カテゴリー
エレミヤ25ー

理解を越えた大いなる事

この箇所では、私は第3節が特に好きです。

わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ書33:3)

正直に言うと、私はもっと神様を求めるべきだと感じています。そのように考えることがよくあります。

それでも、私はいつも自分の人生について思いを巡らせ、重要だと思うことに集中しています。

(ただし、その「重要だと思うこと」が本当に重要かどうかは分からないこともあります。)

イエス様の生涯について考えてみてください。彼は毎朝、天の父と共に時間を過ごしました。そのとき、どれほどの力と知恵を得たのでしょうか。

同じように私がそんな時間を持つことができたら、どれほどの力と知恵を得ることができるでしょうか。

最近、私は聖書を読むことは多いのですが、祈りの時間があまり取れていません。特に、私は神様の声をもっと聞く必要があると感じます。

神様の約束はこうです――私たちが神様を求めるなら、神様を見出し、神様が私たちに語りかけてくださる、と。

もちろん、私たちの将来のためには神様の知恵が必要です。しかし、それ以上に、私たちの理解を超えた偉大な事――神様の恵みを思い起こすべきです。

この箇所は神様の恵みに関するものです。

ただし、この箇所の冒頭は神様の裁きについて記されています。つまり、イスラエルの罪ゆえに裁きが訪れるということです。

もちろん、誰もそのような話を聞きたいとは思わないでしょう。

それでも、神様は続けてこう言われました。

見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。。。

わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。

この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」(エレミヤ書33:6、8-9)

神様はイスラエル人について語られましたが、この言葉は私たちにも深く関係しています。

私たちの人生は罪によって壊れてしまいましたが、神様は私たちを癒してくださいました。

神様は私たちの罪と背きを赦し、私たちに平安を豊かに示してくださいます。そして、世界の国々の間で、私たちは神様にとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなるのです。

私たちが毎日そのことについて思いを巡らせたら、私たちの人生はどれほど変わるでしょうか。どれほど神様に感謝することでしょうか。そして、神様の恵みを受けたなら、私たちの人生に対する態度や他の人々への態度はどれほど変わるでしょうか。

けれども、もう一つ、私たちの理解を超えた大いなる事を思い起こすべきです。それは、ある日、イエス様がこの世に戻られるということです。

14-16節には、次のように書かれています。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。

その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝(つまり、イエス様)を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。

その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」

私たちはしばしば一時的なことに気を取られがちです。しかし、もしイエス様が戻られることを思い起こしたなら、果たしてその一時的なことに集中し続けることができるでしょうか。

その真理を心に留めるなら、私たちの優先順位はどれほど変わることでしょうか。

カテゴリー
エレミヤ25ー

私たちの益のため

この箇所では、エルサレムはまだ包囲されていました。また、エレミヤはまだ牢屋にいました。その時、神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたのいとこが、土地を売るためにあなたのところに来る。その時、その土地を買いなさい。」

普通に考えれば、それは良い機会のように思えますが、エルサレルムが包囲されていたため、エレミヤがその土地を持ち続けられるかどうかは不明であり、少し愚かな決断に見えるかもしれません。

それでも、神様は「買いなさい」と言われました。それは神様がこう言われたからです。

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。(エレミヤ書32:15)

つまり、エレミヤの土地の購入は、イスラエル人の帰国のしるしでした。

エレミヤの反応は少し複雑でした。(16-25節)

それは信仰に基づく祈りだったのでしょうか。それとも、神様が本当にイスラエル人を御自身の国に帰らせてくださるかどうかを疑っていたのでしょうか。または、その祈りには信仰と疑いの両方が混在していたのでしょうか。

私たちも、イエス様に息子の癒しを願った父親のような立場にいることがあるのではないでしょうか。イエス様は父親に言われました。

「私があなたの息子を癒せることを信じますか。」

その父親は次のように答えました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:25)

エレミヤもこのように祈ったように思えます。

「主よ。あなたはすべてのことができます。あなたにとって、不可能なことはありません。あなたは、バビロン人が来てエルサレムを包囲すると警告してくださり、あなたが言われた通りに彼らが来ました。私は信じます。

