日曜日はイースターでしたが、この季節に、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを思い起こすことは、とても大切だと思います。
今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来られ、ご自身をこの世の国民に現してくださるように祈ります。
その一方で、イザヤが悟ったのは、神様が来られるなら、イスラエルの敵だけでなく、イスラエル自身も裁かれるということです。なぜなら、イスラエルの民も神様に背を向けてしまったからです。
だから、イザヤは祈ります。
主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください。(イザヤ書64:9)
その祈りは、イエス様が死ななければならなかった理由を明らかにしています。十字架において、イエス様は私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。
初代教会が旧約聖書を読む際には、ギリシャ語訳を用いていました。イザヤ書64:4のギリシャ語訳は少し意訳されていて、非常に興味深いものです。
「あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」
神様の最終的な憐れみのみわざは、十字架において成し遂げられました。
パウロもそのように理解していたようです。十字架について語るとき、彼はイザヤ書64:4を意訳して引用しています。
目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)
十字架は、ただの悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は、私たちを憐れみ、私たちを救うための、永遠からの神のご計画でした。
それは、なんと素晴らしいことでしょう!
