イエスは弟子たちに言われた。
「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。
あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(ルカの福音書17:1ー4)
「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているでしょうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているでしょうか。答えは少し微妙です。
(新約聖書の節番号は、西暦1555年に発明されたことをご存じでしたか。)
とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、どちらにも繋がると考えるのが理にかなっています。
1ー2節を読むと、いつも身に染みます。今朝、私は祈りました。
「天のお父さん、私はつまずきをもたらす者になりたくありません。私のせいで妻と娘がつまずかないように。私のせいで同僚たちと生徒たちがつまずかないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちがつまずかないように。」
でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。
私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気をつけなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。
でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。
相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だから、そういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。
神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)
