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ルカの福音書 ルカ6章

あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章

山上の説教:教えを見分けている?

イエス様は、救いに至る狭い門に入りなさいと言われた後、私たちに次のように警告されています。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(15)

多くの人々は、「預言者」という言葉を聞くと、「将来のことを預言する人」を思い浮かべるかもしれません。けれども、本当の預言者には他の役割もありました。

彼らは神様からの言葉を人々に宣言する務めを果たしていました。旧約聖書では、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてダニエルがそのようにしていました。

ところが、旧約聖書を読むと、イエス様が言われたような偽預言者を見ることができます。

彼らは外見が良く、話し方も上手で、霊的な人物のように見えました。けれども、実際には、彼らの言葉は地獄から来たものでした。そして彼らは、周囲の人々を滅びに至る門へと導いていました。

残念なことですが、現代でもそのような人々がいます。彼らは「主はこう仰せられる。」と言いますが、実際には神様の言葉をゆがめています。

では、私たちはどうやって真の預言者と偽預言者を見分けることができるでしょうか。イエス様は、次のように言われました。

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイの福音書7:17-20)

要するに、私たちは彼らが結んだ実を見る必要があります。

それはどういう実でしょうか。

1. 彼らの人生 つまり、彼らは自分が伝えていることに従っているでしょうか。それとも、彼らは偽善者でしょうか。

もちろん、彼らは神様のみ言葉に完全に従うことはできません。それでも、彼らの信仰は成長を続けているでしょうか。彼らは少しずつイエス様のようになっているでしょうか。また、彼らは自分の罪との戦いについて正直に話しているでしょうか。

2. 彼らの教え。 彼らの口からどんな言葉が出ているでしょうか。その言葉は聖書に基づいているでしょうか。それとも、聖書と一致していないでしょうか。

説教者として、彼らには聖書を正確に教える責任があります。パウロは次のように言っています。

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(第一テモテ2:15)

それは、説教者の責任です。

しかし、聞き手として、私たちにも説教者の言葉を見分ける責任があります。使徒の働きでは、ベレヤ人たちがそれを実践しました。

彼らはただパウロの言葉を聞いて受け入れるだけではありませんでした。彼らは家に帰るとすぐに、パウロの言葉を聖書と照らし合わせました。そして、パウロの言葉が聖書に一致していることを確認し、信じて受け入れました。(使徒の働き17:11-12)

私たちはベレヤ人の模範に従うべきです。牧師や説教者の言葉を見分ける必要があります。

もし彼らの教えが聖書に一致しているのであれば、その言葉を信じて従うべきです。けれども、彼らの教えが聖書と一致していない場合、その教えを捨てるべきです。

多くの牧師や伝道師は「イエス様は主」と告白します。裁きの日には、ある人がイエス様の前に進み、次のように言うでしょう。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。(22)

ところが、イエス様は彼らにこう言われます。

わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(23)

残念なことですが、彼らに従う人たちも地獄に行きます。なぜでしょうか。それは、彼らがその先生たちの教えを見分けなかったからです。

では、あなたはどうでしょうか。教会で聞いたことを見分けていますか。また、クリスチャンの本に書かれている教えも見分けていますか。それとも、見分けずにその教えを信じていますか。

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マタイの福音書 マタイ7章

山上の説教:心が広ければ良いとは限らない

日本では、よくわからないけど、西洋で、クリスチャンに対してよく言われた文句は、「あなたたちの心は本当に狭い」ということです。

彼らは、いつもこう言います。「あなたの心がもっと広ければいいのに。」

特に、彼らはこう尋ねます。「どうしてイエスだけが天国への道だと言うのですか。」

でも、場合によっては心が広ければいいというものではありません。例えば、数学です。

もし、児童が試験で「2+2=10」と書いたので、先生が「X(バツ)」と書いたら、児童はこう言えません。

「先生。心がもっと広くなった方がいいと思います。10でも4でも、別に違いがないでしょう?」

治療に関しても、そんな考え方はだめです。ちょっと想像してください。

あなたの腎臓の一つが悪いので、摘出しなくてはなりません。あなたは麻酔をされて、そのあと起きたら、腎臓が両方まだ残っていて扁桃腺が摘出されていました。

あなたは混乱して、こう訊きます。「先生。どうして、私の扁桃腺を摘出したのですか。」

「いや、心が広くなった方がいいよ。腎臓を摘出か、扁桃腺を摘出か、大体同じでしょう?」

それはバカな話ですよね?

でも、永遠の命は、もっと大事な話です。もし数学や治療の場合、広い心では何の意味もないなら、なおのこと、永遠の命の場合、広い心でいてはだめでしょう。

だから、イエス様はこう言いました。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)

イエス様の言葉によれば、私たちは、自分の条件を作って、神様に近づくことができません。あなたが神様に近づきたいなら、神様の条件を満たすべきです。

ある人はこう言いました。「あなたは自分の道で地獄に行けるけど、天国に行きたいなら、神様の道を行かなくてはなりません。」

神様の道は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

少し考えてみてください。もし他の道があったなら、どうしてイエス様は十字架で苦しみ、死ななければならなかったのでしょうか。もし他の方法があったなら、十字架は必要ではなかったはずです。

他の方法を求めることは、イエス様の犠牲を侮ることに他なりません。それはまるでこう言っているようなものです。「イエス様、あなたは愚かでしたね。救いのためにはもっと良い方法がありましたよ。」

誤解しないでください。心が広いことが良い場合もあります。しかし、永遠の命に関しては、そのように考えるべきではありません。

さて、あなたの場合はどうでしょうか。あなたは自分なりの条件を作って永遠の命を求めていますか。それとも、神様の条件を満たしているでしょうか。つまり、イエス様をあなたの救い主であり、主として受け入れているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や伝道師がこう教えています。「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」

彼らにとって、神様はまるでアラジンの魔人のような存在です。しかし、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要などありません。

ここで注意すべき言葉の一つは「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を与えてくださいます。(マタイ7:11)

けれども、時には、私たちが神様に何かを祈っても、その願いが良くないことを神様はご存じです。

例えば、私たちはパンを願っていると思っていても、実際には石を求めているかもしれません。

また、私たちは魚を願っていると思っていても、実際には蛇を求めているかもしれません。

その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか?蛇を与えてくださるでしょうか?きっとそのようなものは与えられません。なぜなら、神様は良いお父さんだからです。

そのため、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし私たちが良いものを祈るなら、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。しかし、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断られます。

このようにして、イエス様はこう教えられました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、神様から与えられない理由は、私たちが求めないのです。

時々、私たちはこう考えます。「これは自分勝手な祈りではないだろうか。他のものを祈るべきではないか。もっと大切なことを祈るべきではないか。」

このような時に覚えておくべきことが二つあります。

1.私たちの想像以上に、神様は気前の良い方です。神様は私たちを愛しておられ、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様が少しユーモラスな話をされます。ある人が寝ようとしていたところ、隣人がしつこくその人をたたき起こして「パンをちょうだい」と頼み続けました。最終的に、その人は「しつこいなあ」と思いながらも隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそのようにイライラされると言っているのではありません。むしろ、イエス様はこう言われます。

「その人が疲れて隣人のしつこさにイライラしていても、相手にパンを与えるなら、なおさら、あなたを愛しておられる天の父が喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちがご自分をもっとよく知ることを望んでおられます。また、私たちが神様をより信頼することを望んでおられます。そして、私たちが神様の良さを体験し、知ることを望んでおられます。

祈りは、この神様を知るプロセスの重要な部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をより深く理解できるようになります。何が「良いもの」であり、何が「悪いもの」であるかを区別できるようになります。

そして、かなえられた祈りと断られた祈りを通して、私たちは神様の判断と知恵を信頼する方法を学びます。

けれども、私たちが求めなければ、そのような学びや成長は決して得ることができません。

だからこそ、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうするなら、あなたが期待する以上に多くのドアが開かれるでしょう。そして、神様のことをもっと知り、その御心を理解することで、神様とのより親しい関係が築かれるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ7章

山上の説教:語るべき時、黙るべき時

前回の記事で私は書きましたが、イエス様は私たちに、偽善的に裁いてはいけないと注意されました。しかし同時に、イエス様は私たちが罪を犯す人を叱責すべきだとも教えておられます。

とはいえ、相手を叱責するとき、もう一つの重要なことに注意するべきです。それは、あなたは誰を叱責しているのかということです。

イエス様はこう言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(7:6)

イエス様が意味されたのは、あなたが相手を叱責しても、聞いてくれない人もいるということです。

その場合、あなたが話しても、それは無駄になってしまいます。なぜなら、彼らは神様からの言葉を聞こうとせず、あなたが叱責しようとすると、逆にあなたを攻撃するからです。

そのため、イエス様は、そのような人には何も言わない方が良いと教えられました。

ソロモンもほぼ同じことを語っています。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。(箴言9:8)

その真理を福音を伝えることに当てはめることができます。

あなたが福音を伝えるとき、あなたをあざける人もいるでしょう。そのような人は、神様の手に委ねる方が良いです。なぜなら、あなたは自分の役割をすでに果たしたからです。その責任は相手のものになりました。

あなたには、福音の真珠を彼らに投げ続ける必要はありません。

福音をあざける人を見るのは苦しいことです。また、神様のみ言葉に心を固くする人を見るのは辛いことです。

しかし、あなたがみ言葉を伝えて相手がその言葉を拒否した場合、あなたにできることはその人のために祈ることだけです。あなたではなく、神様だけがその人の心を変えることができるのです。

あなたは、今、誰に真珠を投げているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:偽善的な裁き

子供の頃、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らはたくさんのパロディーを制作しており、その中には「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーもありました。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンでしたが、非常に珍しい「特徴」がありました。なんと、彼らの目から丸太が出ていたのです。

そのため、彼らはいつも周りのものを倒してしまい、他の人々について文句を言ったり、裁いたりしていました。

インタビュー中、丸太が何度もリポーターに当たりそうになる場面がありました。ところが、リポーターがその丸太について尋ねた時、彼らはこう答えました。「へ?丸太って?」

それでもリポーターは言い張りました。「あなたの目にでかい丸太がありますよ。あなたはいつも周りのものを倒してしまっているんですよ。」

すると、彼らは答えました。「そうなの?全然気づかなかったけど。」

多くのクリスチャンがその木こりさんたちのようです。自分の欠点には気づかず、他人を批判してしまうのです。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。「あなたは批判によって相手を助けていると思っているけれど、あなた自身の欠点にはまったく気づいていません。

相手の問題はただのちりですが、あなたの問題は梁です。あなたは盲人であり、そのことを知りません。もし盲人のあなたが他の盲人を導こうとするなら、あなたたちは穴に落ち込むでしょう。

あなたは、愚かな人々を賢くするための教師だと思っています。けれども、生徒たちはあなたの欠点を学び、結果的にあなたのような者になってしまうのです。それでもなお、あなたは自分の欠点にまったく気づいていないのです。

イエス様はこの話をこのように締めくくられました。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは、謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時には、私たちは兄弟や姉妹に彼らの罪について話す必要があります。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。また、使徒たちもその命令を繰り返しました(ガラテヤ6:1)。

とはいえ、そのようなとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。プライドに満ちた態度を取るべきでしょうか。「私はあなたより優れたクリスチャンだ」という態度でしょうか。

そうではありません。

へりくだった態度を取るべきです。自分自身にも神様の恵みと憐れみが必要だという謙虚さを持つべきです。

だから、相手を責める前に、まず神様にこう尋ねるべきです。

「神様、私の罪は何でしょうか。私の目にどんな梁が入っていますか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せていないでしょうか。私は相手を責めていますが、同じ欠点を持っているのでしょうか。」

もし、神様があなたの欠点を示されたなら、すぐに悔い改めてください。

自分の弱さを知らないうちに、また、自分がどれだけ神様の憐れみを必要としているかを理解できていないうちに、相手と話すのを急がない方がよいかもしれません。

そうしないと、相手が自分の罪を悔い改めたとしても、あなたからさらに悪いこと、特にプライドや偽善を学んでしまうかもしれません。

イエス様はこう言われました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目には、どのような梁が入っていますか。

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山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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山上の説教:日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面しています。そのため、イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えられました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。この世界はサタンの住まいであり、彼は私たちに対して悪意を持っています。どうしても私たちを倒したいと思っているのです。

つまり、サタンは私たちの心の中で働き、私たちを誘惑して、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けさせようとします。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。具体的には、罪に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちには誰しも誘惑に負けやすい弱点があります。その弱点を正しく認識し、できる限りその誘惑から逃げるべきです。しかし、してはいけないことに過剰に注目しすぎると、その誘惑がますます強くなってしまうこともあります。

一方で、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、自然と誘惑から離れることができます。ただ罪を避けるだけでは十分ではなく、神様に従うことが必要なのです。

さらに、サタンは私たちを誘惑するだけでなく、私たちを滅ぼしたがっています。サタンは人々を通して私たちを攻撃することもあります。

また、サタンは私たちに嘘をつくことがあります。「あなたはもうダメだ。神様があなたを愛するはずがない。あなたは失敗しすぎたから、神様はもうあなたを赦さない。」

だからこそ、イエス様は私たちに「悪からお救いください」と祈るよう教えられます。(もう一つの翻訳では「悪者から、つまり悪魔からお救いください」となっています。)

私たちは、私たちを憎むサタンと戦っています。だから、ペテロもこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限してくださるように祈りましょう。

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山上の説教:許しの必要性

多くの人々にとって、この箇所は本当に受け入れがたいものです。

イエス様は、このように祈るように教えます。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音書6:12)

そして、イエス様は続けてこう言われます。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(6:14-15)

それは本当に厳しい言葉です。そして、他の箇所では、イエス様はその言葉をさらに具体的に説明されています。

では、その祈りを少し見てみましょう。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

多くの人々は、この祈りをしばしば祈りますが、自分が何を言っているのか真剣に考えません。

けれども、この祈りを想像してみてください。「主よ。私は姉に本当に怒っています。彼女は私を深く傷つけました。私は絶対に許せません。だから、主よ、お願いがあります。私が姉を許さないように、私を赦さないでください。」

それは愚かな祈りに思えるかもしれませんが、主の祈りを祈るとき、実際にはそのような意味を込めているのです。

「私が相手を許すように、私を赦してください。けれども、もし私が相手を許さないなら、私を赦さないでください。私が怒りと苦さを彼らに注ぐように、あなたも私に怒りと裁きを注いでください。」

神様の目には、許しは選択肢ではありません。もしあなたが相手を許さないなら、あなたは神様からの赦しを期待することはできません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、あなたが神様からの赦しに値しなかったにもかかわらず、神様はあなたを赦すために高い代価を支払われたからです。その代価は、御子イエスの命でした。

あなたは決して、神様からの赦しを買うことができませんでした。また、あなたの罪のために償うこともできませんでした。それでも、神様はあなたを憐れんでくださいました。

神様が私たちを赦してくださったのなら、どうして私たちは相手を許せないのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは本当に神様の赦しを理解していません。

それはつまり、「私の罪はそんなに悪くなかったのです。だから神様は私を許してくれました。」と言っているのと同じです。ようるするに、あなたは自分の罪を軽く見てしまい、深刻さを控えめに捉えています。

しかし、あなたの罪のために、あなたは地獄に行くことに値しました。あなたの罪があまりにも深刻だったので、イエス様はその罪のために十字架で死なれなければなりませんでした。それを本当に信じているでしょうか。

それなのに、どうして「私の罪はそんなに悪くない」という態度を取れるのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは自分の罪をあまりにも軽く考えています。自分の罪の深刻さを正しく理解するなら、相手を許せないはずがありません。

だから、次の二つのことを考えてください。

1.あなたはどれだけ真剣に自分の罪の深刻さを考えるでしょうか。その罪のゆえに、あなたが地獄に値することを信じるでしょうか。

2.神様があなたの酷い罪を赦してくださったのなら、どうしてあなたはあなたに対して犯された酷い罪を許せないのでしょうか。

許すことは簡単なことでしょうか。多くの場合、許すことは本当に難しいです。もしあなたが深い傷を受けたなら、自分の力だけで許すことは難しいでしょう。もしくは、不可能でしょう。

けれども、神様の恵みと憐れみによって、あなたが赦されたように、神様の恵みと憐れみによって、あなたは相手を許す力をいただくことができます。

そのため、自分自身に次の質問をするべきです。「私は今、相手を許せないかもしれないけれど、神様が私の心を変えてくださることを望んでいるでしょうか。」

もし「はい」と答えるなら、このように祈ってください。

主よ、私は深く傷ついており、今は相手を許す意思が全くありません。

しかし、私があなたの憐れみに値しなかったにもかかわらず、あなたは私を赦してくださいました。私を赦すために、あなたは高い代価を支払われました。

どうか私がその真理をさらに深く理解できるように。私がその真理を心から感じることができるように助けてください。

そして、相手を許す心を私に与えてください。どうか私の心を変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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山上の説教:私たちのニーズのために祈る

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配される神様が、私を愛してくださることです。また、私が些細なことについて祈る時でさえ、神様は私の祈りをしっかりと聞いてくださいます。

イエス様もそのことを教えてくださいました。彼はこう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様がこの説教の後半で「心配」について話される時、神様が私たちのニーズをどれほど気にかけてくださるかを教えられます。

つまり、イエス様によれば、神様は私たちが食料や衣類、寝る場所を持っているかどうかを気にかけておられるのです。

もちろん、こういったものを手に入れるためにはお金が必要であり、さらにお金を得るには仕事が必要です。

私たちは、そういったことをよく心配します。

しかし、神様は「そんなことについて心配するな」と言われます。このような心配が私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、天の父が私たちを愛しておられ、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望まれているのです。

だからこそ、私たちはそのニーズについて祈った後は、神様の手に委ねるべきです。

とはいえ、私たちはどれほど祈ることなく心配してしまうでしょうか。私自身も、そうする時があります。

私たちはこう自問すべきです。「私の天のお父さんが本当に私を愛しておられると信じているだろうか。私の天のお父さんが本当に私のニーズに備えてくださると信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じるならば、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはただ心配しているでしょうか。それとも、祈っているでしょうか。

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山上の説教:神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの箇所について書いたのは4年前でした。その記事を読み返すと、本当に懐かしい気持ちになり、振り返ってみると、神様の良さを見ることができます。

その当時、私は強いフラストレーションを感じていました。家計は悪くはありませんでしたが、理想的な状態ではありませんでした。

また、より良い仕事の機会がありましたが、その面接の日が平日だったため、休暇を取る必要がありました。けれども、なぜか私が勤めていた派遣会社はその休暇のリクエストを断りました。そのため、私は「どうすればいいのだろう」と悩みました。

最終的に、神様の恵みによってその面接に行くことができました。派遣されていた中学校の教頭先生が助けてくださり、派遣会社を説得して私が面接に行けるようにしてくださいました。

その面接に合格し、今ではより良い学校で働いています。

では、この話とこの箇所がどのように関係しているのでしょうか。この箇所で私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。派遣会社が不公平だと思ったからです。(その以前、英語のブログ記事で、不公平な世界について書いたことがあったのに。)

以前も言った通り、私は自分の状況をコントロールすることはできませんでした。ただ、私の態度をコントロールすることだけはできました。とはいえ、それは非常に難しいことでした。

最終的に私はこう祈りました。「主よ、あなたの御心が天で行われるように地でも行われますように。天ではあなたの御心が完全に行われています。この地上でも、とりわけこの状況の中で、あなたの御心が完全に行われますように。

もし私がこの仕事を得ることがあなたの御心なら、それは素晴らしいことです。もしそうでないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

さらに私は「御国が来ますように」という祈りも捧げました。

私にとってその仕事を得ることは非常に重要でした。しかし、それ以上に神様の御国は断然重要でした。

その時私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん給料が上がるけれど、一番大切なことは、時間が増えて、神の御国のためにもっと何かできるようになることです。」ということでした。

その日、私はこの箇所を読みましたが、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この箇所でイエス様は「自分の命のことを心配したりしてはいけません」と言われたからです。

その日、私は本当にその言葉が必要でした。そして、この箇所の終わりでイエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、振り返ると、イエス様はその約束を確かに守ってくださいました。

それにもかかわらず、私は今でも時々物事を心配してしまうことがあります。

それでも、神様の恵みによって、私は次のように祈ります。「私の人生において、またこの地上で、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われますように。」

4年前、私はこう祈りました。

主よ。あなたは私のストレスをすべてご存じです。私の心配もすべてご存じです。でも、あなたはこの全地の主です。

あなたは私の雇い主の主です。そして、もっと大切なのは、あなたが私自身の主であるということです。

どうかあなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来においても、あなたの御心が行われますように。

私が何よりもあなたの御国に焦点を当てられるよう助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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山上の説教:私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。しかし、実は「弟子の祈り」と呼ぶ方が適切だと思います。なぜなら、この祈りを祈るのはイエス様ご自身ではなく、イエス様の弟子たちだからです。

とにかく、イエス様は、こう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この箇所では、新改訳聖書の翻訳者は「あがめる」という言葉を使いました。このギリシャ語には確かにその意味があります。

とはいえ、この言葉にはもう一つのニュアンスがあります。それは「聖い」という概念を含んでいます。

そのため、マタイ23:17では「聖いものにする」と翻訳され、ローマ15:16では「聖なるものとされた」と訳されています。さらに、第一テモテ4:5では「聖められる」と訳されています。

つまり、「御名があがめられますように」という祈りの意味は「御名が聖なるものと見なされますように」または「御名が聖なるものとしてあがめられますように」ということです。

もう一つ重要な点があります。聖書時代の文化では、人の名前がその人の性格や本質を表していました。

したがって、「御名が聖なるものとしてあがめられますように」と祈るとき、その意味は「神様ご自身が聖なる方としてあがめられますように」ということになります。

では、私たちが「神様は聖なる方だ」と言うとき、それはどういう意味でしょうか。

基本的には、神様が完全であり、欠点が全くない方だという意味です。神様は全く聖い存在であり、何一つ欠けるところがありません。

その一方で、私たち人間は不完全であり、私たちの性格は全く聖いものではありません。

だから、私たちは神様の完全さと聖さを見ると、神様に畏敬の念を抱くことはふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見るとき、神様をあがめるのは当然のことです。

けれども、神様をあがめるだけでは十分ではありません。神様を見るとき、私たちは天のお父さんのようになりたいという思いが湧くべきです。つまり、私たちは天のお父さんを喜ばせたいと願い、自分の霊的な不潔と欠点を嘆くのです。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るなら、罪深い生活を送る余地はありません。「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と言うことは全くできません。

もしあなたが本当に神様の子供であるなら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るとき、その祈りの意味は「神様、私はあなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。どうか私を助けてください」ということです。

そのように祈るなら、神様はその祈りにきっと答えてくださいます。神様はご自身の子供が神様を模倣することを見ると、本当に喜ばれるのです。

そして、もし私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助けてくださり、イエス様の血によって私たちを清め、導き続けてくださいます。

また、神様は私たちに、神様のように聖い人生を送る力を与え、どのようにそのような生活を送るかを教えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様に畏敬の念を抱いているでしょうか。そして、天のお父さんのようになりたいと願っているでしょうか。

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山上の説教:私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけれど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この箇所では、イエス様は神様をどのように呼ぶべきか教えてくださいます。

マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ」と祈ります。

ルカの福音書では、イエス様はもっと簡単な表現で「父よ」と祈ります。

実際、日本では、主の祈り以外で「天にいます私たちの父よ」や「父よ」と祈る人はほとんどいないように感じます。

むしろ、私の教会では「天のお父様」と祈る人が多いです。

その理由は正確には分かりません。私の個人的な意見ですが、クリスチャンがこのような呼び方を使うと、少し神様との距離を感じさせるように思います。

もし、「天のお父さん」や「お父さん」と祈れば、イエス様が意図された意味により近づくのではないでしょうか。

なぜなら、イエス様は私たちが神様に親しみを持ち、近づくべきだと教えることを望まれたのだと思います。

もちろん「主よ」と祈ることも良いことです。神様はまさに私たちの主であり、その呼び方はふさわしいものです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

けれども、依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには関係がありますが、親しい関係ではありません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができるわけではありません。

しかし、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に仕えるしもべにはないアクセスを持っています。それに、その子は、父の愛を確信しています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙を支配されています。それでも、神様はいつでもあなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら、神様はあなたの王だけではなく、あなたのお父さんでもあるからです。

残念なことに、多くの人々は「天のお父さん」と祈っても、その言葉の意味を深く理解していません。なぜなら、彼らの実のお父さんが不完全だったからです。

そのお父さんは、彼らの話を聞いてくれず、愛してくれず、養ってくれなかったかもしれません。また、中にはお父さんから虐待を受けた人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんに投影してしまいます。

しかし、神様はそのようなお父さんではありません。たとえあなたの実のお父さんが欠点を抱えていたとしても、神様にはそのような欠点はありません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。そして、神様は、決してあなたを捨てられることはありません。

あなたが「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っていますか。

もし否定的なイメージを持っているなら、神様があなたの実のお父さんとは異なる存在であることを心に留めてください。そして、次のように祈ることをおすすめします。

神様が、あなたの実のお父さんによって受けた傷を癒してくださるように。あなたが実のお父さんを赦せるように。そして、神様があなたの「天のお父さん」へのゆがんだイメージを正してくださるように祈りましょう。

神様は完全なお父さんです。あなたが天のお父さんを本当に知ることができますように。

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山上の説教:無駄な言葉

祈りは簡単なものです。けれども、ある意味では祈りは難しいものでもあります。

根本的に、祈りとは神様と話すことです。私たちが他の人々と話すように、私たちは神様と話します。

それなら、どうして祈りはそんなに難しいのでしょうか。

おそらく、一つの理由は、私たちが耳で神様の答えを聞くことができないからです。もしモーセのように神様と直接話すことができたなら、祈りはもっと簡単なものになるでしょう。

しかし、私たちがそのように会話することができないために、私たちはしばしば「神様は本当に私の祈りを聞いてくださるだろうか。もしかして、私は間違った方法で祈っているのだろうか」と疑問に思います。

そのため、多くの人々は自然に神様と話すことができず、「祈りの形式」を使用します。つまり、「主の祈り」を彼らの祈りの指針とします。

けれども、祈りはただの形式ではありません。「主の祈り」を通して、私たちは祈りがどんなものか理解し、どんなことについて祈るべきかを知ることができます。

ただし、「主の祈り」は魔法の言葉ではありません。その言葉を言ったとしても、それが必ず神様があなたの言葉を聞かれることを意味するわけではありません。

それでも、多くの人々はそのように考えます。彼らは「主の祈り」をただの形式として使います。なぜなら、「イエス様はそのように祈りなさいと言われたでしょう?」と思うからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイの福音書6:7-8)

つまり、神様と普通に話す方が良いのです。特別な言葉は必要ありません。長く祈る必要もないし、美しい言葉を使う必要もありません。そのような祈りは神様を感動させるものではありません。

神様は、あなたの心からの言葉だけを聞くことを望んでおられます。

時々、人々はこう訊きます。「もし、神様が私の願いをするより先に、私に必要なものを知っておられるなら、どうして祈らなくてはならないのでしょうか。」

それは、神様があなたとの親しい関係を望んでおられるからです。もちろん、私たちが話さなくても、神様は私たちの思いをよく知っておられます。そして、私たちが願わなくても、神様は私たちのニーズに備えることがおできになります。

しかし、私たちが祈るとき、私たちは神様と出会い、その関係はさらに親しいものになります。神様は何よりも、そのような関係を望んでおられます。

一方で、私たちが何を言っているか考えずに祈ったり、ただ暗記した言葉を繰り返したりすると、そのような親しい関係を築くことはできません。

神様は、私たちの祈りを聞いてくださいます。そして、私たちが心を開いて聞けば、神様は私たちに語りかけてくださいます。だから、形式的な祈りをやめましょう。むしろ、心から神様と話しましょう。すべての喜び、悲しみ、悩みを神様に伝えましょう。

あなたはどうでしょうか。本当に祈っているでしょうか。それとも、ただ無駄な言葉を繰り返しているだけでしょうか。

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山上の説教:私たちの動機

山上の垂訓において、イエス様はしばしば私たちの心にあるものを指摘されます。

この箇所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけでなく、私たちの動機も見ておられると教えます。

それゆえ、イエス様はこう教えます。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を挙げられます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするときに人々に認められたがる人がいました。彼らは、皆の前で貧しい人々にお金を渡しました。

けれども、イエス様は次のように言われました。「そうすれば、神様から報いを受けることはできません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めたからです。あなたは、すでに周りの人々から報いを受けました。」

次に、イエス様は祈りについて話されました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で長い祈りをする人がいました。おそらく、あなたも誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているのか疑問に思ったことがあるかもしれません。

最後に、イエス様は断食について話されました。断食するとき、自分がかわいそうだという顔をする人がいました。そのため、周りの人々は「あの人は断食している。本当に霊的な人だ」と思ったのです。

しかし、イエス様によれば、神様はそのような断食に対して報いを与えられません。むしろ、神様は周りの人々に見えない行動を褒められます。なぜなら、その行動は神様への愛のために行われたものだからです。

相手を批判するのは簡単なことですが、あなた自身はどうでしょうか。周りの人々があなたについてどう思うかを気にしていないでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがっているでしょうか。

それとも、あなたは本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

周りの人々をだますことはできても、神様をだますことはできません。ただ正しいことをするだけでは十分ではありません。正しい動機が必要なのです。

では、正しい動機とは何でしょうか。それは、神様に対する愛、そして周りの人々に対する愛です。神様の目には、他の理由はまったく重要ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外に向かうものです。

けれども、私たちの焦点が内に向き、つまり周りの人々が私たちをどう見ているかばかりを考えるようになると、私たちの良い行いは神様の目には価値を失ってしまいます。

実を言うと、私も自分の動機についてよく戦っています。いつも自分自身に問いかけます。

「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。教会でメッセージをする時、私は自分の霊的さで人々を感動させようとしているのだろうか。それとも、神様が本当に私を通して話しておられるのだろうか。私は誰の歓心を買おうとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

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山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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山上の説教:正直さ

時には、信頼できる人を見つけるのは難しいことがあります。この壊れた世界では、人々がお互いを信頼できないため、契約や誓いを求めることがあります。

「私は約束します。」

「私は誓います。」

けれども、イエス様は、私たちが正直な人になるべきだと教えます。つまり、周りの人々があなたの言葉を信じるようになり、契約や誓いを必要としないようになるのです。

イエス様はこう言われました。

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイの福音書5:33-37)

イエス様の時代では、もしあなたが神様のみ名によって誓ったなら、その誓いを守らなくてはなりませんでした。けれども、パリサイ人たちや律法学者たちは、天や地や自分の頭を指して誓った場合、その誓いを守らなくても良いと教えていました。

しかし、イエス様は私たちにすべての誓いを守らなくてはならないと教えました。なぜなら、エルサレムや天や地は神様に属しており、それらは神様の栄光を反映しているからです。したがって、これらの物を指して誓うことは、実際には神様を指して誓うことと同じです。

さらに、あなたの頭も神様に属しています。白髪がいつ出るかをあなたはコントロールすることはできません。

とはいえ、イエス様の要点は「すべての誓いを守らなくてはならない」ということではありません。

むしろ、イエス様の要点はこうです。「誓わない方が良いのです。相手があなたに誓いを要求する理由はただ一つです。それは、相手があなたの言葉を信頼できるかどうか分からないからです。」

では、どうして彼らはあなたの言葉を信じられるかどうかわからないのでしょうか。

1.彼らは、あなたのことを知らないからです。そのため、裁判所では、人々が「真実を言うことを誓います」と言わなくてはなりません。裁判官たちは、あなたのことを知らないからです。

2.彼らは、あなたのことを知っているけれど、あなたを信頼できないため、あなたの言葉を疑います。その場合、相手は、あなたに誓いを要求するかもしれません。

一つ目の場合は、仕方がありません。私たちは、罪によって壊れた世界に生きているからです。人間不信は普通のことです。だから、裁判所で私たちは誓わなくてはなりません。

イエス様は、すべての誓いを禁じるわけではありません。実際、イエス様もそうされたからです。(マタイ26:63-64)

けれども、二つ目の場合、ある程度まで、あなたはコントロールすることができます。もし、あなたがいつも正直に話すなら、周りの人々はあなたの言葉を信じるようになります。

そうすれば、彼らはあなたからの誓いや約束を要求しません。むしろ、あなたが話すと、彼らはあなたの言葉を疑わずに信じます。

周りの人々は、あなたの言葉を信頼できるでしょうか。小さいことでも(パーティーにちゃんと間に合うこと)、また大きいことでも(仕事やミニストリーへの忠実さ)、彼らはあなたを信頼できるでしょうか。

イエス様は、私たちが世の光として生きるように招いておられます。人々が他人を信頼できないことが多いこの世界で、あなたは光となっているでしょうか。周りの人々は、あなたのことを信頼できるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:なんとしても

私の一番好きなスポーツチームは、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズです。

1970年代にスティーラーズの監督が好んで使った標語は、「何としても」というものです。つまり、「何としても、勝たなければならない。」という意味でした。

イエス様にも、似たような態度がありました。けれども、イエス様は勝負について話されたのではありません。むしろ、罪について語られました。簡単に言えば、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい。」と教えたのです。

イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈しますが、それはイエス様が意図された意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望まれているのではありません。

イエス様が意味されたのは、私たちが罪について真剣に考えるべきだということです。けれども、多くの場合、私たちは罪を軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくださる」と考えます。山上の垂訓でのイエス様の教えに反して、私たちは自分の罪を嘆きません。むしろ、悔い改めることなく罪を犯し続けます。

しかし、イエス様が十字架で死なれた理由は私たちの罪のためです。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。イエス様に出会う前、私たちは自分の罪のために地獄に行くことに値していました。

どうして、私たちは自分の罪を軽く考え、悔い改めることなく罪を続けることができるでしょうか。

だからこそ、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と教えます。では、どうやって罪を捨てることができるのでしょうか。

1.祈り。 私たちには、自分の力で罪に勝つことはできません。神様の力が必要です。

2.できるだけ誘惑を避けること。 例えば、アルコール依存の問題がある場合、バーなどに行かない方が良いでしょう。情欲の問題がある場合は、インターネットの利用に注意し、ポルノを販売している場所を避けるべきです。

3.クリスチャンの友人に問題を伝えること。 その人に祈りを頼み、時々その罪についてチェックしてもらうようにお願いするべきです。

ヤコブはこう書いています。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪を軽く考えないでください。イエス様は決してそのようにはされませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死なれたのです。

ですから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:姦淫

前回の記事では、イエス様が殺人について話されました。今回は、イエス様は姦淫について話されています。イエス様がそのことについて話されたとき、その言葉は宗教的リーダーたちの良心を貫いたかもしれません。

私が以前述べたように、パリサイ人たちは、律法の具体的な部分を守り、それを誇りにしました。けれども、彼らはその律法の精神を見逃してしまいました。

一例として姦淫があります。パリサイ人たちの間にもさまざまな派閥が存在しました。例えば、「あざができたパリサイ人」と呼ばれる人たちがいました。(もちろん、この名前は侮辱として使われていました。)

「あざができた」パリサイ人たちは、情欲に対する懸念から、女性が通り過ぎるときに目を閉じました。ところが、目を閉じている間に、しばしば壁にぶつかってしまうことがありました。

また、あるパリサイ人たちは離婚について議論しました。モーセは律法でこう言っています。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)

パリサイ人たちは、「恥ずべき事」について議論しました。では、「恥ずべき事」とは何のことでしょうか。一部の人々は、「恥ずべき事」とは「不品行」という意味だと解釈しました。

一方、他のパリサイ人たちは、例えば妻がうるさかったり、料理を焦がしたりした場合、それも「恥ずべき事」に含まれると主張しました。

けれども、より深刻な問題が存在していたのではないでしょうか。それは、既婚のパリサイ人が不倫をしようと考え始めた時です。

ちょっと造像してみましょう。女性が通り過ぎるとき、そのパリサイ人は最初は情欲を避けようと目を閉じ、壁にぶつかることがあるかもしれません。

しかしその後、その女性をちらっと見てしまい、さらに振り返ってもう一度彼女を見てしまうかもしれません。

そして、やがて彼はずっとその女性のことを考えてしまい、関係を持ちたいと思い始めます。けれども、彼は既婚者で、こう考えるかもしれません。

「姦淫は罪だ。では、どうすればいいだろうか?あ、そうだ。妻と離婚して、あの女性と結婚すればいい。」

実際に、このように「正しい」とされるパリサイ人たちは、頻繁に離婚をしていました。

そのため、イエス様ははっきりと言われました。「あなたが婚外関係を持っていなくても、それだけで無罪とは言えません。」

つまり、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)

そして、恋人のために自分の妻と離婚しようかと考えたパリサイ人に、イエス様はこう言われました。

また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。

また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

つまり、もしあなたが結婚している間に、他の人に恋をし、その人と結婚するために妻や夫と離婚したら、神様の目にはそれが姦淫です。

あなたはどうでしょうか。心の中で姦淫を犯していないでしょうか。恋人と結婚しようと思い、そのために妻や夫と離婚しようと考えているでしょうか。

また、恋人が既に別の人と結婚しているのに、「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様はそのような罪を裁かれます。

あなたは他の人と肉体関係を持っていないかもしれませんが、妻や夫と一体になっているでしょうか。それは肉体的な結びつきだけでなく、心の一致、霊の一致も含まれるべきです。

私たちが愛する方に忠実でありますように。神様に忠実であり続け、また妻や夫にも忠実でありますように。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:和解

前の記事で、私たちはこの言葉を読みました。

平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)

その言葉を読むと、多くの場合、私たちはケンカしている二人の友達を助けることを考えます。

けれども、私たち自身がケンカをしている時にも平和を作る者になるべきです。

イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(5:23-24)

注意事項が二つあります。

まずは、イエス様は「もしあなたの兄弟があなたに恨みをもつなら、あなたは彼のところに行って、仲直りしなさい。」と言われます。

多くの場合、私たちは自分が悪いことをしていないと思うのに、誰かが私たちに怒っています。だから、私たちは「それは彼の問題です。私には関係ない。」と言います。

しかし、そうするなら、実はあなたは彼のことを見下しています。

あなたは口では言わないかもしれませんが、あなたの行動によって、「この人は私の時間に価値しない。もし彼が問題を抱えているなら、彼がこちらに来るべきだ。」という態度を示します。

けれども、イエス様はそのような態度を許されません。もし誰かが私たちを恨んでいるなら、私たちは積極的に仲直りしようとしなくてはなりません。

時には、あなたが謝らなくてはならない場合もあります。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は悪いことをしていないのに。」

そうかもしれません。相手が繊細過ぎるかもしれません。それでも、相手の感情を考えてください。もしあなたの行動や言葉で彼らを傷つけたのであれば、あなたは謝るべきです。

