ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。
創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。
でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。
そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」
でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。
奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。
ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。
「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」
たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。
それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。
その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)
彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。
それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。
今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。
私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。
私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ、どんなときにも神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)
