もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。
神の訪れの時を、おまえが知らなかった。。。(ルカの福音書19:42,44)
数週間前、私の牧師が霊的な盲目について話して以来、私はそのテーマをルカの福音書の中で何度も見ています。
弟子たちもパリサイ人たちも、自分の霊的な目と耳を閉じていて、多くのことが彼らの目から隠されていました。(ルカ18:34;19:39-41)
弟子たちの場合、彼らは少なくともイエス様がメシアであることを認めていました。(メシアが何なのかはちゃんと分かっていなかったけれど。)
でもパリサイ人たちは、イエス様の奇跡を見て、イエス様の知恵に答えられなかったのに(ルカ13:17;14:6)、目と耳を閉じて、イエス様を拒絶しました。だから、彼らは神の訪れの時を知らなかったのです。
彼らとは対照的に、イエス様が訪れたとき、二人の人々はイエス様を本当に見たいし、聞きたいと願っていました。
エリコで、バルティマイという盲人は「私は見たい」と叫びました。
多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。イエス様は彼の声を聞いて、彼を呼んでくださいました。
そして、バルティマイの信仰によって、彼は救われました。(ルカ18:35-43、マルコ10:46-52)
ザアカイは背が低かったので、イエス様を見るために、頑張って木に登って目を凝らしました。イエス様は彼も見て、呼んでくださいました。
そして、イエス様がザアカイの家に訪れて、悔い改めのメッセージを述べ伝えると、ザアカイは悔い改めて、救われました。(ルカ19:1-10)
イエス様は私たちのところに訪れ、私たちに平和と救いを与えたいと願っておられます。でも、私たちの目と耳を開かないと、その平和と救いを知ることができません。
クリスチャンでも、盲目になる可能性があります。
ラオディキアの教会は盲目でした。彼らは「良い生活」を送っていました。でも、イエス様によれば、彼らは実際にはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸でした。(黙示録3:17)
だから、イエス様は彼らに言いました。「私はあなたに義を着せて、目が見えるようにします。」
イエス様は私たちにも同じことを言われます。
イエス様は私たちを愛して、ザアカイのように悔い改めるように呼びかけておられます。(黙示録3:19)
だから、イエス様の言葉に耳を傾けて、従いましょう。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)