せめて、「思わずあなたを傷つけてしまい、ごめんなさい。許してくれませんか。」と言った方が良いです。

そして、彼らを傷つけた言葉や行動を二度としないように気を付けるべきです。これは、相手のためだけでなく、彼らのために十字架で死なれたイエス様のためでもあります。

二つ目は、私たちの壊れた人間関係が、私たちの神様との関係に影響を与えるということです。

もし私たちができる限り相手と仲直りしようとしないのなら、神様は私たちの供え物を受け入れてくださいません。ペテロも、夫が妻を思いやりを持って扱わないなら、神様があなたの祈りを受け入れてくださらないと言います。(第一ペテロ3:7)

さらに、もし私たちが本当に悪かった場合、イエス様は私たちがすぐに積極的に償いをしなくてはならないと言われました。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。

そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(5:26-28)

でも、あなたが悪くなくても、できるだけ相手と仲直りをしようとするべきです。

もう一つのポイントがあります。時々、相手には私たちと仲直りする気がありません。それは私たちがコントロールできないことです。私たち自身の行動だけがコントロールできます。

だから、相手のために祈ってください。相手と仲直りするために何をした方がいいか、神様に尋ねてください。そして、神様があなたにアイデアを与えてくださるなら、それを実行すべきです。

そのあとのことは、相手の責任です。もし彼らが反応しないなら、その状況を神様の手にゆだねることしかできません。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたの周りの人々とはどのような関係がありますか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:心の中で人々を侮ると

この箇所では、私たちは、イエス様がなぜパリサイ人たちと律法学者たちの律法の解釈を批判されたのかを知ることができます。つまり、彼らは外見だけに注意を払っていましたが、心の状態を完全に無視していたのです。

その一例が殺人についての教えです。イエス様はこう言われました。

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5:21)

もちろん、パリサイ人たちと律法学者たちは、その命令に従っていました。彼らは誰も殺しませんでした。(とはいえ、後に、彼らのせいでイエス様は十字架にかけられました。)

それでも、イエス様続けてこう言われました。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)

イエス様は殺人だけを指摘されるのではなく、心の態度についても指摘されます。要するに、「あなたは誰も殺していないでしょう。それは良いことです。けれども、あなたの心の中で相手を殺したことがあるでしょうか。」と問いかけられるのです。

心の中で相手を殺すとはどういう意味でしょうか。

相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたはその人を侮っています。「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良い。」という態度を取っています。

もし私たちが相手に「あなたがバカ者だ」と言う時、実際には何をしているのでしょうか。私たちは心の中で相手を侮り、「あなたには価値がない」という態度を取っています。

殺人とは、その態度を極端な程度まで取ることです。しかし、私たちの心がその態度を持ち続ければ、やがて殺人に至るかもしれません。ニュースでは、そうした話を私たちはよく耳にします。

さらに、イエス様は怒りの問題についても指摘されます。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかをコントロールすることはできません。それは感情だからです。時には何かが起こり、私たちは怒りを感じます。

それでも、私たちはその怒りをどのように制御するかを決めることができます。私たちは、その怒りをずっと持ち続けるでしょうか。その怒りを抱え込んで、だんだん大きくさせるでしょうか。

ちゃんと制御されない怒りは、次の段階へ進むかもしれません。たとえば、私たちはその人との縁を切ることがあります。最悪の場合、私たちは彼らを殺してしまうこともあります。

そうなれば、イエス様は私たちが裁かれると言われます。また、神様の恵みから離れた結果、私たちは地獄に行くと警告されています。

あなたはどうでしょうか。心の中で誰かを侮っているでしょうか。「彼はろくでなしだ」と考えたことがあるでしょうか。

あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。もしそうであれば、神様の目には、あなたはその人を殺したことになるのです。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

また、

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。

兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)

だから、たとえ相手があなたを傷つけたとしても、その人を価値のある人として見なすようにしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるからです。そのために、イエス様は彼らのためにも、私たちのためにも十字架で死んでくださいました。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:律法を成就するお方

多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と安息日について言い争いを始められた後で、イエス様はこの言葉を言われたのだと思われます。イエス様は、すでに何度も安息日に人々を癒しておられたことでしょう。

それでも、イエス様は、はっきりと言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)

どのように、イエス様は律法や預言を成就されたのでしょうか。それは、大体三つの方法で成就されました。

一つ目は、イエス様がメシアの預言を成就されたことです。

二つ目は、イエス様が他の人にはできないことをされたことです。つまり、イエス様は律法を完全に守られました。そのため、イエス様は私たちの罪のために死ぬことがおできになりました。

パウロはこう書いています。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)

三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたすべてのいけにえを成就されたことです。

ヘブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求されましたが、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。

しかし、今やイエス様にあって私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要ありません。イエス様にあって、そのいけにえは成就されました。(ヘブル10:1-18)

律法はイエス様にあって成就され、私たちは神様の目には清い者となりました。それでも、律法は神様の聖さについて教え、私たちがどんな人になるべきかを示します。

そして、神様が聖なる方であるため、私たちも聖い人生を生きるべきです。

もちろん、私たちは自分の救いを買おうとは思いません。

けれども、聖霊様は私たちの心に住まわれ、私たちが清い人生を歩むよう助けてくださいます。

以前、私たちには清い人生を送る力がありませんでした。しかし、今神様は私たちと共におられ、神様がそもそも私たちをデザインされたように生きる力を与えてくださいます。

そして、イエス様は、私たちに警告を与えられます。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)

たぶん、ユダヤ人たちはそれを聞くと、面食らったことでしょう。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は、一番律法を守る人とみなされていたからです。彼らはその律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。

しかし、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もしあなたの心が神様の目に悪ければ、どんな良いことをしても神様にその行動を認めてくださいません。

だから、イエス様はパリサイ人たちと律法学者を本当に責められました。彼らが正義とあわれみと誠実を全く知らなかったからです。(マタイ23:23)

あなたの心はどうでしょうか。あなたは正しいことをしているかもしれませんが、あなたの心は神様の目に正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何と言われますか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:塩と光

この箇所は本当に有名ですが、どれだけ私たちはその前後に気づいているでしょうか。その前後とは何でしょうか。

イエス様は迫害について話しておられました。つまり、私たちがイエス様のために迫害された時、私たちは祝福されるのです。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様はこう言われます。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負け、イエス様に従わずに彼らのようになってしまう時、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れ、彼らを喜ばせようとするあまり、神様を私たちの人生で第一にすることを忘れてしまうからです。

私たちは地の塩であるべきです。塩は食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。それだけではなく、私たちの行動を通して神様の道を示します。そして、私たちを通して彼らは健全な人生と壊れた人生の違いを見出すでしょう。

さらに、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

しかし、私たちがこの世の民のように振る舞う時、この世を保存することも、この世に味を付けることもできません。

それに、神様はこの世の光となるために私たちをこの世に置かれました。私たちは隠れることのできない町であるべきです。それはどうしてでしょうか。道に迷った人々や傷ついて死にかけている人々に神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは相手からのプレッシャーのためにその光を隠すのでしょうか。

あなたはどうですか。あなたはこの世の民のようになったために塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は周りの人々に見えなくなってしまいましたか。

誰を喜ばせたいですか。神様でしょうか、それとも周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:全く新しい考え方

あなたがこの箇所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うことが分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人であれば、神様があなたを祝福すると考えます。また、祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

しかし、イエス様はこう言われました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要性が分かるからです。その真実が分かれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人とは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、それをしろ」と言います。

しかし、イエス様はこう教えられます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪による痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たちは私たちの人生とこの世を変えることのできるイエス様の力を見出すからです。

この世の人は、思い切って自分の人生とその状況をコントロールすれば祝福されると思います。

しかし、イエス様はこう語れます。「良い時でも悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」

つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいくでしょう。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、何でもします。

しかし、イエス様はこう言われました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものでもありません。けれども、それに従えば、あなたは満ち足ります。

この世の人々は、「自分のために生きなさい。自分の目的を果たすためなら、周りの人々を踏みつけても構わない」と言います。

しかし、イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズを自分のニーズよりも優先して考えてください。

特に、相手を許すときにそうするべきです。自分の痛みを脇に置き、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てるのです。

そうすれば、私たちはイエス様のようになることができます。イエス様が十字架にかけられた時、このように祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人々は、道徳的な価値観は相対的なものであると考えています。だから、他人の道徳的な価値観を裁くことができないと思います。彼らにとって、すべての人の道徳的な価値観は平等です。

しかし、イエス様はこう語れました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人々は、「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくてもいい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」と考えます。

しかし、イエス様はこう言われます。「神様の使節として福音を宣べ伝えるは、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるからです。

また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働かれたからです。」

この世の人々によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。

しかし、イエス様は私たちがすべての人々を喜ばせる必要はないと語れます。だから、周りの人々よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のものとは全く異なる価値観があります。けれども、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

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山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:平和をつくる者

神様は、私たちを平和をつくる者として召されています。

なぜでしょうか。それは、イエス様ご自身が偉大な平和の仲介者だからです。

私たちの罪によって、神様との間に大きな隔たりがあったとき、イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。その御業によって、私たちは神様との平和を得ました。

だからこそ、私たちが人々を和解させるなら、私たちが本当に神の子どもたちであることを証明するのです。

神様は、ご自身の愛する子どもたちが争うことを悲しまれます。だからこそ、神様は私たちを和解のために召されるのです。

もちろん、私たちはすべての争いを止めるように召されているわけではありません。私たちがまったく関係のない争いなら、巻き込まないほうが良いでしょう。(箴言26:17)

しかし、あなたが愛する人々が争っているなら、できる限り平和をもたらすために努力すべきです。

もちろん、それには神様の知恵が必要であり、適切なタイミングを見極めることも大切です。また、愛と敬意のある関係がなければ、彼らはあなたの言葉を聞かず、かえってあなたを責めるかもしれません。

さらにもう一つの意味で、私たちは平和をつくる者として召されています。それは、神様と人々の間に平和をもたらすことです。

パウロはこう書きました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

それは大きな責任です。イエス様は十字架で和解の御業を成し遂げられました。しかし、神様は私たちにこう語られます。 「この和解の言葉をあなたに委ねます。あなたは私の使節となりなさい。」

では、その和解の言葉とは何でしょうか。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(5:20-21)

もちろん、私たちは人々の心を変えることはできません。それは御霊の働きです。

それでも、私たちは平和をつくる者として召されています。つまり、神様とその愛する者たちを和解させるために召されているのです。

イエス様はこう言われました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

あなたはどうでしょうか。あなたは平和をつくる者ですか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:神を見るため

多くの歌は、神様を見たいという願いを表現しています。子どもの頃、私はこの歌を歌いました。

Open our eyes Lord,
私たちの目を開いてください。
We want to see Jesus.
私たちはイエス様を見たいです。
To reach out and touch him.
私たちは手を伸ばし、イエス様に触れたいです。
To say that we love him.
イエス様に、「あなたのことを愛している」と言いたいです。

また、大学生の時、私はこの歌を歌いました。

Open the eyes of my heart Lord,
主よ、私の心の目を開いてください。
Open the eyes of my heart.
私の心の目を開いてください。
I want to see you.
あなたを見たいのです。
I want to see you.
あなたを見たいのです。

私はこの二つの歌が大好きです。けれども、もし私たちが本当に神様を見たいと願うなら、イエス様は私たちにこう言われます。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイの福音書5:8)

どうして清い心は大切なのでしょうか。それは、神様が清い方だからです。

天使たちは神様のもとで歌うとき、神様の愛について歌うのではなく、こう歌います。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:6)

(もちろん、彼らは神様の愛についても歌うかもしれません。とはいえ、聖書には「愛深い、愛深い、愛深い、万軍の主」という歌は記されていません。)

旧約聖書でも新約聖書でも、神様は私たちにこう命じられます。

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記11:44-45;第一ペテロ1:16)

神様は罪を憎み、その近くにおられることはできません。もし私たちが罪によって汚れてしまったなら、神様から遠ざかっていると感じるかもしれません。

それは、私たちが救いを失い、神様が私たちをもう愛しておられないという意味ではありません。けれども、神様との親しい関係を持つことができなくなってしまいます。

ある日、私は友人のガレージで話しているとき、その友人の2歳の娘が少しの間どこかへ行きました。

そして戻ってきたとき、彼女は父親がオイルを拭いていたスポンジを手に持っていました。そのため、彼女の手と顔はとても汚れていました。それでも、彼女は母親に抱っこしてほしいと願いました。

もちろん友人は彼女を抱きたがりませんでした。すると、その娘は泣き始めました。そこで、友人は少し考えた後、後ろから娘を抱き上げ、家に連れて行って、きれいに洗ってあげました。

時々私たちは、「なぜ神様から遠ざかっているように感じるのだろうか」と問いかけます。祈っても神様がその祈りを聞いてくださらないように感じ、神様の臨在を感じることができないことがあります。

そのようなとき、自分自身に問いかけてみるべきかもしれません。 「私は罪によって汚れてしまっているだろうか。その罪のために、神様は私から離れているのだろうか。」

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

二つの重要な注意点があります。

まず一つ目は、たとえ私たちが罪に陥ったとしても、神様はこう約束されています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

私たちにはいつも清い心が必要です。しかし、その清さを保つためには、毎日悔い改めなければなりません。

次に、あなたが神様から遠ざかっているように感じるとしても、それが必ずしもあなたの罪のせいだとは限りません。ほかの理由があるかもしれません。(ただし、それは別の記事のテーマです。)

それでも、私たちは神様にこう祈るべきです。 「私たちの間に何か障害があるでしょうか。罪があるでしょうか。」

もし罪の問題があるなら、神様はあなたに教えてくださいます。神様は決して、 「あなたは知っているはずだ。もし知らないなら、私は教えないよ。」 とは言われません。

ですから、もし神様があなたの罪を指摘されないのであれば、おそらく別の理由があります。そして、後に神様はきっとその理由を明らかにしてくださるでしょう。

それでも、毎日こう問いかけてましょう。 「私の心は神様のみ前に清いものでしょうか。」

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:憐れみ

数年前、私は不思議な夢を見ました。その夢の中で、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際には、中国に行ったことはありません。)

すると、先生はこう言いました。「あなたたちは聖書をよく知っていますね。けれども、あなたたちは毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始め、この箇所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いた瞬間、私は目を覚ましました。

「これはどういう意味なのだろうか。」と、私は思いました。

その夢を見たとき、私はハワイを旅行していました。そして、その夜、兄の教会に行き、礼拝が始まる前に、もう一度マタイの箇所を読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からメッセージを語りました。そのテーマは何だったでしょうか。憐れみでした。

翌週の日曜日、私は自分の教会に戻りました。そして、牧師は再び憐れみについて語りました。

そのとき、私は思いました。「神様は私に憐れみについて学んでほしいのだろうか。」

そして、神様は私に憐れみについて教え始められました。

今でも私は憐れみについて学んでいます。本当は、「私は憐れみ深い人間です」と言いたいのですが、そうは言えません。まだまだ成長しなければならないのです。

イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみとは何でしょうか。

まず一つ目の意味は、人々を常に裁かないことです。つまり、私たちの基準や期待を押し付けるのをやめることです。

ある日、神様は私にこのことを教えられました。私が英会話の生徒を教えていたとき、彼らはなかなか上達していませんでした。そのため、私はフラストレーションを感じました。

「私は何度もこのことを教えたのに、どうして覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜできないのか。」と私は思いました。(もちろん、口には出しませんでした。)

けれども、神様はこう語られました。 「ブルース、自分が立てた基準によって彼らを裁いてはいけません。あなたは、彼らが知っているはずだと思うかもしれませんが、彼らはまだ理解していません。

だから、批判するのをやめて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語学習の必要を理解し、その必要に応えられるように努めなさい。」

多くの場合、私たちは友人、配偶者、同僚、子どもが私たちの期待を満たさないと、彼らを批判してしまいます。

しかし、憐れみとは彼らを批判するのではなく、こう問いかけることです。 「彼らの本当の必要は何だろうか。どうすれば私はその必要に応えることができるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は大きく違いました。福音書の中で、イエス様は人々に仕えましたが、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみにはもう一つの側面があります。それは、人を許すことです。

多くの人は私たちの赦しに値しないかもしれません。決して謝らない人もいるでしょう。その結果、私たちの心には怒りや恨みが積み重なります。

英語の「resent」、つまり「恨み」という言葉の意味は、「再び感じる」です。私たちが恨みを持つとき、再び過去の傷を感じてしまいます。

恨みや苦々しい思いは、私たちを過去に縛り付けます。神様は私たちにそれを望まれていません。神様は私たちが恨みを手放し、神様の目的のために生きることを望まれます。

神様は私たちを素晴らしい目的のために造られました。しかし、恨みを持ち続けるなら、その目的を果たすことはできません。

それに、私たちは神様の憐れみに値しなかったにもかかわらず、神様は憐れみを注いでくださいました。同じように、私たちは値しない人々にも憐れみを与えるように呼ばれています。

イエス様は何度も言われました。 「もし神様の憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを示すべきです。」

この箇所でイエス様はそう教えられましたし、主の祈りでもそう教えられました。また、たとえ話の中でもそう語られました。

あなたはどうでしょうか。あなたは憐れみ深い人ですか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

おそらく、この言葉は2つの方法で解釈できるでしょう。

1つ目の解釈は、イエス様が私たちに聖なる人生を追い求めることについて語られたというものです。つまり、私たちは神様への愛ゆえに、神様を喜ばせ、清い人生を歩みたいと願うのです。

それでも私たちは罪との戦いに苦しみます。ローマ人への手紙7章で、パウロはその戦いについて語りました。この箇所から、パウロが義に飢え渇いていたことがわかります。

彼は叫びます。 「私は正しいことをしたいのに、どうしてもできません。何度も罪に陥ってしまうのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

私も、そう感じることがあります。私は清い人生を歩みたいと願っていますが、何度も失敗してしまいます。だからこそ、失望するのは簡単なことです。「もう諦めよう。私はもうだめだ。どうしても罪を犯してしまう。」そう思ってしまうこともあります。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。 「諦めないでください。義に飢え渇き続けなさい。ある日、その飢え渇きは満たされるのです。あなたは義人となるでしょう。」

もちろん、天国では私たちは完全に義人となります。とはいえ、この世に生きている間も、神様は私たちの人生に働きかけておられます。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

そして、私たちが完全に義人となる日まで、神様の恵みが私たちを支えます。パウロはこう書きました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

けれども、もう一つの意味として、私たちの義への飢え渇きも満たされる日が来るでしょう。

私たちの周りを見渡すと、罪と不正義が蔓延していることに気づきます。堕落した裁判官を目にし、神様の律法に反する法案が可決されます。また、人々の道徳的な価値観は変わり、かつて悪とされたものが、今では良いものと見なされています。

そのため、私たちは「いつ正義はこの国に戻るのだろうか。もう希望はないのだろうか。」と問い始めます。

正直に言うと、おそらくこの状況が良くなることはないでしょう。パウロが「終わりの日」について語ったとき、彼は非常に暗い光景を描写しました。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その時代を生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)けれども、イエス様が再び来られる前に、この世界は次第に悪くなっていくでしょう。

私たちは政治家や司法制度、人間が作り上げた機関に頼ることはできません。

それでも、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

それは、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」からです。(ピリピ2:10-11)

だからこそ、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日は必ず来ます。私たちの義への飢え渇きは満たされるのです。その日まで、私は政府や人間が作った制度に頼るのではなく、神様を信頼します。

私たちが義を求める飢え渇きを決して失わないように。イエス様は必ずご自身の約束を守られるのだから。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:天の父に従う

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(5:5)

英語では、「Blessed are the meek」と書かれています。

「Meek」、つまり「柔和」という言葉を見たとき、私はその意味をよく調べる必要があります。なぜなら、アメリカ人はこの言葉をあまり使わないからです。

「柔和」という言葉が日本人にとってどのようなイメージを持つかはわかりませんが、多くのアメリカ人にとって「Meek」という言葉は「弱い」という印象があります。

ところが、この言葉は「弱い」という意味ではありません。モーセとイエス様は柔和な者だと呼ばれました。この箇所では、新改訳聖書は「謙遜」や「へりくだっている」という表現を用いています。(申命記12:3、マタイ11:29)

彼らは謙遜な人だったかもしれませんが、彼らを「弱い」と呼ぶことはできません。彼らは本当に強い人たちでした。

実は、この言葉は飼いならされた動物を指す際にも使われていました。飼いならされた動物は、自分の力を持ちながらも、飼い主に従い、仕えるのです。

その意味で、モーセとイエス様は柔和な者でした。

モーセは、最初は自分の力でイスラエル人を奴隷の生活から解放しようとしました。けれども、結局彼はパロから逃げなければならず、諦めました。

しかしその後、モーセは神様の権威に従い、神様とイスラエル人のために偉大な働きをすることができました。

イエス様は神の御姿でありましたが、天の父に従い、天の父の計画を成し遂げられました。つまり、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを救われました。

モーセとイエス様はいろいろな試練に直面しました。彼らは自分の弱さと戦いました。それでも、彼らは最後まで神の計画を成し遂げるまで仕え続けました。

それが柔和な者です。

あなたはどうでしょうか。あなたは柔和な者でしょうか。

あなたは天の父に従いますか。試練に直面するとき、「どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょうか。私はあなたの御心に従っているはずなのに」と不満を言うでしょうか。

それとも、へりくだって神様の御心に従い続けるでしょうか。

そのような人に、イエス様は言われます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

私たちは毎日、天の父に従うなら、最終的に報いを受けることができます。

しかし、私たちは本当にそうするでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:悲しむ人

私は、山上の垂訓についてのメッセージを多く聞き、聖書の解釈書も数多く読んできました。そして、多くの聖書学者や牧師たちによれば、この箇所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いである」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しい者」という概念と一致しています。(マタイの福音書5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している者であることを認め、その罪を嘆くのです。

実は、罪を嘆くことは時として良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めであれば、それは命に至ります。ところが、もしその嘆きが絶望へと導くのであれば、それは死に至ります。

ペテロとユダの話を考えてみましょう。ペテロは悔い改めたことで、命を見出しました。その一方、ユダは絶望し、自ら命を絶ってしまいました。

ですから、私たちの嘆きがどこへ向かうのかを考える必要があります。

嘆きは神様とその恵みへと導くものでしょうか。

それとも、私たちは自分自身の過ちや失敗に焦点を当てすぎてしまうでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てるなら、神様の慰めを受けることができます。

しかし、自分自身の過ちばかりに焦点を当ててしまうなら、絶望へと向かいます。

とはいえ、この箇所でイエス様が「罪を嘆くこと」について話されたかどうか、私は確信がありません。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。とはいえ、罪によって壊れたこの世界を嘆くこともあります。

私たちが愛する人が病気になったり、亡くなったりすると、深い悲しみに襲われます。

また、人々が互いに傷つけ合うのを見て、嘆くこともあります。

戦争や飢餓、苦しみを目の当たりにすると、絶望を感じるのは自然なことです。そして、未来に希望があるのかどうか、疑念が湧いてきます。

けれども、もう一度問いかけます。それらの出来事を見たとき、私たちはどこに焦点を当てるべきでしょうか。

もし、自分自身に焦点を当てるならば、絶望へと向かいます。なぜなら、私たちにはこれらのひどい状況を変える力がないからです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望へと導かれます。なぜなら、神様は私たちの状況や問題よりも遥かに偉大な方であり、壊れたものを回復させることができるからです。

神様は、壊れた人間関係を回復させることができます。崩れた結婚を再生させることができます。失われた希望をよみがえらせることができます。そして、霊的に死んだ人を新しく生かすことができます。

あなたは、自分の罪のために人生が壊れていると感じていますか。あなたの傷や、周りの人々の傷を見て、嘆いていますか。

自分自身の弱さだけを見つめるのではなく、むしろ死んだものを回復させることができる方を仰ぎ見てください。そうすれば、あなたは神様の慰めを受けることができます。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:超霊的な人のためではなく

今日は少しマタイの福音書に移り、山上の垂訓と平地の説教を組み合わせます。なぜなら、以前にも述べたように、この二つの説教は共通のテーマを持っているからです。

この箇所におけるイエス様の言葉と、ルカの箇所におけるイエス様の言葉には少し違いがあります。

ルカの福音書では、イエス様は「貧しい者は幸いです」と言われました。けれども、マタイの福音書では「心の貧しい者は幸いです」と言われています。

ルカの福音書では、おそらくイエス様は金銭的に貧しい人々に語っておられたでしょう。しかし、マタイの福音書では、イエス様は別の視点から話されていました。

その群衆の中には、パリサイ人、律法学者、そして他の霊的に熱心な人々がいたことでしょう。そして、彼らを見たとき、周囲の人々はこう思ったかもしれません。

「きっとこの人たちは神様に恵まれているのだろう。なぜなら、彼らは非常に宗教的な人々であり、聖書を深く理解し、正しい生活を送っているからだ。」

けれども、その「普通」の人々は、自分自身を見たとき、霊的に劣っていると感じていたかもしれません。

特に、イエス様の12人の弟子たちは、そのように感じた可能性があります。彼らは特別な宗教的な訓練を受けていませんでした。ただの漁師でした。そして、一人は嫌われた収税人でした。

さらに、彼らは気性の荒いグループでした。彼らは度々口論してしまいました。

また、彼らの信仰の弱さゆえに、イエス様は何度も彼らを叱責されました。けれども、イエス様はこう言われました。 「確かに、あなたは霊的に貧しい者です。しかし、神の国は特にあなたのような人々のためのものです。」

対照的に、弟子たちが憧れていた霊的に見える人々の多くは、最終的に神の国の門に入ることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、実際には、私たち全員が霊的に貧しい者だからです。誰も神様の前で「ほら、私はすごいでしょう。だから、私を入れなければなりません」と言うことはできません。

私たちは皆、霊的に破産した存在です。

パウロはこう言いました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

また、イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

だからこそ、私たち全員にイエス様が必要です。パリサイ人であっても、収税人であっても、牧師であっても、売春婦であっても、すべての人がイエス様からの赦しと恵みを必要としています。

その赦しと恵みを受けなければ、誰も神の国に入ることはできません。

あなたは、自分が霊的に貧しい者だと思うでしょうか。あなたには希望があります。神学校に行ったことがなくても、特別な資格がなくても、人生がめちゃくちゃになっていたとしても、神の国はあなたのような人々のためにあります。

なぜでしょうか。

それは、あなたが牧師であっても、会社員であっても、売春婦であっても、私たち全員が同じだからです。つまり、私たちは皆、罪人です。私たちは皆、恵みを必要としている者です。

神の国は、霊的に優れた人々のためではありません。神の国は、赦され、恵みを受けた罪人のためにあります。

あなたは、自分が神の国に値しないと感じていますか。どうか安心してください。誰も神の国に値するわけではありません。

しかし、もしあなたが神の前にへりくだり、赦しを求め、イエス様を主として受け入れるならば、神様はあなたに永遠の命を与えると約束されています。

そして、神の国には「二流の市民」という者は存在しません。

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ルカの福音書 ルカ6章

自己満足の問題

イエス様は、貧しい者たちへの神様からの祝福について話された後、金持ちと自己満足な人々に焦点を当てられました。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。

いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(ルカの福音書6:24-26)

それらは、本当に厳しい言葉でした。けれども、イエス様の祝福がすべての貧しい者たちに向けられていたわけではなかったように、この厳しい言葉もすべての金持ちに向けられたものではありませんでした。

むしろ、この言葉は自己満足している人々に向けられたものでした。彼らは気楽に過ごしすぎて、神様のことを必要としていないと感じ、神様とその御国についてほとんど考えていなかったからです。

しかしある日、彼らは自分の富、食べ物、快楽、そして快適な人生が一時的なものであることを理解する時が訪れるでしょう。

その日、彼らは何も持たずに神様の前に立つことになります。そして、神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは私の一人子について聞いたとき、どのように応答しましたか。」

もし彼らがイエス様を拒絶していたのであれば、最終的に彼らは永遠に地獄で過ごすことになるでしょう。

あなたも、同じです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様を必要としていないと思うでしょうか。あなたの人生が幸せで、他には何も必要がないと思っているでしょうか。

多くの人々が大体70〜80年ほど生きることを心に留めてください。その後、彼らは永遠に向かいます。あなたも、永遠に神様と共にいるか、永遠に地獄で過ごすかのどちらかです。

もしあなたが神様を拒絶するなら、この世で楽しんでいたすべてのことは無意味になります。

この世で神様を拒絶するなら、永遠の時代において神様もあなたを拒絶されるでしょう。

けれども、もしあなたが心の王座を神様に譲るなら、あなたはいつか神の国に住むだけではなく、この人生も充実したものになるでしょう。

そしてイエス様のためにこの世で苦しんだとしても、いつか振り返り、「それは素晴らしい人生だった」と言えるでしょう。

イエス様はこう言われました

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは何によって満足するのでしょうか。自分自身でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。それとも、あなたを愛し、十字架であなたのために死んでくださった方によって満足するのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ6章

良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教が、実際に同じメッセージかどうかを議論しています。

ある学者たちは、イエス様が山を登り、その山の平らな場所で教えたと考えています。

私の推測では、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時に伝えたのではないかと思います。なぜなら、イエス様がいつも全く違う説教を伝えていたとは限らないからです。

イエス様は様々な町で同じテーマを教え、しかしその町の人々のニーズに応じてメッセージを少しずつ調整されたのではないでしょうか。

このルカの箇所では、恐らくイエス様は多くの貧しい人々に語られたのだと思います。彼らはお金をほとんど持っておらず、将来性も厳しい状況だったのでしょう。

未亡人や足の不自由な人がいたかもしれません。また、外国からの移民もいたかもしれません。そうであれば、イエス様は彼らのためにメッセージを調整された可能性があります。

このようにして、イエス様は預言者イザヤの予言を成就されたのです。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカの福音書6:20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もちろん、これは、すべての貧しい者と泣く者が祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためのものです。

もし、イエス様があなたの主であるなら、たとえ貧しく、飢え、泣いていたとしても、希望の日がやってきます。この暗い世界の中で、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は苦しい状況にあるでしょうか。その状況によって、心が押しつぶされそうになっているでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が訪れます。ただし、まずイエス様をあなたの主として受け入れる必要があります。

パウロはこう書きました

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。それとも、自分自身の目的のために生きているでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ10章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ6章

イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちは人間からの栄誉を求めると

もし、あなたが初めてイエス様の話を聞く時に、驚くことの一つは、宗教的なリーダーたちがイエス様を受け入れなかったことです。むしろ、彼らはイエス様を拒絶し、殺したいと思っていました。どうして彼らはイエス様に反対したのでしょうか。

イエス様によれば、彼らはいつも聖書を調べていました。もちろん、それは良いことです。しかし、彼らの問題は、神様からの栄誉を求めずに、仲間からの栄誉を求めたということです。

そのため、彼らの聖書勉強の動機は神様を求めることではなく、仲間を感動させることでした。

イエス様は、彼らにこう言われました。

わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネの福音書5:43-44)

私たちは仲間からの栄誉を求め、その栄誉によって誇るようになると、神様が何をなさっているか、また、神様が何を言っているかを認識できなくなります。

私たちの目で見えるし、耳で聞こえるかもしれませんが、神様の言葉と御業を受け入れなくなります。

その宗教的なリーダーたちは、そのような人々でした。

最初、彼らはバプテスマのヨハネの言葉を聞きました。そして彼らはイエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡も見ました。

それでも彼らはイエス様を拒絶しました。むしろ、彼らはイエス様が悪霊につかれている人だと言いました。(マルコ3:22;ヨハネ8:48)

だから、彼らは本当の命を逃してしまいました。

本当の命とは神様の目的に同意し、それに参加することです。

私たちは神様が私たちの人生やこの世界で何をなさっているかを見て、その仕事に参加するべきです。私たちが本当に神様を愛しているなら、そのことに集中するはずです。

けれども、そのリーダーたちは自分自身に集中しすぎたため、神様に対する愛を持っていませんでした。だから、イエス様は彼らにこう言われました。

ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。(42)

あなたは、どうでしょうか。イエス様は、あなたに関して何と言われるでしょうか。「あなたのうちには、神の愛があります。だから、あなたの心から神様を喜ばせたがります」と言えるでしょうか。

神様からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、人間からの栄誉を求めているでしょうか。

あなたはミニストリーをするとき、誰からの栄誉を求めているでしょうか。牧師からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、教会の人たちからでしょうか。

人間からの栄誉を求めると、その宗教的なリーダーたちの聖書研究のように、あなたのミニストリーは自己中心的なものになります。そして、あなたには、イエス様がなさっていることが見えなくなります。

正直に言うと、説教者として、私はいつもその悪い態度と戦っています。気を付けないと、プライドは私たちのミニストリーを壊してしまうかもしれません。

だから、私たちは毎日、自分自身にこの質問を問うべきです。「私は誰を喜ばせようと思っているのだろうか。」

誰からの栄誉を求めているのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この箇所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方だと言うカルトもありますが、クリスチャンはそう言いません。

天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神であるけれども、天の父はイエス様ではなく、イエス様は聖霊様ではなく、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力しています。

そして、イエス様がこの世に住んでおられた時、イエス様は天の父に頼られました。イエス様は天の父が何をなさっているかをご覧になり、その働きに参加されました。(ヨハネの福音書5:19)

それに、イエス様は、いつもご自身を喜ばせようとは思われず、天の父を喜ばせようと思われました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づいていました。(30節)

その反面、天の父はイエス様に驚くべき力と権威を授けられました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らがイエス様を敬わなければ、天の父も敬われませんでした。(23節)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等である。(18)

イエス様はどのような権威と力を持っておられるのでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っておられます。イエス様は死人に命を与えられます。

イエス様はこう言われました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネの福音書5:21)

イエス様は、何度もその力を使われました。特に、イエス様はラザロを復活させられました。さらに、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを心に留めておかなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させられるのではありません。イエス様は、すべての人々を復活させられます。

どうしてでしょうか。それは裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っておられます。

イエス様は、こう言われました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は、人々を裁かれるとき、どのような宣告を宣言されるのでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかが決まります。

どうしてイエス様はその裁く権威を持っておられるのでしょうか。それは、イエス様が人間となられたのに、決して罪を犯されなかったからです。

どのような目安でイエス様は、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかを決められるのでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送られた天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは永遠の命を受けることができます。そうしなければ、あなたは地獄で永遠に裁かれることになります。

あなたはどうでしょうか。命を与える力やあなたを裁く権威を持っておられるイエス様を信頼しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべてが、その質問に答えなくてはなりませんでした。

今でも、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはなりません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言われました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(ヨハネの福音書5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれませんが、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったからです。

「私たちの天の父」と言ったかもしれませんが、「私の父」とは言いませんでした。なぜなら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味だったからです。

どうして、ユダヤ人たちはそのように思ったのでしょうか。

少し考えてみてください。子供たちはその父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また、私は神様が結婚してその妻がイエス様を生んだと言っているわけでもありません。

イエス様は永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は一つしかおられません。

神様の御姿をどのように説明すればよいか、誰も知りません。しかし神様は、そのようにご自身を現してくださいました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味があるのでしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視することはできません。

イエス様はただの人間ではありません。私たちはイエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様がだれだと思いますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

完全さを望む?

時々、私は人々が本当に完全な人生を望んでいるのか疑問に思います。

彼らは結婚関係や他の人間関係について文句を言ったり、仕事や健康について文句を言ったりしますが、結局何も変わりません。まるで文句を言うことが好きで、相手の同情を得るのが好きなように見えます。

けれども、イエス様は私たちがそのように生きることを望んでおられません。イエス様は私たちがみじめさに浸ることを望んでいるのではなく、むしろ癒すことを望んでおられるのです。

この箇所では、その大切な真理を学ぶことができます。

この話には、38年間病気に苦しんでいた人が出てきます。おそらく彼は毎日、乞食をしなければならなかったでしょう。

イエス様は彼の状態を聞いたとき、非常に単純な質問をされました。「よくなりたいか。」

多くの人々は、彼が「はい」と答えるのは当然だと思うかもしれません。しかし、もしかしたら彼は働かずに乞食をする生活を快適に感じていたのかもしれません。

また、周囲の人々に世話される生活を好んでいた可能性もあります。その意味では、彼の人生はある意味で楽だったとも言えるでしょう。

それでも彼は癒しを望みました。その時代にはある迷信がありました。それは、天使がベテスダと呼ばれる池の水を動かした後、最初に池に入った人が癒されるというものです。

彼はできるだけ早く池に入ろうとしましたが、いつも他の人に先を越されてしまいました。

それでも、イエス様は彼の答えを聞かれると、こう言われました。

起きて、床を取り上げて歩きなさい。(ヨハネの福音書5:8)

その乞食は、どのように思ったでしょうか。どうやら、彼はイエス様のことを全く知らなかったようです。

もしイエス様について聞いたことがあったとしても、彼はイエス様を認識していなかったようです。(ヨハネ5:12-13)

彼にとって見知らぬ人物が「起きて、歩きなさい」と言ったのです。

それでも、彼はイエス様の言葉に従い、その場で起き上がり、歩くことができるようになりました。

その後、神殿でイエス様は彼にこう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(14)

この話から、私たちは何を学べるでしょうか。

私たちの多くは、人生の中で傷つくことを経験します。私たちの人生が壊れ、どうやって完全になるかが分からない時があります。

しかし、イエス様は私たちにこう問いかけておられます。「よくなりたいか。完全になりたいか。」

もし完全になりたいなら、その乞食のように、イエス様の言葉に従わなければなりません。イエス様の言葉を疑ってはいけません。「それは無理だ」と言ってはいけません。ただ、イエス様の言葉に従いなさい。

この乞食の場合、癒しは即座に訪れました。あなたの場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

特に、壊れた人間関係や失恋、苦い思いの癒しは時間を要することがあります。そのため、聖霊の助けが必要です。聖霊に頼れば、聖霊はあなたの心の中で確実に働いてくださいます。

また、教会の人々からの助けが必要かもしれません。教会はキリストの体です。そのため、問題があるときには私たちは互いに助け合います。(これが、私たちが教会を必要とする理由の一つです。)

しかし、完全になりたいのであれば、あなた自身が完全さを求め、イエス様を信頼し、イエス様が言われることに従うべきです。

その時、イエス様はその言葉に従う力を与え、あなたを癒してくださいます。

一方で、イエス様を信頼せず、自分の道を行き続けるなら、つまり罪の道を選び続けるなら、イエス様が乞食に警告されたように、あなたの人生はさらに困難になるでしょう。(ヨハネ5:14)

あなたはどのような選択をしますか。

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神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。

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憐れみを与える人

この箇所では、イエス様とその時代の宗教的なリーダーたちの大きな違いが見えてきます。

イエス様がマタイを選ばれたことで、マタイは本当に嬉しくなり、イエス様を宴会に招待しました。マタイは自分の友人たちも招きました。

もちろん、マタイがイスラエルでのけ者だったため、彼の友人たちは皆、のけ者でした。その友人たちには取税人や「罪人」と呼ばれる人々が含まれていました。

それでも、イエス様はためらうことなく宴会に来られ、マタイやその友人たちと一緒に食事をされました。

私たちはどれほどそのようなことをするでしょうか。どれほど、宗教的な人たちが拒絶した人々と付き合おうとするでしょうか。

もしかすると、マタイは悔い改めていたかもしれませんが、その友人たちはまだ悔い改めていなかったかもしれません。それでも、イエス様は彼らと時間を過ごされました。さらに、イエス様はその時間を心から楽しまれました。

では、宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは驚きました。

少し想像してみてください。もし有名な牧師がゲイの人たちと一緒に食事をし、飲んでいたら、ほかの牧師たちはどう反応するでしょうか。日本では分かりませんが、アメリカでは、おそらくその牧師を批判するでしょう。

パリサイ人も同じように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶことができるのだろうか。彼らは最低な罪人なのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、私たちはこのような人たちとも関わらなくてはなりません。彼らは自分では気づいていないかもしれませんが、霊的に病んでいます。彼らにはお医者さんが必要なのです。

もし私たちが彼らを避けたら、彼らは自分の罪のゆえに滅びてしまうでしょう。

マタイがその場にいたため、彼はマルコやルカが記録していない一つのことを私たちに伝えてくれました。イエス様は、さらにもう一つのことを言われ、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。

イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言われたのです。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法や自分たちの伝統に非常に熱心です。律法の細かい部分を守り、さまざまないけにえを捧げるために一生懸命努力しています。けれども、神様にとって、それが最も大切なことではありません。

神様が望んでおられるのは、あなたたちが憐れみを与える人になることです。

神様は、罪に縛られた人々を助ける人を求めておられるのです。あなたたちは、そのような人たちと時間を過ごすべきです。そのような人たちに福音を伝えるべきです。

しかし、あなたたちが彼らを避けている限り、彼らは救いの希望がないのです。

あなたはどうでしょうか。罪人を避けているでしょうか。彼らの罪のゆえに、彼らを見下しているでしょうか。

それとも、イエス様の態度を見習い、彼らを医者を必要とする病める人々とみなし、救い主を必要としている人々だと考えるでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを示しましょう。神様はそのような人々を望んでおられるからです。

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救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。

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イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

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私たちを清めてくださる方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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ルカの福音書 ルカ4章

イエス様を受け入れる人には

この箇所を読むと、私はヨハネ1:11-12を思い起こします。

この方(つまり、イエス様)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

このルカの箇所では、イエス様は出身地であるナザレに帰り、長く知り合いだった人々に会われました。彼らはイエス様とその家族をよく知っていました。イエス様はきっとその町の会堂に何度も通われていたことでしょう。

ところが、イエス様が彼らに教えられたとき、彼らはイエス様を受け入れませんでした。むしろ、イエス様を拒絶して、殺そうとしました。

それでも、イエス様の教えは明確です。イエス様を受け入れる者は、神の子供とされる特権を受けます。

イエス様が引用された箇所(イザヤ書61章)には、イスラエル人の敵に対する神様の復讐について書かれています。それにもかかわらず、神様の恵みは神様を信じるすべての人のためのものです。

だからこそ、イエス様は、異邦人サレプタのやもめ女と、シリヤ人ナアマンがどのようにして恵みを受けたかを語られました。

さらに、イエス様は信じる者たちに良い知らせを伝えられました。特に、貧しい者や弱い者にも良い知らせを伝えられました。

ただし、イエス様が語られたのはお金のない人や病気の人だけではありませんでした。心の貧しい者や、神様との関係が必要であることに気付いた人々にも、良い知らせを伝えられました。

その良い知らせとは、恵みによって私たちが神様との関係を築けるということです。

また、イエス様は罪の鎖に縛られた人々を解放し、赦されます。それに、イエス様は過去の傷の鎖に縛られた人々を解放し、癒してくださいます。

イエス様は盲人を癒されただけではなく、サタンによって思いを暗くされた人々の霊的な目を開かれました。それにより、彼らは福音の光と希望を見ることができるようになりました。

さらに、イエス様は悪霊によって抑圧された人々を解放し、イエス様の血による大いなる勝利を与えてくださいます。

それに、イエス様は今、主の恵みを伝えておられます。

この箇所では、イエス様はおそらくヨベルの年を参照されたのでしょう。その年、奴隷は解放され、負債は許され、負債を支払うために売った土地は元の地主に戻りました。つまり、人々は新しいスタートを与えられたのです。

イエス様はそのためにこの世に来られました。私たちに新しいスタートを与えるために来られたのです。また、新しい神様との関係を与えるために来られました。

さらに、ヨハネが言ったように、その賜物は信じる人々すべてのためのものです。

あなたはどうですか。イエス様に信頼を寄せてみませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

イエスが言われたことばを信じる?

