しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。(サムエル記第二11:27)
私の意見ですが、聖書には、特に歴史書(ヨシュア記から歴代誌第二まで)には、上のような言葉がもっと書かれていたらいいのにと思います。
聖書には、時々「良い登場人物」が疑問に思われるような決断、あるいはまったく悪い決断をすることがありますが、神様がそのことについてどう思っておられたかは書かれていません。
私たちはその行動の悪い結果を見るかもしれません。それでも、神様はその人に対して一言の叱責も語られないのです。
だから、私たちはこう思うのです。 「もし神様がその行為を憎んでおられたとしたら、どうして何も言われなかったのだろうか。」
私はしばしばそう感じます。
しかし、心に留めなければならないのは、聖書の著者たちが、私たちがすでに神様がその行為についてどう感じておられるかを知っていることを前提にしている、ということなのです。
なぜなら、私たちは十戒や神の他の律法を知っているし、ほかの箇所では神様が同じような行為にどう反応されたかを知っているからです。
だから、多くの場合、聖書の著者たちはわざわざ「ところで、その人は悪かった」とは言いません。
でも、この場合、著者はわざわざ「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」と書いています。
なぜでしょうか。私はわかりません。
でも、その言葉から、私たちは大切な訓戒を学ぶことができると思います。
時々、ダビデのように、私たちは神様の戒めに違反しても、自分を騙し、自分が別に悪いことをしていないと自分に言い聞かせます。(第二サムエル記11:25)
特に、すぐに悪い結果が現れないとき、また、神様の叱責を感じないとき、私たちは自分を騙してしまいます。
それでも、私たちが行ったことは、神様の御心を損なっています。
神様はその行為をご覧になっています。そして、ある日、私たちは神様のみ前で、自分のことを申し開きしなければなりません。
地上でそうしなければならないかもしれませんし、神様の裁きの座の前でそうしなければならないかもしれません。
でも、いつか私たちは、自分のことを申し開きしなければなりません。
だから、自分を騙してはいけません。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ち、私たちの良心が麻痺しないように、神の言葉を無視しないようにしましょう。
