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アモス書

神様に戻る事が無理になる時

見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。(アモス書7:8)

「重りなわ」というのは、大工道具の一種で、レベルのようなものです。この道具を使うと、壁がまっすぐかどうか確認できます。

つまり、神様はイスラエルを計りましたが、彼らが曲がっていたため、取り壊さなくてはならなかったのです。

8章では、神様はイスラエルを夏の果物(つまり熟した果物)と呼びました。つまり、イスラエルは裁きのために熟していた状態でした。

どうしてイスラエル人はそのように曲がってしまったのでしょうか。それは、以前述べたように、彼らが神様に聞くことをやめてしまったからです。

預言者たちが良いことを言うと、イスラエル人は喜んで聞きましたが、預言者たちが彼らを責めると、イスラエル人は「黙れ」と言って聞くのを拒みました。

7章では、そのような例を見ることができます。アモスがヤロブアム王の没落を預言したため、ある祭司がアモスを反逆者だと責め立てたのです。その祭司はこう言いました。

先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。(7:12-13)

神様のレベル、つまり神様の御言葉を捨てると、何がまっすぐで、何が曲がっているのか、また何が正しいことで、何が悪いことなのか分からなくなります。

この世には、そのような人々が見られます。多くの人々は正しいことを悪いと言い、悪いことを正しいと言います。

そして、もし私たちがずっと神様の御言葉を無視し続けるなら、最終的に神様は私たちにもう語らなくなるでしょう。8章では、神様はイスラエル人にこう言われました。

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――

その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。(アモス書8:11-12)

実は、マラキからバプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、神様は沈黙されていました。だから、ヨハネがついに来たとき、彼の言葉を聞くために多くの人々が集まってきました。

しかし、多くの預言書と同じように、神様はご自分の忠実さを示し、イスラエルに希望を与えられました。つまり、神様はイスラエルを罰するとともに、最終的には彼らを癒すと約束されたのです。また、神様はイスラエルの廃墟を復興するとも約束されました。

では、どうして神様はイスラエルにその憐れみを与えるのでしょうか。それは彼らの義によるのでしょうか。それとも、彼らの行動によるのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは神様の愛と慈しみによるのです。

パウロがこのように書いています。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス書3:5)

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自己中心、プライド、自己満足

私はこの箇所を読むと、イエス様のたとえ話の一つを思い出します。

その話では、ある金持ちの畑が豊作でした。そして彼は、その作物を蓄えておく場所がないことに気づきました。

彼はどうしたでしょうか。貧しい人々を助けたでしょうか。その祝福が神様から来たことを理解し、感謝の心を持って周りの人々を助けようと思ったでしょうか。

いいえ、違います。むしろ、彼は自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:18-19)

しかし、神様は彼にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)

そして、イエス様はこう言われました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:21)

アモスの時代、イスラエル人はそのような愚か者でした。彼らは自己満足に陥り、金持ちで安心しきっており、たくさんの物を持ち、高慢になっていました。

そのため、彼らは貧しい者のことや、自分たちの罪のことをまったく気に留めませんでした。だからこそ、神様は彼らにこう言われました。

それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。(アモス書6:7)

あなたはどうでしょうか。自分の力でいろいろなことができると思い、高慢になってはいませんか。たくさんの物を持って自慢したり、自己満足に陥ってはいませんか。

そのイスラエル人たちや金持ちのたとえ話のようにならないように気を付けてください。

自分自身だけに焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当ててください。

もし神様があなたを祝福されたなら、その祝福には理由があります。その理由は自分自身を喜ばせるためではありません。

その理由は、あなたが周りの人々に対して祝福となることです。そして、あなたが周りの人々に良い影響を与えることなのです。

あなたが金持ちであろうと貧しくても、影響力があってもなくても、神様は自己中心な態度やプライド、自己満足な態度を嫌われます。

神様は私たちに、自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を向けるよう招いています。また、神様は私たちが周りの人々に対して、神様の目、口、手、そして足となるように招いているのです。

神様、自己中心になるのは簡単です。どうか赦してください。

私に与えられている物は私のものではありません。それらは本当にあなたのものです。

どうかその真理をいつも心に留められるよう私を助けてください。自分自身に焦点を当てず、あなたに、そして周りの人々に焦点を向けられるよう助けてください。

私が自分自身のためではなく、あなたの御国のために生きることができるよう導いてください。アーメン。

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あなたは準備ができているでしょうか

時々、人々はこの世を見て、犯罪や暴力、そして天災について考えるとき、神様がすぐに来て、すべてを治してくださることを望みます。けれども、彼らは本当に何のためにそう望んでいるのか理解しているでしょうか。

