前回の記事では、私は士師の時代に、イスラエルの民が神様に従わず、自分勝手に生きていたことを述べました。
でも、この箇所では、彼らはさらにひどいことをしました。彼らは神様を、飼いならされたジニーのように扱い、ペリシテ人を打つために用いようとしたのです。
ところが、第一サムエル記の著者は、「神様がケルビムという天使の上に座しておられる万軍の主である」と強く主張します。
通常、「ケルビムに座しておられる万軍の主」という表現は、神様の契約の箱を指しています。なぜなら、神様がモーセや大祭司と語られた時、契約の箱の上の雲の中に現れたからです(レビ記16:2)。
しかし、この箇所では、その雲はまったく現れませんでした。
ですから、この場合、著者は契約の箱そのものではなく、その箱が象徴する天国の現実について語っているのではないでしょうか。つまり、天国では、天使たちが神様に栄光を帰しています。なぜなら、神様はその栄光にふさわしい方だからです。
その一方で、イスラエルの民は神様にまったく栄光を帰しませんでした。
この物語の最後では、エリの義理の娘が出産し、その息子をイ・カボデと名づけました。その名前は、「栄光はどこか」という意味です。
彼女が意味したのはこうです。「神の栄光はどこですか。神様は私たちを見捨てられました。ここには、栄光がもうありません。」
しかし、もしかしたら、神様はイスラエルの民に同じ質問を投げかけておられたのかもしれません。今でも、神様は私たちに同じ質問を投げかけておられるのかもしれません。
特に、神様にふさわしい栄光と誉れは、今どこにあるのでしょうか。天使たちは、その栄光と誉れを神様に帰しています。でも、私たちはどうでしょうか。
教会、職場、家庭、そして私たちの人生において、本当に栄光と誉れを神様に帰しているでしょうか。
それとも、神様が私たちをご覧になる時、「栄光はどこにあるのでしょうか」と言われているのでしょうか。
天のお父さん、あなたは、操られる神ではありません。
あなたはケルビムの上に座しておられる万軍の主です。あなたは、すべてを治めておられる方です。
その「すべて」には、私自身も含まれています。あなたは、私の王です。
ですから、私はいつもあなたを王として敬うように導いてください。