この箇所では、私たちは初めてイエス様が人を癒やす奇跡を見ることになります。(ただし、その前にイエス様が他の人を癒やされた可能性もあります。ヨハネ2:23)

けれども、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様への反応です。彼の息子は死にかけていました。

おそらく、彼は息子をあらゆる医者に連れて行ったものの、誰も息子を助けることができませんでした。そのため、イエス様が彼の最後の希望でした。

その役人がイエス様に助けを求めたとき、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネの福音書4:48)

それは、少し不思議な答えでした。しかし、その意味はおそらくこうだったのではないでしょうか。

「あなたは私のことを本当に信じているからここに来たのですか。それとも、まだ信じていないけれど、私があなたの息子を癒やしたら信じるのですか。」

これは今も、私たちにとって本当に重要な問いです。私たちが自分の必要について祈るとき、イエス様を信じているから祈るのでしょうか。それとも、イエス様が私たちの祈りに応えてくださったとき初めて信じるのでしょうか。

その王室の役人がイエス様の言葉を聞いたとき、何を思ったのでしょうか。彼はどの程度本当に信じていたのでしょうか。

いずれにせよ、彼は必死に叫びました。

主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)

それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試されました。

帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)

少し想像してみてください。おそらく、その役人はイエス様が自分と一緒に帰ることを望んでいたでしょう。ところが、イエス様はこう言われました。

「帰って行きなさい。私は行かなくていい。あなたの息子は確かに回復します。私の言葉を信じなさい。」

その役人がどれほどイエス様の言葉を深く考えていたのか、私には分かりません。その言葉を聞いた瞬間にすぐ帰ったのかもしれません。

または、彼はしばらくイエス様の目を見つめて、「本当にイエス様を信じられるだろうか」と考えたのかもしれません。けれども、最終的に、

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)

そして、彼が下って行く途中、そのしもべが彼に出会い、「あなたの息子は治りましたよ」と伝えました。

私たちはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えようとされていますが、その言葉を信じないことがあります。むしろ、疑いの心が生じ、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と問いかけてしまいます。

例えば、私たちが新しい仕事のために祈り、求職活動をしているとします。その仕事を選べば日曜日に働かなければならない状況になる場合、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言われるかもしれません。

私たちはこのように考えるかもしれません。「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまったら、イエス様は別の機会を備えてくださるのだろうか。」

または、私たちが精神的な癒しを求めて祈ることがあります。そのとき、イエス様は「この人を許しなさい。苦々しい心を手放しなさい。そうすれば、あなたは癒されるでしょう」と語られるかもしれません。

けれども、私たちはイエス様に問いかけます。「どうして許さなければならないのでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」

私たちはイエス様の言葉にどのように応答するでしょうか。その言葉を信じ、従うのでしょうか。

この問いに答えることができるまで、人生に癒し、平和、喜びを見つけることは難しいでしょう。

「私はイエス様を本当に信じることができるでしょうか。イエス様が言われたことを信じることができるでしょうか。」

あなたはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

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暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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ルカの福音書 ルカ3章

私はあなたの御心に従っていると思ったのに

時々、私たちは自分の悪い決断によって苦しむことがあります。

たとえば、私が勤めていた会社が倒産しそうなのに、私はそこに留まり続けました。「なんとかなる」と思っていましたが、結局その会社は倒産し、私は失業しました。それは本当に愚かな決断でした。

しかし、時には私たちが神様の御心に従い続けているにもかかわらず、試練に直面することもあります。そして私たちは神様にこう訊きます。「どうしてですか?あなたの御心に従っていると思っていました。」

バプテスマのヨハネもそのように感じたかもしれません。

18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた」とあります。

また、彼は自分の弟子たちをイエス様のもとに向かわせて、「イエス様こそ、あなたが従うべき方です」と言いました。

さらに、ヨハネは予言者としての役割を忠実に果たし、人々の罪を指摘しました。その結果として、彼は苦しみました。

具体的には、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻を自分の妻としたことをヨハネが非難したため、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。

この話の続きをいつかブログで書こうと思っていますが、ここで一つの質問を投げかけてみたいと思います。「どうして神様はこのようなことを許されたのでしょうか?」

ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。

神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。

では、どうして神様はヨハネを救われなかったのでしょうか。それは私にはわかりません。

最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。

私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束されません。私たちの人生がすべてうまくいくことを約束されるわけではありません。

イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架につけられました。イエス様は気楽な人生を送られることはありませんでした。もしイエス様がそんな人生を送られたなら、私たちが気楽な人生を期待する理由があるでしょうか。

ペテロはこう書きました。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。

けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)

私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、イエス様のために苦しみを受けることです。

イエス様の足跡はどこに導くのでしょうか。それは苦しみに導きます。

誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきだというわけではありません。しかし、試練が訪れても驚いてはいけません。

もし試練が訪れるなら、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

隔ての壁を取り壊す

イエス様とサマリヤ人の会話に対する弟子たちの反応は、とても興味深いものです。ヨハネはこのことについて、次のように記録しています。

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。

しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネの福音書4:27)

どうして、彼らはその質問をしなかったのでしょうか。

他のユダヤの教師たちが、人前でサマリヤの女性と話すなどあり得ないのに、弟子たちはイエス様の考え方に慣れ、当然のことと思ったのでしょうか。

それとも、本当はその質問をしたかったけれど、イエス様の反応を少し恐れていたのでしょうか。

おそらく、彼らは恐れていたのだと思います。

その状況を思い出してください。ユダヤ人はサマリヤ人を、ユダヤ教を汚した混血の人と見なしていました。そのため、彼らとは一切交流したくありませんでした。

それでも、サマリヤ人たちがイエス様に会いに来たとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(4:35)

つまり、「このサマリヤ人たちは、汚れたのけ者ではありません。彼らは救いの希望がない罪人ではありません。彼らは神様に愛されている人々です。

あなたには見えなかったかもしれませんが、神様はずっと彼らの心の中で働いておられました。ほかの人々が彼らの心に種を蒔きましたが、あなたには刈り入れる特権があります。」

そして、その日、たくさんのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。

イエス様は人々が築いた文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、彼らを罪による死の危機から救われました。イエス様は私たちにも同じことをするよう招いておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々をどのように考えていますか。

たとえば、アメリカでは、ユダヤ人がサマリヤ人を扱ったように、多くのクリスチャンがゲイの人々を扱っています。彼らはゲイの人々を敵と見なします。

しかし、ゲイの人々は私たちの敵ではありません。彼らも、私たちと同じように救い主を必要としているのです。

または、あなたが周りの人々にイエス様のことを伝えない理由が別にあるかもしれません。たとえば、彼らが創価学会に従っているから、あるいは、彼らの性格が嫌いだからかもしれません。

イエス様は私たちにこう言われます。「彼らを救いの希望がない人と見なしてはなりません。彼らを侮りに値する人と見なしてはなりません。

「彼らを、種を蒔くべき畑と見なしなさい。彼らを、刈り入れるべき畑と見なしなさい。そして、彼らを、私を必要としている人々と見なしなさい。」

あなたは種を蒔く人かもしれません。

あなたは刈り入れる人かもしれません。

いずれにせよ、文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、さらに私たちの心の中にある壁をも取り壊して、イエス様のためにこの死にかけている世界に触れましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

真の礼拝

イエス様とサマリヤ人の会話から、私たちは礼拝の本質について多くを学ぶことができます。

その女性は、自分の罪に直面した瞬間、話題を変えようとしました。それで、彼女はこう言いました。

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(ヨハネの福音書4:19-20)

ユダヤ人とサマリヤ人の間では、これは大きな議論でした。おそらく、このサマリヤ人の女性は、その議論によってイエス様を怒らせようとしたのかもしれません。それでも、イエス様は優しく応じられました。

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(21-24)

簡単に言うと、イエス様が来られたことで、どこで礼拝するべきかという疑問には意味がなくなりました。大切なのは、どのように礼拝すべきかということです。

私たちは、どのように礼拝すべきなのでしょうか。

まず、私たちの礼拝は神様の真理によらなければなりません。

サマリヤ人には、本当に重大な問題がありました。彼らは、神様のことを正しく知らないまま礼拝を続けていました。

その会話の何百年も前、北イスラエル王国は崩壊しました。そして、他国の人々がイスラエルに定住し、残っていたユダヤ人と結婚しました。

それだけではなく、彼らの宗教をユダヤ教と混ぜ合わせた結果、神様についての教えは混乱しました。そんな状態では、誰も神様を正しく礼拝することはできません。私たちは真理によって礼拝しなければなりません。

けれども、それだけではありません。私たちは霊によっても礼拝しなければなりません。神様は礼拝の形式そのものには興味を持っておられません。神様は私たちが心から礼拝することを望まれます。そして、私たちの人生全体が神様に対する礼拝となることを望まれます。

毎日、私たちは神様のために生きるべきです。毎日、神様の愛によって周囲の人々に触れるべきです。毎日、私たちの人生は神様に捧げる賛美の歌であるべきです。それが、霊によって礼拝することなのです。

あなたはどうですか。真理によって礼拝していますか。サマリヤ人のように、間違った神様に関する考え方があるなら、神様を正しく礼拝することはできません。

神様は聖書を通してご自身を表されました。そのため、自分の神様に関する間違った考えを捨てて、神様の言葉を受け入れなくてはなりません。

しかし、神様は書かれたみ言葉だけではなく、生きている言葉を通してもご自身を表されました。つまり、イエス様を通して、神様はご自身を完全に示されたのです。(ヨハネ1:1;14)

使徒パウロはこう言いました。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)

あなたは神様がどんな方であるか知りたいなら、イエス様を見てください。

神様を霊によって礼拝していますか。歌を歌うだけではなく、あなたの人生を通して神様を礼拝していますか。

私の友人は素敵な歌を書きました。今でも私は、その歌のことをよく思い出します。そして、その歌の中の言葉を祈りとして用います。

私の人生があなたへの賛美となるように。

毎日、あなたが霊と誠によって神様を礼拝することができますように。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

率直に言う?もしくは、愛をもって真理を語る?

英語では「brutal honesty」という表現があります。直訳すると「残酷な正直さ」という意味です。

その意味は、相手がその真理を聞けばきっと傷つくかもしれないけれど、それでも率直に真理を伝えることです。なぜなら、真理は真理だからです。

もちろん、真理は真理です。そして、私たち全員が真理に直面しなければなりません。とはいえ、「残酷な正直さ」の問題はこうです。多くの場合、その真理を伝える人は、相手を助けたいという気持ちではなく、むしろ故意に傷つけたいという思いを持っているのです。

さらに、それを喜びをもって行う人もいます。彼らは相手に対する愛から真理を伝えるのではなく、相手を苦しませたいという意図を持っていることがあります。

イエス様が率直に話されたことがあるのは確かです。そして、バプテスマのヨハネも率直に話した時がありました。彼らのパリサイ人やサドカイ人との交流を見れば、彼らが非常に単刀直入であったことがわかります。

では、なぜ彼らはパリサイ人やサドカイ人に対してそこまで率直だったのでしょうか。それは、おそらく彼らがあまりに頑なで、他の言葉では届かなかったからかもしれません。

時にはイエス様が語られた真理は厳しいものでした。それでも、多くの場合、イエス様は情けとあわれみをもって真理を伝えられました。

残念ながら、教会にはそのような態度を持つ人はあまり多くありません。けれども、この箇所では、イエス様のあわれみがはっきりと示されています。

興味深いことに、使徒ヨハネによれば、イエス様はサマリヤを通って行かなければならなかったと記されています(ヨハネ4:4)。

実は、サマリヤを通るほうが早い道でしたが、多くのユダヤ人はサマリヤを通ることを拒みました。なぜなら、サマリヤ人は本当のユダヤ人とみなされていなかったからです。

つまり、何百年も前に、サマリヤにいたユダヤ人たちは偶像を礼拝する外国人と結婚し、本来のユダヤ教を汚したと考えられていました。

けれども、文化的なルールが天の父の御心に反するならば、イエス様はそのルールを無視されました。ですから、弟子たちはしばしば困惑したことでしょう。

さて、サマリヤにおられたとき、イエス様は弟子たちを食物を買うために町へ送られました。イエス様ご自身は疲れて、井戸のそばに座っておられました。その時、ひとりの女性が井戸に近づいて来られるのをイエス様はご覧になりました。

イエス様はすでにサマリヤに入ることで文化的なルールを破られていましたが、この女性が井戸にやって来たとき、イエス様はさらに大きな文化的なルールを破られました。

ラビ(ユダヤ教の先生)は、通常、人前で女性と話すことは決してありませんでした。さらに、この女性は嫌われたサマリヤ人でもありました。

それでも、イエス様は彼女に話しかけられました。

わたしに水を飲ませてください。(ヨハネの福音書4:7)

それは本当にシンプルな願いでしたが、彼女はとても驚きました。

彼女は何を思っていたのでしょうか。おそらく、彼女は自分の民の間で評判の悪い人だとみなされていたのではないでしょうか。

新改訳によれば、彼女は第六時ごろに井戸に来たと記されています。この文化では、第六時とは正午を意味します。普通、最も暑い時間帯に女性たちは井戸に来ることはありません。

ところが、彼女は他の女性たちを避けたいと思い、その時間に井戸に来たのかもしれません。

さらに、彼女は何度も離婚しており、現在一緒に住んでいた男性は彼女の夫ではありませんでした。

ですから、イエス様が彼女に話しかけたとき、彼女は「この人は私を売春婦だと思うだろうか」と感じたかもしれません。

いずれにせよ、彼女はイエス様に興味を持っていなかったため、こう答えました。

あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。(9)

けれども、イエス様は優しく応じられました。

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(10)

「生ける水」というのは何でしょうか。ヨハネ7:37-39によれば、イエス様は聖霊様について話しておられました。

しかし、この女性は物理的な水のことだと思っていたので、彼女は次のように答えました。

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。(11)

イエス様はこのように答えられました。

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(13-14)

つまり、「物理的な水について話しているのではありません。その水は一時的にあなたを満たしますが、私が与える水は永遠の命を与えるものです。そして、あなたがそれを飲むと、決して霊的に渇くことがありません。」

おそらく、彼女はイエス様の言葉の意味を理解できなかったのかもしれません。または、自分の心が痛んでおり、自分の必要性を認めたくなかったのかもしれません。

いずれにせよ、彼女は少しイエス様の言葉をからかうような態度を見せました。

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15)

そして、イエス様は突然、とても痛烈な言葉を話されました。

行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(16)

たぶん、彼女は傷ついた心の痛みから返答したのでしょう。

私には夫はありません。(17a)

イエス様はこう答えられました。

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。(17b-18)

その言葉は本当に痛烈なものでした。

その瞬間、彼女の痛みは明らかになりました。彼女はずっと自分を本当に愛してくれる人を探していました。その愛を得るために、何度も自分の体を男性たちに捧げました。もしかしたら、他の女性たちの夫を奪ったこともあったかもしれません。

けれども最終的には、拒絶され、現在一緒に住んでいる男性は彼女と結婚することを拒んでいました。

では、どうしてイエス様は彼女の秘密を明らかにされたのでしょうか。痛みを見て喜ばれたからでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様は彼女を愛されたからです。

彼女が宗教的な議論を挑もうとしたとき、イエス様はその疑問に優しく応じられました。

そして彼女が「私はよくわかりませんが、メシアを待っています」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。「私をご覧なさい。あなたが待っているその人は私です。私がメシアです。」

その瞬間、イエス様の目を見たとき、完全に理解している方を見ました。イエス様は心の奥深くまで知っておられました。しかし彼女は、イエス様が自分を本当に愛しておられることに気づいたのです。

どれほど多くの人々が、私たちについて同じことを言えるでしょうか。神様の真理を伝えるとき、イエス様の愛を見るでしょうか。そしてさらに、心から「あなたを愛しています」と言えるでしょうか。

イエス様はサマリヤの女性の心を変えられました。真理は彼女に正しい道を示しました。 けれども、彼女の心を本当に変えたのは愛でした。

あなたは相手を愛さずにただ真理を伝えますか。それとも、キリストの愛が溢れ出し、人々の心を変えるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

誰に従うべきか

弟子造り。弟子造りについて考えれば考えるほど、その重要性が深く理解できます。しかし、弟子造りの目的とは一体何でしょうか。

多くの人々が弟子造りについて考えるとき、間違った目的を持つことがあります。彼らは弟子の一生の先生でありたいと思い、弟子からの尊敬を求めます。そして、自分の弟子を持つことを自慢し、「私に従う人たちを見てご覧。」と言います。

けれども、私たちの目的は、自分の弟子を造ることではありません。私たちの目的は、キリストの弟子を造ることです。

バプテスマのヨハネは、その点をよく理解していました。以前にも述べたように、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様に向かわせ、「イエス様こそ従うべき方だ。彼のもとに行きなさい。」と伝えました(ヨハネ1:35-36)。

この箇所では、私たちはヨハネの態度を再び目にします。イエス様はご自身のミニストリーを始められ、弟子たちはイエス様の権威によって人々にバプテスマを授けました。

その結果、ヨハネのもとに来る人は減り、イエス様のもとに行く人が増えていきました。それを目の当たりにしたヨハネの弟子たちは少し不安になり、ヨハネにこう言いました。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。(ヨハネの福音書3:26)

ヨハネの弟子たちは、ヨハネがどのように反応するか予想していたでしょうか。彼らはヨハネが怒ると思ったのでしょうか。それとも、ヨハネが感情を害すると考えたのでしょうか。

けれども、ヨハネはこう答えました。

人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(27-30)

つまり、「私の人生の目的はキリストの道を整えることです。だから、私は人々をイエス様に向かわせなければなりません。そのために、私はこれまでずっと努力してきました。

結婚式では、一番重要な人物は花婿の友人ではなく、花婿です。結婚式の準備が整い、式が始まり、花婿が入場すると、その友人は心から喜びます。

これこそが私の感情です。私の役割を果たし、使命を達成しました。だからこそ、イエス様が私よりも偉い立場を取られるのはふさわしいことです。そして、私が彼の背後に退くべき時が来ました。」

これが弟子造りです。弟子造りとは、相手の一生の先生になることではありません。私たちは常に彼らを導き続けるべきではありません。

弟子造りとは、人々をイエス様へ導くことです。彼らがイエス様を知り、信じるように、私たちは彼らの心を整えます。私たちの経験、知識、そして知恵を伝えます。けれども、その後、私たちは彼らにこう告げるべきです。

「あなたが私のもとを去る時が来ました。私はできる限りのことをあなたに教えました。これからは、あなた自身でイエス様に従いなさい。」

そして、私たちは彼らの人生の背景に戻るべきです。

どんな弟子造りの関係でも、キリストが盛んになり、私たちは衰えるべき時が必ず訪れます。

使徒ヨハネはこう述べています。

地から出る者は地に属し、地のことばを話す。(3:31)

つまり、私たちは人間だからこそ、私たちの経験と知識には限界があるのです。

しかし、イエス様は天から来られ、御霊に満たされていたため、そのような限界は存在しませんでした。それにイエス様は「すべてのものの上におられます」(ヨハネ3:31)と記されています。

さらに、命を与えるのは私たちではなく、イエス様です。

だから、人々をイエス様へ導きましょう。彼らにイエス様の弟子としての歩み方を教えましょう。そして、イエス様が彼らを導いてくださる姿を見て、喜びましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

光に入る?

昨日の記事で、私は「人々が神様を拒絶した場合、将来裁かれるのではなく、すでに裁かれている」とお伝えしました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ることになります。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネの福音書3:19)

キリストによって、光がこの世に来ました。イエス様は神様がどのようなお方であるかを教え、神様の私たちへの計画を明らかにされました。

けれども、世の人々は悪を愛していました。彼らは自分たちの行動が悪く、恥ずかしいものであると知っていたにもかかわらず、その悪を愛し続けたのです。

また、彼らは光を受け入れず、暗闇に留まりました。要するに、彼らはイエス様を拒絶したために裁かれることとなりました。

では、あなたはどうでしょうか。キリストの光の中に入りますか。自分の悪く、恥ずかしい行動を捨て、イエス様と共に光の中を歩みますか。イエス様が教えられた真理に従いますか。

そうすれば、あなたはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様の前に大胆に立つことができるのです。

ヨハネはこう言っています。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21節)

私は神様とそのような関係を持ちたいと願っています。恥じることのない関係。罪悪感に囚われない関係。そして、神様の愛と恵みを受けて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光の中に入ることを恐れる人もいます。その理由は、彼らが自分の罪が明らかにされることを恐れているからです。また、彼らが愛しているものを失うことへの恐れがあるからです。

そのため、彼らは教会を避け、聖書を遠ざけます。一部の人は聖書を読むものの、自分の罪を指摘する箇所を避けます。

それでも、神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はあなたの最善を望んでおられます。たとえ、神様に従うことで、あなたが愛しているものを失うと感じることがあったとしても、神様はあなたにそれ以上の素晴らしいものを与えてくださいます。

ですから、最も重要な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最善を望んでおられることを信じますか。もしそれを信じないなら、あなたは決して光の中に入ることはできません。

しかし、神様はイエス様を通してあなたに対する愛を示してくださっています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそのようにしてくださいました。ですから、あなたの人生のすべてにおいて、神様を信頼することができませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

新しく生まれる?

ヨハネの福音書3章は、聖書の中でも特に有名な箇所の一つです。この章でイエス様は「新しく生まれること」について語られます。しかし、それはどういう意味なのでしょうか。

この話では、ニコデモというパリサイ人がイエス様を訪ねます。

イエス様がいくつもの奇跡を行い始めていたため、ニコデモはほかのパリサイ人とは異なり、イエス様を尊敬していました。彼はイエス様が行った奇跡を通して、イエス様が神様のもとから来られた方であることを認めました。

では、なぜニコデモはイエス様を訪ねたのでしょうか。それについて明確な答えはありません。

確かに彼は、まだ大胆にイエス様の弟子になる決意ができていなかったでしょう。実際、彼は夜にこっそりイエス様を訪ねました。それでも彼は、イエス様と直接話し、相談することを選びました。

ニコデモは丁寧にイエス様に挨拶しましたが、イエス様は挨拶を返すことなく、率直に核心をつく言葉を話されました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3:3)

ニコデモはそれを聞いて、驚きました。彼はパリサイ人であり、神様の律法を尊重し、それに従おうと懸命に努力していました。おそらく彼は、天国に行くためにはその律法を完全に守らなくてはならないと考えていたのでしょう。

けれども、イエス様はこう言われました。「その考え方は間違っています。神様の国に入るためには、あなたは新しく生まれなければなりません。」

ニコデモにはイエス様の言葉の意味が全く理解できませんでした。そのため、彼は質問しました。

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。(4)

福音書、特にヨハネの福音書では、このような問題をしばしば目にします。つまり、イエス様が霊的な真理を教えようとしているのに対して、人々が物理的な考え方にとらわれてしまうということです。

私たちも、どれほど物理的な考え方を持っているために、神様の真理を理解できないことがあるでしょうか。

いずれにせよ、イエス様の次の言葉によって、ニコデモはさらに混乱してしまいました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(5)

「水によって生まれる」という言葉にはさまざまな解釈がありますが、おそらくイエス様はエゼキエル書37:25-27を参照されていたのではないかと考えられます。

その箇所では、神様が「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける」と語られています。

この言葉の意味は「あなたがたを罪から清める」ということです。おそらく、これが「水によって生まれる」という言葉の真意でしょう。

さらにその箇所では、神様が続けて「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と語っておられます。これこそ「新しく生まれる」という意味です。

神様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいます。そしてその新しい心と霊を持つことによって、私たちは自然に神様を喜ばせたいと願うようになるのです。

ニコデモはパリサイ人であり、きっとエゼキエル書のこの箇所をよく知っていたことでしょう。そのため、イエス様はこの言葉をおっしゃったのかもしれません。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(7)

この世に入るためには、私たちはまず生まれなくてはなりません。私たちの働きによって、この世に入ることはできません。ただ、生まれることがその条件です。

同じように、神様の国に入るためには、その国に生まれなくてはなりません。あなた自身の働きによって、神様の国に入ることはできません。ただ、その国に生まれる必要があります。言い換えると、御霊によって生まれることが必要なのです。

そのため、エゼキエル書で神様はユダヤ人にこう語られました。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け[ます]。(エゼキエル書36:27)

物理的な出産は母の働きによるものです。霊的な出産は御霊の働きによるものです。

そして、イエス様は御霊を風にたとえられます。風の影響は私たちに見えますが、風そのものを見ることはできません。

同じように、私たちには御霊を見ることはできませんが、御霊は人間の心の中で働き、その人を内側から変えてくださいます。

そして、最終的には私たちは御霊の働きの結果を見ることができます。御霊によって私たちは全く違う人へと変えられます。つまり、私たちは新しく生まれ変わるのです。

ニコデモはこの真理を知っているはずでした。預言者エレミヤはこの真理について教えています(エレミヤ書31:31-34)。そしてもちろん、エゼキエルも同じ真理を教えていました。

しかし、ニコデモは自分の働きによって神様の国に入ることができると考えていたようです。

あなたはどうでしょうか。自分の働きによって天国に入ろうとしていませんか。それとも、あなたはすでに新しく生まれ変わっているのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

聖書を理解する方法

私が英語のブログでこの記事を書いた時、そのタイトルは「ぶどう酒?ぶどうジュース?」でした。

けれども、振り返ると、たぶん「聖書を理解する方法」の方が適切だったと思います。

私は十代の時、「ぶどう酒?ぶどうジュース?」という本をざっと読んだことがあります。

その著者の意見をほとんど覚えていませんが、彼の主張は、このヨハネの箇所で、イエス様がぶどう酒を作った時、実はぶどうジュースを作ったのだというものでした。彼はギリシャ語の意味やユダヤ人の文化について説明した可能性があります。

当時、私はその意見を信じていましたが、ある日、別の牧師がその箇所の文脈を詳しく教えてくれました。その文脈とは何でしょうか。

10節では、宴会の世話役がイエス様が作ったぶどう酒を味わった後、こう言いました。

だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。(ヨハネの福音書2:10)

その言葉を少し考えてみてください。もし「ぶどう酒」の代わりに「ぶどうジュース」を入れ替えたら、彼の言葉は理にかなうでしょうか。

「だれでも初めに良いぶどうジュースを出し、人々が十分だころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどうジュースをよくも今まで取っておきました。」

これでは全く意味をなしません。もしそれがただのぶどうジュースなら、アルコール分は全く含まれていません。けれども、アルコール分がないのに、どうして皆がたくさん飲んだ後に待って、悪いジュースを出すのでしょうか。それは全く理にかなっていません。

ですから、私はその著者の議論が間違っていると思います。

では、酔っ払うことが良いのでしょうか。もちろん、そうではありません。聖書によれば、それは絶対に許されません。

とはいえ、聖書は飲酒自体を禁止してはいません。聖書が禁止しているのは、アルコールによって支配されることです。(エペソ5:18)

ちなみに、私は全く飲みません。アルコールの味が好きではないですし、自分の限界も分からないので、それを知りたいとも思いません。

しかし、私の要点は、聖書をどのように解釈するかに慎重でなければならないということです。

おそらく、その著者がイエス様がぶどうジュースを作られたと主張する理由は、著者が飲酒に強く反対しているからです。そのため、彼はギリシャ語をよく研究していたとしても、その箇所の文脈を無視してしまったのです。

ですから、私たちが聖書を読む時や教会でメッセージを聞く時、この四つのポイントを心に留めておきましょう。

1.聖書の箇所の文脈をよく考えるべきです。

多くの人々はそれを無視するため、彼らの解釈が混乱してしまいます。モルモン教やエホバの証人にはこのような問題が見られます。

2.聖書を読み、その教えを信じるべきです。

もし、聖書の教えがあなたの考え方と矛盾するなら、聖書を変えようとするのではなく、あなた自身の考え方を変えるべきです。

3.聖書の著者が生きた文化を学ぶべきです。

例えば、イエス様が母であるマリヤに話しかけた時、「女の方」と呼びました。現代の私たちの文化では冷たく感じられる表現ですが、彼らの文化では非常に丁寧な呼び方でした。

4.しもべたちに対するマリヤの言葉に従うべきです。すなわち、「イエス様が言われることを、何でも行いなさい。」(ヨハネ2:5)

聖書を読むだけでは不十分です。聖書の教えを聞くだけでも不十分です。その教えに従うことが必要です。なぜなら、それこそが神様の御言葉だからです。

これらのポイントを守ることで、聖書の理解が深まり、あなたの人生はさらに充実したものになるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

あなたのおられるところにいたいのです

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に向かわせた時、彼らはすぐにイエス様について行きました。

彼らにとって、ヨハネのもとを離れるのは簡単なことではなかったでしょう。もちろん、彼らはヨハネを愛し、強い関係を築いていましたが、ヨハネが彼らに教えることのできることには限界がありました。そのため、彼らが次のステップに進む時が来たのです。

なぜヨハネの教えには限界があったのでしょうか。ヨハネより優れた預言者はいなかった(マタイ11:11)ものの、彼はただの人間でした。一番偉大な人であっても限界があります。

だからこそ、彼らは次の段階に進み、神様の弟子となる必要がありました。イエス様こそ肉において現れた神様です。

彼らがイエス様に近寄った時、どんな気持ちだったのでしょうか。エデンで神様が約束されたメシアに、どう話しかけたらよいか分からず、たぶん不安で、少し怖がっていたかもしれません。こんな会話があったかもしれません。

ヨハネ:「あなたがイエス様に話しかけたらどうですか。」

アンデレ:「いや、どうぞお先に。」

結局、イエス様は彼らに気づいて声をかけられました。彼らはおそらく足を止め、心の中でこう考えたかもしれません。

「イエス様は私たちを拒絶されるのではないだろうか。私たちには何の資格もない。それでも、イエス様は私たちを受け入れてくださるだろうか。」

おそらくそんなことを考えている間に、イエス様は彼らに尋ねられました。

あなたがたは何を求めているのですか。(ヨハネの福音書1:38a)

彼らはこのように答えました。

ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。(38b)

私たちの文化では、初めて人に会う時、このような質問をするのは少し奇妙に感じるかもしれません。私たちの文化では、「はじめまして。アンデレとヨハネです。よろしくお願いします。」と言うのが一般的です。

しかし、彼らの文化では、この言葉の背後に込められた意味は次のようなものでした。

「私たちはイエス様の弟子になりたいです。イエス様がおられるところに、私たちもいたいです。イエス様から学びたいです。イエス様の教えだけでなく、イエス様の毎日の生活からも学びたいです。」

2千年が経った今でも、この本質は変わっていません。もしイエス様の弟子になりたいなら、イエス様の弟子としての態度を持たなくてはなりません。それは、イエス様と共にいたいという心です。

あなたはどうですか。この態度を持っていますか。毎朝、イエス様の足元で聖書を読み、祈り、イエス様の声を聞く時間を取っていますか。また、一日中、イエス様と共に歩む心の姿勢を持っていますか。

多くのクリスチャンは朝にイエス様と時間を過ごしますが、その後にこう言います。「じゃあ、またね。今行かなくちゃ。」

そして、次の日までイエス様について一切考えないことがあります。

しかし、私たちはどこに行ってもイエス様を連れて行くべきです。一日中イエス様の声を聞き、イエス様の導きに従うことを学ぶことが必要です。それこそが本当の弟子の姿です。

私が毎日そうしていると言えればいいのですが、正直に言うと、まだできていません。私は今も、毎日毎日、一瞬一瞬イエス様と共に歩むことを学んでいる途中です。

あなたも私と一緒に、この道を歩み始めませんか。

私はある賛美の歌がとても好きです。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
Dwelling daily in your presence.
毎日あなたと共に過ごしたいです。
I don’t want to worship from afar.
遠くから礼拝したくないです。
Draw me near to where you are.
どうかあなたのそばに私を近づけてください。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
In your dwelling place forever.
永遠にあなたの住まいにとどまりたいです。
Take me to the place where you are.
あなたのおられる場所まで私を導いてください。
I just want to be with you.
ただあなたと共にいたいのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

イエス様への道を指し示す

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。

一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。

とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。

その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。

祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)

ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」

その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。

その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。

これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)

要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。

だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。

その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。

私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。

ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。

その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)

さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。

けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。

しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。

もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。

だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。

どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。

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天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

私たちの王はやがてこの世にもう一度来られ、悪を裁き、すべてを癒してくださいます。

それは良い知らせですが、多くの人々は自分の中にある悪を認識していません。そして、その罪のゆえに、もし彼らが悔い改めず、心から王を歓迎し、自分の人生にその良い支配を受け入れないなら、彼らも裁かれてしまいます。

私たちはそのことについて警告すべきです。そうしなければ、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

あなたはどうですか。真理のすべてを語っているでしょうか。

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誤解された

私たちは誰でも、周囲の人々に自分のことを理解してほしいと思うものです。そして、彼らが私たちのことを理解してくれないと、私たちは傷ついてしまいます。

イエス様も、その気持ちをよく分かっておられました。イエス様は何度も弟子たちに誤解され、教えた人々や癒やした人々にも誤解されました。そして、この箇所では、イエス様が自分の両親に誤解される場面が描かれています。

この話では、イエス様が他の人々と初めて交流する場面を目にすることができます。

イエス様が12歳の時、彼とその両親は過越の祭りのためにエルサレムを訪れました。祭りが終わると、イエス様の両親は他の人々と一緒に帰路につきましたが、彼らの知らない間にイエス様はエルサレムに残り、神殿で教師たちと話していました。

一日が経った後、イエス様の両親はようやくイエス様がいないことに気付きました。(彼らはイエス様が旅の一行の中にいるものとばかり思い込んでいました。)

そこで、両親はエルサレムに戻り、3日後にようやくイエス様を見つけました。

当然ながら、マリヤは非常に怒り、イエス様を叱りました。

まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。(ルカの福音書2:48)

ところが、イエス様はマリヤの反応を完全には理解されませんでした。そして、彼はこう答えられました。

どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(49)

要するに、イエス様は「お母さんは私のことをよく理解していると思っていました。私がどこにいるべきか、知っていたはずです」と言っているようです。

けれども、50節では、ルカはこう記しています。

しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

他の人以上に、イエス様の両親は彼を理解できるはずでした。けれども、彼らはまったく理解できませんでした。

イエス様は、この状況に対してどのように反応されたのでしょうか。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(51)

イエス様は、自分が正しいと主張することはありませんでした。両親が彼を理解していなかったにもかかわらず、イエス様は彼らを叱ることはなく、むしろ仲直りをしようとされました。そして、息子として彼は両親に仕えました。

そのことを少し考えてみてください。イエス様は神であり、ヨセフとマリヤを造られた方でした。それでも、イエス様は謙虚な態度を取り、両親の権威を認めて従われました。

私たちも時々、周囲の人々に自分のことを理解してもらえないことがあります。そのようなとき、怒りや苦々しい思いを抱くのは簡単です。なぜなら、相手が自分たちのことを理解して当然だと考えてしまうからです。