神様はイスラエル人にこう言われました。

すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。(アモス書5:16ー17)

それはなぜでしょうか。

それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。(17)

つまり、神様が来られると、すべてを治してくださいますが、犯罪や天災だけを止めるのではありません。神様は人々の心の中にある罪も扱われます。そして、神様はあなたの罪も扱われます。「扱う」とはどういう意味でしょうか。

神様はこう言われました。

ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(18-20)

神様は何を言われているのでしょうか。

人々は神様が来ると、地震や犯罪、暴力、その他の災いが終わると思います。それはその通りです。しかし、あなたの心の中に悪いことがあるなら、神様はあなたも裁かれます。

イスラエル人は「主の日」を待ち望んでいましたが、その真理を理解していませんでした。彼らは自分たちが正しい人々だと思っていましたが、神様の目には全く正しくありませんでした。

彼らは宗教的な祭りを祝ったり、いけにえやさまざまな捧げものを捧げたりしていたため、自分たちの神様との関係は問題ないと思っていました。

けれども、それ以外では、彼らは自分自身のために生きていました。そのため、神様にとっては、彼らの祭りやいけにえ、捧げものには何の意味もありませんでした。

彼らは、神様が来ればすべてが良くなると思っていましたが、事実は、神様が来ると彼らの状態はさらに悪化するということでした。

彼らの問題は、神様が何度もさまざまな災いを通して警告されたにもかかわらず、その警告を無視し続けたことです。したがって、神様が来るのは、イスラエルが望んだ救いのためではなく、彼らの裁きのためなのです。

そのため、神様はこう警告されました。「あなたたちはライオン(この世の災い)から逃れることはできるが、熊(自分の罪のための裁き)に会う。」(19)

つまり、神様が来られたとき、イスラエル人は準備ができていなかったのです。あなたはどうですか。神様に会うための準備はできていますか。

宗教的な行動だけでは不十分です。教会に行ったり、十一献金を捧げたり、日曜日に良い行いをしたりするだけでは足りません。

むしろ、あなたはあなたの人生全体を神様に捧げる必要があります。あなたの心を神様に捧げなくてはなりません。

最も重要なのは、あなたの救いのために自分自身の努力に頼るのではなく、イエス様とその十字架の働きに信頼することです。

そうすれば、「主の日」は喜びの日となるでしょう。しかしそうしなければ、その日は裁きの日となります。

あなたは準備ができていますか。

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あなたがもっと知っていると。。。

「無知であることは幸せだ。」

時々、人々はそのように考えることがありますが、神様によると、その考えは間違っています。

1章と2章では、神様が多くの国々を裁くと警告されました。なぜでしょうか。神様はその理由を語られています。

彼らは正しいことを行なうことを知らない。(アモス書3:10)

けれども、「神様の律法を知らない」というのは言い訳にはなりません。なぜでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で、自分が悪いと分かっていたからです。パウロはこのように説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ書2:14ー15)

しかし、たとえ他の国々が無知を言い訳にできたとしても、イスラエルとユダはそのような言い訳をすることはできませんでした。

神様は彼らを他の国々から選び、彼らに直接ご自身を現されたからです。そのため、彼らには周りの国々よりも大きな責任がありました。

神様は彼らにこう言われました。

わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。(3:2)

つまり、「あなたたちは言い訳をする余地はありません。あなたたちは周りの国々よりも多くを知っているはずです。モーセを通して、私はあなたたちに律法を与えました。何度も預言者を通してあなたたちに警告しました。

それにもかかわらず、裁きの日が来ると警告されていたのに、あなたたちは罪を犯し続けています。(3:7-8)

あなたたちは私の律法を知っているはずです。だからこそ、あなたたちはいけにえをささげたり、十一献金をささげたり、感謝の捧げものをささげたりしました。

けれども、私はこれらの捧げものが不十分であることを何度も警告しました。それでも、あなたたちは私の警告を無視し続けました。(4:4-11)

だから、あなたの神に会う備えをしなさい。あなたは私の前に立ち、あなたの行動について申し開きをしなければならないのです。」(4:12)

私たちはこの警告を通して何を学ぶことができるでしょうか。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたが神様の御心を知っていても、知らなくても、それは言い訳にはなりません。

