神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 (コロサイ人への手紙1:11~12)
日本では、「我慢」ということばが、まるで合言葉のように使われています。
苦しいとき、「我慢しなくちゃ」と言われることがよくあります。
ときには、私たち自身が自分に向かって「我慢しなくちゃ」と言い聞かせることもあります。
でも、私が気づいたのは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに、ただ我慢することだけを求めていたわけではないということです。
パウロの願いは、彼らが神の喜びに満たされることでした。
困難のとき、私たちに堅く立つ力を与えるのは、「我慢」ではなく、神の喜びです。
その喜びがなければ、我慢はやがて耐えられない重荷になってしまいます。
私は、ただ我慢するのではなく、神様がしてくださったことを喜びたいのです。
御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13~14節)

One reply on “ただの我慢?神の喜び?”
[…] 義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。 […]
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