それでも、イエス様のように謙虚な態度を取りましょう。そして、できる限り彼らと仲直りを目指しましょう。パウロは次のように言っています。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたはこう感じているかもしれません。「でも、まだ傷ついています。どうして彼らは私のことを理解できないのでしょうか。」

それは、彼らが神ではないからです。彼らはすべてのことを知っているわけではありませんし、あなたの心の奥深くを見ることもできません。だから、そうした期待は手放した方が良いでしょう。

しかし、イエス様はあなたのことをよく理解されています。なぜなら、イエス様は神であり、人間としてこの世に来られたからです。

イエス様は私たちの生活を理解し、私たちの気持ちを深く知っておられます。どんな経験をしていても、イエス様はあなたのことを理解されています。

イエス様の両親が彼のことを理解できなかったとしても、天の父はイエス様を完全に理解され、イエス様を慰められました。同じように、イエス様があなたのことを理解していることを心に留めておきましょう。

だからこそ、誤解されていると感じたときや、心が傷ついたとき、イエス様にあなたの苦しみを打ち明けましょう。イエス様はあなたを理解されているからです。

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マタイの福音書 マタイ2

王の到着のため、恐れ惑う

クリスマスの時、多くの人はイエス様を飼葉おけに眠る赤ちゃんとして思い浮かべます。そのイメージを好む人が多いのは、イエス様が優しく、何も求めず、ただ眠っているように見えるからでしょう。

けれども、イエス様はもはや飼葉おけに眠る赤ちゃんではありません。イエス様は王の王、主の主です。そして、いつか私たちはそのことを認めなければなりません。

この箇所を読むと、一つのことが目を引きます。それは、イエス様の誕生の知らせに対するヘロデ王とユダヤ人の反応です。

ある日、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。

彼らは誰だったのでしょうか。様々な説がありますが、メディヤ人の祭司たちであった可能性があります。(メディヤ人は、現在のイランの地域に住んでいました。)

彼らは占星術や天文学に精通し、バビロン帝国やペルシャ帝国では、しばしば王の助言者を務めていました。さらに、ペルシャでは王位継承の際に、彼らの承認が必要でした。

ダニエル書によると、バビロンにおいてダニエルは、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長となりました。

多くの聖書学者は、ダニエルの影響により、この博士たちが将来来るユダヤ人の王についての預言を知っていたと考えています。さらに、ダニエルはその王がいつ現れるのかを予言しました。ダニエル書9章

そのため、博士たちは王の到来のしるしを待ち続けていました。そして、ある夜、彼らは王の星を見ました。

この星が何であったかは誰にも分かりません。このことについても、さまざまな意見があります。

いずれにせよ、彼らはその星を見た瞬間、エルサレムへ向かい、その王について尋ねました。

ところが、誰もそのことを知らなかったため、博士たちは非常に驚きました。さらに、王やユダヤ人の反応は、驚くべきものでした。

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。(3)

なぜ、ヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。

一つ目の理由は、ユダヤ人の目には、彼が本当の王ではなかったことです。なぜなら、彼はダビデの子孫ではなく、ヤコブの系図にさえ属していませんでした。彼の血筋はエサウの系統から来ていました。

そのため、ユダヤ人は彼を真の王として認めませんでした。

二つ目の理由は、彼が自分の地位に対して極めて嫉妬深かったことです。権力を守るために、彼は自分の息子たちですら殺してしまいました。

では、なぜユダヤ人たちは恐れ惑ったのでしょうか。それは、彼らがヘロデの性格をよく知っていたからです。彼の反応は、容易に予測できました。

あなたもこの話をよく知っているかもしれません。ヘロデは博士たちに、この王を見つけるように頼みました。そして、「私も行って拝みたいから」と言いました。

博士たちはイエス様を見つけましたが、ヘロデに報告しようとしたとき、神様が夢を通して彼らに警告され、博士たちは別の道から帰りました。

ヘロデはそのことを知り、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子をすべて殺すように命じました。

なぜでしょうか。博士たちの話によれば、2年ほど前にその星が現れたからです。(多くの人が思っているのとは違い、イエス様が生まれて2年後に博士たちはエルサレムに到着しました。)

しかし、神様はヨセフにヘロデの企みについて警告されたため、彼らはエジプトへ逃れました。

もう一度、ヘロデとユダヤ人の反応について考えてみてください。彼らは王の誕生を聞いたとき、恐れ惑いました。

今でも、多くの人々はイエス様を単なる赤ちゃんとしてではなく、自分たちの忠誠を求める王として見たとき、戸惑いを感じます。

ある人は、ヘロデのように、自分の心の王座をイエス様に譲りたくないため、怒り、反抗的な態度を取ります。彼らは自分の人生を支配し続けたいのです。

イエス様に従うことで、周囲の人がどう思うかを気にする人もいます。家族や友人から拒絶されることを恐れます。

けれども、ある日、「イエスの御名によって、すべての人はひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白します。」(ピリピ2:10-11)

喜びをもってそう言う人もいれば、歯ぎしりしながら言う人も、恥じながら言う人もいるでしょう。しかし、すべての人がイエス様を王として認めるのです。

それならば、今こそ、喜びをもってイエス様を王として認めるほうが良いと思いませんか。

あなたの王は誰でしょうか。

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ルカの福音書 ルカ2章

王のために整える心

毎年クリスマスに、私たちは次の歌を歌います。

Joy to the world.
(この世に喜びがありますように。)

The Lord is come.
(主が来られたからです。)

Let earth receive her king.
(この世の人々よ、全地の王イエスをお迎えしよう。)

Let every heart prepare him room.
(すべての心をイエス様のために整えよう。)

この箇所では、王のために心を整える人を見ることができます。彼女は女預言者アンナという人でした。

アンナは若い頃に悲劇を経験しました。彼女は約7年間結婚生活を送りましたが、夫が亡くなり、再婚することはありませんでした。

おそらく子供もいなかったのでしょう。そのため、夫を亡くした後すぐに神殿に身を寄せ、断食と祈りをもって神様に仕える生活を続けたようです。

アンナは本当に素晴らしい人物でした。多くの人々なら、彼女のような状況で苦々しい思いを抱き続けたかもしれません。

彼らは神様を責めてこう言ったかもしれません。「神様、どうしてですか。どうして、私の夫を奪ったのですか。どうして、結婚生活の間に私は子供を授からなかったのですか。」

(特に、その文化では子供を持てないことが恥とされていたことを思い出してください。)

しかし、アンナはその悲劇を経ても神様から離れることなく、むしろ神様に近づきました。そのため、彼女の心は王を迎える準備ができていました。

実際、その日イエス様を王として認識した人は多くありませんでしたが、アンナはその一人でした。彼女は大いに喜び、その良い知らせを周囲の人々に伝えました。

あなたはどうでしょうか。あなたの心を王のために整えていますか。毎日、神様を追い求めているでしょうか。

もちろん、あなたが一日中祈り、断食し、礼拝する必要はありませんが、イエス様をもっと知るために毎日時間を取っていますか。

それとも、忙しすぎるあまり、この世の心配や苦しみによって、神様から離れてしまっているでしょうか。

イエス様の時代にも、そのような人々がたくさんいました。彼らはメシアを探し求めていると口にしながらも、結局そのメシアを拒絶し、殺してしまいました。

同じように、もし私たちが毎日神様を追い求めなければ、神様が来ても私たちは神様を認識することができず、神様が何をされているのか理解できません。

だからこそ、毎日、神様のために私たちの心を整えましょう。そして、神様と時間を過ごし、神様に近づきましょう。

そうすれば、私たちはイエス様が与えてくださる喜びを見つけることができるでしょう。

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ルカの福音書 ルカ2章

人々が倒れるために定められるしるし

この箇所は本当に私の心に響きます。なぜなら、現代でもその言葉の真実を目の当たりにできるからです。

シメオンは敬虔な人であったため、神様は彼に、イスラエルだけではなくこの世を救うメシアを見ることを約束されました。そして、彼がイエス様を見たとき、彼はこう語りました。

主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。

御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカのの福音書28:29-32)

ヨセフとマリヤはそれを聞いて驚きましたが、シメオンは彼らに警告を与えました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。(34-35)

シメオンの言葉は成就しました。確かに、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れましたが、それ以上に多くの人々がイエス様を拒絶しました。イエス様の名を喜ぶ人々がいる一方で、その名を呪う人々もいました。

そして、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を拒絶したため、イエス様が十字架で死なれるのをマリヤが目の前で見たとき、彼女の心は刺し貫かれるような痛みを感じました。

もちろん、シメオンの言葉はその時代に成就しましたが、現代でもその言葉は成就し続けています。

今でも、多くの人々がイエス様の名をたたえ、イエス様を礼拝していますが、多くの人々がイエス様を拒絶し、その名を呪います。彼らはその行為によって、自分の心の状態を明らかにしています。

多くの人々は見た目には善良に見えますが、自分たちの罪のために死なれた方を拒絶します。イエス様を拒絶するということは、神様とその道を拒絶することにほかなりません。むしろ、彼らは自分の道を生き続けることを主張します。

そのような態度は、イエス様の心を刺し貫くだけでなく、イエス様を愛する人々の心も刺し貫きます。特に、私たちが愛する人々がイエス様を拒絶するとき、私たちの心も深く傷つけられます。

また、クリスマスの時期に、人々がイエス様を拒絶しているのを見ると、とても胸が痛みます。私たちはイエス様の誕生を喜び祝いますが、同時に多くの人々がイエス様を拒絶している現実があるからです。

イエス様はこう言われました。

わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

あなたはこう問いかけるかもしれません。「でも、イエス様がお生まれになった時、天使たちは『地の上に、平和がありますように』と歌いましたよ?」

確かに、キリストは神様との平和をもたらすために来られました。しかし、イエス様は人々を分ける方でもあります。

イエス様の名によって、人々の間に分かれが生じます。家族も分かれることがありますし、友人同士も分かれることがあります。なぜなら、イエス様を拒む人々がいるからです。

私が伝えたいのは、イエス様に従い、福音を延べ伝えたいと思うなら、すべての人々を喜ばせることはできないということです。

イエス様のために、あなたのことを好きではない人々もいるかもしれません。彼らがイエス様を憎むなら、あなたをも憎むことがあるでしょう。

イエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:18-19)

だから、すべての人に好かれようと望まないでください。むしろ、イエス様を愛し、その福音を延べ伝えましょう。

イエス様のために倒れる人もいれば、イエス様のために立ち上がる人もいます。もし、あなたが愛する人々が立ち上がるなら、その喜びは、これまでの苦しみと比べものにならないでしょう。

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ルカの福音書 ルカ2章

喜びを広める

羊飼いたちは救い主の誕生を聞くと、すぐにベツレヘムへ走りました。そして、イエス様を見つけたとき、彼らは大喜びしました。帰り道では、「神をあがめ、賛美しました。」(20)

しかし、その言葉だけでは、彼らが感じた喜びを十分に表せていないように思います。彼らの喜びは溢れんばかりのものでした。

その喜びを誰かに伝えずにはいられなかった彼らは、できるだけ多くの人々にその良い知らせを伝えました。

その話を聞いた人々は、羊飼いの言葉に驚きました。けれども、その後彼らはどうしたでしょうか。羊飼いの話を信じて、イエス様を捜し求めようとした人もいたかもしれませんが、ルカはそのことについて何も書いていません。

それでも、羊飼いたちにとって、相手の反応は問題ではありませんでした。彼らの喜びはあふれすぎて、何かを言わずにはいられない状態だったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの喜びが溢れすぎて、周囲の人々に福音を伝えずにはいられないほどでしょうか。

私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。また、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

とはいえ、もし私たちが本当にイエス様を愛していて、イエス様の喜びが私たちの心に溢れているなら、その良い知らせを周囲の人々に伝えずにはいられないでしょう。

そうすれば、彼らも私たちが知っているその喜びを見つけることができるようになるでしょう。

あなたはその喜びを広めていますか。

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ルカの福音書 ルカ2章

喜びが訪れたとき

私は最初のクリスマスの夜について考えると、少し圧倒される思いがします。なぜなら、その夜に喜びがこの世に訪れたからです。

天使が羊飼いたちに現れたとき、彼はこう言いました。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書2:10-11)

この箇所を読むと、あるクリスマスの歌の歌詞が心に浮かびます。

Long lay the world in sin and error pining

この世の人々は長い間、罪と咎に悩み、死の陰を歩んでいました。

‘til he appeared and the soul felt its worth.

しかし、イエス様が現れたことで、私たちは自分の価値を知ることができるようになりました。

アダムとエバがエデンで罪を犯して以来、この世の人々は死の陰を歩んでいました。

私たちは自分の罪のために永遠の死に値する者となりました。そして、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)

特に、イエス様の時代には、神様がイスラエル人を捨てたのではないかと思う人もいました。なぜなら、神様はアブラハムやヤコブ、ほかの先祖たちに現れましたが、その後、約400年間、神様はずっと沈黙されていたからです。

しかし、突然、神様は語りかけてくださいました。「私はここにいる。あなたを忘れなかった。」

イマヌエルがついに来ました。(「イマヌエル」という名前には、「神は私たちと共におられる」という意味があります。)

イエス様のお生まれによって、神様はこう語られました。「私はあなたを愛し、あなたと共に歩みます。私はあなたの暗闇の中で光となります。私はあなたに希望を与え、救いをもたらします。」

けれども、神様がその良い知らせを伝えるために天使を送ったとき、祭司たちには送りませんでした。律法学者や最も宗教的とされる人々にも天使を送りませんでした。

神様は天使を普通の人々、つまり羊飼いたちに送りました。その時代、人々は羊飼いを見下していました。それでも、どうして神様は彼らに先に知らせを伝えたのでしょうか。

それは、この知らせがすべての人々のためのものだったからです。イエス様は、偉大な人々のためにも、身分の低い人々のためにも来られたのです。

さらに、イエス様が来られたとき、神様と人間の間にあった壁は崩れました。神様との平和が可能になったのです。

しかし、それは最初のクリスマスの日に起こったのではありませんでした。イエス様が十字架で死なれたとき、神様と私たちの間にあった幕が永遠に裂けたのです。

どうか、あなたがその平和を知り、そして羊飼いが感じた喜びがあなたの心を満たしますように。

Joy to the World! The Lord is come!
この世に喜びがありますように。主が来られたからです。

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ルカの福音書 ルカ2章

すべてを治めておられる神

ルカは、イエス様の出産について記したとき、その背景についても教えています。それは、皇帝アウグストの時代のことでした。彼はローマ帝国の支配者でした。

アウグストは、マルクス・アントニウスとクレオパトラの軍隊を打ち破り、ローマ帝国初の皇帝となりました。そして、彼は自らの権力を行使してローマに平和をもたらしました。このとき、パクス・ロマーナ(ローマの平和)が始まりました。

けれども、彼が知らなかったのは、自分に優る王がすぐに生まれようとしていたことです。彼はローマ帝国を治めていると思っていましたが、より強いお方が彼を通して計画を進めていたことには気づいていませんでした。

皇帝アウグストは全世界の住民が登録されるよう命じました。おそらく、それは税金のためだったのでしょう。彼の命令によって、すべての人々が出身地に戻り、登録する必要がありました。

ヨセフとマリヤは、どのように感じたのでしょうか。多くの人は、彼らがその勅令を聞いた時、マリヤの妊娠が10ヶ月ほどであったと考えます。それはその通りかもしれませんが、真実はわかりません。

いずれにせよ、ヨセフは「神様、どうして今この勅令が出たのでしょうか。今行けば、マリヤにとって本当に大変です」と考えたかもしれません。

しかし、神様には良い理由がありました。おそらく、一つの理由は、ナザレでヨセフとマリヤについて多くの噂が広まり、本当に大変だったからでしょう。彼らは結婚していないのに、マリヤが妊娠していたためです。

もう一つの理由がありました。その登録のために、予言者ミカが何百年前に予言した通り、イエス様はベツレヘムで生まれました。(ミカ書5:2)

皇帝アウグストは、自分がすべてを支配していると思っていましたが、実際には神様が治めておられました。皇帝アウグストのパクス・ロマーナ(ローマの平和)は約200年続きましたが、最終的にアウグストが築いたものは滅びました。

一方で、イエス様を通して、神様は永遠の王国を始められました。その王国を打ち倒すことができる者はだれもいません。そして、いつの日か、この世に本当の平和が訪れ、その平和は永遠に続きます。

あなたはどうでしょうか。すべてをコントロールしていると思いますか。つまり、自分の人生を完全に掌握していると思いますか。

どうか、自分より偉大な方がいることを忘れないでください。もし自分の知恵と努力だけで人生を築くなら、最終的にはその築いたものが崩れ去るかもしれません。

また、神様が本当にこの世を治めていることに疑問を持ったことはありますか。あなたは、なぜ神様がトラブルをあなたの人生に許されるのか、問いかけることがありますか。

神様を信頼し続けてください。なぜなら、神様はご自身の計画を実現されているからです。私たちにはその計画が見えないこともあるかもしれませんが、いつかその計画が理解できる日が来るでしょう。

その日には、天使たちとともに、私たちも声を上げて神様を賛美することでしょう。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:14)

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マタイ1章 マタイの福音書

没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれほど私たちは、こうした言葉を耳にするでしょうか。どれほど私たちは、そのような言葉を口にするでしょうか。

しかし、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織り成しておられます。

ヨセフの話を読むとき、この真理を見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてみてください。彼らは婚約していましたが、当時の文化では、現代の私たちが考える婚約よりもはるかに強いコミットメントでした。

彼らはまだ一緒に生活しておらず、肉体的な関係もありませんでしたが、ユダヤの律法によれば、婚約を解消するには離婚の手続きをしなければなりませんでした。

けれども、その婚約の期間中に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。深く傷ついたことでしょう。裏切られたと感じたかもしれません。怒りに震えたかもしれません。そして、ユダヤの律法によれば、彼にはマリヤを処刑する権利がありました。

しかし、彼の反応を見てみましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、ヨセフはもはやマリヤと結婚することを望んでいなかったようです。その状況では、おそらく誰もマリヤと結婚したがらなかったでしょう。

けれども、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を訴えませんでした。

むしろ、彼はマリヤをあわれみました。彼は彼女を公の場で恥さらしにしたくありませんでした。できる限り彼女を守るために、内密に離婚しようと考えました。

マリヤは、自分の妊娠についてヨセフに説明しようとしたでしょうか。一体何が言えるでしょうか。

「誤解しないでください。私はほかの男性と関係を持ったわけではありません。この子は神様によるものです。」

そう言ったとしても、ヨセフがそれを信じるはずがありませんでした。

神様はその状況をよく理解しておられたので、ヨセフのもとに天使を遣わされました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、ヨセフは安心したかもしれません。とはいえ、その責任を拒むのは容易だったでしょう。

なぜなら、もし彼がマリヤと結婚すれば、おそらく彼の評判が傷つくからです。周囲の人々はこう思ったかもしれません。 「ああ、ヨセフは結婚する前にマリヤと関係を持ったに違いない。マリヤだけでなく、ヨセフも悪かったのだ。」

また、ヨセフはこのように答えることもできたでしょう。 「分かっているけれど、私の子ではない。私はこの子のために祈ったことはないし、あなたは事前に私の意見を求めなかった。どうして私がその責任を負わなければならないのか。」

けれども、ヨセフはそのようにはしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂やさまざまな困難があったにもかかわらず、彼はマリヤと結婚しました。なぜでしょうか。

それは、ヨセフが自分の人生の中心が自分自身ではないことを知っていたからです。

神様がイスラエル、そしてこの世界を救うための計画を立てておられることを理解していました。そして、その計画が自分よりもはるかに大きなものであることも知っていました。

だからこそ、ヨセフは自分の権利や計画を脇に置き、神様とマリヤに仕えることを選びました。そして、その決断を通して、彼は本当の喜びを見出したのだと思います。

あなたはどうでしょうか。自分のために生きているでしょうか。もしそうなら、あなたの人生はむなしいものになるでしょう。しかし、神様のために、神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見出すことができます。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ1章

救い

ゼカリヤは約9ヶ月間話せない間、どんな気持ちだったでしょうか。おそらく、少しは自分の不信を後悔したことでしょう。

一方で、話せないという印(しるし)は、神様が子供を授ける約束を確実なものとして示してくださいました。そのため、ゼカリヤは自己憐憫に浸ることなく、むしろ喜びを持って毎日を過ごしていたのではないでしょうか。

そして、息子が生まれた際、ゼカリヤの口は開かれ、喜びに満ちた言葉が彼の口からあふれました。彼はこう歌ったのです。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(ルカの福音書1:68-70)

彼の歌を通して、私たちは救いの深い意味を知ることができます。

1.その救いは、暗闇と死の陰に座る者たちを照らします。(79)

多くの人々は、罪の暗闇の中で生きています。そのため、死の影が彼らの上に覆いかぶさっています。パウロはこう言いました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

でも、暗闇の陰に座る人に、救いはイエス様を信じる人に赦しを約束します。(77)

2.その救いは私たちの良い行いによるものではありません。むしろ、その救いは神様のあわれみによります。

私たちは永遠の死に値します。それでも、神様は私たちを愛して、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから今、イエス様を通して、私たちの罪は赦されます。

3.その救いは私たちをサタンの国から救い出します。(71、74)

サタンは私たちを憎み、罪の鎖で縛りました。しかし、神様は私たちを解放してくださいました。

4.その救いは私たちに新しい命を与えます。

私たちはもうサタンの国のために働かず、神様に仕えます。私たちはもう罪に仕えません。その罪深い生活は、恐れ、恥、悲しみ、そして破滅に至りました。

しかし、今では神様が私たちに正義の外套をまとわせてくださいます。そして、日々、私たちはますます「イエス様と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第二コリント3:18)

5.その救いは私たちに平和を与えてくださいます。どんな試練に直面しても、神様の平和を経験します。それは「人のすべての考えにまさる神の平安」です(ピリピ4:7)。なぜなら、私たちには神様との平和があるからです。

どのようにしてその平和を知ることができるでしょうか。こう祈ってください。

イエス様、私は自分が罪人であることを認めます。何度もあなたを傷つけ、また周りの人々を傷つけてしまいました。どうか私を赦してください。

私のために十字架で死んでくださり、私の罰を引き受けてくださったことを感謝します。私に新しいスタートを与えてください。

あなたに従いたいです。そして、ますますあなたのようになりたいです。私を変えてください。そして、あなたの平和を私に与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ1章

祝福された

マリヤがエリサベツの妊娠の知らせを聞くと、すぐに彼女を訪ねました。その反応は非常に理解できます。おそらく、マリヤは自分の経験が夢や幻覚ではないことを確認したかったのでしょう。

しかし、エリサベツがマリヤを見かけた瞬間、マリヤの心に残っていた疑いはすべて消えたのではないでしょうか。その瞬間、エリサベツの胎内の子どもが跳ね動き、エリサベツは聖霊に満たされて声高らかに叫びました。

あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書1:42-45)

どうしてエリサベツは、マリヤが妊娠しており、その子がメシアになることを知っていたのでしょうか。それには一つの方法しかありませんでした。神様が彼女にそのことを示されたのです。

エリサベツの言葉を聞いたことで、マリヤの疑いはすべて消え、彼女は歌い始めました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46-50)

マリヤの言葉を読むと、私は神様が私たちをどのように祝福してくださったかについて、深く考え始めます。

マリヤのように、私たちも神様の祝福に値しない者です。私たちはただの神様の卑しいしもべにすぎません。私たちは立派な行いによってではなく、神様の素晴らしい御業によって祝福されるのです。

神様は私たちのために何をしてくださったのでしょうか。

1. 神様は私たちに哀れみを与えてくださいました。 これは、私たちだけでなく、私たちの前に生きていた信者たちにも、そして私たちの後に生きる信者たちにも与えられています。

私たちは、自分の罪のゆえに罰に値する者ですが、神様は哀れみを与えてくださいます。なぜでしょうか。

それは、十字架において、神様がご自身の怒りを私たちの代わりにイエス様に注いだからです。イエス様が私たちの罰を受けてくださったことで、私たちは神様の哀れみを受けることができるのです。

2. 神様は私たちの利益のために働いてくださいました。 (51節)たとえば、イスラエル人がエジプト人の奴隷であったとき、神様はパロを王座から引き降ろし、モーセとイスラエル人を高く引き上げてくださいました。

さらに、神様はイスラエルよりも強い国々や支配者たちを打ち倒し、イスラエル人を約束の地に導かれました。

そして、イスラエル人が何度も神様に背を向けたにもかかわらず、神様はご自身の約束を忘れずに今まで彼らを守り続けてこられました。

それは本当に驚くべきことです。いくつもの国が滅び、いくつもの民族が消えていった中で、ユダヤ人を滅ぼそうとする試みが繰り返されましたが、イスラエル人は今でも残っています。

神様がイスラエル人の利益のために働かれたように、私たちの利益のためにも働いてくださっています。そのために神様はイエス様を送られたのです。そして今でも、神様は私たちの利益のために働いておられます。

私たちの問題が私たちよりも大きいとき、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

私たちに必要があるとき、神様はそのニーズに備えてくださいます。

サタンが私たちを滅ぼそうとするとき、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、マリヤのように、私たちも主をほめたたえましょう。神様が私たち一人一人に大きなことをしてくださったからです。私たちは本当に祝福されています。

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ルカの福音書 ルカ1章

心のすべてを神様に捧げる?

神様がイエス様を送られたとき、どうしてマリヤを選ばれたのでしょうか。おそらく、彼女の心が完全に神様のものであったからでしょう。彼女は自分の心のすべてを神様に捧げ、神様に従っていました。

この箇所では、マリヤの心を見ることができます。

ザカリヤに現れてから6か月後、ガブリエルはマリヤに現れました。彼はこう言いました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(ルカの福音書1:28)

マリヤはその言葉を聞いて、本当に戸惑いました。そこで、ガブリエルはさらに続けました。

こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(30-33)

マリヤは確かにその言葉を理解しました。イスラエルの女性たちの誰もが、自分の子がメシアとなることを望んでいました。とはいえ、彼女には非常に論理的な質問がありました。

どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。(34)

つまり、彼女はまだ結婚しておらず、男性と関係を持ったことがありませんでした。

そこで、ガブリエルは答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(35)

たくさんの人はそれを聞いて、「まさか。クリスチャンはそれを本当に信じているのか」と言うかもしれません。

けれども、現代では、そのようなことが起こる場合があります。時々、カップルが子どもを授かれないとき、配偶者間の人工授精によって、その女性が妊娠することができます。私たちは、お医者さんができることを神様ができないとは言えるでしょうか。

しかし、その時代にはそのような技術はありませんでした。そのため、ガブリエルはマリヤにとってその言葉が受け入れにくいことを知っていました。そこで、彼はこう言いました。

「あなたの親戚エリサベツのところに行きなさい。皆が彼女は子どもを持てないと言っていましたが、今、彼女は妊娠しています。神様にとって不可能なことは一つもありません。」

マリヤはそれを聞き、答えました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(38)

マリヤはもう質問することはありませんでした。むしろ、その言葉を信じて、神様にすべてを捧げました。

けれども、少し考えてみてください。彼女がすべてを失う可能性は非常に高かったのです。彼女が妊娠したとき、評判は汚されてしまうでしょう。家族や周りの人々はどのように考えるでしょうか。

また、婚約者のヨセフはどう思うでしょうか。彼女が妊娠したら、彼は結婚を取りやめるかもしれません。さらに、イスラエルの律法によれば、彼には彼女を殺す権利がありました。

誰が、神様の聖霊によって彼女が妊娠したことを信じるでしょうか。

それでも、マリヤはこう言いました。「これがあなたの御心であるなら、その御心に従います。たとえすべてを失っても、私は従います。」

彼女は神様から他の約束を与えられることはありませんでした。神様は彼女の結婚を守ることを約束されませんでした。また、彼女の評判を守ることも約束されませんでした。

それでも、彼女は神様が良い方であることを信じ、神様の計画も良いものであると信じていました。

これこそ、神様に属する心です。マリヤは自分の心を神様に捧げたことで、神様は彼女を通して素晴らしいことを行うことができたのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様に属しているでしょうか。神様に従うために、すべてを捧げることができるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ1章

失望

ルカの福音書の冒頭では、ルカがなぜこの福音書を書いたのかを説明しています。

ルカは医者であり、教会の初期にクリスチャンになった学者でした。彼はテオピロという人のためにこの福音を書きました。

ルカによれば、クリスチャンになったとき、彼はイエス様の話を綿密に調査しました。そして、テオピロや他の興味のある人々にその話を伝えたいと思ったのです。

この言葉を読んで、私はキリスト教の話についてさらに確信を持てるようになりました。なぜなら、ルカは学者であり、イエス様が天国へ行かれてすぐ後に福音書を書いたからです。ルカがそれをしてくれたおかげで、私はイエス様の話を信じることができます。

ルカは最初にザカリヤという祭司について書きます。この話の言外の意味を読み取るなら、ザカリヤが神様を本当に愛していた一方で、同時に失望していた人物だったことがわかります。

例えば、彼の妻エリサベツは不妊でした。現代においてもこれは本当に悔しいことでしょう。けれども、当時は特に恥ずかしいことでした。エリサベツにとっては、さらに恥ずかしいことであったに違いありません。

どれほど彼らが子供のために祈り続けたのでしょうか。おそらく、エリサベツの生理が遅れたことで希望が湧いた瞬間もあったかもしれません。しかし結局、生理が再び始まってしまい、彼らはそのたびに落胆してしまったでしょう。

どれほどそのパターンが繰り返されたのでしょうか。

私たちは、神様が祈りに答えてくださらないとき、どのように反応するでしょうか。希望が打ち砕かれるとき、私たちはどう対処するでしょうか。

その心に苦々しさを抱いてしまう人もいるかもしれません。

「どうして、あなたは私の祈りに答えてくださらないのですか?私にはこれが絶対必要です。聞いてくださらないのですか?私の状況をご存じないのですか?私の気持ちがわからないのですか?」

失望して、諦めてしまう人もいます。

「神様はこの祈りに答えてくださらないだろうな。」

そうして、彼らは失望をずっと抱え続けてしまうのです。

けれども、希望がなさそうに見えても、なお希望を持ち続ける人もいます。アブラハムはそのような人でした。(ローマ4:16−21)

ゼカリヤはどう感じていたのでしょうか。おそらく、彼はもう諦めていたのではないでしょうか。

「私たちはもう年を取ってしまった。私たちには、もう遅すぎる。まだ赤ちゃんができていないなら、もう希望はないだろう。」

しかし、ある日、彼は主の神殿に入って香をたく役目を任されました。それはくじ引きによって決まり、多くの祭司の中から選ばれる可能性は低かったものの、彼が選ばれたのです。

その香りの煙は、神様に届く祈りの象徴でした。ですから、ゼカリヤが香をたくとき、彼自身が祈りを捧げると同時に、神殿の外にいる人々も祈っていました。

ゼカリヤは何のために祈っていたのでしょうか。間違いなく、彼はイスラエルのために祈ったでしょう。

また、彼はおそらくメシアが来るように祈ったのではないでしょうか。なぜなら、神様は400年ほど何もおっしゃっておらず、預言者も現れず、祭司たちにも何も語りかけていなかったからです。

では、ゼカリヤは自分自身のために祈っていたのでしょうか。 そうだったかもしれません。けれども、祈らなかった可能性もあります。

彼は長い間失望し、「神様は本当に私を愛しているのだろうか」と考えていたのかもしれません。「もちろん、神様はイスラエルを愛しているけれど、私個人のことを愛しているのだろうか。」

いずれにせよ、彼が祈っている最中に、突然天使が現れました。おそらく、彼の最初の反応は恐れだったでしょう。「私は何か悪いことをしてしまったのだろうか。アロンの息子たちのように殺されてしまうのだろうか」(レビ記10章)と思ったかもしれません。

しかし、天使はこう言いました。

「恐れないでください。あなたに良い知らせがあります。あなたはずっと息子が与えられるよう祈っていたでしょう。神様はその祈りを聞かれました。来年、息子が生まれます。その子は、あなたが長い間待ち望んでいたメシアのために道を備える役割を果たします。」

ゼカリヤの反応は何だったでしょうか。それは疑いでした。長い間祈りが答えられず、希望を失っていたからです。彼はこう言いました。

私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。(ルカの福音書1:18)

要するに、「私はずっと祈ってきました。何も起きませんでした。何度も、私の希望はむなしいものとなってしまいました。だから、私の希望を湧かせないでください。もうがっかりしたくありません。」

どれほど私たちはそのように反応してしまうでしょうか。失望のあまり、私たちは希望を失ってしまうことがあります。

幸いなことに、神様はゼカリヤに対する約束を取り消されませんでした。それでも、その天使はゼカリヤを叱責しました。「しるしを求めているのですか。それでは、あなたの息子が生まれるまで、あなたは話せなくなります。」

その言葉を聞いて、ゼカリヤは衝撃を受けましたが、すぐに信じるようになりました。同じく、彼の妻もすぐに信じるようになりました。そして彼女が妊娠したとき、こう言いました。

主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。(1:25)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがそう思わなくても、神様は私たちの祈りを聞いておられます。それは天使ガブリエルの最初の言葉の一つでした。

「あなたの祈りはむなしくありませんでした。その祈りは天井に跳ね返ることなく、神様に届いていました。神様はあなたの声を聞かれました。」

さらに、神様は私たちには見えない物語を織り上げています。その物語は私たちよりも遥かに大きなものです。(ゼカリヤにとっては、メシアが来られるということ以上に大きな物語はありませんでした。)

けれども、その神様が織られている物語の一部として、時には神様が私たちの祈りに答えてくださらないように見えることがあります。

それでも、希望を捨てないでください。神様はあなたの祈りを聞いておられます。神様はあなたの願いを叶えるかもしれませんし、叶えないかもしれません。しかし、神様は確かにあなたの人生に働いておられます。

そして、すべてはあなたの益となるために働いておられます。なぜなら、神様はあなたを愛しておられるからです。

もし、あなたが神様を信じ続けるなら、いつか神様が織り上げられた素晴らしい物語を見ることになるでしょう。

だから、どんな苦しみを経験しても、その物語の中にとどまってください。そうすれば、ゼカリヤとエリサベツのように、祝福されるでしょう。

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マタイ1章 マタイの福音書 ルカの福音書 ルカ3章

罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

暗い世にある光

数年前、私は非常に賢いアメリカ人の女の子についての記事を読みました。

彼女の高校の成績は完璧だった上に、SAT(一般のアメリカの大学入学試験)の点数も満点であり、さらにカリフォルニア大学の受験点数も満点でした。そして、ある記者が彼女にこう尋ねました。「人生の意味をご存じですか。」

彼女の答えはどうだったのでしょうか。

「私は全く知りません。私も知りたいと思っています。」

私たちはそのような世界に住んでいます。この世の人々は、神様から離れているため、暗闇に迷っています。

彼らは人生の意味を探しているものの、暗闇の中でずっと躓いているのです。そして、自分の罪に目がくらみ、その罪がどこへ導くのかを理解していません。

そのような世界にイエス様は2000年前、赤ちゃんとして来られました。ヨハネはイエス様についてこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネの福音書1:1:4)

イエス様がこの世に来られた時、イエス様はこの暗い世のための光となられました。では、どのようにして光となられたのでしょうか。

1.イエス様は神様がどのような方であるかを教えられました。

昨日の記事でも述べたように、イエス様は私たちに神様を説明されました。神様は目に見えない方ですが、イエス様が現れたことで、神様は見える存在となったのです。

私たちはもはや神様を想像する必要はありません。私たちがイエス様を見る時、神様を見るのです。

2.イエス様は人生の意味を教えてくださいました。その意味とは何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネはイエス様がすべてのものを造られたと述べています。イエス様は私たちも造られました。

ところが、イエス様が来られた時、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。さらに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

けれども、ヨハネはこう記しました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れるなら、私たちは神様の家族に養子として迎えられます。

私たちは自然に神様の家族として生まれるわけではありません。たとえあなたの両親がクリスチャンであっても、あなたがクリスチャンであるとは限りません。

あなたは神によって新たに生まれる必要があります。言い換えれば、あなたは神様の召しに応えて「はい」と言わなければなりません。

つまり、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」と言うことです。

そうするなら、あなたは神様の家族に迎え入れられます。そして、あなたの人生の目的を見つけるでしょう。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えてくださいました。イエス様がすべての生き物に命と息を与えられるように、イエス様はご自身を信じる人々に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言っています。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されていますが、もう一つの意味として「分からなかった」という解釈もあります。

イエス様がこの世に来られた時、罪深い人々はイエス様を理解しませんでした。宗教的な人々ですら、イエス様を理解しなかったのです。だからこそ、彼らはイエス様を殺しました。

けれども、彼らがイエス様を殺したとしても、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。むしろ、イエス様が死なれた時、イエス様は私たちの罰を引き受けてくださいました。そして、イエス様は死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。

そのため、今ではイエス様は、ご自身のもとに来る人々に命を与えてくださいます。

だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を示しました。けれども、その律法は私たちを救うことはできませんでした。律法は、私たちの罪を明らかにしただけでなく、私たちが死に値することも示したのです。

しかし、イエス様を通して、私たちは恵みと誠を見出します。 イエス様によって、私たちは二つの真理を見ることができます。 一つは、私たちの罪です。 けれども、十字架を通して、私たちは神様の愛を見ることもできるのです。

さらに、私たちがイエス様を受け入れる時、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みは決して尽きることはなく、私たちの罪を覆います。そして、その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝きますように。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

神は人間となられた時

それでは、新約聖書を始めましょう。

福音書について書くとき、旧約聖書について書いた時と同じように、年代順に書きます。ですから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の順番ではなく、それぞれの福音書に記載されている話を年代順に書いていきます。

したがって、最初にマタイの福音書から始めるわけではありません。むしろ、ヨハネの福音書から始めます。なぜなら、ヨハネ1章に記されている話は、イエス様がこの世に来られる前の話だからです。

ヨハネはこう記しました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1:1)

ヨハネが「言葉」と言う時、それはイエス様のことを指しています。つまり、時間と空間が創造される前から、イエス様はすでに存在しておられたのです。なぜなら、イエス様は永遠の存在であられるからです。

では、なぜヨハネはイエス様を「言葉」と呼んだのでしょうか。

ユダヤ人の考えでは、「言葉」とは「神の知恵」を意味します。

一方、ギリシャ人の考えでは、「言葉」は「神の思い」または「神の理」を意味します。

彼らに「どうしてこの世界がこれほど整然と造られているのでしょうか」と訊けば、その答えは「神様の理によるから」となるでしょう。

したがって、ヨハネがイエス様を「言葉」と呼ぶ時、それはイエス様が神の知恵であり、また神の理であるということを意味しています。

さらに、「言葉」という名前について考えてみましょう。

私たちは、どのようにして人を知ることができるのでしょうか。言葉を通して、その人を知ることができます。その人が全く話さず、何も書かなければ、ある程度まで知ることはできますが、限界があります。

けれども、その人が話し始めると、私たちはその人の考え方を知ることができます。そして、その人の知恵から学ぶこともできます。しかし、最も重要なのは、言葉を通じてその人の性格や心を知ることができるという点です。

