いろんな意味で、パウロの言葉はイエス様の戒めに似ています。つまり、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(マタイ7:1~5)
でも、その言葉はどういう意味でしょうか。
多くの人々はその言葉を引用し、「私の罪を指摘してはいけない。私の行為を『罪』と呼ぶな。」と言います。
でも、イエス様とパウロはそう教えていません。
むしろ、彼らが言っているのは、「自分に罪がないかのように人々を裁いてはいけません。回りの人々の罪を指摘する前に、自分の罪を見て、悔い改めなさい。」ということです。
そうすれば、どうなるでしょうか。
私たちは謙虚になります。自分の罪をよくわかっているので、回りの人々の罪を見ても、偉そうな態度を取ることができません。
それに、私たちに対する神の豊かないつくしみと忍耐と寛容がわかっているので、回りの人々を見ると、私たちはそのような態度を取ります。
最後に、回りの人々の罪を見るとき、私たちは単に相手を責めずに、むしろ、その人が私たちのように悔い改めて、神様との関係が回復するように望みます。
でも、私たちが自分の罪を認めず、悔い改めないなら、どうなるでしょうか。
私たち自身が神様に裁かれます。
もう一度言いますが、単に人の罪を指摘するのは、人を裁くことではありません。自分の罪を認めないと、その人は悔い改めることができないからです。
でも、情け深い心を持たずに、ただ人を責めているなら、私たちはイエス様の心を忘れてしまっています。イエス様の使命をも忘れてしまっています。
それは、人々を裁くことではなく、むしろ、人々を救うことです。(ヨハネ1:17)
神様の豊かないつくしみによって、私たちは悔い改めに導かれて、救われました。
人々が私たちを見ると、神の豊かないつくしみを見ることができるでしょうか。
