主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。
主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)
ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。
それでも、ダビデはこう言えました。
私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。
主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。
自分の咎から身を守りまます。(22-24)
私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。
しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。
主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)
何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)
でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。
神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。
神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。
私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。
それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。
それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。
そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。
主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)