同じように、イエス様は私たちに対する神様の「言葉」です。イエス様を通して、私たちは真に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めからイエス様が「初めに神とともにおられた」ということです(1:2)。その意味は、イエス様と神には親しい関係があったということを示しています。

それだけではなく、イエス様ご自身が神であるということです。それが二つ目の理由です。14節によれば、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれました。つまり、神が人間となられたのです。

キリスト教には難しい教えがあります。それは「三位一体」という概念です。それはどういう意味でしょうか。

父なる神がおられます。そして御子(イエス様)なる神がおられます。さらに聖霊なる神がおられます。

父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。けれども、神が3つおられるわけではありません。神は唯一の存在です。

それは人間の理解を超えた偉大な真理です。人間の観点では、三人は三人です。しかし神様の場合、父と御子と聖霊は一つの神として存在されています。それが聖書の教えです。

実のところ、もし私たちが神様を完全に理解できたなら、それは少し奇妙なことだと思います。もし偉大なる神をすべて説明できたなら、おそらく私たちは自分の想像から神様を作り出したのではないかという疑いが出てくるでしょう。

けれども、私たちはこの三位一体の神を完全に理解することも、説明することもできません。ある程度までは理解できますが、そのすべてを把握することはできません。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは神様についてさらに理解することができるのです。2000年前にイエス様が生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう記しました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

地上を歩かれ、また語られた時、イエス様は神様を表されました。なぜなら、イエス様は人となられた神だからです。イエス様を通して、私たちは神様がどのような方であるかを知ることができます。

だから、ヨハネはこう記しました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明し、また神様を解釈されました。イエス様は父である神の通訳のような存在です。

この記事を書いている現在、もうクリスマスが近づいています。まだ11月ですが、街にはいろいろなクリスマスの飾りが見られます。

けれども、クリスマスの本当の意味を心に留めておきましょう。私たちは神様が人となられたことを祝うのです。それがなぜ重要なのでしょうか。それは、その奇跡によって、神様がご自身を明らかにされたからです。

目に見えない神様を知りたいと思いますか。その飼葉おけをご覧ください。イエス様において、神様の知恵、力、栄光のすべてを見ることができるのです。

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雅歌

封印された

それでは、6年以上で記事を900編書いていますが、これは旧約聖書についての最後の記事です。

私がこのブログを始めた時、同時に英語のブログも書いていましたが、それを完了して、今はこのブログだけを書いています。

だから、新約聖書を完了するのは、多分3年間ちょっと以内にかかると思います。頑張ります。

さて、この箇所では、恋人たちが旅行から帰ってきて、彼らの愛は明らかです。ソロモンの妻は彼に寄りかかってこう言います。

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。

その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。

もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。(雅歌8:6-7)

その時代、封印は所有のしるしでした。だから、誰かが相手の封印を持つことは、相互の所有のしるしでした。

彼女の意味は、「あなたは私のものだし、私はあなたのものです。私たちは互いに封印されている」ということです。

彼女は「愛は死のように強い」と言います。(6b)

つまり、死でも、彼女の愛を壊すことはできません。彼が死んでも、彼女の愛は続きます。

クリスチャンにとっては、それは特にそうです。なぜなら、私たちが死んでも、いつか天国で私たちの夫か妻にもう一度会うからです。

そして、彼女は「私のねたみは激しい」と言います。(6c)

多くの場合、「妬み」という言葉は悪い意味を持ちます。悪い妬みとは、他の人に属するものを見て、それを欲しがることです。

けれども、結婚においては、妻は夫のものであり、夫は妻のものです。だから、彼女が言ったのは、その愛の関係を破るものを決して許さない、ということでした。

全ての夫婦は、そのような態度を取ったらいいのにと思います。多くの場合、趣味や仕事、他の恋人がその関係の邪魔になります。私たちの妻や夫に対する愛は、それらに決して譲るべきではありません。

彼女は彼らの愛を凄まじい大水で消されない炎と比べます。また、その愛がお金で買えないと言います。(7)

自分の結婚について考えている間に、彼女はまだ結婚していない妹について考え始めます。つまり、その妹がそのような素晴らしい夫婦関係を持つことを望んでいるのです。

彼女は言います。「もし、彼女の純潔を守っている城壁が強くても、もっと強化したいです。もし、彼女が誰に対しても開いている戸であれば、彼女を守って閉じたいです。」(8-9)

そして、彼女は「結婚するまで、私の純潔を守って良かった」と思います。なぜなら、夫の尊敬を得たからです。そして、彼女は自分のすべてを彼に与えられました。他の人に彼女の体を与えなかったからです。(10)

ソロモンのぶどう畑は大きすぎて、彼はそのぶどう畑を守る者に貸しました。そして彼らはそのぶどうのためにソロモンに払いました。

しかし、彼女のぶどう畑、つまり彼女の体は自分のもので、ソロモンに喜んで捧げました。彼は払う必要がなかったのです。彼女はただで自分自身を捧げました。

彼女が言ったのは「もし誰かに払いたいなら、今まで私たちの純潔を守ってくれた人に払ってください」ということです。(11-12)

この歌の最後で、ソロモンが彼女を呼び、彼女は答えます。「あなた、急いで行きましょう。」(14)

シングルの皆さん、あなたが自分の純潔を守るように祈ります。結婚するまで待って、将来の妻か夫だけに、あなたの心と体を捧げてください。

既婚者の皆さん、あなたの夫婦関係が封印されるように祈ります。いつまでも愛を持って互いに呼び、答え合う関係でいられますように。

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雅歌

伴侶と時間を持つ事

この箇所では、ソロモンとその妻は一緒に時間を過ごしています。7:1-10では、ソロモンはもう一度、自分の妻とその美しさに対する喜びを表現します。そして、ソロモンは彼女に対する彼の性的な感情を言い表します。

ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。

私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。(雅歌7:6-9a)

おそらく、現代では私たちはそのような比喩を使いませんが、その意味は分かりやすいと思います。

そして、彼女は喜んで答えます。

私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。(9b)

そして、彼女は夫の愛を浴びて、ため息をつきながらこう言います。

私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。(10)

その後、彼女は一緒に外出することを勧めます。彼女の言葉を見ると、その望みがよく分かるでしょう。

私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。

恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(12-13)

恋なすびは植木で、催淫剤効果がありました。だから、彼女の意味は、「外出し、新しい場所に行って、一緒に寝ましょう。私は新しいことも準備したので、一緒に楽しみましょう。」ということです。

8章では、彼女は夫に対する愛を言い表し続けます。彼女は夫に対する欲求を示し続け、「兄と接するときのように、人前でも夫と公然と愛情を交わせたらいいのに」と言います。

そして、彼女は愛と結婚に関する母のアドバイスを思い出し、どれほど学んだかを母に示したいと考えています。

そして、2-4節では、もう一度彼女は夫に対する性的な感情を言い表しますが、同時にシングルの人たちに対して自分の純潔を守るように訓戒します。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。一つ目は、結婚におけるセックスの重要性です。おそらく、妻たちは夫たちよりもその重要性を覚えておかなければなりません。

なぜなら、男性は身体的に、性的な親しさを望むようにデザインされているからです。

妻たち、もし知らないのであれば、教えて差し上げます。あなたの夫は、しばしばセックスについて考えます。

それぞれの妻は異なりますが、多くの場合、妻たちは夫ほど性的な親しさを望まないかもしれません。それでも、その時間を作ることは大切です。

また、この箇所の女性のように、妻がその時間を勧めることも重要です。さらに、その時間をより楽しめるように何か提案することも大切です。

なぜそれがそんなに大切なのでしょうか。

一つ目は、セックスが夫婦を結び付けるからです。

二つ目は、夫を性的に守るからです。もちろん、妻も性的に守りますが、特に夫を守ります。

パウロはこう書きました。

互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(第一コリント7:5)

また、彼は言います。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(第一コリント7:4)

ソロモンの妻はパウロの言葉をこのように言い直します。

私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。(雅歌2:16)

だから、良い結婚をするためには、夫婦は一緒にいる時間を定期的に取らなければなりません。セックスだけのためではなく、デートのためにも時間を取るべきです。

あなたはどうですか。そうした時間を取れていますか。

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まだ見とれている

この箇所を読むと、他のソロモンの言葉を思い出します。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:18-19)

この箇所では、ソロモンは自分の意見に従います。結婚して以来、時間が経ちましたが、ソロモンはまだ妻に見とれています。実は、以前よりも、彼は妻に見とれています。

妻に関して、以前言った比喩を使いますが、新しい比喩も使います。彼は彼女をティルツァとエルサレムという都市と比べます。

都市の美しさ全てを発見するために時間をかけて巡らなくてはならないように、妻(また、夫)の深さを発見するためには時間がかかります。それは一生のプロセスです。

ソロモンは妻に「あなたの目はまだ私をひきつける」と言います(雅歌6:5)。

私はその感じがよくわかります。私の妻の目にその愛を見る時、私も引きつけられます。

そして、ソロモンは彼女に「あなたは私の汚れのないものだ」と言います(9)。

時間が経つと、実は私たちは妻と夫が本当に完璧ではないと分かるようになります。しかし、愛の目は、その過ちを見逃します。それに、そのあなたの愛の目によって、相手の魂が今よりも美しくなります。

8節の言葉のため、ある学者は、ソロモンがすでに他の妻と側室がいると考えています。そうかもしれません。または、彼は仮定条件について考えているのかもしれません。

いずれにせよ、彼のポイントは、彼の人生にいる女性の中で、妻が一番大事だということです。

そして、ソロモンが仕事をしているとき、彼はすぐに妻のことを考え始め、なるべく早く家に帰りました。(11-12)

それは良い態度だと思います。もちろん仕事は大切ですし、その仕事を楽しむことができるなら、それは本当に良いことです。それでも、夫は仕事よりも妻を愛するべきです。夫が妻よりも仕事の方が好きなら、それは悪いことです。

もちろん、妻が仕事を夫よりも愛することも悪いことです。

あなたはどうですか。あなたはまだ、妻や夫に見とれていますか。それは理想だけではありません。そのような愛はただの夢ではありません。それは、もともとからあなたと伴侶のための神様の計画です。

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怒り、傷、和解

夫婦の関係はいつもスムーズにいくわけではありません。この罪によって壊れた世界では、夫婦が怒りや傷を経験するのは当たり前のことです。それでは、どのように反応すべきでしょうか。

この箇所から、そのことを学ぶことができます。

多くの聖書の解説者によれば、この箇所は夢を描写しています。しかし、結婚では、しばしば起こる状態や感情を描写しています。

おそらく、その夫は仕事や他の用事のために遅く帰りました。だから、彼女は怒って、彼が帰る前に寝てしまいました。そして、彼が帰ってきたとき、ドアの鍵がかかっていたので、彼は「開けて」と叫びます。

しかし、彼女はまだ怒って答えます。「もう寝ているよ。なぜあなたのために起きなければならないの。」

パウロは私たちに言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)

たまには、私たちは妻や夫に怒ることがあります。私たちは無意識に相手を傷つけてしまうからです。

けれども、パウロは私たちに、怒っても罪を犯さないようにと言います。怒りや恨みを持ち続けてはいけません。そうすると、サタンに私たちの人生や結婚を壊す機会を与えてしまうからです。

ソロモンが遅く帰ってきたので、その妻は彼に恨みを持ちました。彼は頻繁に遅く帰ってきたかもしれません。または、その日だけ遅かったけれども、連絡をしていなかったのかもしれません。

いずれにせよ、彼が帰ってきても彼女はドアを開けてあげませんでした。

私たちは妻や夫を家に入れない経験はないかもしれませんが、どれほど私たちは自分の心を相手に対して閉ざすでしょうか。

また、もし相手が自分の心をあなたに対して閉ざした場合、どうしたら良いでしょうか。ソロモンは良い方法を私たちに示しています。彼は無理矢理に入ろうとしませんでした。むしろ、彼は彼の愛のしるしを残して去りました。

彼女はやっとドアを開けようと思ったとき、かんぬきの取っ手の上に没薬の液がありました。

その文化では、恋人はそのようにして、そこにいたことを示しました。現代では、それは花を贈るようなものです。(アメリカでは、謝る時に男性はしばしばそうしますが、日本では男性はどうするでしょうか。)

とにかく、時々、私たちは妻や夫に怒ってしまいます。時々、私たちはその怒りが正しいと思いますし、私たちの方が悪かったと思う時もあります。

けれども、サタンに私たちの結婚を壊す機会を与えたくないなら、相手の怒りに怒りで反応してはいけません。謝ってください。そして、あなたの愛を示してください。

彼女の夢では、彼女は彼の愛にもう一度感動しましたが、もう遅すぎました。彼はすでに去ってしまったので、彼女は彼を探しに行きました。

多分、自分の態度のために彼女は自分自身を責めてしまいました。だから、その夢では、巡回していた夜回りたちは彼女を打ちました。

他の人が彼女に「どうしてそんなに必死に彼を探しているのか」と尋ねたとき、彼女はソロモンについて好きなことを説明しました。

私たちが相手に怒っても、そのことについて考えるべきです。怒る時に、相手の欠点に焦点を合わせるのは簡単ですが、特に私たちが怒る時は、相手の良い点を覚えていた方が良いです。

彼女は彼の外見について話しますが、彼女は彼を恋人や友人としても描写します。私たちもそのことを覚えておくべきです。相手が私たちをがっかりさせるかもしれませんが、彼らはまだ私たちを愛しています。

彼女の友人が「では、私たちは彼を見つけるのを手伝うよ」と言ったとたんに、突然彼女は夢から目が覚めて、ソロモンが彼女の隣にいるのを見ました。彼は「ゆりの花の間で群れを飼っています」と言いました。(4:5と5:13を読んでください。)

彼女は自分の怒りをすぐに忘れて、こう言いました。

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(雅歌6:3)

結婚は自然に美しいものにはなりません。私たちは良い結婚のために努力しなくてはなりません。愛を育てなくてはなりません。ですから、自分の怒り、また相手の怒りを良い方法で処理しなくてはなりません。

あなたはどうですか。その怒りをどのように扱っていますか。

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結婚式

私の結婚式は2005年でした。今でも、その日をよく覚えています。

妻がどんなに美しく見えたかを覚えています。今でも、私の目には、彼女は美しいです。

3章では、ソロモンのリムジンが花嫁を迎えに行き、結婚式に連れて行きました。そして、ソロモンのシークレットサービスが彼女を守り、ソロモンのもとに連れて行きました。(もちろん冗談です。実際には、ソロモンは御輿と勇士たちを送ったのですが、大体同じ感じでしょう。)

花嫁が到着すると、彼女は素敵な結婚式の服を着たソロモンを見ます。

ソロモンも花嫁を見た時、見とれてしまいます。

ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。(雅歌4:1)

そして、彼は彼女について何が好きかを具体的に話します。つまり、彼女の目や歯、唇、頬、首、乳房について話します。彼がその言葉を言いながら、それぞれの部位を愛撫することを想像できます。

けれども、2章とは異なり、彼女は「明日、帰ってきてね」とは言わず、彼はこう言います。

そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。(4:6)

5節を読むと、その意味がよく分かると思います。とにかく、彼らは初めて一緒に寝る経験を楽しむ予定です。その後、ソロモンはこう言います。

わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。(4:7)

これらは本当にエロチックな言葉です。実は、このことについて書くのは少し恥ずかしいのです。けれども、結婚の中では、そのような言葉を言うのは良いことです。

夫婦は、結婚式の10~20年後に、どれほどそのような言葉を言い続けるでしょうか。もし、彼らがそのような言葉を言い続けたら、本当に良いのではないでしょうか。

彼は彼女が自分のレバノンの実家を去り、彼と永遠に生き続けるように誘います。彼はこう言います。

私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。私の妹、花嫁よ。

あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。(4:9-10)

私たちの文化では、妻を妹と呼ぶのは少し奇妙です。しかし、その文化では、「あなたは私の家族に入っている」という意味です。

そして、「フランスのキス」がフランスから来たと思うなら、4章11節を読んでください。ソロモンもそのようなキスを知っていました。:)

けれども、ソロモンが一番感謝していたことは、彼女が彼のために純潔を守ったことです。

結婚する前、彼女は「閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉」でした。

多くの男性たちはソロモンのように彼女を知りたがっていましたが、彼女は結婚するまで純潔を守りました。

しかし、今、彼女は自分の庭を開きます。彼女は自分の全身、心と体を彼に捧げます。彼女はこう言います。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。(4:16)

その時間の後、彼らが隣に寝ている間、ソロモンは嬉しくてこう言います。

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭に入り、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。(5:1a)

その時、誰かが話します。誰でしょうか。友達でしょうか。多分神様が話しておられるのでしょう。

友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。(5:1b)

それが結婚です。二人は愛し合いますが、結婚するまで純潔を守ります。そして、結婚してからは、ずっと互いに相手を楽しみ合います。神様はそのような結婚を祝福してくださいます。

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雅歌

自分の操を守る事

私たちの世界では、清い人を見つけるのは難しいです。どれくらい夫と妻が結婚するまで、自分の純潔を守っているでしょうか。

私たちの文化は、私たちの清さに反対しているようです。テレビドラマや映画は、よく結婚前のセックスや不倫を描写します。また、インターネットによって、ポルノを見ることがより簡単になりました。

だから、多くの人々は、結婚する前にカップルが一緒に寝るのが当たり前だと思います。また、彼らは結婚する前に一緒に住むことも当たり前だと思います。けれども、神様がセックスを造られた時、それは神様の意図ではありませんでした。

神様はセックスを良いものであり、喜びをもたらすものとして造られましたが、それは既婚者だけのために設けられたものです。結婚の中で、セックスは美しいものです。セックスを通して、カップルは身体的に、感情的に、霊的に結ばれます。

その一方、結婚の外でのセックスは、しばしば心の痛みをもたらします。

この箇所では、私たちは本当に恋人に対する情熱を持っている女性を見ることができます。しかし、彼女は清さの重要性をよく理解していました。

彼らは結婚式の後に、一緒に寝て、抱きしめ合います。(雅歌2:3-7)

彼女は夫をリンゴの木に例えます。そして、私たちは彼女がその愛の関係について安心していることを見ることができます。

彼女は彼に抱かれることを、暑い日に木の下に座ってその「実」を食べるようなものだと言います。そして、彼女は彼の実をもっと食べたいと願います。

干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。(2:5)

けれども、彼女はエルサレムのシングルの女性たちに、そして私たちにも警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(2:7)

つまり、愛とセックスは力強いものです。だから、まだ準備ができていない間に、そのパッションを起こすのは危険です。準備というのはどういう意味でしょうか。

それは、あなたが感情的に、また精神的に準備ができていることです。つまり、一生の関係にコミットできること、そしてそのコミットメントの意味を本当に理解していることです。

コミットメントは単なる一瞬の感情ではありません。コミットメントはその一瞬を超えてずっと続くものです。

多くの人々はそれを理解していないため、最終的に離婚してしまいます。また、一緒に寝ている人々は、しばしば結婚する前に別れてしまい、心の痛みを知ります。

この女性は、自分の結婚活動を思い出します。彼女の恋人は現れて、彼女を「デート」に誘いました。彼の言葉から、彼女への愛とパッションがよくわかります。(2:10-14)

けれども、彼もその関係を壊す罠をよく見ていました。彼はこう言いました。

『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(2:15)

この場合、ぶどう畑は彼らの愛の関係を表しています。いろんな「キツネ」は私たちの関係を荒らすことができます。例えば、キスしたり、一緒に寝たりすることを急ぎ過ぎることです。

だから、その強いパッションの中で、彼女は彼に言います。

私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。(2:17)

要するに、「一緒に寝る時間はまだ来ていない。帰ってきてね。また明日。」

それでも、彼女は自分の夢で彼を探しに行って、見つけると喜びました。(3:1-4)

しかし、彼女はもう一度私たちに警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(3:5)

セックスは美しいものとして造られました。神様が計画された通りに、私たちがセックスを楽しむならば、セックスには夫婦関係を強める力があります。

けれども、神様の計画に従わないなら、セックスは滅ぼす力もあります。あなたの関係を壊し、あなたを苦しませることになります。

あなたはどうですか?自分の純潔を守っているでしょうか。

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雅歌

ラブソング

それでは、やっと最後の旧約聖書の書を始めます。興味深いのは、箴言の最後で、私は「男性というのは。。。」と[女性というのは。。。」という記事を書きました。

雅歌では、私たちは、神様が夫婦をどのようにデザインされたか学びます。

この歌では、ソロモンは自分の結婚活動や、結婚式や、結婚生活について歌います。(どの妻について歌ったか分かりません。これがソロモンの最初の妻だと思いたいんですけど。)

けれども、興味深いことは、この歌の大部分は、ソロモンの妻の視点から書いてあります。

この歌の最初では、結婚式のシーンみたいです。その花嫁の言葉から、私たちは彼女のソロモンに対する愛の炎が見えます。

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、(雅歌1:2)

神様は私たちを性的な者として造られました。そして、その性的な関係は良いもの、そして楽しむべきものとして造られました。私たちは自分の伴侶のキスを喜ぶべきです。私たちは互いに喜び合うべきです。

しかし、ソロモンの体だけに彼女が引かれたわけではありませんでした。彼女は言いました。

あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名はそそがれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。(1:3)

彼女は彼の匂いを彼の名前と比べます。つまり、彼の評判の匂いは本当に素晴らしいものでした。彼は、忠実で誉れに値する人であり、彼を愛していた女性はたくさんいました。

だから男性たち、あなたが妻を求めているなら、自分の体だけを発展させないでください。自分の性格も発展させてください。あなたは彼女の尊敬に値するでしょうか?

5節では、私たちはソロモンの妻がどのように自分自身について考えるかを見ることができます。彼女は良いセルフイメージを持っています。彼女は自分について「私は美しい」と言うことができます。(5)

それでも、相手が彼女の見た目を批判して、彼女は傷ついたことがありました。その時代、日本のように白い皮膚は良いものと見なされました。けれども、彼女はずっとぶどう畑で働かなくてはならなかったので、彼女の皮膚は黒くなりました。

(彼女が「私は自分のぶどう畑を見張りませんでした」と言った時、実は自分の体について話していました。後で私たちは読みますが、彼女の体はその恋人のために「実」を結びます。)

残念なことですが、多くの女性たちは自分が美しいと思いません。彼女たちはテレビの俳優を見て「私はそんなに美しくない」と思い、落ち込んでしまいます。

しかし、神様があなたをそのように造られました。神様は決してミスをされることはありません。だから、神様の目にはあなたは美しいのです。

ソロモンの妻が初めてソロモンと付き合った時、彼女はそんな感情的な重荷を持っていました。彼女のお兄さんたちは彼女を拒絶し、彼女の人生を苦しくしてしまいました。その言葉を読む時、私は「彼女の両親はどれぐらい彼女を支えていただろうか」と思います。

けれども、この箇所では、愛がどうやって人の傷を癒すかを見ることができます。何度もソロモンは自分の彼女に対する愛を伝えます。つまり、彼の目には彼女が美しいと言いました。(1:9-10)

彼女が「私は別に美しくない」と言う時(シャロンのサフランと谷のゆりの花はただ普通の野草でした)、ソロモンは答えます。

わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。(2:2)

つまり、「あなたは自分がただのユリだと思うかもしれないけど、私にとっては他の女性たちは茨です。」

そして、彼の愛のために、彼女は自分の愛の言葉でためらわずに反応します。(1:4,16)

結婚の愛はそのようなものであるべきです。夫婦は互いに愛し合い、喜び合い、尊敬し合い、神様の癒しを与え合います。

あなたがそのような愛を知ることができますように。

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箴言

女性とは。。。

箴言31:10-31では、私たちは女性とは何かを学びます。

この世の男性のイメージと同様に、この世の女性のイメージも歪んでいます。この世は、普段女性の見た目に焦点を当てます。

つまり、理想的な女性は細くてセクシーな美人です。けれども、レムエルの母は大切な教訓を教えてくれます。

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(箴言31:30)

全てよりも、「本当の女性」というのは主を恐れる人です。

自分の麗しさと美しさを発展させることは、主との関係を強くするほどには価値がありません。

男性たち。結婚したいなら、女性の麗しさや美しさにごまかされないでください。本当の女性を探してください。つまり、全てよりも主を愛している女性を探してください。

この箇所をまとめたいなら、30節を覚えておきましょう。

しかし、レムエルの母はその息子に、どんな女性を求めた方が良いか、教え続けます。

1.彼女はしっかりする人です。(11)

美人は結局老けます。けれども、妻が美しい性格を持てば、彼女はもっともっと美しくなります。

しっかりする女性とはどんな女性でしょうか。美しい性格を持つ女性はどういう人でしょうか。

30節を心に留めておきましょう。彼女はすべてよりも主を追い求めます。そのような女性は、日が経てば経つほど、イエス様のようになります。

2.彼女は誠実な人です。(11)

あなたは彼女を信頼できます。また、彼女はいつも正直です。

3.彼女は夫を祝福します。(12)

彼女は尊敬をもって夫を自分よりまさっていると考えます。

4.彼女は怠けずに、頑張って、その家族のニーズに備えます。(13-15、21-22、27)

5.彼女は賢くお金を使います。(16)

6.彼女は自分の家族を無視せずに、経済的に家族を支えます。(17-19、24)

男性に対しても、女性に対しても、そのバランスを取るのは難しいです。もし、夫の給料が足りるなら、もちろん、その妻は働かなくていいです。けれども、この時代では、それはちょっと難しいです。

とはいえ、夫たち、妻たち、経済的な安定を得るために、自分の結婚や子供を無視してはいけません。

7.彼女は気前がいいです。(20)

8.彼女のおかげで、夫は皆に尊敬されます。(23)

人前で、自分の夫について批難する妻もいますが、良い妻はそうしません。

9.彼女は力と気品を身につけます。(25a)

人々はその夫が尊敬できるだけでなく、彼女も尊敬できます。

10.彼女は主を恐れるので、未来に関して心配しません。(25b)

彼女は全く主を信頼します。

11.彼女は知恵を持って、その口から知恵が出ます。

夫にも、子供にも、周りの人にも、彼女は神様からの知恵を教えます。

12.その夫と子供は彼女を尊敬します。(28-29)

それは、理想的な女性です。神様の定義によって、それは理想的な妻です。

この箇所、また箴言を終わらせる前に、二つのポイントをお教えしましょう。

一つ目は、女性たちだけではなく、男性たちもそのような人になるべきだということです。もちろん、レムエルの母は女性について話していますが、その言葉を男性にも当てはめることができます。

二つ目は、神様の恵みを覚えておいてください。

女性たちが(また男性たちも)この理想を見る時、がっかりするのは簡単なことです。なぜなら、私たちが自分自身を周りの人々と比べると、自分の欠点と弱さと失敗が見えるからです。

私たちが決してその理想に達成できないので、自分自身を厳しく非難します。

しかし、神様が御子を遣わされたのは、私たちが不完全だからです。神様が私たちを愛してくださるのは、私たちが理想的な男性や理想的な女性だからではありません。

私たちは何度も失敗します。それでも、神様は変わることなく私たちを愛してくださるのです。

イエス様は私たちの罪と失敗のために死んでくださったので、私たちは今、こう言えます。

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ12:1)

ですから、女性たち。自分に問いかけてみましょう。

「私はどのような女性でしょうか。そして、イエス様が私を愛し、救ってくださったのだから、私は将来どのような女性になれるのでしょうか。」

男性たち。あなたは、どのような男性でしょうか。

イエス様があなたを愛し、救ってくださったのだから、あなたは将来どのような男性になれるのでしょうか。

そして、イエス様があなたにそのような恵みを与えてくださったように、あなたも周りの女性たちにその恵みを分かち合うことができるでしょうか。

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箴言

男性とは。。。

このポストを「王とは」と名付けることができたけど、多分、王たちはこのブログを読まないでしょう。

けれども、多分たくさんの男性たちはこのブログを読むし、レムエル王の母の言葉が、男性たちに簡単に当てはめることができると思います。

ところで、レムエル王は、ちょっと謎です。彼がどの国の王であったか、誰も分からないし、いつ彼が生きていたか、誰も知りません。

いずれにせよ、この世は、男性に関して曲がったイメージを持っています。多くの人にとっては、「本当の男性」は強いし、女性たちに好かれる人です。日本では、「イケメン」という言葉がよく使われています。

ソロモンの時代にも、そんなイメージは人気でした。特に、ソロモンには妻が300人いたし、そばめが700人いました。

しかし、レムエルの母はレムエルにこう言いました。

私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。

あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。(箴言31:2-3)

もちろん、妻は悪いものではありません。31章の最後では、その母はどんな女性を求めた方が良いか教えます。

しかし、私たちはセックスを人生の中心にしてはなりません。私たちの目的は、できるだけ多くの女性と関係を持つことではないのです。

もちろん、一つの理由は、私たちの健康を守るためです。エイズや他の性病は危険です。

そしてソロモンが言ったように、あなたが不倫すると、相手の主人を扱わなくてはならないかもしれません(箴言6:34-35)。

けれども、一番大切な理由は、セックスがあなたの人生の中心になると、あなたの神様との関係をダメにしてしまうことです。ソロモンはそう学びました。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。。。

主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。(列王記第一11:4ー9)

本当の男性は、全てよりも女性を追い求めません。本当の男性は全てよりも神様を追い求めます。ソロモンはそうしませんでした。

レムエルの母は続けました。

レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。

酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。(4-5)

つまり、王は自分の民に対する責任を持っています。神様は王にその責任を与えてくださって、王が酔っ払いであれば、その責任がちゃんと果たせません。

とはいえ、その言葉は王のためだけではなく、全ての男性のためです。私たちがどこにいても、職場でも、家でも、教会でも、アルコールにコントロールされるのはダメです。

酔っ払いになれば、私たちは神様からの責任を忘れるし、私たちの破滅に至ります。それに、神様は私たちを裁かれます。

だからパウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

アルコールにコントロールされてはいけません。むしろ、私たちは神様の聖霊にコントロールされるべきです。

では、簡単に言うと、男性というのは何ですか。

本当の男性は神様をすべてよりも追い求めます。

また、本当の男性は、何をしても、聖霊にコントロールされ、導かれます。

あなたが男性なら、あなたは本当の男性でしょうか。

あなたが独身の女性なら、どんな男性を追い求めているでしょうか。

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箴言

リーダーとは。。。

リーダーとは何ですか。この箇所で、リーダーについて学ぶことができると思います。

アグルはこう書きました。

歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。

獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。(箴言30:29-31)

1.リーダーは、ライオンのようにどんな状態に直面しても挑戦します。

ある人は自信がありそうですが、問題が出てくると、彼らは逃げて、その問題をたらい回しにします。

真のリーダーは自信を持って進みます。なぜなら、彼らは自分自身を信頼するよりも、神様を信頼するからです。そして、神様が彼らと共におられる確信があります。

サウルとダビデの話を読むと、その違いが分かると思います。

ゴリヤテという勇士がイスラエルの軍隊に挑戦を表明し、「誰が私と戦う勇気があるでしょうか」と叫んだとき、多分イスラエル人はサウルを見ました。なぜなら、彼は王であり、イスラエル人の中で最も大きな人だったからです。

けれども、サウルはどうしましたか。彼は自分の宮殿に隠れ、ゴリヤテと戦う責任を取る人に報酬を提供しました。

しかし、ダビデは立ち上がってゴリヤテと戦いました。彼の理由は何でしたか。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(第一サムエル17:37)

神様はダビデと共におられたので、ダビデはゴリヤテを殺しました。

2.リーダーは目を覚まし、挑戦に直面するために、自分の心を準備します。

では、「いばって歩くおんどり」との関係は何でしょうか。私は分かりませんが、実は、そのヘブル語のフレーズの意味はちょっと微妙です。

文字通りに、その意味は走る時に自分のローブの裾をちょっと持ち上げることです。

多くの翻訳は「いばって歩くおんどり」と書いてありますが、ある解説者たちによれば、その意味が「鎧を着る勇士」や「バーディング(つまり、馬のための鎧)を着る軍馬」ということです。

この箇所では、いろんな方法で解釈できますが、私はこの箇所を読むと、ペテロの言葉を思い出します。

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1:13)

キリストがいつかこの世に戻るので、イエス様が私たちに命じられることを果たすために、私たちは自分の心を準備しなくてはなりません。

3.リーダーは人々を導きます。

それは当たり前のことでしょう。雄やぎが他のやぎの先に行くように、リーダーたちも神様の導きに従って、神様の民を導くべきです。

4.リーダーの後ろには、ついて行っている人がいます。

それも当たり前のことですが、多くの人々はそのことについて考えません。私のハワイの牧師はいつもこう言いました。

「もし、人々がある人についていくなら、その人はリーダーです。彼らはリーダーとして自分自身を考えないかもしれないし、自分が資格がないと思うかもしれないけど、彼らはリーダーです。」

誰もあなたについていかないなら、あなたはリーダーではありません。けれども、軍隊が戦争に王に従うように、人々があなたについて行き、あなたを信頼したら、あなたたちはすごいことを達成できます。

しかし、アグルは悪いリーダーについて警告します。彼らは高ぶって愚かなことをよくします。彼らは人々を見下し、自分の力を乱用します。

彼らは真のリーダーではありません。たとえその立場があっても、自分の行動によって怒りをかき回してしまいます。だから最終的に、彼らについて行く人は、すべていなくなります。

あなたはどうですか。あなたはどんなリーダーでしょうか。

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箴言

小さいものや、弱いものから学ぶ

私たちが小さいものや弱いものを見下すのは簡単なことです。でも、アグルはそうしませんでした。彼は動物を四匹見て、知恵を獲得しました。

アリを見て、アグルは将来のためにちゃんと計画することを学びました。

アリが頑張って夏の時に食糧を確保するので、冬が来たら心配がありません。

多くの人々には、そんな知恵がありません。彼らは自分の快楽のためにお金を全部使ってしまうので、トラブル(例えば、不景気や一時解雇など)が不意に来ると、本当に困ってしまいます。

岩だぬきから、アグルは自分の弱さを認め、安全な所を見つけることを学びました。

岩だぬきは敵から自分自身を守ることができないので、敵が来れない岩間に巣を作ります。

そのように、私たちも弱いです。自分の力で、私たちの魂の敵サタンと戦うことができません。

だから、私たちの及びがたいほど高い岩の上に行って、神様を私たちの避けどころにするべきです。(詩篇61:2-3)

神様の力によって、私たちは生き残るだけでなく、サタンの攻撃を乗り越えられます。

イナゴから、アグルは一致と整理の大切さを学びました。

彼らは自分自身を制御し、一致があるので、すごいダメージを与えることができます。

そのように、教会は一致し、制御すれば、サタンの国にすごいダメージを与えることができます。

でも、イナゴと違って、私たちには王がいます。そして、イエス様に従って、隊を組んで出て行きます。

ヤモリから、アグルは注意深さとうまく逃げることを学びました。

ヤモリは小さくて、手で捕まえられるけど、注意深くすぐに逃げるので、ほとんど捕まえられません。

そのように、私たちはサタンとその計画に注意するべきです。ペテロはこう書きました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

覚えておきましょう。サタンは優しい敵ではありません。特に私たちが弱い時、サタンは攻撃します。

でも、私たちが強い時でも注意しなくてはなりません。その時、私たちは自己満足になって注意しないようになるかもしれません。ダビデの事例について考えましょう。(第一サムエル記11章)

だから、イエス様が私たちに命じられたように祈りましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

あなたはどうですか。あなたはこの動物のように賢く生きているでしょうか。

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箴言

堕落する世代

この箇所では、アグルは自分の世代について話します。その世代はどんな人たちだったでしょうか。

1.彼らは自分の父を呪い、自分の母を祝福しませんでした。(箴言30:11)

十戒で、人間関係に関する神様が与える最初の命令は父と母を敬いなさいということです。

神様が知っておられたのは、私たちの社会が栄えるためには、親子関係は本当に大事なことだということです。

残念なことですが、多くの人は自分の両親を敬いません。自分の両親を侮る人もいます。だから、ある日、神様はその人を裁かれます。(17)

2.彼らは独善的でした。(12)

彼らは相手の欠点を見ることができましたが、自分の魂の汚れを見ることができませんでした。

3.彼らは高ぶって、相手を見下しました。(13)

彼らは思うべき限度を越えて思い上がり、神様の形として創造された人々を見下しました。その結果は。。。

4.弱い人を愛さずに、世話せずに、彼らを利用し、ある場合は、彼らを殺してしまいました。(14)

どうして、彼らはそのように振る舞ったのでしょうか。

5.彼らは貪欲でした。

彼らはヒルのように、決して与えずに、いつももらおうと思っていました。

彼らはいつも「もっともっと」と叫び、目の前の物を食い尽くしましたが、決して満足しませんでした。(15-16)

6.彼らは神様が造った美しいものを酷いものにしました。

アグルは神様の被造物の素晴らしさに驚き、男女の関係の素晴らしさにも驚きました。(18-19)

けれども、この世代は何をしたでしょうか。彼らは姦淫を誉め、結婚を惨めなものにしました。なぜなら、多くの妻たちは愛されておらず、すぐに捨てられるからです。(20,23)

7.資格のない者が支配者になり、お金持ちは自分の快楽にふけるために生きました。(22)

それはアグルの世代でした。しかし何千年経っても、この世界はあまり変わっていません。実は、私たちの世界はもっと酷くなりました。

パウロは私たちの世代を予見しました。彼はこう言いました。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1-5)

それは私たちの世代です。けれども、神様は私たちがそのような民になるように呼ばれたわけではありません。

私たちはどのような人でしょうか。ペテロは私たちに教えています。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

それは私たちです。だから、そのように生きましょう。

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箴言

神様の前にへりくだる

今日はアグルという人の言葉を読みます。彼がどのような人物であるかは誰も知りませんが、彼の言葉は知恵と謙遜に満ちています。

1節の意味は少し曖昧です。多くの翻訳によれば、アグルはイティエルとウカルという人々に向かって話しています。

けれども、他の翻訳では、アグルはこう言っています。「私は疲れました。神様、私は本当に疲れ果てています。」

いずれにせよ、アグルは続けて語ります。

確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。(箴言30:2-3)

要するに、自分の弱さを認めて、アグルは神様の前に立ちました。彼のプライドは消え去りました。自分の力や知恵から生じるプライドはすべてなくなりました。

だからこそ、自分の弱さを認めたうえで、彼は神様を求めたのです。

4節で、彼はこう尋ねます。

だれが天に上り、また降りて来ただろうか。

だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。

その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

つまり、「誰が天に行ったことがあるでしょうか。誰がそのような経験を持ち、私たちに神様について説明することができるでしょうか。」

さらに、「私たちの創造主は誰でしょうか。その子の名前は何でしょうか。」

実際、アグルは自分の創造主をすでに知っていました。7節で彼が神様に祈っていることからも、その創造主を知っていたことは明らかです。

けれども、興味深いことに、彼はその創造主の子の名前を尋ねました。その答えを彼は全く知らなかったのです。

しかし、イエス様がこの世に来た時、その答えを明らかにしてくださいました。そしてイエス様は、アグルや他の誰よりも、神様について明確に説明することがおできになりました。