けれども、あなたは私に言われます。『その土地を買いなさい。なぜなら、ある日イスラエル人がこの土地に戻るからです。』

それは本当なのでしょうか。私たちは本当にこの国に戻れるのでしょうか。」

おそらく、エレミヤは神様の力そのものを疑っていたのではありませんでした。むしろ、イスラエル人が本当に悔い改めるのかどうかを疑っていたのかもしれません。なぜなら、その時点で彼らは全く悔い改めていなかったからです。

しかし、神様はこのようにお答えになりました。

「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。

わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」(エレミヤ書32:37ー41)

つまり、神様は、きっとイスラエル人を御自身の国に帰らせると言われました。

けれども、神様が31章で言われたように、イスラエルの霊的な復活は、イスラエル人の働きではなく、神様の働きです。神様が彼らの心を変えてくださり、彼らは悔い改めます。そして、神様は彼らをもう一度祝福すると約束してくださいました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちが疑うときでも、神様は私たちの益のために働いてくださっているということです。神様は、私たちを祝福したいと思われます。神様は、私たちを祝福することを喜ばれます。

私たちがそのことを心に留めるなら、神様を信頼し従うことがさらに容易になるでしょう。

第二に、神様は、いつも私たちの心に働きかけて、神様が望まれるように私たちを形作ってくださるということです。

私たちの役割は、神様と協力することです。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。

カテゴリー
エレミヤ25ー

新しい契約

これは私のお気に入りの箇所の一つです。

エゼキエルのように、エレミヤはイスラエル人がよく引用していたことわざについて話します。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エレミヤ書31:29)

つまり、「私たちは悪いことを全然しなかった。私たちは先祖の罪のために苦しんでいる。それは不公平だ。」

しかし、神様は彼らに言われました。「あなたの先祖の罪のために苦しまない。自分自身の罪のために苦しむのです。」

けれども、この箇所は、裁きよりも、神様の憐みに焦点を当てています。神様は彼らにこう言われました。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。

かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(27-28)

そして、神様は将来設立される新しい契約について話されます。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのようにして、人々はもはや、 『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――

わたしは彼ら の咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:31-34)

この契約はキリストによって成就しました。以前の契約と新しい契約の違いは何でしょうか。

主な違いは、以前の契約は双方向の契約だったということです。新しい契約は一方的な契約です。

以前の契約では、イスラエル人が神様の命令に従うと、神様は彼らを祝福すると約束されました。

しかし、彼らがその命令に従わないと、彼らは呪われました。結局、彼らが何回もその契約を破ったので、彼らは呪われたのです。

けれども、新しい契約は全然違います。その契約は私たちの行動によるものではありません。むしろ、その契約は神様の行動に基づいています。

だから、私たちが自分の心を変えることができなくても、神様は私たちの心を変えてくださると約束されました。

つまり、神様は私たちの心にご自身の律法を置き、神様に従う心を与えてくださると約束されたのです。

もう一つの違いがあります。それは、皆が神様のみもとに近づくことができるようになったことです。

私たちはもう人間の祭司や仲介者を必要としません。むしろ、私たちは神様と直接話すことができます。また、私たちの罪の代価が支払われ、私たちの罪が赦されたので、神様はその罪をもう思い出されません。

それが新しい契約です。また、それは、私たちが宣べ伝える良い知らせです。

私たちは神様の好意を得るために働く必要がありません。むしろ、恵みによって、私たちはその好意を受け取ります。

神様が私たちを既に受け入れてくださったので、私たちは神様の前でリラックスすることができます。

とはいえ、その恵みを当然のものと思わないでください。毎日、その素晴らしい賜物に感謝しましょう。

カテゴリー
エレミヤ25ー

天の父の御心

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所は私たちの天の父の御心を表しているからです。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ書31:3)

この箇所では、エレミヤはイスラエルの将来の癒しについて話します。その言葉の中に自分の民に対する神様の御心を見ることができます。

8-9節に、神様はイスラエル人を自分の土地に帰らせると約束されます。その時、自分の過去の罪のために泣く人もいるし、神様の憐みを感謝するために泣く人もいます。

そのとき、神様はこう言われました。

わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。

わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」(9)

