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サムエル記第二のデボーション

私たちのアイデンティティー

サムエル記第二6章

今日、ミカルの話を考えていました。

興味深いことに、第二サムエル記6章では、ミカルは「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と呼ばれています。

もしかしたら、第一サムエル記の著者には、それは深い意味がなかったかもしれません。その著者はヨナタンを「サウルの息子」と何度も呼びました。

それにしても、ダビデの友だちであることと、ダビデの妻であることは全く違うことでしょう。

創世記には、モーセが言ったのは、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」ということです。(創世記2:24)

そのように、女も父と母を離れ、その夫と結ばれ、ふたりは一体となるはずです。

でも、ミカルが「ダビデの妻」と呼ばれるのは3回だけです。それに対して、ミカルは8回「サウルの娘」と呼ばれます。

第二サムエル記6章では、ミカルは2回「サウルの娘」と呼ばれています。

それは適切なことだと思います。なぜなら、第一サムエル記15章では、彼女は父サウルと同じように考えていたからです。

つまり、ミカルは周囲の人々の意見を、神様を喜ばせることよりも大事にしたということです。(第一サムエル記15:24,30;18:7–8;第二サムエル記6:16,20)

ミカルがダビデと結婚したとき、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずです。でも、むしろ、彼女はサウルの娘として生き続けました。

そのように、私たちキリストの教会は、キリストの花嫁として、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずなのです。

しかし、私たちは本当にそうしているでしょうか。もしかすると、私たちはまだこの世の子として生き、この世の民と同じように考え、行動しているのかもしれません。

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