ヨハネはこう記しています。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)

そして、アグルは私たちに、神様の言葉に耳を傾け、神様を私たちの避けどころとするように励まします。彼はこう言いました。

神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30:5-6)

そして、彼は心からの素晴らしい祈りを捧げます。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。

不信実と偽りとを私から遠ざけてください。

貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。

私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。

また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30:7-9)

つまり、「私は自分の言葉と行動を通して、あなたを敬いたいです。だから、私を罪から遠ざけてください。」

私たちもそのような心を持ちましょう。神様の前にへりくだり、神様を敬いましょう。

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箴言

邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶことができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。

けれども、アメリカがクリスチャンの国だとはもう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見ると、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(箴言28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(箴言28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや日本はまだそこまで悪くないと思いますが、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます。(28:5)

彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます。(28:5)

それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(箴言29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。

しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです。(マタイ24:12)

つまり、私たちの神様に対する愛、周りの人々に対する愛が冷たくなってしまいます。

そのような態度に注意しましょう。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けましょう。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪と戦い続け(28:4)、頑張って働き(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです(29:15,17)。

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれませんが、神様の道に従い続けるべきです(29:18)。

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだということです。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様がエレミヤに命じられたように、私たちにもこう命じられます。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。

彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。周りの人々のようになっているでしょうか。それとも、この暗闇の中で、光となっているでしょうか。

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友人からの傷

ハワイに住んでいた時、ある時期、私は主と共に歩み、毎週教会に行っていましたが、スモール・グループに行くのは辞めました。

私のスモール・グループはいろんな理由で(悪い理由ではありませんでした)、解散しました。その時、「日本に引っ越すかもなあ」と思ったので、他のグループに参加しなくても良いと思いました。

ところが、時間が経ち、結局日本に行かなくなりました。それでも、私はスモール・グループに参加しようと思いませんでした。

けれども、ある日、神様は私に「もうそろそろ、スモール・グループに参加した方が良いんじゃない?」と言われました。

だから、私はそうしました。

その後、私は以前のスモール・グループのメンバーの一人と話し、「私はスモール・グループに入ったよ」と言いました。

彼女は答えました。「ああ、良かった。ブルースのこと、ちょっと心配だった。」

私はそれを聞いて、びっくりしました。「そう?なんで何も言わなかったの?」と尋ねました。

彼女は答えました。「まあ、ブルースはやっぱり大丈夫かなあと思ったから。」

成熟したクリスチャンのマイナス面は、私が大丈夫じゃなくても、私の周りのクリスチャンは、「ブルースは大丈夫だ」と思うことです。

だから、私は友だちにこう言いました。

「私について心配することがあるなら、今度は何か言ってください。私は最初はその言葉を聞かないかもしれないけど、あなたの言葉が神様から来るなら、結局神様が私の心に語ります。」

私が友だちに言ったように、時々私は頑固です。だから、友だちの言葉に注意しない時もあります。しかし、何度も、その言葉を通して、神様は私の心に語られました。

時々、その言葉は嫌です。私たちの友だちは私たちの罪を指摘することがあります。だから、私たちはその言葉を聞いて、傷ついてしまうことがあります。

また、私たちは「どうして、そんなに酷いことを言われただろうか」と思うかもしれません。

けれども、ソロモンはこう言いました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)

要するに、あなたの友だちがあなたを本当に愛するなら、あなたが罪を犯すと、彼らはあなたを訓戒します。

しかし、あなたを愛していない人は何も言いません。彼らはあなたが転んでもいいと思うから。

あなたに正直に言う友だちは本当に大事です。彼らは、あなたを励ますだけでなく、あなたに聖書的な助言を与えてくれます。

だから、ソロモンはこう言います。

香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。

あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。

近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(9-10)

けれども、私たちは互いに支え合うべきです。 友だちが私たちの成長を励ますように、私たちも自分の言葉と行動を通して、彼らの成長を助けるべきです。

ソロモンはこう書きました。

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(17)

あなたにはそんな友だちがいるでしょうか。あなたたちは互いに研ぎ合うでしょうか。あなたたちは訓戒し合うでしょうか。

もしかしたら、あなたたちは相手が聞きたい言葉だけを言いますか。

あなたにはどんな友だちがいるでしょうか。

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愚か者との付き合い方、愚か者のように行動する

この箇所では、私たちはどのように愚かな者を扱うか、また、どのように愚か者にならないかを学びます。

この箇所でいう「愚か者」とは、馬鹿で高慢な人のことです。彼らは自分の意見を言い張り、訓戒を決して受け入れません。

私たちはどのようにそんな人を扱った方が良いのでしょうか。ソロモンはこう言います。

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。(箴言26:4-5)

一見したところ、これは矛盾です。ソロモンは最初に「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。」と言いますが、その後に「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。」と言います。

この意味は、愚か者と言い争わない方が良いということです。多くの場合、彼らは聞いてくれないし、あなたは怒ってしまい、彼らのように見えてしまいます。

しかし、柔和な態度と知恵を持って、彼らの愚かさを示すべきです。そうすれば、彼らは聞いてくれて、気が変わるかもしれません。

けれども、彼らがあなたの言葉を受け入れず、あなたが自分の怒りが上がることに気づいたら、止めた方が良いです。なぜなら、ソロモンはこう言うからです。

愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。(箴言27:22)

それに、私たちは彼らを愛するべきですが、彼らを信頼しない方が良いです。つまり、彼らの意見に従うべきではないし(26:7、9)、彼らには責任を与えない方が良いです。(26:10)

私たちが愚か者になりたくないなら、どうしたら良いでしょうか。

私たちは自分の過ちから学ぶべきです。また、訓戒を受け入れるべきです。ソロモンはこう書きました。

犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(箴言26:11)

多くの人々は自分の過ちから学ばないので、その過ちを何度も繰り返してしまいます。

謙虚な態度を取るべきです。あなたは全てのことを知らないことを認めるべきです。ソロモンはこう言います。

自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言26:12)

そして、神様がご自身の手の中にあなたの未来を持っておられることを認めるべきです。だから、あなたの計画を神様に委ねた方が良いです。(27:1)

あなたは怠けてはいけません。(26:13-16)

箴言では何度もそのテーマが見えてきます。だから、自分の将来を考えて、今の責任を果たすべきです。(27:23-27)

あなたは関係のない喧嘩に勝手に入るべきではありません。(26:17)

そんな喧嘩に勝手に入ると、相手があなたに怒ってしまいます。

あなたの言葉に注意するべきです。(26:18,20)

噂をしない方が良いです。(26:20)

そして、喧嘩を売るべきではありません。(26:21;27:15-16)

むしろ、和解のために働くべきです。

人の言葉を聞くとき、その人の性格を考えるべきです(26:23-26)。

ある人は言葉が得意ですが、彼らの性格も試さなくてはなりません。彼らの性格を知るべきです。

あなたが人を傷つけるように計画するなら、多くの場合、最終的にあなたが傷つけられることを覚えておくべきです(26:27)。

エステル記で、ハマンはそう学びました。

人生の危険を避けるべきです。(27:12)

つまり、あなたの人生や結婚、仕事が悪い方向に向かっていることに気づいたら、立ち止まりましょう。自分の方向を変えましょう。そうしないと、全てを失ってしまうかもしれません。

あなたの隣人に対して気を利かせるべきです。(27:14)

あなたの意図は良いかもしれませんが、ちゃんと考えないと、彼らを祝福するつもりが、怒らせてしまうかもしれません。

あなたはどうですか。賢く生きていますか。愚か者のように生きていますか。

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人に愛される

このポストのタイトルは「人に愛されること」ですが、実は、クリスチャンにとっては、それが私たちの一番の目的ではありません。私たちの目的は神様を喜ばせることです。

けれども、聖書では、イエス様についてこう書いてあります。

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)

人にイエス様が愛されたように、私たちはどうすれば人に愛されるでしょうか。ソロモンは、箴言25章で良いアドバイスを与えてくれます。

まず、相手に敬われることを求めないべきです。もし彼らがあなたを敬うなら良いですが、その敬いを求めない方が良いです。

ソロモンはこう書きました。

王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。

高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。(箴言25:6-7)

イエス様はパリサイ人にも同じことを言われました。(ルカ14章)

そして、ソロモンは言います。

あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。(27)

ヘブル語の文字通りに、その最後の部分は「自分の栄光を求めるのは、栄光ではないです。」という意味です。

その意味が微妙なため、さまざまな翻訳があります。多くの英語の聖書は「自分の栄光を求めるのは、良いことではありません。」と翻訳しています。

日本語のリビングバイブルの訳者も、ほぼ同じように翻訳しています。

どんなに良い食物でも、食べすぎは体に毒です。同じように、人にほめられるのはすばらしいことですが、それを意識しすぎるのはよくありません。(箴言25:27)

とにかく、皮肉なことに、私たちが謙虚な態度を持つなら、最終的に、人々は私たちを敬い、神様は私たちを誉めてくださいます。

ソロモンは続けて言います。

あなたがその目で見たことを、軽々しく訴えて出るな。

そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。(箴言25:7-8)

つまり、怪しいことをする人を見た時、すぐに訴えない方が良いです。なぜなら、彼らは自分の行動をちゃんと弁解できるかもしれないからです。

早とちりして訴えたら、結局あなたが恥をかいてしまうかもしれません。

さらに、ソロモンはこう言います。

あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。

そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。(9-10)

時々、私たちの友だちは内緒で他の人について話します。そして、その言葉によって、私たちはその人を訴えます。けれども、そうすると、三つのことが起こるかもしれません。

一つ目は、その友達が相手を怖がって、あなたの言葉を否定するかもしれません。

二つ目は、あなたがその内緒で言った言葉をばらしたので、多分その友達はあなたに怒るでしょう。

三つ目は、相手を訴えるのに、あなたには証拠がないので、結局あなたが恥をかくかもしれません。

だから、人に愛されたいなら、すぐに訴えたり、人の内緒をばらしたりするべきではありません。

ソロモンは続けて言います。

あなたの言葉によって、人を助け、励ました方が良いです(11)。

その反面、相手が愛によってあなたを叱責するなら、へりくだってその言葉を受け入れるべきです(12)。

職場や他の場所で忠実に仕え(13,19)、自分の約束を守り(14)、正直に言うべきです(18)。

意見を与える時、忍耐を持って柔和な態度を持つべきです(15)。

隣の人を訪れる時、気を利かせて、彼の時間を取りすぎてはいけません(17)。

相手が苦しんでいるとき、彼らの感情に敏感になりましょう(20)。

最後に、自分の言葉に注意するべきです。また、あなたは自制するべきです(28)。

そうすれば、あなたは人々に愛されます。

周りの人々はあなたについてどう考えるでしょうか。

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仕返し

仕返し。

私たち皆、仕返しが悪いことを知っていますが、どれぐらい仕返しを計画するでしょうか。私たちはその計画を実行しないかもしれませんが、その計画を考えるのが好きですね。

また、相手が倒れる時、私たちはよく喜びます。

しかし、ソロモンはそのような態度に関して警告します。彼はこう書きました。

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。

主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(箴言24:17-18)

私たちが心に留めておかなければならないのは、相手がどんなに悪者でも、彼らが神様のかたちとして創造されたことです。その形は曲がったかもしれませんが、神様はまだ彼らを愛しておられます。

だから、彼らが苦しんだ時、神様はあなたがその人の苦しみを喜ぶことを憎まれます。なぜなら、神様は喜ばれないからです。

人々が地獄に行く時、彼らがどんなに悪者でも、神様は喜ばれません。むしろ、神様は涙を流されます。

だから、神様の形として創造された者を見下してはなりません。神様はそのような態度をご覧になる時、全然喜ばれません。

ソロモンはこう言います。

「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。(箴言24:29)

むしろ、

もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。

あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。(箴言25:21-22)

要するに、あなたの敵に復讐せずに、彼らに親切にすれば、彼らは罪悪感を持つかもしれません。もしくは、彼らが決して謝らなくても、神様はあなたに報いてくださいます。

その反面、

正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。(25:26)

もし悪い人の仕業のために私たちが仕返しをするなら、私たちの証しは汚されます。その場合、私たちがこの世の民に影響を与えるのではなく、むしろ、この世の民が私たちに影響を与えてしまいます。

ソロモンはこう言います。

自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(25:28)

人々が私たちを傷つける時、私たちが自分の怒りと行動をコントロールできないなら、私たちの人生の城壁は倒れます。そして、私たちを神様から離させるために、サタンは、ますます攻撃します。

しかし、私たちの敵に親切にするなら、サタンはどうしても私たちを滅ぼすことができません。

それに、サタンが送った私たちの敵は友達になるかもしれません。その場合、サタンの計画は本当に無駄になってしまいます。

敵に仕返しすると、自分の城壁を強化すると思う人もいます。実は、自分の怒りをコントロールできる人、また、相手を許せる人が本当に強い人です。

あなたはどうですか。相手があなたを傷つける時、あなたはどうしますか。

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箴言

地獄に行く人に警告しないと

この箇所では、ソロモンは本当に鋭い言葉を言います。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。

あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。

この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

毎日、人々は地獄に行っています。永遠の死に行っています。彼らは虐殺されます。だから、あなたは何をしていますか。

地獄というのは嫌な話題なので、多くの人々は、そのことについて話したがりません。けれども、地獄について話さなくても、その問題は無くなりません。そして、私たちが人々に警告しないと、神様はその責任を私たちに負わせられます。

もちろん、私たちは無理矢理、誰かの道を彼の意志に背いて変えさせることはできません。それは私たちの責任ではありません。私たちは人間の心を変えられないからです。

とはいえ、神様は私たちに、彼らに警告するように命じられました。

神様は「私は彼らが地獄に行くことを知らなかった」と言う言い訳を受け入れられません。

多くの人は愛する人たちに関して、自分自身にこう言います。「彼らがイエス様を信じなくても、きっと天国に行くだろう。なぜなら、彼らは良い人だから。」

なぜ彼らはそう言うのでしょうか。多分、彼らは自分の家族や友達に真実を言いたがらないからです。彼らは拒絶されることを怖がるからです。また、彼らは愛する人が真実を聞くと怒られることを怖がります。

しかし、心の中で、そのクリスチャンは真実を知っています。そして、神様も、そのクリスチャンの心をよく知っておられます。私たちは神様から何も隠すことができません。

だから、神様が預言者エゼキエルに言われたように、私たちにも言われます。

「人の子よ。わたしはあなたをあなたの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしがあなたのお父さんや、お母さんや、兄弟たちや、友達に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、彼らに悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、彼らは自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが彼らに警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17-19)

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箴言

あなたの家を建てる

あなたはどんな家を建てているでしょうか。私がここで家と呼んでいるのは、住む場所ではなく、あなたがどんな人生を建てているかと訊いています。

箴言24章でソロモンは、そのことについて話します。

彼はこう言います。

家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。

部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。(24:3-4)

家族を建てる時(多分ソロモンはそのことについて話している)、また、あなたの人生を建てる時、永続するものを作りたいなら、神様の知恵によって建てなければなりません。

ソロモンは続けてこう言います

知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(5)

神様からの知恵は、家族と人生を建てることに関して、何を教えるのでしょうか。

ソロモンは以前こんなことを言いましたが、もう一度言います。

悪い人を妬むべきではありません。また、彼らと付き合うべきでもありません。なぜなら、彼らはあなたを破壊の道に導くからです。(1ー2、19)

知恵のある人の意見を聞くべきです。(6、26)

知恵を抱くべきです。(13ー14)

怠ける人生を送るべきではありません。(30ー34)

しかし、ソロモンはこうも言います。

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。(10)

私たち皆は、苦しみに直面します。神様の御心に従っても、苦しむ時もあります。

パウロにはそんな経験がありました。エレミヤや、他の預言者たちも苦しむことがありました。イエス様にも、苦しんだ時がありました。けれども、そんな時に、私たちは神様に信頼し続けるべきです。

数年前、私の友だちの奥さんは、がんにかかって、結局亡くなりました。その二人にとっては、もちろん大変な時でした。しかし、彼らの信仰は決して揺るぎませんでした。

あくまでも、その奥さんは周りの人々を考えて、触れたがりました。ベッドから起きられなくても、そんな態度を持ち続けました。

ソロモンはそんな人に関して、こう言いました。

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。(16)

そして、ある日、その奥さんが目覚めたら、救い主イエス様の笑顔を見ました。

私たちが上手く行く人生を望むなら、神様に基づいて、人生を建てるべきです。

ソロモンは家を建てる他の方法を教えます。

主と王とを恐れよ。(21)

つまり、神様と権力のある人に従うべきです。総理大臣や、警察や、上司や、牧師に従うべきです。なぜなら、神様は彼らを確立されたからです。(ローマ13:1)

神様と神様が確立された力に反対したら、あなたの家の基礎は揺れます。

最後に、ソロモンはこう書きました。

外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。(27)

つまり、あなたがプロジェクトを始める前に、その費用を計算するべきです。そうしないと、最終的にあなたは、そのプロジェクトを諦めなければならないかもしれません。(ルカ14:28-30)

多くの人々は自分の経済を考えずに結婚するので、すぐに困ってしまいます。また、彼らは子育てのためにちゃんと計画しません。ミニストリーを始めるけど、前もって計画しない人もいます。

私たちが費用を計算しないと、私たちがしていることはめちゃくちゃになります。

あなたはどうですか。どんな人生を建てているでしょうか。

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私たちが追い求めるもの

箴言23章では、私たちが何を追い求めるべきかについて、ソロモンが警告します。

ソロモンはこう言いました。

あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。

そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。(箴言23:1-3)

つまり、食べ物や、この世の物によって満足を追い求めるなら、気を付けてください。

もし、あなたが偉い人や、力がある人や、影響力のある人と一緒に食事をする時、彼らの立場、また、彼らがどんな食べ物を与えるか注目してください。どうして彼らがあなたにおごってくれるか考えてください。

そうしないと、彼らはあなたに悪い計画に参加するように納得させるかもしれません。

自分のお腹や、快楽だけを考える人は簡単に騙されます。

それに、食事することが大好きで、食べ過ぎると、いろんな健康問題が出てきます。多分あなたはそんな人を知っていると思います。だから、ソロモンは警告します。

大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。(20-21)

この箇所では、ソロモンはお酒の危険性について警告します。アルコール依存症の人には、いろんな苦しみがあります。(29)

彼らは健康問題が出てきますし、彼らの思いは支離滅裂になります。(32-33)

それに、彼らの人生がどれぐらいめちゃくちゃになったか全然分かりません。次の飲み物だけを考えます(35)。

富を追い求める人もいます。ますますお金を稼ぐことだけを考えます。

しかし、ソロモンはこう警告しました。

富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。

富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。(4-5)

要するに、この世の富は一時的なものだけです。あなたの死後に、その富を天国に持っていくことはできません。それに、パウロはこう言います。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第一テモテ6:9-10)

もちろんお金自体は悪いものではありません。とはいえ、多くの人は、お金を追い求めながら、自分の結婚や、家族や、人間関係や、自分の人生までも壊してしまいました。自分の信仰から迷い出る人もいます。

セックスを追い求める人もいます。神様はセックスを良いものとして創造されました。つまり、結婚の関係の中で、セックスは愛によって夫と妻を結び合わせるものです。

けれども、多くの人々は結婚の外でセックスを求めるため、最終的には苦しむことになります。

ソロモンは私たちに警告します。

遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。彼女は強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする。(27-28)

どれくらい、多くの人が良いものを悪い方法で使ったために、自分の健康や、結婚や、ミニストリーを壊してしまったのでしょうか。

それでは、どう生きればいいのでしょうか。ソロモンはこう言います。

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。

確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。(17-18)

要するに、この世の民が追い求めるものを追い求めるな。この世の民が願うものを願うな、ということです。

むしろ、神様を追い求めましょう。そうすれば、私たちには将来の希望があります。そして、その希望は決して断ち切られることはありません。

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良い評判を保つ

周りの人々があなたを見ると、彼らはどう思うでしょうか。

箴言では、そのトピックがよく取り上げられています。ソロモンは10章で、良い評判の大切さについて書きましたし、この箇所でも同じことについて書いています。彼はこう言いました。

名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。(箴言10:1)

この箇所では、私たちは、どのように良い評判を保つことができるか見ることができます。ソロモンはこう書きました。

利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。(箴言22:3)

時々、私はハワイ人の考え方に驚きます。津波の警報がある時、海へ津波を見に行く人もいます。(私の友達も見に行ったことがあります。私は信じられませんでした。)

幸い、津波がハワイに付く前に小さくなったので、誰も怪我をしませんでした。それでも、その人は本当にバカなことをしたと思います。

それに、多くの人々は他の危険も見ることができません。ソロモンはこう言いました。

曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。(5)

多くの人々は、どのように自分の罪が彼らの健康や、結婚や、他の人間関係を壊すかを見ることができません。だから、彼らはその道を行き続けるので、苦しみ、自分の評判が地に落ちてしまいます。しかし、知恵を持つ人は、その危険を見て避けます。

ソロモンは続けてこう言います。

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(4)

私たちが主を恐れると、良い評判を獲得できます。

とはいえ、すべての人々があなたが好きなわけではありません。時々、主を恐れると、私たちは迫害されることもあります。イエス様は罪のない神の子でした。それでも、ある人々はイエス様を憎んだので、殺してしまいました。

けれども、多くの場合、神様を恐れると、私たちは栄え、良い評判を獲得します。

もう一つ覚えておくべきことがあります。私たちが自分の子供をちゃんとしつけないと、彼らは私たちの評判を汚すかもしれません。ソロモンはこう書きました。

愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。(17:25)

また、

愚かな息子は父のわざわい。(箴言19:13)

だから、ソロモンはこう言いました。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6)

また、

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

そして、ソロモンは良い評判を獲得できる他の方法を教えます。つまり、

  • 周りの人々を祝福する。(9)
  • 清い心を保つ。また、恵み深い言葉を言う。(11)
  • 怠ける態度を避ける。(13)
  • 不倫を避ける。(14)
  • 友達を賢く選ぶ。(24-25)
  • あなたの経済に気を付ける。(26-27)
  • 正直に生きる。(28)
  • 自分の仕事を上手にする。(29)

そんなことをすれば、あなたはイエス様のように、神と人とに愛されます。(ルカ2:52)

あなたはどうですか。どんな評判を築いているでしょうか。

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この世を治めておられる方

この世の現実を目にするとき、私たちはこう考えてしまうことがあります。「神様は本当にすべてを治めておられるのだろうか」。

けれども、ソロモンはこう書きました。

王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:21)

多くのアメリカのクリスチャンは、だんだん変わっている国の道徳観念に悩んでいます。

例えば、数年前、アメリカの政府はゲイの結婚を認め始めました。そして、クリスチャンが「ゲイの結婚に同意できない」と言ったら、彼らは迫害されてしまいます。

あるケーキ屋さんは、ゲイの人のためにも、誰のためにもケーキを作りました。ところが、ある日、その店のゲイの常連は「私が結婚するので、ケーキを焼いてください」と頼むと、その店主はクリスチャンなので断りました。

誕生日のケーキであれば、大丈夫でしたが、ゲイの結婚を祝うために焼けませんでした。そのケーキ屋さんは訴えられて、結局その店を畳まなくてはなりませんでした。

アメリカでは、多くの人が聖書の道徳の教えを拒絶するので、たくさんのクリスチャンは心配して、自分の子供たちを公立学校に送りたがりません。なぜなら、学校で、その子供たちは聖書に反対する教えも受けるからです。

最近、日本人には別の心配があります。つまり、今、北朝鮮のリーダーたちは本当に怖いです。彼らはミサイルも持っており、私たちは彼らが何をするか予想できません。

だから、多くのアメリカ人でも、日本人でも、この世を見ると、「神様は、本当にこの世を治めておられるだろうか」と考えます。

けれども、ソロモンはこう書きました。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30)

しかし、ソロモンが正しかったら、どうして私たちは、こんなトラブルを目にするのでしょうか。

それは、神様が人間に選択する権利を与えてくださるからです。私たちは神様を愛して、神様の道を行くことを選ぶことができます。その反面、神様とその道を拒絶する選択もできます。

私たちはロボットではありません。神様はロボットを望んでおられません。神様は、私たちが愛によって、神様に従うことを望んでおられます。

しかし、もう一つの理由があると思います。

それは、私たちが神様からの使命を実行していないということです。私たちは世界中に行って、弟子を作るべきです。そうすれば、人々は変わります。国々は変わります。

何世紀も前、あるクリスチャンは戦争を通して、クリスチャンの国を造ろうと思いました。もし、クリスチャンの国を造ったら、皆が救われると思いました。けれども、最終的に、彼らは失敗しました。

20-30年前、あるアメリカのクリスチャンたちは、政治を通してアメリカを変えようと思いました。だから、彼らは良い法律のために戦いました。それでも、アメリカはだんだん悪くなっています。

どうしてでしょうか。

私たちは人々の心を政治を通して変えることはできません。戦争や人間の力を通しても、人間の心を変えることはできません。

しかし、私たちがこの世の一人一人に福音を述べ伝えると、神様は彼らの心を変え始めてくださいます。私たちがこの世に変わって欲しいなら、神様だけが私たちの希望です。

では、私たちは自分の権利のために戦ってはいけないのでしょうか。私たちの国を攻撃から守るために準備してはいけないのでしょうか。もちろん、そのために準備するべきです。

とはいえ、それらは私たちの主な戦いではありません。むしろ、人々を奴隷にしているサタンと戦わなくてはなりません。人々を滅ぼしている悪魔と戦わなくてはなりません。それが私たちの主な戦いです。

神様は私たちが決して、迫害や苦しみに直面しないと約束してくださったことはありません。むしろ、神様は私たちが迫害や苦しみに直面することを約束されました。

それでも、心に留めてください。私たちがどんな迫害や苦しみに直面しても、神様はまだこの世を治めておられます。そして、イエス様がこの世に戻られたとき、皆がそれを認めます。

しかし、その日が来るまで、神様に従い、その使命を行いましょう。

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箴言

私たちのお金を賢く使う

アメリカでは、多くの人々がクレジット・カードを使います。アメリカ人と比べると、日本人はクレジット・カードをあまり使いません。

私が日本に住み始めた時、ちょっとカルチャーショックを受けました。なぜなら、店でレジの列が割と短かったからです。日本人の大部分は現金を使うからです。

アメリカでは、多くの人がクレジット・カードを使うので、列はもっと長いです。

アメリカでは、たくさんの現金を持っているとちょっと危ないです。私がアメリカに住んでいた時、そんなにたくさんの現金を持つことがありませんでした。けれども、日本は割と安全だから、大丈夫です。

アメリカでは、クレジット・カードを持っている人の間では、54%の人がクレジット・カードで支払います。

日本でクレジット・カードを持っている人の間では、18%の人がクレジット・カードで支払います。

それに、アメリカ人のクレジット・カードの負債は平均で65万円ぐらいです。アメリカ人の間では、半分ぐらいが分割払いを選ぶからです。しかし、日本人は、90%ぐらいが一括払いを選ぶそうです。

それでも、日本人はあまり貯金していません。アメリカ人は可処分所得の6%ぐらいを貯金します。日本人は可処分所得の0.72%ぐらいを貯金します。

だから、アメリカ人でも、日本人でも、お金をもっと賢く使わなくてはなりません。

多くのアメリカ人はお金が足りないのに、クレジット・カードで購入します。だから、分割払いを選んで、利子を付けて借金を払います。それに、軽率な購入のため、多くの人々は破産してしまいます。

だから、ソロモンはこう書きました。

勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言21:5)

どれほど、私たちは欲しいものを見つけると、家計の状態を考えずに買ってしまうでしょうか。

もし、私たちが時間を取って、私たちの消費について考えたら、どれほど経済的な苦しみが避けられるでしょうか。

ソロモンは続けてこう言います。

知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(21:20)

アメリカ人と比べると、日本人は持っていないお金を使う癖があまりありません。とはいえ、多くの人は自分の将来を考えずにお金を使いすぎます。

あなたはどうでしょうか。あなたの将来のために計画していますか。それとも、将来を考えずに、自分の快楽にふけっているでしょうか。

あなたはクレジット・カードを使いすぎているでしょうか。あなたの借金が大きすぎるので、最終的に破産してしまう可能性がありますか。

私たちは神様のお金の管理人です。だから、神様が私たちに委ねてくださったお金を賢く使いましょう。

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箴言

私たちの裁判官に自分のことを申し開きする

私たちがこの人生を送っている間、私たちが死後に永遠があることを忘れるのは簡単なことです。そして、その日、私たちは自分のことを私たちの裁判官である神様に申し開きをしなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。(箴言20:5)

もし、英知のある人が私たちの心を読み取れるなら、神様の前に私たちは何も隠すことができません。

ソロモンは続けてこう言います。

多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。(20:6)

たくさんの人々は神様を愛していると言うけれど、その神様に対する愛を示す人は少ないです。だから、ソロモンは私たちに警告します。

さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。(20:8)

もちろん、ソロモンは人間の王について話しているけれど、いつか、王の王は裁きの座に着いて、この世を裁かれます。

人間の王の判断は不完全です。なぜなら、彼らの知識と知恵には限界があるからです。

しかし、すべてのことは神様の前に置かれ、神様が正義の神なので、神様の判断は完全です。

ソロモンはこう言います。

人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(20:27)

つまり、神様は私たちの最も隠された思いも知っておられます。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。(21:2)

私たち皆が、いつか神様の御前に立って裁かれるので、ソロモンは私たちがどのように生きるか教えます。

私たちは正直に話さなくてはなりません。(20:10、16、23)

私たちは復讐を求めずに、裁きを神様の手に委ねなくてはなりません。(20:22)

たまに捧げものを捧げるよりも、毎日正しい生活を送らなくてはなりません。(21:3)

そして、神様の前にへりくだらなくてはなりません。(21:4)

そうしないと、ソロモンは私たちにこう警告します。

正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。(箴言21:12)

多分、この箇所では、「正しい人」というのは、神様です。神様は悪者の家を見抜き、滅ぼしてしまいます。

ソロモンは続けてこう言います。

公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。

悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(箴言21:15-16)

けれども、このソロモンの言葉を覚えておきましょう。

だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。(20:9)

その答えは当たり前です。誰でもそんなことが言えます。神様の前に立って、「私は罪を犯したことがない」と言える人は、一人もいません。自分の行動のために天国に行く値する人は一人もいません。

私たち皆が失敗したことがあります。私たち皆が罪を犯して、神様からの栄誉を受けることができません。だから、イエス様はこの世に来られました。私たち皆に救い主が必要だからです。

だから、あなたが神様の目に義人になりたがるなら、一番大切な命令に従ってください。

それは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

あなたはどうですか。裁きの日のために準備できていますか。

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箴言

怠ける

子供の時に、私は本当に怠けていました。特に、私はよく宿題をサボっていました。

4年生の時、私がずっと宿題をサボっていたので、父は私に、「お前はハワイ島への修学旅行に行けないかもしれない」と警告しました。

5年生の時も、中学1年生の時も、私は宿題をサボったので、叱られてしまいました。

そのあとに、私はやっとその教訓を学びました。

なぜか分からないけれど、大学についての悪夢を見ます。その夢で、私はある授業をずっとサボっていて、期末試験が迫っています。だから、私は全然準備できなくて、パニックになります。

どうしてでしょうか?大学生の時、私は真面目に勉強したのに。😀

とにかく、箴言では、私たちは、いろんな怠け癖に関する警告を読みます。

ソロモンは何度も怠け者をからかいます。

なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。(19:24)

また、

なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される」と。(22:13)

そして、彼は怠け者に関して、当たり前のことも言います。

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。(19:15)

また、

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。

だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言24:33-34)

しかし、私に対して、一番印象が残る箇所は、21:25-26です。

なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。

この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。

神様は私たちが周りの人々を祝福するように望んでおられます。けれども、私たちが怠けたら、私たちはもちろん苦しむことになりますが、周りの人々を祝福することができません。

また、私たちが怠けたら、神様からの賜物を無駄にしてしまいます。そして、ある日、私たちは神様の前に申し開きしなくてはなりません。

イエス様はタラントのたとえ話で、その真理を教えられました。(マタイ25:14-30)

あなたはどうでしょうか。神様からの賜物を無駄にしているでしょうか。

神様があなたの脳や、手を与えてくださったのに、あなたはそれらをちゃんと使っているでしょうか。神様はあなたに才能や、霊的な賜物を与えてくださったのに、ちゃんと使っていますか。

怠けないようにしましょう。あなたの賜物をちゃんと生かしましょう。そうすれば、あなた自身が祝福され、周りの人々も祝福されます。

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箴言

誰を信頼するのか。何に頼るのか。

あなたは、誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。

自分自身ですか。お金ですか。もしくは、神様ですか。

箴言で、ソロモンは何度もこの疑問に取り組みます。彼はこう書きました。

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。

富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。

人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:10-12)

多くの人々は、自分自身だけを信頼します。彼らは、自分の知恵や富みに頼ります。彼らは、もしお金さえあれば、どんな問題に直面しても、大丈夫だと思います。

しかし、ソロモンが言ったのは、神様こそを信頼するなら、あなたは本当に安心できるということです。

多くの人々はお金に頼るけれど、まだ幸せと安心を見つけていません。

彼らの結婚はうまくいかず、彼らの仕事や投資した株についていつも心配して、あまり眠れません。必要な物を持っていても、なんとなく安心できません。

ある人は安心して達成感があるけれど、最終的に彼らの建てた国は倒れてしまいます。

さらに、裁きの日に、彼らは神様の前に自分のことを申し開きしなくてはなりません。そして、自分自身だけのために生きていたら、彼らの達成は無駄になります。

その反面、神様を信頼する人は、本当に安心できます。なぜなら、神様の御心に従うので、神様は彼らを見守っておられるからです。それに、裁きの日に、イエス様はご自身の十字架の働きによって、彼らを擁護してくださいます。

だから、私たちは誰を信頼するか、また何に頼るか、気を付けなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。(箴言19:2)

自分の人生に対する情熱を持つかもしれないけれど、神様とその導きに従わないと、あなたはつまずきます。

多くの人々は、しばしば情熱を持つけれど、愚かな決断をするので、振り返ると、後悔が多いです。

そんな人について、ソロモンはこう言います。

人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(19:3)

どれほど、私たちは自分の愚かな決断によって自分の人生を台無しにして、神様に「どうして、こんなことが起こるのを許したんですか?」と問うでしょうか。

けれども実は、私たちは蒔いたものを刈り入れたのです。神様を信頼さえすれば、私たちはその落とし穴に落ちなかったでしょう。

だから、ソロモンはこう言いました。

命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。(19:16)

神様の言葉は命の言葉です。私たちがその言葉を無視することは、私たちの責任です。

だから、ソロモンは訓戒します。

忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。(19:20)

ソロモンの言葉を覚えておきましょう。

人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(19:21)

あなたはいろんな計画を立てるかもしれないけれど、最終的に神様の計画が成就されます。

だから、神様の御心と戦わないようにしましょう。むしろ、その計画と協力しましょう。そうすれば、あなたはこう分かります。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。(19:23)

あなたは誰を信頼していますか。何に頼っていますか。

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箴言

あなたの夫を祝福する

このブログでは、私は妻たちについてあまり書きません。つまり、妻たちが何をするべきかについてほとんど書いたことはありません。

私が結婚について書いた時、主に夫たちに対して書きました。なぜなら、聖書では、神様が健康的な結婚を保つ主な責任を夫たちにかぶせたからです。

聖書で何度もその原則を読むことができます。

けれども、この箇所では、私たちは妻たちに対する言葉を読みます。

ソロモンはこう書きました。

良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。(箴言18:22)

私は2005年に結婚しましたが、その言葉が本当だと言えます。私の妻を見つけた時、幸せを見つけました。私の妻は私を本当に祝福してくれます。

しかし、妻たちが気を付けないと、自分の夫に対する祝福にならずに、呪いになります。

例えば、ソロモンはこう言いました。

妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。(箴言19:13)

また、

争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。(箴言21:9)

もし、それは曖昧すぎなら、

争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。(21:19)

夫たちは、もちろん完璧な人ではありません。そして、私たちはしばしば思わず自分の妻をいらいらさせるかもしれません。認めたくないですが、私もそうしてしまいます。

とはいえ、彼らの過ちをかさぶたのように剥がしてはいけません。

それは少し気持ち悪い描写かもしれませんが、旦那さんにがみがみ小言を言う時、そのイメージを覚えておいてください。なぜなら、あなたはそのようなことをしているからです。

では、もし旦那さんがあなたをいらいらさせる時、無視すればいいでしょうか。彼の欠点を見逃せばいいですが、できないなら、旦那さんとそのことについて話してください。何も変わらないなら、もう一度話してください。

けれども、まだ変わらないなら、旦那さんに、もう何も言わず、その状態を神様の手に委ねてください。彼のために祈ってください。

なぜなら、あなたは旦那さんを変えることができません。神様だけが、彼を変えることができます。

実は、小言によって、あなたの旦那さんを変えることができるかもしれないけれど、多くの場合、彼はあなたに恨みを持つかもしれません。

神様だけが、結婚の平和を保ちながら、あなたの旦那さんを変えることができます。

ソロモンはこう書きました。

人(または、妻)に思慮があれば、怒りをおそくする。その人(妻)の光栄は、そむきを赦すことである。(19:11)

しかし、夫たちへ、あなたに対する少し厳しい言葉があります。それは、神様が私にも言う言葉だからです。それは、「あなたの奥さんの言うことを聞きなさい。」

あなたは彼女の文句が細かいと思うかもしれませんが、本当に細かいなら、簡単に変わることができるでしょう。そうすれば、あなたの奥さんに対する祝福になります。

そして、妻たち。神様は、あなたがご主人にとって祝福となることを望んでおられます。

けれども、もしあなたが彼の心のかさぶたを繰り返し剥がし続けるなら、それは祝福とは言えません。むしろ、その傷が再び開き、血が流れ出すようになれば、彼は防衛的になり、反撃してしまうかもしれません。

だから、がみがみ小言を言わずに、祈ってください。そうすれば、神様がどのようにあなたの旦那さんを変えるか、どのように神様があなたの心と態度を変えるかに驚くことでしょう。

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箴言

話す前に

箴言では、ソロモンは何度も私たちの言葉について警告します。

私の友だちは、一時期、箴言を読むのを避けたと認めました。なぜなら、彼の言葉が悪かったことを知っていて、ソロモンの警告を読みたがらなかったからです。

(ところが結局、彼の努力は無駄でした。神様は別の箇所を通して、私の友達を訓戒されました。)

とにかく、この箇所では、私たちが話す前に考えるように警告します。また、私たちが話す前に、相手の意見を聞くように忠告しています。

ソロモンはこう言いました。

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。(箴言18:2)

この箇所によれば、相手から学ぶ興味がなくて、自分が話すのが好きな人もいます。けれども、彼らが相手の意見を聞いてこそ、知恵を獲得します。

ソロモンは続けてこう言います。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4)

また、

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(6-7)

さらに、

よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。(13)

要するに、先に考えずに話せば、妻や夫、友達や上司を怒らせるかもしれません。だから、ソロモンはこう言いました。

反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19)

