ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。(創世記44:33ー34)
その言葉は、ユダの心がどれほど変わったかを明らかにします。
以前は、ユダは薄情な者で、ヨセフを奴隷として売ろうと勧めました。(創世記37:26〜27)
そして、父ヤコブの悲しみを見て、ユダは逃げてしまいました。(創世記37:33〜34;38:1)
でも今、ベニヤミンが戻らなかった場合のヤコブの悲しみを考えて、ユダは逃げるのではなく、ベニヤミンの代わりに自分自身をヨセフに奴隷として捧げました。
もしかしたら、ユダはこう考えていたかもしれません。
「これが正義だ。私はヨセフを奴隷として売った。だから今、ベニヤミンを自由にするため、私は奴隷になろう。そうすれば、ヨセフに対する罪を償うことができる。」
悔い改めとは、単に罪に対する罪悪感を感じることではありません。
悔い改めとは、単に相手を傷つけたことを後悔することではありません。
悔い改めとは、自分の罪を認め、他人を傷つけた場合、できるだけその罪を償うことです。
ユダはそうしようとしていました。
でも、実際のところ、私たちは完全に罪を償うことはできません。私たちは自分の罪を償うため、いろんな良いことをしようとしても、その罪の染みを完全に清めることはできません。
でも、良い知らせは、私たちの罪を清めてくださる方がおられるということです。
ユダがベニヤミンの代わりに自分自身を捧げたように、ユダの子孫であるイエス様は、私たちの代わりに自分自身を捧げられました。
皮肉なことに、ベニヤミンが父ヤコブのもとに戻るため、有罪であるユダは無罪であるベニヤミンの代わりに自分自身を捧げましたが、私たちが天の父のもとに戻るために、罪のないイエス様は罪深い私たちの代わりに自分自身を捧げました。
ぺテロの言葉を借りれば、
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(第一ぺテロ3:18)
