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サムエル記第一のデボーション

なんと偉大なお方、私たちの神よ

サムエル記第一5章

ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(サムエル記第一5:1~4)

この物語を読むたびに、私はいつも笑ってしまいます。

ペリシテ人たちは、主をただの神々の一つだと思っていました。しかも、彼らは先ほどイスラエルの民を打ち倒したばかりだったので、自分たちの神ダゴンのほうが主よりも偉大だと考えました。

でも、彼らはすぐに、自分たちが間違っていたことを思い知らされました。

ダゴンが主の箱の前で、地にうつぶせになって倒れている場面を思い浮かべるとき、私はいつもイザヤ書45章にある神のことばを思い出します。

神様はこの出来事の何百年も後にそのことばを語られましたが、それはまさに、あの日ペリシテ人たちに語っておられたのと同じメッセージでした。それは、

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、 わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、 決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、 すべての舌は誓い。。。(イザヤ書45:21~23)

今日、その言葉を思い巡らしています。それを読んで、私は叫ばずにはいられません。「なんと偉大なお方、私たちの神よ。」

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