どれほど、あなたが先を考えずに話したために、愛する人を傷つけたでしょうか。話すのは簡単なことです。しかし、その言葉が出たら、取り戻すのは不可能です。

だから、ソロモンはこう言います。

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(20-21)

言い換えると、結局、私たちは自分の言葉の実を食べます。その実は美味しいでしょうか。まずいでしょうか。

私たちがどこにいても、私たちの言葉は私たちの人間関係に影響を与えます。私たちの言葉によって、人々は私たちを愛します。もしくは、私たちを憎みます。

だから、妻や夫、子供や同僚、教会の人たちと話す時に、私たちの言葉に気を付けましょう。

イエス様の言葉は、人々に命を与えてくださいました。私たちの言葉もイエス様の言葉のようになるように。

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箴言

真の友だち

一生を通じて、私は親友ができて、本当に良かったと思います。良い時でも、悪い時でも、彼らは私を応援し、支えてくれました。

数年前、親友の大切さを改めて感じました。その時、私はスモールグループに参加し、5人の友だちと一ヶ月に二回ほど集まり、自分の人生について話し、聖書を読み、祈り合いました。

その時、私たちの人生は非常に大変でした。私が勤めていた会社が倒産し、私は失業中でした。他の人には、彼女とのトラブルがあったり、婚約者と別れたり、奥さんががんにかかったりしました。

そのため、私たちは皆、友人を必要としていました。そして、その友人関係と神様の助けのおかげで、私たちはその問題を乗り越えました。

ソロモンは、そんな友だちについて書きました。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)

また、

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(箴言18:24)

私が高校生の時に、父はこう言いました。「お前は内気なのはよく知ってるけれど、親友が必要だよ。親友はたくさんいなくてもいいけれど、少なくとも一人は持っていた方がいい。」

その時期、私には友だちがいたけれど、親友がいなかった。私は本当に心を誰にもシェアできなかった。だから、父の言葉は私の心を打ちました。

そして、神様の恵みによって、親友ができました。特に、高校生時代、また、大学生の時代、その親友関係が私の人生を形作りました。

おそらく、私たちは自分自身に二つの質問を問うべきです。私たちにはそんな関係があるでしょうか。

そして、私たちはどのような友達でしょうか。私たちの友だちが困る時、彼らを助けるでしょうか。

それとも、私たちはすぐに逃げるでしょうか。19章では、ソロモンはそんな「友だち」についてこう書きます。

財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。(箴言19:4)

また、

貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(箴言19:7)

あなたはどうですか。あなたの友だちが苦しんでいるときに、あなたは消えてしまうでしょうか。それとも、彼らを支えて、励ましてあげるでしょうか。

もちろん、彼らが経済的な問題を抱えている場合、私たちは常にお金をあげるわけではありません。しかし、私たちはできる限り、彼らが自分の問題を乗り越えるために助けてあげるべきです。

あなたは本当の友だちでしょうか。

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箴言

効果的でも

私は以前にも言いましたが、時々箴言で、ソロモンはこの世の現実を説明していますが、神様がそれを見た時、喜ばれないだろうと思います。

箴言17:8はその一つの例です。

わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。

その箴言を読めば、ソロモンがわいろを勧めていると思うかもしれませんが、後に彼はこう言います。

悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。(箴言17:23)

ソロモンの目には、また、神様の目には、賄賂を使う人も、賄賂を受け取る人も悪者です。なぜなら、彼らは正義を曲げるからです。私たちは政治の世界でそれを見ることがあります。また、裁判所でそれを見ることがあります。

ソロモンは、そのことに関して、こう言います。

悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。(15)

たぶん、あなたは賄賂を使ったことはないでしょう。でも、どれほど悪い方法が効果的だからといって、その方法を利用するでしょうか。

例えば、どれくらい「罪のない嘘」をつくでしょうか。

それとも、あなたは、違法にインターネットで曲やビデオをダウンロードするでしょうか。

あなたは成功するかもしれませんが、神様はあなたの仕業を見て、それを忌み嫌われます。

自分自身を騙さないようにしましょう。ある方法は効果的かもしれませんが、神様の目には罪です。

だから、神様の御言葉によって、私たちの行動を評価しましょう。その行動の効果は私たちの基準ではありません。神様の言葉が私たちの基準です。

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人間関係の築き方と壊し方

この箇所では、私たちは人間関係を築き、守るための原則を読みます。

一つの鍵は、私たちの言葉に気を付けることです。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。

親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(箴言16:23-24)

私たちが他の人と話す時、私たちの言葉に気を付けなくてはなりません。

私たちは何を言った方が良いか、また、いつ言った方が良いか知っているでしょうか。私たちの言葉は魂に甘く、人々を癒すものでしょうか。

そんな言葉は人間関係を築き、守ります。

その反面、

ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(16:28)

ある人は、人間関係を癒すのではなく、その関係を壊してしまいます。例えば、彼らはしばしば噂をするので、いろんな人を傷つけてしまいます。

また、彼らが傷つけられた時、相手と話しをせずに、周りの人々にその人について悪口を言います。

しかし、ソロモンはこう言いました。

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。(17:9)

もちろん、私たちは罪を隠すべきという意味ではありません。もし、人々が本当に傷つけられた時、その罪を無視してはいけません。

とはいえ、毎日、人々は私たちに対して罪を犯します。時々、彼らはあえて罪を犯しますが、たまには、彼らは思わず私たちに対して罪を犯します。多くの場合、私たちはいらいらさせられますが、時々私たちは本当に傷つけられます。

けれども、どんな状態でも、噂をしたり、悪口を言ったりすれば、その状態は良くなりません。むしろ、その状態はもっと悪くなります。

だから、あなたが本当に傷つけられたら、相手に面と向かう方が良いです。それはイエス様の命令です。(マタイ18:15)

そして、その問題を解決するとき、その人を許してあげて、もうそのことについて話さないべきです。「もうするなと言ったでしょう?私は何回そう言わなければいけないの?」と言ってはいけません。

むしろ、過去を指さずに、相手にその問題について話すべきです。

けれども、時々、その問題が本当に小さかったら、何も言わずに、許した方が良いです。

ソロモンはこう言いました。

争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言17:14)

また、

そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。(箴言17:19)

時々、私の妻は、私の家事のやり方について文句を言います。そして、私は「細かいなぁ。どうして彼女はそんなに怒っているのだろうか」と思います。

しかし、その時、神様はこう応えられます。

「細かいかもしれないけど、簡単なことでしょう?だから、喧嘩せずに、しなさい。喧嘩すると、壁を築くだけです。そして、ずっと壁を築き続けると、あなたの結婚を壊してしまいます。」

私は自分のプライドを抑えなくてはならないけど、私の結婚にはその方がいいと思います。

実のところ、私の弱さや欠点が妻のよりも多いと思うので、妻の方が忍耐が必要だと思います。その忍耐を本当に感謝しています。

最後に、ソロモンはこう言います。

自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。(箴言17:27)

私たちが喧嘩するときには、言葉を控えて、気を付けなくてはなりません。私たちは冷静でいるべきです。なぜなら、怒りによって話すと、後でその言葉を後悔することが多いからです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は人間関係を築いていますか。それとも、その関係を壊していますか。

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私たちの心を神様の心に合わせる

私たちはしばしば、自分の計画を勝手に立て、「神様、私の計画に参加しませんか」と祈ります。

けれども、そんな考え方は間違っています。

私たちは神様に私たちの計画に参加するように招待しない方が良いです。むしろ、神様が何をしておられるのか訊いて、どうやって神様の計画に参加できるか考えた方が良いです。

ソロモンはそれを知っていたので、箴言16章では、彼はこう言いました。

人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(箴言16;1)

また、

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(9)

私たちはいろんな計画を立てることができますが、最後の答えは神様から来ます。もし、私たちの計画が神様の御心に合っていないなら、その計画は上手くいきません。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(2)

また、

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(25)

時々私たちは自分の動機に関して、自分自身を騙してしまいます。私たちは自分が正しいことをしていると思いますが、神様は私たちの本当の動機を知っておられます。

そして、私たちは自分の立てた計画が良いものだと思っているのに、結局その計画のために大損をしてしまうことがあります。

だから、計画を立てる時、私たちはこう祈った方が良いです。

「神様、私を探り、私の心を知ってください。なぜ、私はこの計画を立てるのでしょうか。この計画はあなたから来たものでしょうか。これは私の考えに過ぎないでしょうか。」

ソロモンはこう言いました。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(3)

私が以前言ったように、ソロモンは、「自分の計画を立てて、神様の祝福のために祈りなさい」と言っていません。

むしろ、私たちは主の御心に従って、こう訊くべきです。「主よ。これはあなたの御心でしょうか。私はこの道を行った方が良いでしょうか。」

私たちがすべてを神様に奉げ、自分の計画を主に委ねてこそ、私たちの計画は成功します。

ソロモンはこう言いました。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(4)

神様は決して驚かれません。私たちの選択を見る時、神様は決して面食らわれません。神様は皆の選択を既に知っておられ、神様がどう反応された方が良いかを知っておられます。

だから、私たちの計画は神様の計画を決して妨げることはできません。けれども、私たちの計画が神様の計画に反しているなら、私たちの計画は失敗してしまいます。

だから、私たちはどうしたら良いでしょうか。へりくだって、神様の御心を求めるべきです。多くの人々は、神様が要らないと思うので、自分の知恵によって計画を立てます。

しかし、ソロモンはこう言いました。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(18)

その反面、

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。(20)

あなたはどうですか。

あなたの人生をどのように送っているでしょうか。あなたは勝手に自分の計画を立て、「神様、私の計画を祝福してください」と祈っていますか。神様の御心をあなたの計画に合わせようとしていますか。

それとも、あなたの計画を神様の御心に合わせようとしているでしょうか。

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その代価を本当に支払いたいの?

イエス様は弟子になることに関して、こう言われました。「費用を計算しなくてはなりません。」(ルカ14:28-33)

私たちの人生では、いろいろな費用を計算するべきです。そして、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。「私が求める物はその代価に値するでしょうか。」

ソロモンはこう書きました。

心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。(箴言15:13)

また、

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。(15)

要するに、私たちの心の調子は私たちの喜びのレベルを左右します。

もし、心の中に主の喜びを持てば、私たちの顔は明るくなり、神様からのこの人生を楽しむことができます。

しかし、この世の重荷を背負い、サタンに圧迫されたなら、あなたの人生は本当にみじめなものになります。

だから、ソロモンはこう言います。

わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(16-17)

お金を持てば、幸せになると思う人もいます。けれども、多くの場合、お金を持っていても、彼らは苦しみます。彼らはいつも証券市場や景気について悩んでいるからです。

また、彼らは働きすぎるため、家族との関係が悪化してしまいます。奥さんはいつも文句を言い、子供たちも父親との関係が悪くなります。

さらに、彼らは寝不足でストレスがたまり、その結果、健康も悪化します。

その一方で、お金があまりないけれど、神様との平和と家族との平和がある人もいます。

彼らは欲しがるものをすべて持っていないかもしれませんが、必要なものを持っています。彼らはちゃんと食べられるし、ちゃんと寝られるし、洋服も持っています。それに、家族の愛も持っています。

あなたは何を求めているでしょうか。その費用を計算していますか。あなたの健康や、家族や、神様との関係は上手くいっているでしょうか。上手くいっていないでしょうか。

あなたが求めるものはその代価に値するでしょうか。

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主を喜ばせる

どうやって、私たちの主を喜ばせることができるでしょうか。

ソロモンはこう書きました。

主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。(箴言15:3)

私たちは神様から隠れることができません。神様は私たちの行動を見るだけではなく、私たちの心も見ておられます。

だから、ソロモンはこう言いました。

よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。(11)

要するに、神様が地獄でも見ることができるなら、私たちの心も神様の前では開いている本のようなものです。

だから、神様を喜ばせたいなら、正しい行動だけでは足りません。私たちの全ての心を捧げなくてはなりません。なぜなら、神様は私たちの動機も見ておられ、気にされるからです。

だから、ソロモンはこう言いました。

悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。

主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。(8-9)

あなたはどんな「いけにえ」を神様に捧げるでしょうか。

例えば、毎週の日曜日、あなたの時間を捧げて教会に行くでしょうか。けれども、月曜日から土曜日まではどうでしょうか。その日にも、主を喜ばせるためにあなたの時間を捧げるでしょうか。

あなたは、十一献金を捧げるかもしれません。また、チャリティーに寄付するかもしれません。けれども、残りのお金はどうでしょうか。主を喜ばせるためにお金を使うでしょうか。

本当に神様を愛していないなら、神様に対してあなたのいけにえや捧げものは意味がありません。

だから、ソロモンはこれも書きました。

悪人の計画は主に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。(26)

この瞬間、神様があなたの心を見たら、何を見るでしょうか。あなたは心を尽くして、神様を喜ばせようと思っているでしょうか。それとも、自分自身を喜ばせようと思っているでしょうか。

また、神様があなたを懲らしめる時、あなたはどのように反応するでしょうか。あなたはへりくだって、その懲らしめを受け入れるでしょうか。ソロモンは私たちに忠告します。

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。

また、

いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。

叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。(31-33)

だから、あなたが神様を喜ばせたいなら、二つのことを覚えておきましょう。

一つ目は、主を喜ばせるのは、一週間に一度のことではないということです。アルバイトのクリスチャンになるのは不可能です。

あなたはクリスチャンかもしれませんし、クリスチャンじゃないかもしれません。しかし、中途半端なクリスチャンという人は存在しません。

神様は私たちの一部だけを望んでおられるのではなく、私たちのすべてを望んでおられます。

二つ目は、神様が私たちを懲らしめる時、私たちはその訓戒をへりくだって受け入れなくてはならないことです。

そうすれば、私たちは神様を喜ばせることができます。

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箴言

知恵を持って、話す

箴言では、ソロモンは、しばしば私たちの言葉に関する知恵を伝えます。特に、箴言15章では、ソロモンは私たちの言葉について話します。

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言15:1)

人々が私たちに怒るとき、時々彼らは私たちに酷いことを言います。そして、私たちが酷いことを言い返すのは本当に簡単なことです。けれども、そうすれば、その人はもっと怒り狂い、その問題は解決できなくなります。

しかし、多くの場合、あなたが「ごめんなさい」と言いさえすれば、彼らは落ち着きます。

「でも、私は悪くなかった。どうして謝らなければならないのか。」と言う人もいます。

けれども、時々、私たちは思わず私たちの言葉や行動によって彼らを傷つけてしまいます。あなたは相手が敏感すぎると思うかもしれません。それに、彼らは実際に敏感すぎるかもしれません。

そんな場合、私はこう言います。「ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったけど、申し訳ありません。許してくれませんか。」

そして、その以降、私の行動と言葉に気を付けます。私が悪くなかったと思うかもしれませんが、相手の気持ちを認めて、その人に対する愛のため、またキリストに対する愛のため、彼らを傷つける言葉や行動を避けます。

ある日、私はメールを友達に送って、ちょっとその人をからかいました。彼女は爆発して、酷い返事を送りました。

そんな反応は私を驚かせました。 私は悪意を持って彼女をからかったつもりはありませんでした。 以前から何度も同じようなことを言ったことがありましたが、彼女は怒らずに笑っていたのです。

だから、彼女の返事を読んだとき、私は信じられませんでした。

けれども、私にとって大切なのは、私が悪かったかどうかではありませんでした。 私たちの友情こそが何よりも大切だったのです。 だから、私はすぐに謝り、彼女は落ち着きました。

今でも、私たちは良い関係を保っています。 しかし、あれ以来、彼女と話すときには、どんな冗談を言うかに気を付けています。

実は、あれ以来、誰と話すときも、自分の冗談に気を付けるようにしています。

ソロモンは4節で続きます。

穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。(4)

私たちの口から、どんな言葉が出るでしょうか。私たちの言葉は相手の傷を癒すでしょうか。それとも、その言葉は相手の魂を砕くでしょうか。

実は、私がその友達に謝った理由の一つは、以前、彼女が自分のお父さんについて話してくれたことです。

つまり、彼はいつも彼女とそのお母さんに酷いことを言っていました。そして、彼女たちが傷ついたときに、彼はいつも「お前たちが繊細すぎる」と言いました。

そのとき、彼は彼女たちの魂を砕いていました。ですから、私は彼の態度を真似したくなかったのです。

ソロモンは続いて、もっとポジティブなことを言います。

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(23)

私たちはそのような人になるべきです。人を傷つけることを喜ばず、時宜にかなった言葉で人を励ますことを喜ぶべきです。

ソロモンはもう一つのことを言います。

正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。(28)

あなたはどうですか。話す前に、あなたの言葉を思い巡らすでしょうか。その言葉が癒す言葉かどうか、またその言葉が命を与える言葉かどうか、確認するでしょうか。

それとも、あなたの口から悪を吐き出すでしょうか。

あなたの口から何が出るでしょうか。

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箴言

周りの人々との平和、心の中の平和

この箇所を読むと、次の三つの箴言が私の心に響きます。

罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。(箴言14:9)

時々、私のブログを日本語に翻訳するのは難しいです。なぜなら、時々新改訳と英語の翻訳は違うからです。一つの単語にはいろんな意味があり、ヘブル語の文法は英語と日本語の文法と違うからです。

この箇所は一つの例です。

多分、文法的に、日本語の方が正しいでしょう。とはいえ、その意味はちょっと分かりにくいです。

新改訳が正しいなら、多分その意味は、愚か者が自分の罪を思い出すと、彼らは罪悪感があって、苦しむということです。

けれども、多くの英語の聖書では、この箇所はこのように翻訳されています。

愚か者は過去のためのいけにえをあざけり、正しい者の間には恩恵がある。

つまり、愚か者には罪悪感がありません。誰かが彼らに「あなたは罪を犯しました。あなたは悔い改めて、神様にいけにえを捧げるべきです」と言っても、彼らは全然悔い改める気がありません。

けれども、悔い改める人は相手と和解することができます。

私たちはただの人間です。私たちは皆、意図せずに人を傷つけることがあります。多くの場合、あなたが謝ったら、その人と和解できます。しかし、時々謝罪するだけでは足りないこともあります。

例えば、自分の子供と遊ぶと約束したけれど、急用のためにできなかった場合、もちろん謝った方が良いですが、後で、予定を空けて、彼らと遊ぶべきです。正しい人はそのようなことをします。

その一方で、愚か者、つまり、道徳観念のない人は、謝らないし、償いをするのを拒絶します。むしろ、彼らは償いをする必要がないと言い張ります。「相手が気にしすぎだ」と言います。

けれども、周りの人々と平和を望むなら、償いをしなくてはならないのです。

22節では、ソロモンはこう書きます。

悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。(22)

もちろん、悪をたくらむ人は人間関係を壊します。けれども、私たちが意識して周りの人々を祝福するなら、その関係から恵みと真が生まれます。私たちが相手に親切にするなら、彼らも私たちに親切にしてくれます。

どれくらい、あなたは意識して友達を祝福するでしょうか。どれくらい、あなたの妻や夫を祝福するでしょうか。

例えば、あなたはどれくらい外食に行く時に友達におごったり、あなたの妻にバラを買ってあげたり、そのようなことをするでしょうか。

もちろん、周りの人々との平和は大切なことです。しかし、自分の心の中で平和があることも大事なことです。それに関して、ソロモンはこう言います。

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(30)

この箇所も、翻訳は少し難しいです。新改訳では「激しい」と書いてありますが、別の意味として「嫉妬」があります。

だから、ある英語の聖書はこう書いてあります。

嫉妬は骨をむしばむ。

あなたは満足でしょうか。周りの人々のものを見る時、ねたむことはありますか。彼らの仕事や持ち物、妻や夫を見る時、ねたむことはありますか。

嫉妬すると、骨をむしばみます。決して幸せを得ることはできません。なぜなら、良いものを持っていても、それに感謝できないからです。常に相手のものを見ているからです。

しかし、あなたが満足していれば、平和があり、神様からの賜物を楽しむことができます。

あなたはどうですか。周りの人々と平和がありますか。心の中で平和がありますか。

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箴言

私たちの創造主を侮る

どれくらい私たちは神様を侮るでしょうか。

あなたは「神様を侮る?私は、神様を侮らないよ。」と言うかもしれません。

けれども、私たちが神様が造られた人々を見下す時、実は私たちは神様を侮るのです。

ソロモンは何度もそう教えていました。

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者を愛する人は多い。

自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。(箴言14:20-21)

箴言を読むとき、時々私たちは20節のような箇所を見て考えます。「これは神様が望んでおられるのだろうか。」

実は、それは神様の希望ではありません。ソロモンは現実に実際に起きていることを説明しているだけです。金持ちはたくさんの友達がいますが、彼らのお金がなくなったら、その友だちもすぐにいなくなってしまいます。

放蕩息子の話がその一例です。(ルカ15章)

しかし、『現実』がいつも神様の望まれる姿であるとは限りません。

神様が語られたのは、私たちが人々を侮るとき、特に苦しんでいる人を侮るとき、それは実際には神様ご自身を侮っていることになる、ということです。

けれども、私たちがそのような人々を祝福するなら、神様は私たちを祝福してくださいます。

31節で、ソロモンはこう言います。

寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。

17章で、ソロモンは同じようなことを言います。

貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(17:5)

どうして、私たちが人々を侮る時に、私たちは本当に神様を侮ると書いてあるのでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、人々を侮る時、私たちは神様に「この人を造られた時、あなたはミスされた。この人は侮りにふさわしい人です。」と言っていることです。

二つ目は、私たちは神様のかたちとして造られたものを侮っていることです。私たちが彼らの顔につば吐きをかけたら、神様のかたちにつば吐きをかけることになります。

あなたはどうですか。貧しい者やホームレスを侮るでしょうか。弱い人を見下すでしょうか。そんな人を侮る時、私たちはイエス様を侮っているのです。

しかし、彼らに親切にするとき、私たちはイエス様に親切にしているのです。イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)

あなたは周りの人々をどのように考えますか。

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箴言

考えなさい

私には日本人の親のことはよく分かりませんが、アメリカでは、子どもが愚かなことをしたとき、親の叱責の最後にしばしばこう言われます——「考えなさい」。

私は詳しく覚えていませんが、私の父にそう言われたことがある気がします。

この箇所では、ソロモンも「考えなさい」と言います。

利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(箴言14:8)

また、

わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(15)

どれくらい、私たちは考えずに行動するでしょうか。そして、その軽率な行動によって、私たちは苦しんでしまいます。特に、私たちが怒るとき、しばしば愚かなことをしてしまいます。

だから、ソロモンはこう言いました。

愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。(16-17)

また、私たちは神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼ることがあります。その時、私たちはソロモンの言葉が正しいと分かるようになります。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(12)

それでは、私たちはどうすれば良いでしょうか。まず、ソロモンは二つの警告をします。

あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。

愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。(6-7)

つまり、神様からの知恵をあざけるな、ということです。聖書を読む時、「この言葉は昔の時代には合うと思う。けれども、現代には適応できない。その道徳は昔の人のためにふさわしかったかもしれないけど、もう21世紀だよ。」と言ってはなりません。

そんなことを言ったら、あなたは神様の言葉を見下しています。しかし、神様はご自分の御言葉が決して変わらないと言われます。

多くの人々は神様の知恵を捨てて、現代にふさわしい知恵を求めますが、結局見つけられません。なぜなら、神様の知恵を拒絶すると、知恵がなくなってしまうからです。

二つ目の警告は、愚か者から知恵を求めるなということです。ある人は、高ぶって、馬鹿です。彼らは神様の道を考えないし、叱責を決して受け入れません。

だから、彼らの知恵は神様の知恵に反対するものです。もし彼らの知恵に従うと、あなたは苦しんでしまいます。

では、どう生きればいいでしょうか。どうやって、最もいい道が見分けられるでしょうか。ソロモンはこう言います。

知恵のある者は用心深くて悪を避け[ます]。(16)

また、

力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。(26-27)

つまり、私たちの道を考える時、私たちは主を恐れるべきです。私たちは主に尋ねるべきです。「どの道が最も良いでしょうか。どうすれば良いでしょうか。」

そうすれば、神様は本当の知恵を教えてくださいます。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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箴言

私たちの子供たちを懲らしめる

英語では、「Spare the rod, spoil the child」(むちを控えると、子供はだめになる)ということわざがあります。

これは聖書からきているわけではありませんが、聖書には、似ている言葉が何回も出てきます。

箴言13:24で、ソロモンはこう書きました。

むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

時々、親はこう言います。「私は子供を愛しているので、彼らが悪いことをしても、私は懲らしめることができない。彼らの涙を見たくないから。」

しかし、ソロモンが言ったのは、「あなたは自分の子供を懲らしめないなら、本当にその子供を愛していないのです。あなたはその子を憎んでいるのと同じです。」ということです。

どうしてソロモンはそう思ったのでしょうか。他の箴言で、私たちはソロモンの答えを読むことができます。

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。(19:18)

つまり、子供を懲らしめないことは、その子どもを殺すようなものです。なぜなら、子供を懲らしめないなら、その子供は自分の愚かな行動によって、殺されるかもしれないから。

箴言では、この言葉もあります。

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(23:13-14)

むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(29:15)

要するに、子供たちはすべてのことを知りません。だから、彼らの愚かな行動によって、彼らは周りの人々だけではなく、自分自身をも傷つけてしまいます。最悪の事態では、彼らの行動は死に導くかもしれません。

例えば、あなたが子供に「道に飛び出すな」と決して言わなければ、どうなるでしょうか。

その一方で、あなたが「止まれ」と言う時、子供がさっそく止まることを訓練すると、その子供の命を救うでしょう。

あなたの子供を懲らしめるのは、親に対しても、子供に対しても苦しいことです。私の娘を懲らしめるのは嫌いですが、彼女の利益のために私は彼女を懲らしめます。

いろんな懲らしめ方があります。私の家では、タイムアウトのシステムを使います。娘は悪いことをしたら、自分の部屋に行かなくてはなりません。そのあと、私は彼女と話します。

彼女が2〜3歳くらいの時、私たちはそのように何回も懲らしめました。幸い、最近はそんな必要はあまりありません。

私はもう娘を懲らしめたくないです。けれども多分将来、またしなくてはならないでしょう。

あなたはどうですか。あなたの子供を愛して、懲らしめるでしょうか。

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箴言

知恵のある人と歩む

私が知っている牧師の一人は、この箇所が大好きです。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

その牧師はこの箇所をこのように説明します。

「ソロモンは、愚か者の友達が愚かになると言いません。(でも、もちろん彼らといつも時間を過ごすなら、あなたも愚かな決断をしてしまうかもしれません。)

ソロモンは、あなたが愚か者の友達になると害を受けると言います。愚か者と一緒によく遊ぶと、最終的に私たちは苦しんでしまいます。」

あなたにも、振り返るとそんな経験があるでしょうか。悪い人と遊んで、彼らの悪い行動に巻き込まれて、苦しんだことがあるでしょうか。

もちろん私はノン・クリスチャンと決して一緒に過ごしてはいけないとは言っていません。

もし彼らと時間を過ごさないなら、弟子を造りなさいというイエス様の命令をどうやって成し遂げることができるでしょうか。

でも、自分自身にこの質問をしなければなりません。誰が誰に影響を与えているでしょうか。あなたは彼らに影響を与えているでしょうか。それとも、彼らがあなたに影響を与えているでしょうか。

あなたがノン・クリスチャンに影響されないように、彼らとだけ時間を過ごすのではなく、知恵のあるクリスチャンとも時間を過ごすべきです。知恵のあるクリスチャンというのは、毎日神様と歩み、神様の声を聞く人です。

そんな人と時間を過ごせば、神様はしばしば彼らを通してあなたに話します。そして、その言葉を通して、あなたは命を得るでしょう。

あなたは誰と歩んでいるでしょうか。知恵のある人と歩んでいるでしょうか。愚か者と歩んでいるでしょうか。

神様と歩み、神様の声を聞く人から意見を受けているでしょうか。それとも、愚か者の意見を受け入れているでしょうか。

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箴言

プライド

箴言には、さまざまなテーマが繰り返し登場します。その中の一つは、プライドの危険性です。

私たちのプライドによって、どのように私たちは苦しむのでしょうか。

叱責を聞かないと、私たちは最終的に悩んでしまいます。もちろん叱責を聞くのは痛いですが、将来の苦しみから私たちを救います。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。(箴言13:1)

私は父の叱責を楽しまなかった。多分、私に対する一番心を刺した父が言った言葉は「私はお前をもう信頼できない。」ということでした。

私が何回も父に嘘をついたので、彼はそう言ったのです。けれども、私は父の信頼(また、私の周りの人々の信頼)を望んだので、あれから私は正直に言うことを心掛けています。

ソロモンはこれも言います。

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。(13-14)

また、

貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。(18)

私たちは知恵のある人の言葉を聞くと、命を見つけます。なぜなら、私たちがまだ経験していないことを、彼らは経験したからです。もし彼らの意見に従えば、私たちは彼らが落ちてしまった落とし穴を避けることができます。

しかし、私たちのプライドによって、その意見を無視すると、私たちは苦しむことになるでしょう。

私たちのプライドによって、私たちの人間関係も壊れるかもしれません。ソロモンはこう書きました。

高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。(10)

実は、多くの場合私たちの喧嘩は(特に妻や夫との喧嘩は)プライドから生まれるのです。私たちは自分が悪かったと認めたくないし、自分が間違っていると認めたくありません。だから、私たちは頑固に自分の意見が正しいと言い張ります。

けれども、あなたが自分の心に素直になって認めるなら、自分が悪いと分かることがあります。

時々、私の妻は「こうするべきだよ」と言ったけど、私はそうしたくなかった。しかし、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。あなたの妻の言うことを聞きなさい。」と言いました。

時々、私が確かに正しいと思ったけど、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。この喧嘩は些細なことだから。」と言いました。

私たちのプライドを飲み込むのは難しいです。けれども、関係がうまくいくことを望むなら、プライドを捨てることを学ばなければなりません。それに、時々、妻や夫が正しいので、その意見に従った方が良いです。

あなたはどうですか。あなたのプライドに支配されていますか。それとも、あなたがプライドを支配していますか。

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箴言

人を傷つける言葉、人を癒す言葉

箴言12章では、18節と25節が私の心を打ったので、その箇所に焦点を当てようと思いました。

ソロモンはこう言いました。

軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12:18)

どれくらいあなたの軽率な言葉によって、愛する人を傷つけたことがあるでしょうか。また、どれくらい相手の軽率な言葉によって、傷つけられたことがあるでしょうか。

特に、喧嘩するときに、私たちはお互いを傷つけ合ってしまいます。だから、喧嘩するときには、何を言うか気を付けなければなりません。

基本的に私たちは相手を侮辱してはいけません。

「あなたは馬鹿だね。何でそんなことをしたの?」

「あなたは敏感すぎ。」

「あなたはあまりにも感情的だよ。」

時々私たちは相手について大げさに言います。

「あなたは決して手伝ってくれない。」

「いつも遅く帰って来るなぁ。」

そんな言葉を言うと、その問題が解決できません。むしろ相手は怒って、残酷な言葉で言い返してしまいます。そして、ソロモンが言ったように、そんな言葉は剣のように心を刺します。

冗談を言う時や皮肉を使う時にも、気を付けなければなりません。時々、誰かをからかって、思わずその人を傷つけてしまうことがあります。私にもそんな経験があって、後悔しています。

私たちの言葉によって人を癒すはずですが、どれくらい私たちは彼らを傷つけてしまうのでしょうか。

25節では、ソロモンはこう言います。

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。(25)

以前言ったように、私たちは人々をからかって、思わずに彼らを傷つけてしまうことがあります。相手を傷つけなくても、あなたは彼らを励ましてあげていないかもしれません。

彼らを愛によって励ました方が良いのではないでしょうか。彼らが悩んでいるときに、彼らを励ますとしたら、どうでしょうか。

また、「あなたのために祈りましょうか」と言えば、どうでしょうか。

神様は私たちがそんな人になることを望んでおられます。イエス様はそのような方でした。

あなたはどんな人でしょうか。

あなたの言葉は人々を傷つけるでしょうか。彼らを癒すでしょうか。

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箴言

単刀直入な知恵

箴言12章は本当に単刀直入ですね。

訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。(箴言12:1)

箴言では、このテーマがよく出てきます。賢明な人になりたいなら、あなたは喜んで訓戒を受け入れるべきです。そうしないなら、あなたは…間抜けです。

また、もしあなたがすでにすべてのことを知っていると思い、アドバイスがいらないと感じるなら、それは間抜けな考え方です。15節で、ソロモンはこう言います。

愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(15)

そして、ソロモンは生き生きとした描写を使って、単刀直入なことわざを教えています。

しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。(4)

二つの視点から、この箴言を読むことができます。

男性の視点では、誰と結婚するか気を付けてください。その女性の見た目がもっとも大切なことではありません。

もし、その女性がしっかりした人なら、彼女はあなたの人生を豊かにするでしょう。しかし、恥をもたらす妻はあなたの骨の中の腐れのようです。

女性の視点では、あなたはどんな妻でしょうか。あなたの夫に命と喜びを与えているでしょうか。それとも、あなたは夫の人生に腐敗を引き起こしているでしょうか。

もう一つの単刀直入なことわざ。

自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。(11)

多くの人は、頑張って働かずに、ギャンブルしたり、宝くじを買ったりするので、結局、彼らはすべてをなくしてしまいます。

もし、彼らがちゃんと働いていたなら、生活できたでしょうが、彼らの金を捨ててしまったのです。

最後の単刀直入なことわざがあります。

愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(16)

あなたはすぐ自分の怒りを現すでしょうか。あなたの夫に対して?あなたの妻に対して?あなたの同僚に対して?あなたの友達に対して?もしそうするなら、ソロモンはあなたを愚か者だと言います。

なぜなら、誰かがあなたをイライラさせるときに、あなたがいつも怒りを現すと、その人を傷つけ、その関係を壊してしまうかもしれないからです。

誰かがあえてあなたをイライラさせるときにも、爆発するより、そのことを無視した方がいいです。もし爆発すると、その人は喜んで、あなたをもっとイライラさせようとするかもしれません。

では、私はあなたが決してその人に面と向かわない方が良いと言っているのでしょうか。それは違います。もし、あなたの夫や妻や友達があなたを思わずイライラさせるなら、彼らと話した方がいいと思います。

一度話しましょう。二度話しましょう。もし何も変わらないなら、彼らを神様の手に委ねましょう。そして、忍耐のために祈りましょう。

あなたが人々を変えることができないことを覚えておきましょう。神様だけが人々の心を変えることができます。

だから、自分の努力で相手を変えようとしないでください。人を変えられる神様の御手に委ねましょう。

この箴言を見るとき、ソロモンが言ったように、間抜け者にならないように。頑固にならないでください。言い訳を言わないようにしましょう。

むしろ、私たちは賢明な人になりましょう。神様の訓戒を受け入れましょう。そうすれば、私たちのフラストレーションは減り、私たちの喜びは増えるでしょう。

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神様の恵みのパイプラインになる

もう箴言11章について書いたけど、もうちょっと24-30節を見たいと思います。

この箇所は人に恵みを与える喜びについてです。あなたが人々に恵みを与えるとき、もちろん彼らが祝福されるけど、あなたも祝福されます。ソロモンはこう書きました。

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。(箴言11:24)

私たちは神様の恵みのパイプラインになるように呼ばれました。神様が私たちに恵みを与えてくださるとき、私たちはその恵みを周りの人々に与えるべきです。

そして私たちが周りの人々に恵みを与えるとき、神様がさらに私たちに恵みを与えるので、私たちはさらに周りの人々に恵みを与えることができます。

パウロはこの原則をこのように説明します。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、11)

けれども、もし私たちが自分のお金にしがみつくと、その恵みのパイプラインは詰まってしまいます。

だから、私たちの周りの人々が祝福されないし、神様は私たちの人生に恵みを注がれなくなります。なぜなら、あなたのパイプラインが詰まっているので、神様の恵みはもう入れないからです。

その反面、ソロモンはこう言います。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(25)

私たちは周りの人々に恵みを与えて、恵みのパイプラインになると、私たちも潤されます。

英語では、「Random acts of Kindness](ランダムな親切な行動)という表現があります。

例えば、ホームレスの人に出会ったら、あなたはその人にお金をあげる。また、あなたは花屋を見たら、急にあなたの友だちについて考えて、その友達に花を買ってあげます。

もちろんそれは良いことです。しかし、私は「意識して親切にする人」について聞きました。その人は周りの人々をよく見て、意識して「どうやってその人を祝福できるだろうか」と思います。

彼がすぐに分かってきたのは、人々を祝福するとき、彼も祝福されることです。キリストの愛が彼を通して流れて、人々に触れることを見るとき、彼は大喜びです。

どれくらい、私たちがけちなので、その喜びを経験する機会を失うでしょうか。私たちが神様のパイプラインになったら、どれくらい私たちは喜ぶでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26)

どれくらい、私たちが恵みのパイプラインを詰めるので、私たちのクリスチャンの証は汚れるでしょうか。なぜなら、周りの人々は私たちを通してキリストの愛を見ずに、自己中心の人だけを見るからです。

あなたはどうですか。周りの人々があなたに出会うとき、彼らはキリストに出会うでしょうか。

30節で、ソロモンはこう言いました。

正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。(30)

人々は私たちに出会うとき、命に出会うはずです。もし神様の愛が私たちを通して流れるなら、彼らは命に出会います。その愛は彼らを私たちに近づけるだけではなく、神様に近づけます。

ソロモンは、「知恵のある者は人の心をとらえる」と言いました。けれども、神様の愛と恵みがあなたを通して流れないなら、神様のために人の心をとらえられないです。

私は何か認めなくてはなりません。私は何回もその恵みのパイプラインを詰めたことがあります。私も変わらなくてはなりません。あなたはどうですか。あなたは神様の恵みと愛のパイプラインでしょうか。

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箴言

将来を考える

この箇所の繰り返すテーマは将来を考えることです。特に、私たちは自分の行動の結果を考えるべきです。

多くの人々はそうしません。数年前、私は「すっからかん」というアメリカのスポーツ・ドキュメンタリーを見ました。

その番組で、多くの有名なプロ選手は自分の愚かな決断について話していました。彼らは何百万円を稼いだけど、すべてを失ってしまいました。

一人の選手はヨットと二台の車と大豪邸のために7億円を払いました。もう一人の選手は、9人の女性と関係を持ち、11人の子供がいるので、その女性たちとその子供たちを養うために何百万円も支払わなくてはなりませんでした。

彼らは自分の行動の結果について全く考えなかったので、多額のお金を支払わなくてはならず、さまざまな苦しみを経験しました。

この箇所の例は違いますが、教訓は同じです。もし将来を考えないと、結局あなたは苦しみます。

プライドが私たちの人生を治めたら、私たちは没落してしまいます。自分の地位を自慢する人もいます。自分の持ち物を自慢する人もいます。また、自分の才能を自慢する人もいます。

けれども、そんなプライドは没落に導きます(2節)。その選手たちは破産して、その教訓を学びました。

ある人は経済的に賢いですが、彼らは自分の情欲に治められます。

彼らについてソロモンはこう言いました。

財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。(箴言11:4)

