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ヨハネの黙示録

預言の中心におられる方、私たちの言動の中心となられる方

ヨハネの黙示録19:9-10

私が何年もこのブログを書いてきて、もうすぐ聖書全体を読み終えるところなので、できるだけ早くこのブログを終えたいという誘惑を感じています。

けれども、ヨハネが自分の語りの途中で少し脱線したように、私もそうしたいと思います。というのも、その言葉が、私がなぜこのブログを書き始めたのかを思い出させてくれるからです。

御使いが子羊の婚宴について語った後、ヨハネはその足もとにひれ伏して、礼拝しようとしました。

ヨハネの考えは理解しやすいでしょう。この御使いは、ヨハネよりも栄光に満ち、聖なる存在でした。だからこそ、束の間、ヨハネはその御使いこそ礼拝にふさわしい者だと思ったのです。

しかし、御使いはヨハネに言いました。

いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。

神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。(黙示録19:10)

要するに、「私があなたにこの幻を現す目的は、あなたが私を礼拝することではありません。私はこの幻の中心ではありません。

また、預言者たちは自分の預言の中心ではなく、あなたもこの預言の中心ではありません。

むしろ、イエス様がその預言の中心です。すべての預言は、イエス様に関して証しするためのものです」ということです。

これはとても大切で、心に留めておくべき真理です。イエス様はすべての中心におられる方です。特に、イエス様は私たちの言動の中心であるべきです。

私がこのブログを書くときも、教会でメッセージを語るときも、それは私の栄光のためではありません。それは、イエス様に栄光をお返しするためです。

あなたが教会や社会の場で仕えるときも、それはあなた自身の栄光のためではありません。それは、イエス様を証しするための奉仕です。

それを忘れると、私たちは非常に深刻な状態に落ちてしまいます。

名声を礼拝し始め、お金を礼拝し始め、周囲の人々からの称賛や尊敬を礼拝し始めます。イエス様は本来、私たちの人生の中心であるはずですが、私たちはそのお方を忘れてしまうのです。

だからこそ、私たちが自分自身に問いかけなければならないのは、教会で仕えるとき、私たちの心がイエス様に向けられた礼拝の姿勢になっているかどうかということです。

この社会に触れる時、私たちは神様に栄光をお返しする心を持っているでしょうか。

あなたは、誰の前に、また何の前に、ひれ伏して礼拝しているでしょうか。

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