もし悪いことをすれば、裁きが来ます。あなたが神様の御心を知っているなら、その罰はさらに厳しいでしょう。

けれども、知らないとしても、裁きは免れません。

だからこそ、無知であることは幸せではないのです。私たちは神様の御心を求めなくてはなりません。

しかし、神様の御心を知ることだけでは不十分です。その御心に従わなくてはならないのです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を知っていますか。もし知らないのなら、ぜひ読んでください。神様はこう言われました。

「わたしを求めて生きよ。偽物の神と偽りを求めるな。」(5:4-5)

「主を求めて生きよ。そうしなければ裁きが来る。」(5:6)

もし、あなたが神様の言葉を知っているなら、その言葉に従いましょう。神様はこう言われました。

善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し「なさい」。(アモス書5:14-15)

イエス様が言われたように、

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ8:8)

そして、神のみ言葉に従いましょう。

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裁きの時間

アモス1:1によると、アモスはホセア、ヨナ、イザヤの時代に生きていました。また、イスラエルの王ヤロブアム2世とユダの王ウジヤの時代に預言しました。

以前述べたように、その二つの国は物質的には繁栄していましたが、霊的には貧しい状態でした。特にイスラエルがそのような状態にありました。

そこで、神様は羊飼いであったアモスをイスラエルとユダに対する預言者として召されました。けれども、アモスは主にイスラエルに対する預言者でした。

この箇所では、アモスは非常に厳しいことを語りました。ある牧師がいつも地獄と裁きについて説教するように、アモスもそのような説教をしていたのです。彼はこう言いました。

主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。(アモス書1:2)

アモス1:1によると、アモスはイスラエルの隣国に対して神様の裁きについて伝えました。そして、ユダとイスラエルに対する裁きについても語りました。

最初の裁きはダマスコに対するものでした。アラム人がイスラエルを攻撃したため、アモスは神様がその王を取り除き、その民を捕らえて移されると預言しました。(列王記第二16:9でその預言が成就しました。)

次に、アモスはペリシテ人に対して預言しました。彼らが奴隷売買を行っていたためです。歴代誌第二26:6では、ウジヤ王がペリシテ人と戦い、その預言の一部が成就しました。

次はツロに対する裁きでした。彼らはイスラエルとの同盟を破り、イスラエル人を捕囚の民としてエドムに引き渡したためです。

次に、神様はエドムに裁きを下されました。

エドム人はイスラエルの兄弟のような存在でした。エドムの先祖がエサウであり、エサウはイスラエルの先祖ヤコブの兄弟だったからです。

それでも、エサウが一度ヤコブを殺そうとしたように、エドム人も怒りに駆られてイスラエル人を殺そうとしました。

さらに、神様はアモン人を裁かれました。彼らは自分の領土を広げるために残酷な行為を行っていたためです。

また、神様はモアブ人を裁かれました。彼らはエドムの王を殺し、その骨を焼いたためです。

次に、アモスはユダに対して預言しました。ユダが神様の律法を無視し、偽物の神々を礼拝していたためです。ユダの王ウジヤが神様に従ったにもかかわらず、その民はウジヤの模範に従わなかったようです。(列王記第二15:4)

最後に、アモスはイスラエル人に向かって神様の裁きを伝えました。イスラエル人は偶像を礼拝し、弱い人々を踏みにじり、貧しい人々に正義を与えず、神様のために聖別されたナジル人の誓いを破らせ、預言者たちを黙らせたのです。

だから、アモスは神様の裁きが来ると警告しました。

この箇所を読むと、少ししんどいと感じるかもしれません。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。二つのことです。

一つ目は、神様の目から何も隠れることはないということです。神様はすべてを見ることがおできになります。

二つ目は、罪のために裁きの日が来るということです。

神様が私たちの罪に気づかない、あるいはそれを気にしていないと思うかもしれません。けれども、神様は私たちの罪に気づいており、それを重要視しています。それゆえ、神様は私たちに警告を与えるのです。

これがアモスの目的でした。アモスは人々に対する裁きを喜んでいたわけではありません。むしろ、彼は彼らが悔い改めることを望んでいました。

だから、私たち自身に問いかけるべき質問は、「神様の警告を聞いて、私は何をするだろうか」ということです。

私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。しかし、イスラエル人のようにその警告を無視するなら、裁きが来るのです。

「神様が愛だから、私たちの罪を裁かない」と思わないでください。そうすれば、あなたは自分自身を騙すことになります。神様は正義の神であり、罪を裁く必要があるのです。

だからこそ、神様の警告を聞いて悔い改めましょう。そうすることで、神様の赦しを知り、祝福を受けることができるのです。