時々、聖書には、私たちに痛烈な皮肉が示されることがあります。この箇所でも、そのような皮肉を見ることができます。
サムエル記第一3章一節には、こう書かれています。
そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)
これは士師記の時代でした。その時代はどのようなときだったでしょうか。
そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。 (士師記21:25)
第一サムエル2章によれば、祭司たちも神様に従わず、勝手に振る舞っていました。だから、神様はイスラエル人に語ることを拒まれました。
そして、3章2節では、私たちは皮肉なことを見ることができます。大祭司エリの目はかすんできて、見えなくなっていました。ところが、エリの霊的な目もかすんで、見えなくなっていたのです。
どうしてでしょうか。なぜなら、エリは神様を敬わなかったからです。むしろ、彼は自分の息子たちを神様よりも敬っていたのです。
エリの息子たちは、神様とイスラエル人に対して故意に罪を犯していたのに、エリは彼らを祭司として退けませんでした。だから、神様ご自身がエリとその息子たちを祭司として退けられました。(2:29-36;3:11-14)
しかし、その一方でサムエルがいました。
この箇所では、もうひとつ皮肉なことが描かれています。盲目のエリが、霊的なことの見方をサムエルに教えたのです。
神様がサムエルを呼ぼうとしておられると理解したとき、エリはこう言いました。
主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」(第一サムエル3:9)
そして、主がサムエルのそばに立ち、呼ばれたとき、サムエルはその声を聞き、エリの助言に従ってこう答えました。 「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」
主が私たちのそばに立ち、呼ばれるとき、私たちは主に対して目と耳を閉ざしているため、どれほど主がおられることに気づかないでしょうか。
イエス様はこう言われました。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(マタイ13:15)
神様があなたを呼ばれるとき、あなたはどうしますか。エリのように、自分の罪を握り、主の声を聞くことを拒むでしょうか。そうすれば、あなたの霊的な目と耳は不自由になってしまいます。
そうするのではなく、サムエルのように答えましょう。
「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」
