この主の手が短いというのか。(民数記11:23)
今日、その言葉は私の心を打ちました。
「主の手が私のところに届かないと思うだろうか。主の手が弱すぎると思うだろうか。」
モーセや(14)、私たちとは違って、神様は弱いお方ではありません。
ご自身の約束を守ることに関して、神様は弱いお方ではありません。
ご自身の民の世話をすることに関して、神様は弱いお方ではありません。
ご自身の民を懲らしめることに関して、神様は弱いお方ではありません。
今日の箇所では、神様はそのようにご自身の力を現されます。
しかし、もう一つの面でも、神様は弱いお方ではありません。私は23節を読んで、イザヤ書59:1にある神様の言葉を思い起こしました。
見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。(イザヤ書59:1)
私たちは、神様の救いを見ることに関して絶望することがあるでしょうか。
日本を思うとき。
愛する人々を思うとき。
この世の罪とよこしまを思うとき、人々の頑なな心を見るとき、絶望するのは簡単なことです。
しかし、この真理を心に留めておきましょう。
主の手が短くて救えないのではありません。
もう一つのことも覚えておきましょう。
神様がイスラエルの長老たちにご自身の御霊を注がれたように、神様は私たちにもご自身の御霊を注いでくださいました。(イザヤ書59:21、使徒の働き2:17-18)
神様の目的は、私たち皆が神の命の言葉を周りの人々に伝えることです。
それは、牧師たちだけの役割ではなく、私たち皆の役割です。
主よ、あなたがモーセやイスラエルの民に御霊を注がれたように、使徒の働きの時代のクリスチャンたちに御霊を注がれたように、私たちにも御霊を注いでください。
あなたの手が短くて救えないのではありません。あなたは私を救ってくださいました。
ですから、私の周りの人々を救うために、私をあなたの御霊で満たし、用いてください。
イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
