「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」
そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。
それは本当でしょうか。
ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。
この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)
でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。
死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。
自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)
すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)
では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。
私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。
私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。
もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)
また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)
でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。
意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。
イエス様はこう言われました。
わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)
また、最終的に、
正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)
だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。
私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。
それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)