裁きの日に、彼らはソロモンの言葉が真理であることが分かります。

私たちはお金によって天国に入ることはできません。なぜなら、神様は私たちのお金を必要とされないからです。

キリストを信じる信仰に基づいて、神様から与えられる義だけが私たちを救うことができます。もしその義を拒絶したら、神様の怒りを受けることになります。

この世には力がある人もいます。けれども、もし彼らが神様の前にへりくだらないと、裁きの日にその力は彼らを救うことができません。ソロモンはこう言いました。

悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7)

新改訳では「邪悪な者」と書いてありますが、他の翻訳では「力のある人」とされています。

とにかく、邪悪な人でも、彼らが悔い改めて、へりくだったら、神様の憐みを知ります。けれども、彼らがそうしないなら、彼らの希望は無くなります。彼らの力は救うことができません。

ある人は、罪にふけっているので、本当の自由を発見したと思います。彼らは神様の道を行く人が束縛されていると思います。しかし、ソロモンはこう言いました。

潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。

直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。(5-6)

つまり、私たちが神様の道を行くなら、私たちの人生はうまくいきます。しかし、自分の道を行くと、私たちは最終的に滅びてしまいます。私たちの結婚や他の人間関係を壊してしまいます。私たちが頑張って築いたものも壊れてしまいます。

それに、私たちが自由だと思っていたのに、自分の情欲に束縛されていることに気づくでしょう。その情欲によって私たちの人生が壊れているのに、変わることができないと分かるようになります。

どれくらいの人々がギャンブルや、お酒や、麻薬や、不倫によって、自分の人生を壊しているのに、自分自身を止められないでしょうか。

この箇所の後半では、ソロモンは他の人々について話します。彼らも自分の行動の結果を予想できません。

ある人が誰に話すかに気をつけないので、彼らの秘密がばれてしまいます。(13節)

ある人がほかの人々の知恵を求めずに、自分の知恵だけに頼るので、彼らの人生はダメになってしまいます。(14節)

ある人は、お金を儲けることに集中して、人間関係を無視するので、彼らは誉れと愛をつかめず、ずっと独りぼっちです。(16節)

ある美人はどう生きるか、誰に自分の心を与えるべきなのか気をつけないので、傷つけられてしまいます。(22節)

ある人の人生がうまくいくとき、誰にも助けてあげないので、彼らの人生が苦しくなる時、誰も彼を助けてあげません。(24節)

ある人が自分の行動が家族にどんな影響を与えるか気にしないので、その関係は壊れてしまいます。(29節)

私たちは将来を考えないと、苦しむことになります。この世で苦しむかもしれないし、裁きの日に苦しむかもしれません。

あなたはどうですか。どのように生きているのでしょうか。あなたの将来を考えているでしょうか。

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あなたはどんな名前を持っているでしょうか。

シェイクスピアはこう聞いた。「名前はなんだ?」

ソロモンはこう答えました。

正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。(箴言10:7)

例えば、人々がヒトラーという名前を聞くと、悪いイメージがすぐに浮かびます。多分だれも自分の子供にその名前をつけないでしょう。

でもクリスチャンがヤコブや、ノアや、マリヤや、ハンナという名前を聞くと、良いイメージが浮かびます。実は、アメリカでは、ヤコブとノアは、今でもとても人気の名前です。

あなたにはどんな名前があるでしょうか。つまり、あなたにはどんな評判があるでしょうか。それは大部分あなたの人生によります。

ソロモンはこう書いた。

知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。(1)

知恵のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは勤勉で、よく働きます。(4-5)
  • 彼らは権力を認めて、戒めを受け入れます。(8,17)
  • 彼は正直な人です。(9)
  • 彼らは人々に赦してあげます。(12)
  • 彼らの口から命が流れます。(11)
  • 彼らの口から知恵がえられます(13,31)。
  • 彼らがいつ黙った方がいいか分かります(19,32)。
  • かれらの言葉は、人々を養います(21)。
  • また、彼らは絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めます。 (第二テモテ4:2)

朽ち果てる名前のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは怠けている。(4-5、26)
  • 彼らは戒めを受け入れないので、思慮がないです。それに、ほかの人々をその悪い道に導きます。(8、13、17)
  • 彼らは心の中で憎しみを抱いて、人々を傷つけます。(11-12)
  • 彼らの言葉に気を付けないので、周りの人々を傷つけます。時々、彼らは自分自身も傷つけてしまいます。(8、14、19ー21)

あなたはどんな人でしょうか。人々はあなたを見るとき、どんな人を見ますか。

あなたが亡くなると、彼らはあなたについて何を思い出すでしょうか。

あなたを知っている人々を祝福する名前を残すでしょうか。もしくは朽ち果てる名前を残すでしょうか。

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知恵:良い方向に変わる気がある

神様の私たちに対する愛と受け入れを、罪の許可と取り間違える人もいます。

彼らは「神様はもう私を受け入れてくださっているなら、どうして私は変わらなくてはならないだろうか。好きなように生きてもいいんじゃないか。」と思います。

しかし、この箇所によれば、知恵のある人は良い方向に変わる気持ちがあります。

この箇所は二つの招きで始まり、終わります。一つ目の招きは知恵から来ます。彼女は自分の家を整え、私たちが入るように招きます。彼女はこう言います。

「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。

また、思慮に欠けた者に言う。「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、(箴言9:4-5)

多くの人々は自分の行動の結果を全く予測できません。彼らはどんなふうに生きても、すべてが何とかなってしまうと思います。けれども、彼らの道は痛みに導き、最終的には死に至ります。

だから、知恵は叫びます。「その道を行き続けないでください。あなたのわきまえのない道を捨ててください。私はより良い道を示します。その道は命に導きます。」

しかし、愚かな女はこう言います。

わきまえのない者はだれでもここに来なさい。。。盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。(箴言9:16-17)

(知恵のように、ソロモンは愚かさを女性と比べています。もしまだ読んでいないなら、昨日の記事を読んでください。)

要するに、「どうぞ自分の道を生き続けてください。罪は甘いものですよ。罪はおいしいし、あなたを喜ばせるから。」

あなたはどんな人ですか。良い方向に変わる気がありますか。

もちろん、神様はあなたをありのままで愛しておられます。けれども、神様があなたを愛しておられるなら、あなたを泥に住むままには残したくないのです。

ソロモンはこう書きました。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。

知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。

正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。(箴言9:7-9)

イエス様はこのように言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

イエス様は犬や豚(つまり、あざける者)に聖なるものや真珠を与えてはならないと言われます。(その文化では、犬と豚には悪いイメージがありました。)なぜなら、彼らはその知恵に感謝せず、あなたを攻撃するからです。

けれども、知恵の真珠を知恵のある人に与えると、ソロモンは彼らがもっと賢くなると言います。

だから、私たちは自分自身にこう問うべきです。私たちは知恵のある人でしょうか。もしかしたら、私たちは犬や豚でしょうか。

人々があなたを戒めるなら、どうしますか。あなたはその言葉を反省するでしょうか。それとも反省せずにその言葉を拒絶するでしょうか。

あなたはへりくだって、人々からの戒めを受け入れられるでしょうか。それよりも、神様からの戒めを受け入れられるでしょうか。それをしてこそ、あなたは本当の知恵と命を見つけることができます。

だからソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。

もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。

もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言9:10-12)

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神様のみ言葉を正しく理解する

時として、人々は聖書をどのように読めばよいか分からず、聖書の内容を正しく理解できないことがあります。

たとえば、関係のない箇所を組み合わせてしまい、奇妙な解釈や誤った理解が生まれることがあります。箴言8章と第一コリント1章24節は、その一例です。

たとえば、エホバの証人は箴言8章を読んで、「この箇所はイエス様のことを語っている」と考えます。なぜそう思うのでしょうか。

それは、「知恵」が人間のように語っているからです。特に22ー31節では、知恵がこう語っています

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。(箴言8:22-23)

また、

地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(29-30)

だからエホバの証人はこう言います。

「第一コリント1:24によれば、キリストは神の知恵です。

ですから、箴言8章では、イエス様が語っているのです。この箇所によれば、神様は創造の働きを始める前から、イエス様を立てられました。つまり、神様がイエス様を造られたのです。

だからイエス様は神様ではなく、神様の被造物なのです。」

けれども、箴言7章から8章を丁寧に読むなら、その考え方が誤っていることに気づくはずです。

残念ながら、新改訳の表現ではその誤解が見えにくいかもしれません。それでも、7章と8章を通して、知恵が女性として描かれていることがわかります。

実際、新改訳でも7:4にその描写が見られます。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。

そして、8章でも、ヘブル語で、こう書いてあります。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知は彼女

これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに彼女は立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で彼女は

英語の翻訳を読むと、「彼女(she)」という表現が明確に使われていることがわかります。

それを見ると、おそらくエホバの証人の解釈に問題があることに気づくでしょう。彼らは「イエスは箴言8章の知恵である」と主張しますが、イエス様は女性ではありません。

それでも彼らは、箴言の箇所と第一コリントの箇所、さらにコロサイ1:15ー17節を組み合わせて、「イエス様は神ではなく、被造物である」と結論づけます。

しかし、そのようなまとめ方をすれば、聖書からどんな主張でも導き出せてしまうことになります。

「ユダは」外に出て行って、首をつった。(マタイ27:5)

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

さあ、自殺しようか。

それは極端で愚かな話です。けれども、文脈を無視して関連のない箇所を組み合わせると、そのような誤った解釈が生まれてしまいます。

ですから、聖書を読むときには、必ずその箇所の前後を丁寧に読みましょう。そうしないと、エホバの証人のように、私たちも誤った考えに導かれてしまうかもしれません。

箴言7章から8章にかけて、ソロモンは何を語ろうとしているのでしょうか。知恵は本当に女性なのでしょうか。そうではありません。彼は比喩を用いて、知恵を女性になぞらえているのです。

そして、ソロモンはこう語ります。 「知恵はあなたを呼びかけています。不貞な女があなたを誘惑するように(7章参照)、知恵もあなたに語りかけているのです。

しかし、不貞な女はあなたを死へと招いています。

知恵はあなたを真の命へと導きます。神様が天地を創造された時、知恵は神様とともにおられました。そして、知恵を通して、すべての被造物はどのように生きるべきかを知ることができるのです。」

知恵によって、王たちは治め、君主たちは正義を定めます。知恵によって、支配者たちは国を導きます。

今、知恵は分別のない者に呼びかけています。知恵を通して、あなたも分別を身につけることができます。思慮深さを得て、祝福にあずかることができるのです。

知恵を見出すなら、この世のどんな宝物にもまさる価値あるものを見つけることになります。

知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11)

実は、私は少し古い歌「More Precious Than Silver」(銀にまさる)がとても好きです。この歌は箴言8:11と3:15節に基づいています。

その歌の作詞者の意図は分かりませんが、おそらく彼はその箇所を正確に理解していなかったのでしょう。きっと「知恵はイエス様のことだ」と考えたのだと思います。

だから、彼はこう書きました。

「主よ、あなたは銀にまさります。あなたは金より価値があります。あなたはダイヤよりも美しいです。私が求めるものは、何もあなたに勝るものはありません。」

もちろん、イエス様はすべてにまさるお方です。とはいえ、箴言のこの箇所では、知恵は「男性」ではなく「女性」として描かれています。

とにかく、私たちは主を求めましょう。主の知恵を求めましょう。ただし、その言葉を正しく読み、正しく理解することが大切です。

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簡単に騙される

私の娘が保育園に通っていたころ、運動会に行きました。「釣り」をする競技があって、子供たちは「釣り場」まで走って、プレゼントを捕まえようとしました。実を言うと、そこにいる先生がそのプレゼントをフックに付けてくれました。

アメリカでは、ボウルにいる金魚を捕まえるゲームがありますが、その運動会のゲームはもっと簡単でした。私の娘はほとんど何もしませんでしたが、そのプレゼントを捕まえることができました。

とにかく、英語では、「It’s like catching goldfish」、つまり「金魚を捕まえるようだ」という表現があります。その意味は「それをすることはとても簡単。」ということです。

多くの人々はその金魚のようです。そして、悪魔が彼らを騙して、引っ掛けるのは本当に簡単です。ソロモンはこの箇所で、例を挙げています。

ある若い男性がすぐにトラブルに陥りました。なぜでしょうか。

一つの理由は彼が思慮に欠けたからです。彼はずっとわきまえのない者たちと一緒に遊びました。その友達も道徳観念がなかった。そして、彼は現在のために生きて、将来を全然考えませんでした。

二つ目の理由は、彼が怠け者だったからです。また彼は深夜にうろついて、退屈していました。彼は全然予定がなかったので、不倫の女性の計画にすぐに従ってしまいました(8-9)。

彼女は家を出て、人前で厚かましく彼に口をつけ、こう言いました。「私の夫は出張中です。明日まで帰りません。私はあなたをずっと見ていて、待っていました。あなたのためにすべてを整えました。食事とか、私のベッドとか。」

14節では、彼女は「和解のいけにえをささげた」と語っています。それは神様との平和の象徴であり、神様への感謝のしるしでもありました。

この儀式の一部には、いけにえの肉を持ち帰り、家族とともに祝って食べるという習慣が含まれていました。

そのような神聖な感謝の食事を用いて、この女性は若い男性を誘惑しようとしたのです。本来なら、神様への感謝をもって夫と共に分かち合うべきものでした。

その男性はわきまえのない人だったので、彼はほふり場に引かれる牛のように彼女の家に入りました。

ソロモンは彼がその罪に落ちて、自分の命がかかると言いました。なぜなら、その主人がその罪を知ったら、多分彼を殺すからです。その主人が決して知ることがなくても、神様はきっとその男性を裁かれます。

だから、ソロモンは自分の息子に警告します。

あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。

その通り道に迷ってはならない。彼女は多くの者を切り倒した。

彼女に殺された者は数えきれない。彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(箴言7:25-27)

どうやって、私たちはその男性の運命を避けることができるでしょうか。

まず、神様の知恵を求めましょう。その知恵をあなたの仲間にしましょう。ソロモンはこう言いました。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。(4)

二つ目は、怠けてはいけません。目的がなくて、町中でうろついたら、トラブルを招きます。退屈は多くの人々を罪に導きます。多分、あなたはそのことをもうご存知かもしれません。

最後に、罪から逃げましょう。罪は魅力的に見えるかもしれませんが、神様の言葉を知っているなら、その罪が悪いものであることがすぐに分かります。

だから、罪を見ると、すぐに逃げましょう。そうしないと、誘惑がもっと強くなって、あなたはその誘惑に負けるかもしれません。

私たちがわきまえのない人にならないように。むしろ、知恵の道を歩んで、主を恐れましょう。

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箴言

罪に執着する

現代のテレビドラマで、不倫の話がよく出ています。それはごく普通のトピックのようです。それでも、多くの人はその教訓を学びません。

そのテレビ番組でも、人々は不倫して、大変な結果が出ます。人は傷つけられるし、人間関係は壊れるし、時々、人は殺されます。

テレビ番組でも、「あ、あなたは私の妻と寝ているのですか。どうぞ、続けてください。」と言う人は一人もいないと思います。

だから、ソロモンはこう言いました。

人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。

隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。(箴言6:27-29)

そして、ソロモンはこう言います。もし、誰かが飢えているので、食べ物を盗むなら、裁判官は同情するかもしれませんが、その人を罰します。

けれども、ほかの男性がある人の妻と寝るなら、その夫は全然同情せずに、その人に対して復讐しようとします。ソロモンはその不倫する男性についてこう言いました。

彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。

嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。

彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。(33-35)

だから、ソロモンは「あなたの心を守りなさい」と言います。「不倫するな。また、売春婦を避けなさい。」

ソロモンはこれも言いました。

遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。(26)

つまり、売春婦はあなたのお金を全部取ってから、いなくなります。そして、不倫すると、あなたの結婚と家族は壊れるし、性病にかかるかもしれません。もしかしたら、あなたは殺されるかもしれません。

しかし、不倫だけではなく、すべての罪は人々を滅ぼします。

だから、罪に執着にしないように。その罪は魅力的かもしれませんが、最終的にはその罪は火のようにあなたに火傷を負わせます。またその罪は私たちのものを取って、私たちを滅ぼします。

むしろ、私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で命を捧げられた方を求めましょう。毎日、イエス様をさらに深く愛することを学び続けましょう。そうすれば、真の愛と真の命に出会うことができます。

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悪魔の子のようにふるまうのか?神様の子のようにふるまうのか。

この箇所では、ソロモンは「よこしまな人」について話します。ある英語の翻訳では、「役に立たない人」と翻訳されます。

その人は自分のために生きて、どんな権力でも反対するので、神様に対しても、人間に対しても全然役に立たない人です。

聖書では、日本語の「よこしま」という言葉は、ヘブル語の「ベリアル」という言葉です。

ベリアルはサタンの名前の一つです。だから、「よこしまな人」は「ベリアルの子」です。

イエス様に対する悪意のあるユダヤ人に、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)

そんな人は、話すときにも、目くばせをしても、指でさしても、足で合図しても、悪い意図があります。ソロモンは神様がいつかそんな人を罰されると言います。

そして、ソロモンは神様が憎むものについて話します。

1. 高ぶる目。

彼らは高ぶって、人々を見下します。それに、彼らは神様をご覧になるとき、そむく態度を取ります。

C.S.ルイスは「プライドは最悪の罪」と言いました。なぜなら、プライドは人々の間に距離を置くし、神様と人間の間に距離を置くからです。

2. 偽りの舌。

多くの人々は偽りを軽く考えますが、神様にとっては、偽りは本当に深刻なことです。嘘をつく人は悪魔の子です。なぜなら、イエス様は「悪魔は偽りの父である」と言われるからです。

あなたはいつも真理を言うでしょうか。

3. 罪のない者の血を流す手。

アガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロの口癖は「私は殺人に同意しない。」ということです。

けれども、神様は殺人に同意しないだけではなく、殺人を憎まれます。なぜなら、人が殺されたら、神様が大事にされるものが滅びるからです。

神様が私たちを造られたので、私たちにはすごい価値があります。

しかし、心に留めておきましょう。もしあなたが誰かを憎むなら、あなたの心の中で彼らを殺したようなものです(第一ヨハネ3:15)。

そうすると、あなたはサタンの道を行っています。なぜなら、彼は初めから人殺しだったからです。

4. 邪悪な計画を細工する心。

時々私たちは思わず罪を犯してしまいます。例えば、悪いことが起きるので、私たちは怒って、悪いことをしてしまいます。

もちろん、それでも、あなたの罪に言い訳はありません。しかし、神様にとって、あなたが悪いことをする計画を立てたら、それはより悪いです。

思わず罪を犯すのと、あえて罪を犯すのは別のものです。

5. 悪へ走るに速い足

ためらわずに罪を犯す人もいます。彼らには全然良心がないみたいです。彼らは自分の良心を押さえつけ、彼らにとっては、罪は魅力的なものです。それに、彼らは罪を喜び、その罪について自慢します。

6. まやかしを吹聴する偽りの証人。

この人は隣人に関して嘘をつきます。彼らは人々を中傷して、その評判を汚します。噂をする人も評判を汚せます。

7. 兄弟の間に争いを引き起こす者。

神様は私たちを平和をつくる者として呼ばれます。けれども、平和を作りたいよりも、争いを引き起こしたい人がいます。彼らは噂したり、「あなたについて、だれだれさんが何を言ったか知っていますか?」と言ったりします。

彼らの目的は和解ではなく、その距離をもっと広げることです。神様はそのような態度が大嫌いです。

あなたはどうですか。このふるまいのリストにはあなたに関連があるでしょうか。悔い改めましょう。

あなたは神様の子供のようにふるまっているでしょうか。悪魔の子のようにふるまっているでしょうか。

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経済的に安定する

私が経済のことについて話すのが特別な資格がないので、経済のことについて話すのはちょっと気まずいです。けれども、ソロモンは経済について話すので、彼が何を言ったか読みましょう。

箴言では、お金についてのアドバイスがたくさんあります。この箇所では、二つの助言があります。

一つ目は、誰かの保証人にならない方がいいということです。特にローンのために保証人にならない方がいいです。

日本では、そのアドバイスはちょっと厳しいです。私たちがアパートを借りるとき、普通、不動産屋は保証人を要求します。また、日本のビザを得るために私は保証人が必要でした。

だから、この箇所によると、私たちは決して保証人にならないべきでしょうか。そうではないと思います。

とはいえ、もしあなたが保証した人が困窮するようになり、代わりにあなたが支払いを求められるとしたら、その金額を支払うことができるでしょうか。あるいは、その支払いによって、あなたの経済状況が本当に厳しくなることはないでしょうか。

もしあなたの生活に支障がないのであれば、その人の保証人になってもよいでしょう。

けれども、もしあなたがその金額を支払えないのであれば、こう伝えるべきです。

「すみません。私はあなたのことが好きですし、あなたを信頼しています。でも、私たちの未来はまだ見えていません。

もし、あなたの状況が悪化して、私が代わりに支払わなければならなくなったら、私自身の経済も立ち行かなくなってしまいます。」

投資について考えるときにも、同じ原則が当てはまると思います。私も投資をしていますが、たとえそのお金が失われたとしても、私の家族が困ることはありません。(もちろん、それはとても痛いことですが。)

つまり、投資をするときには注意が必要です。もし投資したお金が失われた場合に家計が苦しくなるようであれば、そのお金は投資すべきではありません。

次のソロモンの助言は、一見するとただの常識のように思えるかもしれません。それでも、多くの人々はその常識に従っていません。その助言とは、できるだけ長く働き、将来のために貯蓄することです。

日本には「フリーター」と呼ばれる人々がいます。彼らには安定した仕事がありません。中には、教育の機会に恵まれず安定した職に就けない人もいれば、そもそも働く意欲があまりない人もいます。

私が読んだある記事によれば、少しだけ働いて貯金し、その後仕事を辞めて、お金が尽きるまで遊ぶ人々がいるそうです。そして、お金がなくなると、再び仕事を探します。彼らはその生活パターンを繰り返し続けているのです。

しかし、ソロモンは彼らに関して、こう言います。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。

蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(6-11)

要するに、そのような生活を続けていると、貧しさに陥ってしまいます。その生き方は近視眼的であり、先を見据えた知恵が欠けています。

さらに、そのような生活は神様にまったく栄光をお返ししません。なぜなら、神様から授かった才能を無駄にしているからです。そして、いつか神様の御前で、自分の歩みについて申し開きをしなければならなくなるでしょう。

だから今日、ソロモンから二つの助言を受け取ることができます。

  • 第一に、もしあなたに十分な資金がないなら、他の人の保証人になることは避けましょう。また、投資をする際には、どれほどの金額を投資するか慎重に判断してください。
  • できるだけ長く働き、将来のために貯蓄することを心がけましょう。
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あなたの妻(夫)を喜ぶ

箴言の中でいくつかの姦淫に関する箇所があります。これはその一つの箇所です。

この世では、多くの人々は結婚の意味が分からなくなりました。だから、彼らはセックスに関しても、分からなくなりました。

結婚というのは、人々は互いに相手を喜び合うことを学んで、一体となることです。それは性的だけではなく、感情的に、また霊的に一体となることです。

二人が一体になると、その関係はほかの人間関係と比べられません。彼らは互いに相手のことを全く知っているけど、全く受け入れ合います。

ある日、私はこんな言葉を書いているTシャツを見ました。”Love is blind.”(愛は盲目です。)

それは間違っていると思います。本当の愛はすべてを見るけど、相手を受け入れて愛します。相手のすべてを見ても、その人を喜びます。

夫婦にそんな関係があれば、彼らはスリルを感じます。なぜなら、彼らは互いに愛し合ったり、受け入れたりするからです。

あなたは相手に裁かれないし、他の人と比較されません。むしろ、あなたはありのままで受け入れられます。それに、あなたの欠点と弱さがあるのに、相手があなたを喜ぶことを知っています。

一方で、不倫する人はどうですか。彼らはそんな関係ができません。

もし、彼らが自分の夫か妻を捨てて、あなたと不倫すると、いつか彼らはあなたを捨てて、ほかの人と不倫するかもしれません。

彼らがそうしなくても、あなたはその疑いと不安を感じるでしょう。もし、彼らが現在の夫か妻をあなたと比較するなら、将来、彼らはあなたをもっと素敵な人と比べ始めるかもしれません。

その不倫する人は自分の愛が彼らをどこに連れていくか知りません。彼らはただ自分の感情についていくからです。また、彼らは自分の道がどんなに曲がったか知りません。

ソロモンはそんな人に関して、こう書きました。

その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。(箴言5:6)

そんな人とは長期の関係ができません。最初、その関係は楽しいかもしれないけど、最終的にその関係はあなたの口に苦い味を残してしまいます。

ソロモンはこう書きました。

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。

その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。(箴言5:3-5)

それに、姦淫の道は永遠の死に導くかもしれません。この個所では、ソロモンは私たちに警告します。神様は私たちを見て、私たちの罪を裁かれます。

それだけではなく、姦淫は物理的な死に導くかもしれません。例えば、嫉妬深い夫か妻の手であなたは殺されるかもしれません。もしくはエイズやほかの性病によってあなたは死ぬかもしれません。

また、姦淫によって、あなたは経済的に苦しむかもしれません。そして、どれぐらい、人々は自分の夫か妻を捨てた後で、すぐ自分の恋人に振られるでしょうか。

だから、ソロモンはこう言いました。

あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。

あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。

あなたのところにいる他国人のものにするな。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:15-19)

つまり、あなたの時間とエネルギーを不倫するために使わないようにしましょう。その関係は最終的に幸せに導かないからです。

むしろ、あなたの夫を喜びましょう。あなたの妻を喜びましょう。彼らの愛に夢中になりましょう。

神様が彼らを愛しておられるように、私たちも彼らを愛することを学びましょう。また、神様があなたを愛しておられるように、あなたも彼らに愛されることを学びましょう。

そうすれば、結婚における満足、そして性的な面でも満たされるようになるでしょう。

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足元に注意する

「足元にご注意ください。」

私たちが危険な状態に入っているとき、人々は私たちにいつも警告してくれます。そして、この世には、いろんな落とし穴があります。

だから、ダビデはソロモンにその落とし穴について警告して、ソロモンも自分の息子に警告しました。

彼はこう言いました。

わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。

私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。

あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。

訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。(箴言4:10-13)

ダビデとソロモンが自分の息子たちに警告したように、神様も私たちに神様の息子と娘として警告してくださいます。

神様が私たちを正しい道に導いておられるので、私たちが神様に従うと、周りの人々が躓くかもしれませんが、私たちは決して躓きません。もし、神様のみ言葉を見守るなら、私たちは命の道を見つけます。

どれぐらい、クリスチャンのリーダーたちはその教えを見守らなかったので、躓いたでしょうか。

彼らを批判するのは簡単なことですが、私たちが気を付けないと、私たちも躓くでしょう。私たちも同じ罪に落ちるでしょう。

だから、ソロモンは「足元に注意しなさい」と警告します。

また彼は、「罪人の道を避けなさい。むしろ、日に照らされる道を歩みなさい。その道は命に導くから。」と言います。

ソロモンはこう言いました。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。(18-19)

要するに、私たちがイエス様に従えば従うほど、イエス様は真理をもっと表してくださるし、私たちの道はもっとはっきりします。

しかし、聖書の光を拒絶すると、私たちは目が見えなくなって、躓き、落とし穴に落ちてしまいます。

ソロモンはこの個所をこの言葉でまとめます。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(23)

要するに、あなたの心に何が入らせるか気を付けましょう。また、あなたの心がどこに行かせるか気を付けましょう。あなたの心を危ない所に行かせないようにしましょう。

むしろ、

あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。

あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。

右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。(25-27)

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知恵を尊重する

この箇所では、ソロモンはその父ダビデの言葉を思い出します。ソロモンにとって、その言葉は本当に印象に残りました。ダビデはこう言いました。

父は私を教えて言った。

「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。

忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。

知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。

それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。

それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」 (箴言4:4-9)

ソロモンはその言葉に感動したので、神様がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたとき、ソロモンは富や力を願いませんでした。むしろ、知恵を願いました。神様は喜んでその知恵を与えてくださいました。

そのように、もしあなたが知恵を求めると、神様はその知恵をあなたに与えてくださいます。ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

しかし、どれぐらい私たちは知恵を尊重するでしょうか。私たちは知恵を積極的に求めているでしょうか。

特に、あなたは聖書から知恵を求めているでしょうか。毎日時間を取って、聖書を読むでしょうか。どれぐらい読むでしょうか。

多くのクリスチャンは日曜日だけに聖書を読みます。後は、彼らは「聖書の断食」をします。

だから、私たちの人生を送る時、私たちは知恵がないので、どうして私たちの人生がうまくいかないか分かりません。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。(7)

けれども、知恵を学ぶだけでは十分ではありません。その知恵に従うべきです。ヤコブはこう言いました。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6-8)

時々、人々は神様から知恵を求めるけど、その知恵を聞くと、神様の道が最も良いかどうか疑います。だから、彼らは自分の道を行き続けます。

けれども、そのような人は人生に安定を決して見つけられません。むしろ、その人は自分の状況やほかの人々の意見によって、吹かれて揺れ動いてしまいます。

しかし、私たちは知恵を尊重し、その知恵に従うと、平和や安定と誉を見つけます。

あなたはどうですか。知恵を尊重していますか。

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愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書きました。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:3-4)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。

簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書きました。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。

そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現わすべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これはあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書きました。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめてくださいます。

例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話してくださいます。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話してくださいます。

そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。

けれども、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束してくださいます。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

しかし、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。

あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ておられるし、そんな人々に反対されるからです。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。

けれども、あなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

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柔らかい心を保つ

昨日の記事では、神様とその知恵に対する固い心を持つ危険を見ました。けれども、この箴言2章では、神様とその言葉に対する柔らかい心を持つ祝福を見ます。

ソロモンはこう書きました。

わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(箴言2:1-6)

神様とその言葉に対する柔らかい心を持つというのは、どういう意味でしょうか。

1. 神様の言葉を受け入れることです。

「あなたの言葉は良いし、正しい」と認めることです。

2. 神様の言葉をあなたの心に蓄えることです。

私たちはよく神様の言葉を聞いて同意しますが、すぐにその言葉を忘れてしまいます。

けれども、それでは物足りないです。私たちはその言葉に思いを巡らし、その言葉を生かすべきです。

3. あなたの耳を知恵に傾けることです。

つまり、神様は聖書や牧師や友達を通して話されるとき、私たちは自分の心を開かなくてはなりません。しかし、多くの場合、私たちは「もう知っているよ」または「その言葉は私の場合に当てはめられないよ」と言います。

しかし、柔らかい心はその言葉を受け入れ、その言葉によって変えられていきます。では、知恵が心を変えるために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

4.あなたの心を英知に向けるべきです。

「この言葉はどういう意味でしょうか。どうやってこの言葉を私の人生に当てはめられるでしょうか」と聞いた方がいいです。

また、

5.悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげるべきです。

つまり、私たちは神様から英知と悟りを求めるべきです。

自分の人生に聖書のことばをどう当てはめればよいか分からないときでも、そのことばを捨ててはなりません。「私の人生には関係ない」と言ってはなりません。

むしろ、神様に尋ねてみましょう。そうすれば、

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(6)

さらに、知恵に従うことを決めて、また、神様の道を行くことを決めたら、勝利を得ることができ、神様は私たちを見守ってくださいます。その知恵は私たちを悪の道から救い出してくださいます。

悪者は知恵を拒絶するので滅びますが、私たちは命を見つけます。

あなたはどうですか。神様とその知恵に柔らかい心を持っているでしょうか。積極的にその知恵を求めているでしょうか。その知恵をあなたの人生に当てはめているでしょうか。

そうすれば、満ちたりた人生を見つけることができます。

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箴言

知恵を拒絶すると

この箇所では、神様の知恵を拒絶し、自分の知恵に頼る危険を見ることができます。

この個所を読むと、ノアの話を思い出します。洪水が来る前に、ノアはずっと人々に警告していました。

この個所の「知恵」のように、広場でノアは声を上げたでしょう。

「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あなたには道徳観念がないので、悪魔の言葉にすぐに騙され、悪に落ちてしまいます。(箴言1:22a)

(実は、箴言で、「わきまえのない者」というのは、道徳観念がなく、すぐに騙される人という意味です。)

多分、ノアは「知恵」のように、「いつまで、あなたは神様の言葉をあざけることを楽しむでしょう。いつまで神様の言葉を憎むでしょうか。」と尋ねていました。(22b)

そして、神様はノアを通して、彼らにこう叫んだでしょう。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。しかし、むしろ、あなたはわたしを拒絶します。

わたしの手を伸ばすのに、あなたは顧みません。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れません。」(23-25)

そして、洪水が来ました。その時、おそらく彼らはやっと神様に叫びましたが、神様は応えてくださいませんでした。彼らが神様を探しても、見つけられませんでした。なぜでしょうか。

なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れなかったからです。だから、彼らの行ないの実を食らいました。(31)

彼らの背信は自分を殺し、彼らの安心は自分を滅ぼしました。(32)

けれどもノアとその家族は主に従ったので、恐れずに、安全でした。

あなたはどうですか。

道徳観念がなくて、罪を犯しても安心するなら、あなたは結局滅びてしまいます。あなたの人生はめちゃくちゃになるし、最終的に地獄に行ってしまいます。

そして、地獄に行くなら、もう遅すぎます。つまり、悔い改める機会がありません。むしろ、あなたは自分の行いの実を食べます。

しかし、あなたが生きている間に、まだ希望があります。

だから、悔い改めてめましょう。神様の叱責を受け入れましょう。あなたの耳を開きましょう。

あなたの心が柔らかいなら、神様は自分の心をあなたに開いてくださいます。神様は命の道を教えてくださいます。天国への道だけではなく、この世にどうやって満ちた人生を送れるか教えてくださいます。

そして、あなたの人生は神様の喜びと平和で満ちます。

ノアのように、神様の声を聞いて従いましょう。そして、嵐が来るとき、あなたは恐れずに安心して生きることができます。

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箴言

私たちは誰に相談するべきか

私は高校生の時、「Who to listen to」(誰に相談するべきか)という歌を聞きました。その歌詞はこうでした。

誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを知っていなくてはなりません。

さまざまなアドバイスがあちこちから来ます。

だから、誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを 決めなくてはなりません。ーーエイミー・グラント

それはソロモンのメッセージです。

最初に、彼は私たちが誰に聞いた方がいいか教えます。

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。(箴言1:8-9)

私たちの両親が神様の御言葉に合うことを教えてくださる限り、そのアドバイスを聞いた方がいいです。なぜなら、私たちよりも、彼らがいろんなことを経験しているので、私たちに知恵を与えてくださるからです。

振り返ると、私は父からいろんなことを学びました。父は特に、友達の大切さと正直に言う大切さを教えてくれました。その会話は本当に短かったけど、今でも、その教えを覚えています。

時々父に叱られて、その教訓は痛かったです。けれども、その教訓によって、私は成長したので、私は感謝しています。

とにかく、ソロモンは言い続けます。

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。(10)

この場合、ソロモンは私たちが罪人に従い、ほかの人々を襲わないように警告します。

けれども、周りの人々は私たちをいろんな罪で誘惑するかもしれません。例えば、私の友達は同僚に海外旅行に行って売春婦と遊ぶことに誘われました。彼は断りました。

しかし、時々ほかの人々は愚かなので、エイズやほかの性病にかかりました。

時々、ある人々はあなたの最善を望んでいるけれども、聖書に反するアドバイスを与えます。例えば、「彼女を愛しているでしょう?彼女と関係をもってもいいよ。一緒に住んでもいいよ。」と言います。

しかし、その結果はどうなるでしょうか?妊娠してしまったり、中絶したりして、いろんな苦しみが来るのです。

あなたは誰に聞いていますか。あなたは誰から助言を求めていますか。

どの助言を聞いても、その助言を神様の御言葉と比べてください。聖書に合うなら、その助言に従ってください。けれども聖書に合わないときは、聖書に従ってください。

そうすれば、問題を避け、本当の喜びを見つけます。

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知恵はどこから始まるか

それでは、箴言を始めましょう。

実は、どのように箴言について書くかちょっと迷いました。なぜなら、箴言にはいろんなテーマがあるし、一つの章でも、いろんなテーマがあるからです。

最初は、「テーマごとに整理してみようか」とも考えましたが、最終的には、いつも通りの進め方で書くことに決めました。

初めに、ソロモンがどうして箴言を書いたか説明します。

これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。(箴言1:1-6)

箴言は誰のために書かれたのでしょうか。まず、わきまえのない者や若者のためです。(4)

つまり、彼らに分別を与えるためです。要するに、彼らが実世界に入る時、良い決断ができるようにするためです。

さらに、ソロモンは彼らに知識と思慮を授けたいと願っていました。そうすることで、彼らが自分の経済や人間関係において賢く決断できるようになるのです。

けれども、ソロモンは知恵がある者のためにも書きました。そして、箴言を通して、彼らは自分の理解を深め、指導を得ます。

私たちが年を取れば取るほど、「私はもう知っている」という態度を取ることが容易になります。

しかし、ソロモンが言っているのは、私たちが自分の知恵を深めなければならないということです。私たちの勉強は決して終わらないのです。

なぜなら、賢い人でも、知恵を忘れてしまい、愚かな決断をして、自分の人生を壊してしまうことがあるからです。

実は、ソロモンもそうでした。彼はこの世界で一番賢い人だったのに、自分の悪い決断によって自分の人生を壊してしまいました。

さて、知恵のカギは何でしょうか。ソロモンは7節でそのカギを教えてくれます。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7)

箴言9:10で、ソロモンはこれも書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(9:10)

知恵がある者は主を恐れます。私たちが主を恐れ始めると、私たちは知恵を知り初めます。

なぜでしょうか。なぜなら、神様は私たちの創造主だからです。神様は私たちの人生がどのようにうまくいくかを知っておられます。もし、何かのデザインを知りたいなら、そのデザイナーに尋ねた方がいいです。

しかし自分の道に行こうとしたら、最終的にあなたは困ってしまいます。

私たちは「愚か者」と聞いたら、「馬鹿な人」だと考えます。もちろん、自分の道を行くと、あなたはいろんな愚かな決断をしてしまいます。

けれども、聖書によれば、愚か者は堕落する人です。

私たちが神様とその知恵を侮ると、愚かな決断をして、私たちは損なわれます。私たちは神様の形として造られました。しかし、私たちの罪はその形に傷をつけてしまいます。

どれぐらい、あなたは鏡を見て、神様の形を見ずに、損なわれたイメージを見るでしょうか。

神様は私たちが完全になるように望んでおられます。また、神様は私たちが神様の形を映すことを望んでおられます。

けれども、そのために、私たちは神様とその知恵を受け入れなくてはなりません。神様から知恵を求めれば、神様は喜んで与えてくださいます。

愚か者にならないでください。すべてのことをもう知っていると思わないでください。

箴言を読むとき、あなたの心を開きましょう。その知恵を受け入れましょう。神様があなたに語りかけ、神の形にあなたを形成してくださるように祈りましょう。