それでモーセは民に言った。
「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」(出エジプト記20:20)
それらは、ちょっと逆説的な文だと思いませんか。
「恐れることはありません。」
「神様を恐れるべきです。」
どのようにその二つの文を繋ぎ合わせることができるでしょうか。
私たちが覚えていなくてはならないのは、神様は良い方ですが、飼いならされた神様ではないということです。
私たちは神様をコントロールすることができません。
私たちは神様を操ることができません。
聖なる万能の神様を相手にするとき、私たちは恐れるべきです。私たちは、故意に神様を軽んじてはならないのです。
なぜなら、ある日、神様はご自分に反対して憎む人々を裁かれるからです。(5)
その裁きを見るとき、私たちは恐れるべきです。なぜなら、私たち皆は罪を犯したからです。私たち皆は裁きにふさわしい者です。
それでも、神様は良い方です。神様は気まぐれな方ではありません。神様は悪意を持っておられる方ではありません。
さらに、神様はご自分のひとり子をこの世に送って、私たちの代わりにイエス様は裁かれました。
だから、神様を愛し、イエス様を受け入れる人々には、神様は恵みを注いでくださいます。
私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめるかもしれませんが、ご自分の恵みを私たちから取り去られることはありません。(第二サムエル記7:14ー15)
そういうわけで、イスラエル人と違って、私たちは神様の裁きを恐れて、神様から遠く離れて立つ必要はありません。
むしろ、モーセのように、私たちは神様に近寄ることができます。(18、21)
だから、神様を恐れましょう。でも、神様を怖いと思う必要はありません。
それを心に留めて、神様に近づきましょう。
こうして、愛が私たちにあって全うされました。
ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17ー18)
