛に対する確信を持ち、人生が変わり、神様との関係はさらに親密になります。
あなたの思いが天の父の思いと一致し、神様の御心に従って祈り始めます。そうするとき、神様がその祈りに応えてくださるので、あなたの喜びは溢れ出し、神様に属しているという確信がさらに強まります。
しかし、その日が来るまで、神様を追い求め続け、ヤコブの言葉を心に留めておきましょう。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:8)
