(サウロ)は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。(使途の働き9:9)
たぶんイースターの後にこの箇所を読んだからこそ、上の言葉が私の心を打ったのでしょう。
サウロは、ある意味で死んでいました。
しかし、三日目に、彼は新しい人として復活しました。
サウロはイエス様を見直したのです。
彼は、イエス様を偽メシアとはもう思わず、真のメシア、そして主であると認めました。
サウロが驚いたのは、自分がイエス様の民を攻撃し、イエス様ご自身を迫害したにもかかわらず、主でありメシアであるイエス様が彼を愛し、十字架で彼の罪の代価を支払ってくださったことです(ガラテヤ2:20)。
サウロは悔い改めて、自分自身を見直したのです。
自分の義に関するプライドは消えました。ユダヤ人としての地位や、パリサイ人としての誇りも消えました(ピリピ3:4-6)。
むしろ、彼は、自分が神様の恵みを必要とする罪人であることを悟ったのです。そして、神様がその恵みを与えてくださったことに、彼は驚き、大いに喜びました。
サウロは、他の人々のことも見直しました。
かつて彼が軽蔑していた「道の者」、つまりイエス様の弟子たちは、今や彼の兄弟姉妹となりました。また、以前は見下していた異邦人たちも、神様に愛されていることを悟り、彼らに福音を届けることがサウロの使命となったのです。
私たちクリスチャンも、新しい命を与えられました。
私たちもイエス様を見直してきたでしょうか。私たちにとって、イエス様はただ昔に死んだ人ではなく、私たちを愛し、救ってくださった主であり救い主なのでしょうか。
私たちも悔い改めて、自分自身を見直してきたでしょうか。
私たちの自尊心は、自分の達成や地位に基づくものではなく、赦された罪人であるという事実に根ざしているでしょうか。
神様が私たちに「あなたは私の愛する子どもだ」と言われるとき、私たちは驚き、大いに喜ぶでしょうか。
私たちは、周りの人々のことも見直してきたでしょうか。彼らを、神様が愛し、大切にされる人々だと認めているでしょうか。彼らが新しい命を知るために、神様が私たちを遣わしておられることを悟っているでしょうか。
もしかすると、私たちはまだ死んでいる人のように振る舞っているかもしれません。
だからこそ、パウロと改名されたサウロのように、こう言いましょう。
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。
私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:14-17)
