私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。
すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。(テモテへの手紙第一1:8-11)
最近、あるクリスチャンたち、ある牧師でさえも、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としています。つまり、彼らは神の律法が私たちにはまったく関係ないと教えているのです。
なぜなら、私たちは儀式的な律法—割礼、生贄、宗教的な祭りなど—を守る必要がないからです。
しかし、パウロによれば、律法を適切に用いるなら、それは今も私たちにとって有益なものです。では、律法を適切に用いるとは何でしょうか。それは、罪を定義することです。
上に挙げられたリストは、基本的に十戒の拡大版です。
そしてパウロが教えているのは、神の律法がすでに神様を喜ばせている義人のためではなく、むしろ神様に反抗している人々のためにあるということです。
つまり、律法は彼らの罪を指摘するのです。ローマ3:19–20では、パウロは「律法を通して生じるのは罪の意識です」と語っています。
それと同時に、パウロは「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」とも語っています。なぜなら、律法を完全に行うことができる人は誰もいないからです。
だからこそ、私たちにはパウロが述べ伝える良い知らせが必要なのです。それは、
キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたのです。(15)
しかし、「罪人」を定義するためには、「罪」を定義しなければなりません。神の律法は罪を定義します。その定義がなければ、福音は成り立ちません。私たちが罪とは何かを知らなければ、私たちは何から救われているのでしょうか。
残念ながら、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としている多くの人々は、ヒメナイとアレクサンドロのように、健全な良心を捨て、自分の罪を抱え、信仰の破船に陥ってしまいました。(20)
私たちはそうではなく、信仰を保ち、立派に戦い抜き、きよい心と健全な良心、偽りのない信仰から生まれる愛の人生を歩みましょう。(5、18–19)
