これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカの福音書9:35)
イエスは弟子たちにこう言われた。「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」
しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。(43ー45節)
その最後の言葉は私の心を打ちました。
「弟子たちには、このことばが理解できなかった。。。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」
どうして、彼らはイエス様に尋ねるのを恐れていたのでしょうか。8章では、彼らは気軽に「それがどういう意味なのか」と尋ねていました。(8:9)
どうして彼らが恐れていたのか、私は分かりません。でも、もしかしたら、彼らは実際にその答えを知りたくなかったのかもしれません。なぜなら、その答えは彼らの希望や夢を壊してしまうからです。彼らの考え方を全く変えなくてはならないのです。
たぶん、心の中で、その答えをもう知っていたのでしょう。イエス様はとてもはっきりと語っておられました。でも、彼らはその言葉を受け入れたくなかったのです。
それが、自分の目と耳を神様の御言葉に閉じるということです。
イエス様は、どれほど私たちに「これらのことばを自分の耳に入れておきなさい」と言われるでしょうか。
もしかしたら、聖書を読むとき、自分の罪に気づくかもしれません。
あるいは、祈るとき、神様からの思いが浮かぶことがあります。「あなたは違う進路を行かなくてはならない。あなたの計画を変えなくてはならないのです。」
でも、私たちはイエス様に、「あなたが私に何を言おうとしているのか」と尋ねることを恐れています。なぜなら、私たちはイエス様の答えを恐れているからです。
だから私たちは言い訳をします。「私はその言葉がわからなかったのです。」
でも、実際には、私たちは知りたくなかったのです。
私もそれをしたことがあります。特に日本に引っ越すことについてです。
でも、天の父は私たちに言われます。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」
イエス様についていくのは、簡単なことではありません。支払わなくてはならない代価があります。
イエス様についていくと、私たちが苦しむことは珍しくありません(23ー24)。多くの場合、イエスに従うには、犠牲を払う必要があります(57ー62)。
でも、私が学んだこと、そして今も学び続けていることは、命を見つけるためには、イエス様に従わなくてはならないということです。私も代価を支払わなくてはなりませんでした。
でも、私は後悔していません。なぜなら、私が失ったものは、私が得たものと比べものにならないからです。
私はハワイに、家族や友達、そして素晴らしい教会を残してきました。でも、日本では、新しい家族、新しい友達、そして素晴らしい教会を見つけました。さらに、私のための神様の目的を見つけました。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。(23ー24)
