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さて、今日の聖書箇所では、私たちは二種類の書物を見ます。
ヨハネによれば、裁きの日に、死んだすべての人々が、大きい者も小さい者も、御座の前に立ちます。そして、数々の書物が開かれます。その書物には何が書かれているのでしょうか。
どうやら、私たちのすべての行いが記されているようです。
その書物のほかに、もう一つの書物があります。それは「いのちの書」です。
その本には、神様に属する人たちの名前が記されています。彼らは、自分の救いのために、イエス様とその十字架の働きを信じた人々です。
ヨハネはこう言います。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。
書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(黙示録20:12-15)
私たちはその言葉から何を学ぶことができるでしょうか。
私たちには選択があります。自分と自分の行いに頼って救いを得ようとすることもできれば、イエス様とその十字架の働きに頼ることもできます。
もしイエス様とその働きに頼るなら、私たちの名前はいのちの書に記され、私たちは救われます。
しかし、自分と自分の行いに頼ろうとするなら、神様の目にはそれらの行いは不十分とみなされます。
なぜでしょうか。
神様は私たちの良い行いだけでなく、悪い行いも見ておられます。また、たとえ良い行いをしたとしても、その動機や態度が悪いことも多いのです。
けれども、もっとも重要な理由は、私たちがイエス様を自分の王と救い主として拒んだからです。
簡単に言えば、天国に行くために自分の良い行いに頼ろうとするなら、私たちは失敗してしまいます。
だから私は自分の行いに頼りたくありません。イエス様とその十字架の働きに頼りたいのです。
あなたはどうでしょうか。何を選びますか。
