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ヨハネの黙示録

自給自足、冷淡、役に立たない

ヨハネの黙示録3:14-22

私の娘が4~5歳ぐらいの時、私がうちに帰ると、彼女は「ダディー」と叫びながら、私を出迎えてくれました。

でも、今は、私がうちに帰ると、彼女はリビングで座ったまま、ただ「お帰り」と言うだけです。

また、彼女は私がうちに帰ってきたことに、まったく気づかない時もあります。

愛の反応が冷淡な反応になることは、寂しいことです。

いろいろな意味で、ラオディキアにある教会は私の娘のようです。イエス様は、ほかの教会を責める時でも、良い点をも褒められました。けれども、ラオディキアにある教会については、良いことが一つもありませんでした。

サルデスの教会の中でも、イエス様が褒められたクリスチャンたちがいました。ところが、ラオディキアの教会の中では、イエス様が褒められたクリスチャンは誰もいませんでした。

彼らの問題は何だったのでしょうか。イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。

むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示録3:15-16)

イエス様は、何を意味されたのでしょうか。ラオディキアの近くには、二つの有名な都市がありました。

一つ目はヒエラポリスという都市です。その都市は温泉で知られていました。その温泉は体を癒すために役立ちました。

その反面、コロサイという都市は、冷たい飲み水で知られていました。

けれども、ラオディキアの人たちは都市の南にある温泉からお湯を得ていました。そのために、彼らは10キロメートルの水路を使わなくてはなりませんでした。

けれども、そのお湯が着いた時には、すでにぬるくなっていました。つまり、その水は入浴にも適しておらず、飲み水としても美味しくありませんでした。

要するに、その水はあまり役に立たないものでした。

教会が自分の役割をきちんと果たすならば、主にとって有益な存在となります。ヒエラポリスの温泉が人の体を癒したように、教会は人の魂を癒します。また、イエス様の愛はクリスチャンたちを通して流れ、冷たい水のように、疲れた人々を生かすことができます。

しかし、ラオディキアの教会は傷ついた人々を癒さず、疲れた人々を生かしませんでした。その教会は、主にとってまったく役に立たない存在となりました。

そこで、イエス様は彼らに言われました。「あなたたちは、自分の都市の水のようです。だから、わたしは口からあなたを吐き出します。」

彼らがなぜ役に立たない教会になったのでしょうか。一つ目の理由は、彼らが自給自足の姿勢を取り、主に対して冷淡な態度を示し始めたということです。イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(17)

この教会では、クリスチャンたちは自給自足でした。ラオディキアのクリスチャンたちだけでなく、その都市の人々も同じような性質を持っていました。

ラオディキアが地震によって壊れた時、彼らはローマ帝国の援助を断り、「私たちは十分です。自分たちで再建できます」と主張しました。

このように、ラオディキアの教会の人々は裕福で、自給自足の生活を送り、イエス様が必要だとは考えませんでした。彼らにとって教会は社交クラブとなっていたのです。

その結果、彼らはイエス様にとって、役に立たない教会となってしまいました。彼らはイエス様のために周囲の人々に触れようとせず、さらに、イエス様に対して冷淡な態度を示しました。彼らは基本的にこう言っていたのです――「私たちはもう十分です。あなたの助けは要りません。」

しかし、実際には彼らは非常に困難な状態にありました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(18)

この言葉によって、イエス様は彼らの自給自足の態度を厳しく批判されました。彼らは黒い羊毛や目薬を売っており、裕福な人々でした。

けれども、イエス様は彼らに言われました。「それらのものは不十分です。私から離れて、あなたたちは死にかけています。」

残念なことに、多くの人々はラオディキア人のようです。

日本では、大きな問題の一つは、非常に多くの人々が自給自足の状態にあることです。彼らは自分の人生に満足し、霊的な必要を認識することができません。そのため、「私にはイエス様が必要ではありません」と考えてしまいます。

ところが、あるクリスチャンたちも同じように考えることがあります。彼らは、イエス様を必要としていることを忘れてしまいます。

「以前はイエス様を必要としていましたが、今はもう十分です」と彼らは主張します。そして、自分の人生からイエス様を追い出してしまいます。

教会に通い続けるかもしれませんが、時間、経済、仕事、人間関係などに関しては、彼らはイエス様に対して「あなたは必要ありません」と言っているのです。

このようなクリスチャンたちは、主にとって役に立たない者となってしまいます。そして、教会がそのような人々に満ちているなら、その教会は深刻な状態に置かれています。

だからこそ、イエス様はラオディキアのクリスチャンたちにこう言われました。

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。(19)

私は、ある英語訳の聖書が非常に心に響きました。「悔い改めなさい」という言葉の代わりに、「自分の冷淡な態度を捨てなさい」と意訳されているのです。

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)

ラオディキアの人々は、自分たちの教会からイエス様を締め出してしまっていました。だからこそ、イエス様はその教会の戸の外に立ち、たたいておられました。

「わたしは、あなたがたを今もなお愛しています。和解の機会を与えています。どうか、心を開いてくれませんか。」

あなたはどうでしょうか。

イエス様に対して冷淡な態度を取っているでしょうか。イエス様をあなたの人生から締め出し、「あなたは要りません」と言ってしまっているでしょうか。

それでもなお、イエス様はあなたを愛しておられます。イエス様は、ご自身の御国のためにあなたを今も用いたいと願っておられます。もしあなたが冷淡な態度を悔い改めるなら、いつかイエス様と共に支配することになるでしょう。(21)

しかし、悔い改めなければ、あなたは懲らしめを受けることになります。

あなたの教会はどうでしょうか。自己満足している人々で満ちた、単なる社交クラブのようになってしまってはいないでしょうか。

教会が悔い改めなければ、イエス様はあなたたちの燭台をその置かれた所から取りはずされます。あなたたちは、もはや世の光として輝くことができなくなってしまいます。

イエス様は、あなたとあなたの教会に何を語っておられるでしょうか。

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