皮肉なことですが、箴言の終わりに私たちがたくさんの知恵を聞いたのに、アグルという人はこう言います。
まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も持っていない。(箴言30:2ー3)
でももしかしたら、私たちはそんな謙遜な態度を取るべきかもしれません。なぜなら、私たちがどんなに知恵を持っても、私たちの知恵は神様の知恵と比べられないものです。
それでも、苦しむときに、私たちは神様を疑います。
「どうして、神様は、コロナを許しただろうか。」
「どうして、神様は、天災を許すだろうか。」
「どうして、神様は、この世の悪を許すだろうか。」
ヨブのように、私たちは神様から答えを迫ろうとすることができます。ヨブの友達のように、私たちはもうその答えを知っているふりをすることができます。
でも、最終的に、私たちが認めなくてはならないのは、「私は何も知らない」ということです。
すべてのことを知っている方は一人しかおられません。でも、その人は私たちではありません。(4)
だから、私たちは選択があります。私たちは無知なままで、神様を罵ることができます。
もしくは、私たちはヨブのようにへりくだって、神様にこう認めることができます。
あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。
確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ記42:2ー3)
箴言の冒頭で、私たちはこの言葉を読みました。
主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)
また、
主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)
私たちはすべてのことを理解することはできません。でも理解し始めたいと思うなら、私たちは二つのことをしなくてはなりません。
神様を恐れなくてはいけません。
神様を信頼しなくてはなりません。
あなたはどうするでしょうか。
