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創世記のデボーション

聖書は、わたしについて証ししているものです

創世記22章

イエス様が「聖書はわたしについて証ししているものです」と言われたとき、創世記第22章についても触れておられたのではないでしょうか。

神様はアブラハムにこう言われました。

あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。(創世記22:2)

最終的に、神様がアブラハムに「イサクを殺してはならない」と言われましたが、神様はご自身の愛する一人の子を惜しむことなく、十字架の死に渡されました。

そういうわけで、使徒ヨハネはこの言葉を書きました。

神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。

それによって 神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9〜10)

また、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

アブラハムとイサクがその山を登ったとき、イサクは「全焼のささげ物にする羊は、どこにいますか」と訊きました。

アブラハムはこう答えました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:2)

数百年後、バプテスマのヨハネはイエス様についてこう言いました。

見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)

その山を登ったときにイサクが捧げ物のための薪を背負ったように、イエス様はゴルゴタを登った時に十字架を背負われました。

そして、イサクがある意味で復活しましたが、イエス様は実際に復活されました。(へブル11:19)

最後に、アブラハムの子孫であるイエス様によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになりました。(創世記第22:18;マタイ第1:1〜16)

時々、クリスチャンたちは「どうして旧約聖書を読むべきだろうか」と疑問に思います。

最も大切な理由は、旧約聖書では、私たちはイエス様を見るからです。

だからこそ、私たちが旧約聖書を読むとき、一緒にイエス様のことを探しましょう。

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