いろいろな意味で、ヨセフはイエス様の前触れでした。
ヨセフは父に愛されました。(創世記37:3;マタイ3:17)
ヨセフは自分の民に拒絶されました。(創世記37:8;ヨハネ1:10〜11)
ヨセフは銀で売られました。(創世記37:28;マタイ26:14〜16)
ヨセフは言いがかりをつけられました。(創世記39:16〜18;マタイ26:59〜61)
ヨセフは権力の座を与えられました。(創世記41:37〜44;ピリピ2:9〜11)
ヨセフは自分の民に、大いなる救いを備えてくださいました。(創世記45:7;マタイ1:21)
45章では、私たちの救いの描写を見ることができます。
ヨセフの兄弟たちのように、ある日、私たちはイエス様の御前に立ち、自分の罪を知り、自分が死刑に値することもわかります。
でも、ヨセフのように、イエス様は私たちに優しく言われます。
「どうか私に近寄ってください。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:4,7)
今なお、ユダヤ人の間には、恵みによって救われた残りの者がいます。(ローマ11:5)
神様の恵みによって、私たちも神様の家族に属しています。私たちもイエス様の大いなる救いを受けました。
その救いは偶然ではありませんでした。ヨセフの場合と同じように、それは神様の恵みの計画の一部でした。(創世記45:5〜8;使徒2:13〜18、4:27〜28)
だから、パウロとともに歌いましょう。
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ12:33ー36)
