ピリポとエチオピア人の話を読むとき、私はたいていピリポのことを考えます。特に、「私はピリポのように御霊に導かれたらいいなあ」と思います。
でも、今日私はエチオピア人の心に感動しました。なぜなら、彼は真の弟子の心を持っていたからです。
つまり、彼は謙遜に学びたいという態度を持っていたのです。今日の話では、彼は聖書を読んでいましたが、その言葉が理解できませんでした。
ピリポが「あなたは、読んでいることが分かりますか」と訊いたとき、エチオピア人は自分のプライドを保とうとしませんでした。「もちろん分かっていますよ」とは答えなかったのです。
むしろ、彼は謙遜に「預言者の言葉が分かりません」と認めて、ピリポに助けを求めました。
イエス様の弟子たちも同じ態度を持っていました。イエス様がたとえ話を語られたとき、その後に弟子たちは何度もイエス様に「私たちはその話の意味が理解できません。教えてください」と言いました。
あなたはどうでしょうか。聖書の中に理解できない言葉があるとき、「もういいや」と思ってしまうでしょうか。
それとも、誰かに助けを求めるでしょうか。「これはどういう意味でしょうか。私は分かりません」と訊くでしょうか。
しかし、弟子は聖書の言葉を理解しただけでは満足しません。むしろ、その人は御言葉に従います。
エチオピア人はそのような態度を持っていました。彼は福音を理解した後、たまたま水のある場所を見つけると、「バプテスマを受けてもよいでしょうか」と尋ねました。
彼はまったくためらうことなく、その言葉に従ったのです。
謙遜、学びたいという態度、従順。それが弟子の心です。
あなたはどうでしょうか。弟子の心を持っているでしょうか。
