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マルコの福音書のデボーション

神様は私たちを愛しておられるから

マルコの福音書1:9-13

そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。(マルコの福音書1:9-13)

いつも私を驚かせるのは、この個所では、神様がイエス様に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われた直後、聖霊様はイエス様を荒野に追いやられたということです。

時々、私たちはこう思います。「神様は私を愛しているのに、時々私が砂漠を体験することを許される。」

でも、今日、私にこの考えが思い浮かびました。「神様は私を愛しているので、時々、私を砂漠に追いやられます。」

でも、どうして神様はそうされるのでしょうか。

その答えは、へブル12:6-7に書いてあります。

「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(へブル12:6-7)

イエス様は罪を犯されたことがなかったのに、神様の訓練を受けられました。

今日の個所では、私たちはその一つの例を見ます。でも、どうして罪のないイエス様が訓練を受けなくてはならなかったのでしょうか。

その答えも、へブル書に記されています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり(ました)。(へブル5:8-9)

人間として、イエス様も従順を学ばなくてはなりませんでした。でも、従順は、良い時ではなく、辛い時に試されます。すべてがうまく行くとき、神様に従うのは簡単なことです。でも、砂漠を渡るとき、従順は難しいのです。

砂漠におられるとき、イエス様は従順を学ばれました。その従順は、ゲツセマネでも試されました。(マルコ14:36-40)

でも今、イエス様が従順を学ばれたので、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル2:18)

だから、あなたが砂漠を渡っているなら、絶望しないでください。神様があなたを砂漠に追いやられた理由は、あなたを憎んでおられるからではありません。神様はあなたを愛しておられるので、あなたを砂漠に追いやられました。

神様はイエス様を訓練されたように、私たちをも訓練されます。私たちを滅ぼすためではなく、私たちの益のためです。(へブル12:10-11)

もし、あなたが砂漠を渡っているなら、イエス様があなたの苦しみを理解しておられることを心に留めてください。なぜなら、イエス様も、天の父の訓練を受けられたからです。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

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