私たちは何回も神様の憐み深い御心を見ることができます。自分の子供たちが反抗的な態度を取るのに、神様は永遠の愛を持って、彼らを愛してくださいます。

わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。

『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。

私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。

私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです』と。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。

それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ――(18-20)

だから、神様は自分の民にこう言われました。

おとめイスラエルよ。帰れ。これら、あなたの町々に帰れ。裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。(21-22)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちを愛することを決して止められません。私たちが神様から立ち去っても、神様は私たちの戻りを待ち望んでおられます。

ある歌はその真理をよく表しています。

全能の神、
永遠の神、
動かない岩、
力ある神、
素晴らしい神、
勝利の戦士、
王の王、
強い戦勝者

その神様が走るのを一度しか見たことがありません。

神様は私のところに走って、
私を抱きしめ、
「私の息子は帰りました」と言われました。

神様は私の頭を上げて、
私の涙をぬぐい、
赦しの声でこう言われました。
「私の子よ。私があなたをまだ愛していることを知っていますか。」

私は驚きました。
なぜなら、神様は走られたからです。

ーーベニー・ヘスター

神様。私が罪を犯しても、また失敗しても、また、あなたから立ち去っても、あなたが私をまだ愛してくださり、感謝します。あなたの永遠の愛に感謝します。

あなたが私のために待つだけではなく、私のところに駆け寄ってくださることを感謝します。あなたを愛します。アーメン。

カテゴリー
エレミヤ25ー

天の父に近づくためにいのちをかける者

エレミヤは、エルサレムの没落について預言しましたが、その民に希望の言葉を伝えました。つまり、神様は彼らを懲らしめられますが、まったく滅ぼされないということです。(エレミヤ書30:10-11)

それでも、エレミヤは彼らの状況を正直に説明します。

あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない。

あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。(エレミヤ書30:12-13,15)

しかし、神様は救い主を送られることを約束されます。

その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。

わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――主の御告げ――

あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

見よ。主の暴風、――憤り。――吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。

主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。(21-24)

この箇所はイエス様についてです。私は21節が好きです。神様は訊かれます。「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」

エレミヤの時代に、誰も神様に近づくことができませんでした。一年に一回、大祭司はその権利がありましたが、エレミヤの時代には、祭司たちは偽物の神々を礼拝していました。

しかし、神のひとり子として、イエス様は天の父に近づき、私たちのためにとりなしてくださいます。イエス様は破れ口に立って、

十字架の上で、私たちの罪のために神様の怒りを受けて、死なれました。だから、私たちに対する神様の怒りは静められました。

ですから、もし私たちがイエス様を信じるなら、私たちは恐れずに天の父に近づくことができます。ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(へブル10:19-23)

カテゴリー
エレミヤ25ー

預言者たちを見分ける

ゼデキヤ王がユダ王国の最後の王であった時、ユダ王国の没落は近づいていました。その時、エレミヤはユダと周辺の国々に厳しいメッセージを伝えました。

それは、「バビロンに降伏しなさい。そうすれば生きることができます。そうしなければ死ぬことになります。」ということでした。

ユダの預言者たちと周辺の国々の預言者たちは、彼らの王たちにこう言いました。

「バビロンについて心配しないでください。あなたがたは彼らに決して仕えることはありません。」

けれども、エレミヤはその預言者たちについてこう言いました。

彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。(エレミヤ書27:10)

その時、偽の預言者ハナヌヤは、エレミヤの言葉に反対しました。彼はこう言いました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。

二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。

バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。――主の御告げ――わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。(エレミヤ書28:2ー4)

エレミヤはそれを聞き、こう答えました。

アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。

しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。

昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。

平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。(エレミヤ書28:6ー9)

