数日後、フェリクスは。。。パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。
しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり(ました)。(使徒の働き24:24-25)
私にとって興味深いのは、神様の裁きに関して、パウロとフェリクスは正反対の反応をしていたということです。
パウロは希望をパウロは、持って、その裁きを考えました。(15節)
その反面、フェリクスは裁きを恐れていました。なぜなら、心の中で、フェリクスは自分の罪をよく知っていたからです。また、自分が神の裁きを受けるにふさわしい人物であることも、知っていたからです。
では、どうしてパウロは神の裁きを考えたとき、希望を持つことができたのでしょうか。それは、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないからです。(ローマ8:1)
イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けてくださいました。
だから、パウロは神様からの罰を恐れていませんでした。むしろ、パウロは天の父の愛に安心していました。自分が神の子どもであるという確信をもって、安心していたのです。
ヨハネは何年か後に、この言葉を書きました。
こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17-18)
天のお父様、私があなたに裁かれることを恐れる必要がないことを感謝します。むしろ、あなたの愛と恵みによって、私はあなたの子どもとして受け入れられているという確信をもって、あなたの御前に立つことができます。
だから、私はあなたに近づきます。私はあなたを敬います。私はあなたを愛します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
