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ヨハネの黙示録

主の訪れに備えず、不意を突かれるとき

ヨハネの黙示録3:1-6

サルディスには、突き通せない都市という評判がありました。しかし、この都市は二度も陥落したのです。なぜでしょうか。それは、見張りの者が眠っていたからです。

そのような歴史を踏まえて、イエス様はサルディスの教会の目を覚まさせようとされました。イエス様は、こう語られました。

また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。(黙示録3:1-3)

イエス様は何を言いたかったのでしょうか。

かつての都市と同じように、サルディスの教会も丈夫で、元気で、生きているように見えました。けれども、実のところその教会は、死んだものでした。なぜなら、イエス様が彼らを裁くために来られたのに、彼らはその備えをしていなかったからです。

では、どのように備えができていなかったのでしょうか。イエス様は彼らに、こう語られました。「あなたの行いが、わたしの神の御前に完了したとは見ていない。」

それは何を意味するのでしょうか。私にもすぐにはわかりませんが、おそらく彼らには二つの問題があったのではないかと思います。一つ目は、彼らが聖なる人生を送っていなかったことです。操を守ることをやめ、自ら進んで罪に手を染めていたのです。

そこでイエス様は、「寝ているサルディスのクリスチャンたち」と「衣を汚さなかった者たち」を比較しておられます。(4)

しかし、イエス様はもう一つのことを意味しておられたのでしょう。

かつて、この教会は多くの良い働きを行い、周囲の人々に愛を届けていました。けれども、彼らはそれをやめ、自己中心になってしまったのです。周囲の人々への配慮を失い、ただ自分の実績だけを見て、誇りに満ちていました。

そのため、彼らは霊的に死にかけていたのです。自分の聖さや使命に関して、彼らの行いはまだ神の前に完成していませんでした。

それゆえに、イエス様は彼らに訓戒を与えられました。「原点に帰りなさい。最も大切なことを思い起こしなさい。自己中心的な態度を悔い改めなさい。自分の罪から離れなさい。そうしないなら、私は来て、あなたたちを裁くことになる。」

この言葉は、マタイの福音書第24〜25章のたとえ話に通じています。

多くの場合、私たちはそのたとえ話や、サルディスの教会に対する言葉を読んで、自分自身の人生を省みます。私たちは、個々のクリスチャンとして、主の帰還の日に向けて備えているかどうかを考えるのです。

もちろん、イエス様は一人ひとりのクリスチャンにも語っておられます。特に第4〜5節では、忠実なクリスチャンたちに向けて語っておられます。

けれども、覚えておきましょう。この手紙は、教会全体に向けて書かれているのです。

サルディスの教会と同じように、多くの教会は「生きている」という評判があります。ところが、実際には霊的に死んでいるのです。カリスマ性のある牧師がいて、賛美や礼拝の雰囲気は明るく盛り上がっています。

けれども、悔い改めていない罪のために、教会の内部は腐敗しています。信仰を公に宣言してはいても、その行動はその宣言と一致していないのです。

他の教会は、自分たちの実績を誇るだけです。かつては周囲の人々に、イエス様の愛を届けていました。けれども今では、その実績を祝って互いに褒め合い、自己満足に浸っているのです。まるで社交クラブのようになり、ただ交わりの時間を楽しむばかりです。

けれども彼らが忘れているのは、彼らの働きがまだ終わっていないということです。イエス様がこの世に戻られるその日まで、その働きは完成しないのです。

私たちはこの真理を心に刻まなければなりません。イエス様は必ず戻ってこられます。その日、イエス様が教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

周囲の世界に触れている教会をご覧になるでしょうか。命にあふれた教会をご覧になるでしょうか。それとも、自己中心的な教会をご覧になるでしょうか。罪に汚れた教会をご覧になるでしょうか。

イエス様が、あなたの教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

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