エレミヤは何を言っているでしょうか。それは、私たちが平和ばかりを伝える預言者たちに注意しなければならないということです。彼らはいつもこのように言います。

「もちろん神様は、あなたの賛美を聞いて喜んでおられる。あなたの人生を見て、とても嬉しく思っておられる。」

けれども、彼らは悔い改めの必要について全く話しません。

29章では、シェマヤという人が祭司たちにこう言いました。

「どうしてエレミヤを責めないのでしょうか。彼は狂った人です。彼は狂ったことを言っています。」

しかし、神様はハナヌヤとシェマヤを裁かれ、彼らは死にました。

時々、人々は主の代表として話しますが、ただ自分の感情から話すことがあります。感情は良いことですが、感情から話す人がいつも神様のメッセージを伝えているわけではありません。

神様は時に預言者を通して私たちを励ましてくださいます。けれども、私たちが罪に落ちたときには、真の預言者は神様の祝福を私たちに伝えません。むしろ、真の預言者は悔い改めのメッセージを伝えます。

エレミヤもそのようにしました。

あなたは神様の代表として話す人を見分けることができるでしょうか。「神様はこう言います」と言われても、その言葉が神様からのものであるとは限りません。

私の言葉を誤解しないでください。神様の言葉を忠実に伝える人もいます。

そして、パウロはこう言いました。

御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。(第一タサロニケ5:19ー20)

とはいえ、その後で、パウロはこう言いました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

あなたはどうでしょうか。あなたが聞くことを見分けることができるでしょうか。

カテゴリー
エレミヤ25ー

激しい言葉に反応する

誰も自分が懲らしめられるのを好みません。厳しい言葉を好む人もいません。けれども、その言葉に対する私たちの反応が、私たちの人生を形作ります。

エレミヤはユダの人々に、数多くの厳しい言葉、つまり裁きの言葉を語りました。そのメッセージには常に二つの要素が含まれていました。

「裁きが来る。けれども、もしあなたたちが悔い改めるなら、その裁きを避けることができる。」

エレミヤ書25章で、エレミヤはユダの人々に警告しました。

「あなたたちが悔い改めないなら、バビロンに70年間追放される。」

しかし、エレミヤはユダの人々だけでなく、周囲の国々にも警告しました。

では、彼らの反応はどうだったのでしょうか。それは、決して良いものではありませんでした。

ユダの人々や、その祭司たちや、「預言者たち」がそれを聞いた時、こう答えました。

「あなたは必ず死ななければならない。なぜあなたはそんなことを言うのか。」

彼らはエレミヤの言葉を反逆だと思いました。

幸い、ある長老たちはエレミヤを守りました。彼らはこう言いました。

「ヒゼキヤ王の時代、預言者ミカは裁きの言葉を語ったが、ヒゼキヤ王が悔い改めて神様を恐れたので、神様はユダに憐れみを与えられた。」

ユダの人々はそれを聞いて、エレミヤを解放しましたが、悔い改めなかったようです。

彼らの王エホヤキムの反応も悪かったです。別の預言者ウリヤがエレミヤのように裁きを預言した時、エホヤキムはウリヤをエジプトまで追いかけて捕らえ、ウリヤを殺しました。(エレミヤ書26:20-23)

ある時、エレミヤは書記バルクを神様の宮に送ります。バルクはそこで神様がエレミヤに与えた言葉を伝えました。その後、宮殿の首長たちはバルクの巻き物を持ってエホヤキムのもとへ行き、その巻き物を読みました。

エホヤキムの反応はどうだったのでしょうか。彼はその巻き物を切り裂いて燃やしました。そして、彼はエレミヤを殺そうとしました。

あなたはどうでしょうか。辛い言葉を聞いた時、どのように反応しますか。誰かがあなたに面と向かって罪について指摘した時、無視するでしょうか。それとも怒って、その人を責めるでしょうか。

それとも、その言葉を聞き入れて、悔い改めるでしょうか。

神様は人々を裁くことを望んでおられるのではなく、むしろ私たちが悔い改めることを望んでおられます。そのため、神様は私たちのもとに人々を遣わされます。

私たちが彼らの言葉を拒まず受け入れ、その言葉によって私たちの人生が形作られるならば、その人生はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。

あなたなら、どうしますか。