聖書の中で、これはとても解釈しにくい箇所です。エフタは本当に全焼のいけにえとして神様に娘を捧げたのでしょうか。そうだったとしたら、神様はその行動を認められたのでしょうか。
その二つ目の疑問には、以前のブログで答えています。もしエフタが本当に全焼のいけにえとして娘を捧げたなら、神様はそのいけにえを絶対に受け入れられなかったでしょう。
どうして私はそう思うのでしょうか。それは、モーセを通して神様がそのようないけにえを禁止されたからです。
あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。。。
これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10,12)
それでも、多くの聖書の学者は、エフタが娘を全焼のいけにえとして捧げたと考えています。
でも、この箇所には他の解釈もあるでしょうか。多くの聖書の学者はそう考えています。
新改訳によると、エフタはこう言いました。
私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。
でも、ある英語の聖書によると、エフタはこう言いました。
私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来るその者を主のものといたします。もしくは、私はそのものを全焼のいけにえとしてささげます。
つまり、もしエフタが動物を見たら、それを全焼のいけにえとして捧げます(その時代、多くの家では、家畜小屋は家の一階で玄関の隣でした)。
でも、人を見たら、その人をしもべとして神様に捧げるということです。
レビ記27章に、そのような例を読むことができます。その箇所では、もしある人が特別な誓願を立てて、つまりしもべとして誰かを神様に捧げた場合、その人をどうやって買い戻すかの教えがあります。
でも、28節にはこう書かれています。
しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。
すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。
「絶滅すべき聖絶のもの」というのは、「神様に捧げたものであり、それを自分のために取り戻すことができない」という意味です。サムエルの母はそのような誓願を立てていました(第一サムエル1:11)。
もしエフタがそのような誓願を立てていたなら、聖書の教えに合致します。
それに、私たちはエフタの娘の反応を理解することができます。彼女は自分の死について泣きませんでした。彼女は子どもができないことを悲しみました。また、彼女は父から逃げずに、父に従いました。
その解釈を受け入れている学者もいれば、受け入れていない学者もいます。
どの解釈を受け入れるにしても、私たちは聖書を読むとき、神様が何を教えておられるかを考えるべきです。
もし、エフタの行動が罪だったとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、聖書をよく知らなければ、神様を喜ばせていると思っていても、実は神様が喜ばれないことをしているかもしれない、ということです。
神の御言葉をよく知っているでしょうか。あなたは本当に神様を喜ばせているでしょうか。それとも、神様の言葉を知らないために、知らず知らずのうちに、神様が憎まれることをしているのでしょうか。
もし、エフタがただ自分の誓いを後悔したのだとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、神様への誓いには注意が必要だということです。一度誓いを立てたなら、それを守らなければなりません。
(ただし、神の律法に違反する誓いは別です。そのような誓いは守ってはいけません。(レビ記5:4))
実は、イエス様は「誓わないほうがよい」と教えられました。むしろ、
あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)
つまり、何かをすると言ったなら、それを実行すべきです。神様は、私たちがそのような者であることを望まれます。
