イザヤのことばを読んだとき、「この世界はあまり変わらないなぁ」と思いました。
今週のニュースを見たとき、私は、暴力や銃殺事件、そしてさまざまな不義を目にしました。
この世では、真理が広場でつまずき、人々は神の真理を拒み、自分の真理を作ろうとしています。
でも、それらは新しい問題ではありません。数千年前、イザヤもそのような問題について語っていました。だから、イザヤの感情がよく理解できます。
私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。 輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。(イザヤ書59:9)
でも、15ー16節にあるイザヤのことばが大好きです。
主はこれを見て、 公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。
それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。(15ー16節)
もちろん、イザヤはイエス様について語っています。
私たちの罪は、私たちと神様との仕切りとなりましたが、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払い、救いをもたらしてくださいました。
しかし、それだけではなく、ある日、イエス様はこの世に戻られ、正義をもたらし、この世を癒してくださいます。(17ー20節)
それが、私たちの希望です。だから、この暗い世界に直面するとき、神のすべての武具を取りましょう。
私たちの思いと心を、失望やサタンの他の攻撃から守るために、救いのかぶとをかぶり、正義の胸当てを着けましょう。
また、平和の福音の備えをはき、希望のない人々に、私たちの救いの希望を伝えましょう。
イザヤのことばを借りれば、
良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)

One reply on “暗い世界にあっての希望”
[…] そして、59章では、この暗い世界の中におけるキリストにある私たちの希望を見ました。最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかった時、私たちの救いをもたらすために神様はイエス様を送ってくださいました。 […]
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