彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)
今日の箇所を読むと、上の言葉をクリスチャンの生活のための方式にしてしまうのは簡単だと思います。
つまり、「良いクリスチャンになるためには、教会に行き、聖書を読み、祈り、聖餐式に参加しなければならない」という方式を作ることです。
私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(25-28節)
その言葉を読んだとき、私はダビデの喜びに気づかされました。
「主は、いつも私と共におられます。だから、暗い谷、死の陰の谷を歩んでも、私は揺るがされることはありません。あなたは私をよみに捨て置かれることはありません。だから、この世にあっても、あなたは私を見捨てられることはないでしょう。
あなたはいのちの道を示してくださいました。あなたの御前にいるだけで、私は喜びに満たされています。」
ダビデの希望のよりどころは、主が常に共におられるという確信でした。
あなたにある敬虔な者(つまり、イエス様)に滅びをお見せにならないからです。(27節)
イエス様が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。(ヨハネ14:19)
その希望と喜びをもって、初代のクリスチャンたちは日々を歩んでいました。
だからこそ、彼らは喜んで使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを捧げていたのです。彼らにとって、愛してくださる主とその民と共に時を過ごすことは、何よりの喜びでした。
それゆえ、私は自分に問いかけました。「私はその希望と喜びをもって、生きているだろうか。」
あなたは、その希望と喜びをもって、生きていますか。
