こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)
その言葉は私の印象に残りました。
どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。
たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。
モーセの怒りは清いものだったでしょうか。
それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。
自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)
それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。
イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)
しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。
パウロはこう言いました。
怒っても、罪を犯してはなりません。
憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)
私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。
ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。
また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。
だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。
怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。
人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。
世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。
むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。
その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。
イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)
イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)
人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)
それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)
私たちはどうでしょうか。
私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。
