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マタイの福音書のデボーション

私たちの上のキリストの血

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

民がその言葉を言ったとき、彼らが意味したのは、「イエスの死の責任を取ります。私たちにその責任を負わせていいです」ということでした。

しかし皮肉なことに、十字架においてイエス様は、私たちの罪の責任を取ってくださいました。

そして今、別の意味で、イエス様の血は私たちの上にあります。

神様が最初の契約を結ばれたとき、モーセは子牛と雄やぎの血をイスラエル人たちに振りかけました。その時、モーセはこう言いました。

これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である。(ヘブル9:20)

どうして、民はその血を振りかけられたのでしょうか。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。(ヘブル9:22)

しかし、雄牛と雄やぎの血は、実際に罪を除くことはできませんでした。そのいけにえは、ただイスラエル人たちに自分の罪を思い出させるものであり、イエス様の十字架の働きの伏線でした。(ヘブル10:1ー4)

けれども今、イエス様はまことの幕屋、すなわち天に入り、ご自身の血によって私たちの救いを成し遂げてくださいました。(ヘブル9:11ー12)

そういうわけで、イエス様が死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その幕は、神とその民の間にある隔ての壁の象徴でした。

そして、イエス様が死なれたとき、神様はこう言われたのです。

「あなたは新しい契約の血を振りかけられました。あなたの罪は赦されました。だから、あなたは自由に私に近づくことができます。」(マタイ26:28)

だから、ヘブル書の言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

イエス様の血は私たちの上にあります。だから、喜びを持って、神様に近づきましょう。

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福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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神様を本当に知っている?

あなたのことをよくわかっている。(マタイの福音書25:24、英訳)

イエス様の第二のたとえ話で、悪いしもべはご主人にそう言いました。しかし、そのしもべは実際にはご主人のことをよく理解していませんでした。ご主人に関してゆがんだ考え方を持っていたため、ご主人とは全くかかわりたくなかったのです。

そのしもべと同じように、多くの人々は神様に関して、ゆがんだ考え方を持っています。特に、彼らは神様の戒めや罪の裁きを見ると、「神様は良い方、正義の方」とは言わず、「神様がそのような方なら、神様とは全くかかわりたくない」と言います。

また、ある人たちは神様を知っていると主張しますが、自分の行動によって、実際には神様を知らないことを証明してしまいます。つまり、神様を知っている人は、神の民を愛する者です。

羊とやぎのたとえ話において、私たちはその真理を知ることができます。イエス様によれば、私たちが神の民を祝福するとき、イエス様を祝福しているのです。

しかし、神の民を無視したり、虐待したりするとき、実際にはイエス様に対してそうしてしまっているのです。

(マタイ10:40-42と使徒の働き9:4-5に、その原則が示されています。)

もしかすると、ヨハネはそのたとえ話を思い巡らしながら、この言葉を書いたのかもしれません。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

私たちは本当に神様を知っているでしょうか。

神様が良い方であると信じているのでしょうか。

そして、神の民を愛しているのでしょうか。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(第一ヨハネ4:7-8)

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罪の重荷に苦しむ人を支える

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

私たちは、パリサイ人たちや律法学者たちのように、神様の律法に余計なルールを付け加えることはないかもしれませんが、自分の罪によって苦しんでいる人たちを責めるのは、案外簡単なことです。

しかし、神様は、私たちが単に人を責めたり、逆にその人の罪を軽視したり、無視したりするのではなく、むしろ力となって、その人が罪を乗り越えることを助けるように望んでおられます。

そうする中で、私たちが神様から恵みと憐れみを受けたように、私たちも彼らに恵みと憐れみを与えるべきです。

だから、私たちの主の心を持ち、その言葉を心に留めておきましょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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頑なな心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(14節)

天のお父様、新年を迎えるにあたり、私が柔らかい心、子どものような心を持つことができますように祈ります。

すなわち、あなたに信頼する心のために祈ります。また、あなたの道が最善であると信じる心のために祈ります。そして、自分の罪にしがみつかず、言い訳をしない心のために祈ります。

あなたが私のために用意された次善のものに甘んじたくはありません。すなわち、あなたの「許し」にだけ満足したくはありません。

むしろ、あなたが私のために計画された最善を望みます。あなたが初めから私のために備えてくださったものを望みます。

ですから、私の心の頑なな部分を示してください。私の心の耕地を開拓してください。今年、あなたの鋤の刃が私の心の地面に深く食い込むように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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人々をつまずかせる?

わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイの福音書18:6ー7)

主よ、私が決してあなたの子どもをつまずかせることがありませんように。私の人生を通して、人々があなたに近づくことを願います。人々をあなたから遠ざけることはしたくありません。

ですから、私のすべての行いとことばを守ってください。私のすべての行いとことばが、あなたの子どもたちを倒すものではなく、むしろ彼らを建て上げるためのものとなりますように。

あなたは、十字架で死なれるほどに、彼らを尊ばれました。ですから、私もあなたのように彼らを尊ぶことができますように。あなたの子どもたちへの愛の心を、私に与えてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私の愛する子に聞け!

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」。。。(マタイの福音書17:5)

クリスマスはもう終わりました。クリスマスの季節にイエス様のことを考えていた人がいたとしても、今では、多くの人々がイエス様のことをまったく考えていないかもしれません。

それも無理はありません。クリスマスのとき、人々が思い浮かべるイエス様のイメージは、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんです。

赤ちゃんのイエス様は、人々に従順を求めることはありません。

しかし、天の父は「私の子に聞け」と命じられます。なぜなら、イエス様は2000年前に生まれた人間にすぎない方ではないからです。

イエス様は神の子です。イエス様は、天の父が愛される御子です。天の父はイエス様を喜ばれます。

ですから、クリスマスが終わっていても、私たちは毎日、天の父の言葉を忘れずに、御子に耳を傾けましょう。そして、それだけでなく、イエス様に従いましょう。

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喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

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イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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一言で

ただ、おことばを下さい。(直訳:一言をおっしゃってください。)そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイの福音書8:8)

その百人隊長は、権威と力をよく理解していました。彼は目上の人の権威と力の下に暮らし、自らも権威と力を振るっていました。

目上の人の一言で、彼はすぐにその言葉に従って行動しました。同じように、一言で、百人隊長の僕たちも彼の言葉に従って行動しました。

だから、その百人隊長はイエス様に言いました。「あなたがそのような権威と力を持っておられることを信じます。ですから、一言おっしゃってください。そうすれば、私のしもべは癒やされます。」

百人隊長の反応と比べて、弟子たちの嵐の中での反応を考えてみましょう。イエス様が一言で風と波を静めたとき、彼らは本当に驚いていました。

イエス様が一言で百人隊長の僕を癒し、悪霊を追い出されたのを見たばかりだったのに(13〜16)、弟子たちは本当に仰天しました。

主よ、私の薄い信仰のゆえに、私の目には、あなたが小さく見えることが多くあります。けれども、あなたは小さい方ではありません。

あなたは一言で、病の人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められます。

一言で、すべてのものを造られ、そしてある日、一言で、すべてを終わらせて、新しい天と地を造ってくださいます(第二ペテロ3:5-13)。

ですから、私が百人隊長のような信仰を持つことができるようにしてください。どんな問題や嵐の中にあっても、あなたに信頼することができるように助けてください。

あなたが大いなる、素晴らしい神であることを感謝します。アーメン。