この箇所を読んで、私はラザロとマルタの妹、マリアの姿に驚かされました。(ヨハネ12:1-8)
彼女は、高価なナルド油をイエス様の頭に注ぐほど、イエス様を大切にしました。そのことを思いながら、私は自分自身に問いかけます。
「私はイエス様をどれほど大切にしているだろうか。」
私はマリアのようでしょうか。
もしかしたら、私はユダのようでしょうか。イエス様への愛を口では語っていても、行動によってイエス様を裏切っているかもしれません。
もしかしたら、私はペテロのようでしょうか。イエス様への愛を語っていても、祈らずに眠ってしまうかもしれません。
でも、この箇所で、もう一つ見逃してはならないことがあります。
私たちが弱くても、イエス様は私たちを大切にしてくださいます。
イエス様は、ご自身の試練が迫っていたことを知っておられました。弟子たちが逃げることも、ペテロがイエス様を知らないと言うことも、すべてご存じでした。
それでも、最後の晩餐で神様をほめたたえ、パンを裂いて、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。
また、イエス様は杯を取り、感謝の祈りをささげた後、弟子たちに与えて、「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」と言われました。(マルコの福音書14:22~24)
イエス様は、それほどまでに私たちを愛してくださいました。私たちが弱く、壊れやすい存在であるにもかかわらず、イエス様はご自身のいのちを十字架でささげてくださいました。
それは、簡単な決断ではありませんでした。イエス様は、あっさりとご自身のいのちをささげたわけではありません。
イエス様は苦しみながら、天の父に祈られました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。十字架に行きたくないのです。」
それでも最終的に、イエス様は十字架に向かい、私たちのために死んでくださいました。
なぜでしょうか。それほどまでに、イエス様は私たちを大切にしてくださったからです。
だからこそ、私たちも毎日、マリアのようにイエス様を大切にしましょう。
そして同時に、イエス様がどれほど私たちを愛してくださるのかを、心に留めておきましょう。
ヨハネはこう書きました。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)
