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士師記のデボーション

私たちの心はだれのものでしょうか

士師記16章

彼女はサムソンに言った。

「あなたの心が私にはないのに、どうして「おまえを愛している」と言えるのでしょう。」(士師記16:15)

それはとても皮肉な言葉です。なぜなら、デリラの心はサムソンにはなかったからです。デリラの「愛」は、お金への愛でした。

デリラへのサムソンの愛も、薄められたものでした。

さらに、神様へのサムソンの愛も、薄められたものでした。それこそが、サムソンの最大の問題でした。彼の心は、本当は神様のものではなかったのです。

彼が悔い改めたと信じたいです。でも、彼は本当に悔い改めたのでしょうか。私には分かりません。彼の最後の祈りでは、サムソンはイスラエルの福祉よりも、復讐を考えていたように見えます。

彼はイスラエルを「さばいていた」。しかし、神様から委ねられた羊たちを、本当に愛していなかったようです。

たぶん、イスラエル人たちはそれを感じ取っていたのでしょう。彼らはきっと、サムソンに従う心を持っていなかったのです。(士師記15:11〜12)

では、私たちはどうでしょうか。私たちの心は、本当に神様のものでしょうか。そして、神様から委ねられた人たちを、私たちは愛しているでしょうか。(マタイ22:36〜40)

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