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エズラ記 ネヘミヤ記

心を変える力

以前言ったように、エズラ記は年代順に書かれていません。そういうわけで、エズラ記4:7-23はエズラ記の最後の出来事です。そして、その話はネヘミヤ記の最初の背景です。

エズラはアルタシャスタ王の許可をもらって、エルサレムに戻りました。その時、アルタシャスタ王はエズラにいけにえの捧げ物を買うために金と銀を与えました。そして、アルタシャスタ王はエズラにこう言いました。

また、残りの銀と金の使い方については、あなたとあなたの兄弟たちがよいと思うことは何でも、あなたがたの神の御心に従って行なうがよい。(エズラ7:18)

だから、そのお金を使って、エズラと他のユダヤ人たちはエルサレムの城壁を修理し始め、その礎も据え始めました。

けれども、彼らはすぐに反対に直面しました。

ユダヤ人の敵はアルタシャスタ王に手紙を送りました。その手紙の中で、彼らがアルタシャスタ王に伝えたのは、もしユダヤ人がその修理を完成すれば、きっとペルシャに反抗するだろうということです。それを証明するために、彼らはこう言いました。

あなたの先祖の記録文書をお調べになれば、この町が反抗的な町で、王たちと諸州に損害を与え、また昔からこの町で反逆が行なわれたことを、その記録文書の中に見て、おわかりになるでしょう。この町が滅ぼされたのも、そのためです。(エズラ4:15)

アルタシャスタ王はその記録文書を調べ、その意見に賛成したので、ユダヤ人にその働きを止めるよう命令しました。

それがネヘミヤ記の背景です。

数年が経ちましたが、アルタシャスタは依然としてペルシャを治めていました。エズラと他のユダヤ人が修理した城壁は再び崩れ、エルサレムの門も焼き払われたままでした。ですから、ユダヤ人の敵は彼らを簡単に攻撃できました。

ネヘミヤはアルタシャスタ王の献酌官でした。彼の仕事は、王に杯を持って行き、毒があるかどうかを確認するために先にその杯から飲むことでした。

それはシンプルな仕事のように見えますが、献酌官は非常に高位の官職でした。ネヘミヤは王に信頼されており、その影響力も大きかったのです。

ある日、ネヘミヤの親類の一人がエルサレムから来て、エルサレムの困難について伝えました。

それを聞いて、ネヘミヤは悲しみ、断食し、神様に祈りました。彼はユダヤ人の罪を告白し、王の好意を得るために祈りました。つまり、神様がアルタシャスタの心を変え、再びユダヤ人に好意を示してくださるように祈りました。

それは小さな願いではありませんでした。なぜなら、城壁の修理を止めるよう命令したのはアルタシャスタ自身だったからです。

しかし、神様はその祈りに応えてくださいました。

アルタシャスタはネヘミヤの悲しい顔に気づき、どうしたのか尋ねました。ネヘミヤはそれを聞いて怖がりました。なぜなら、ペルシャの法律によれば、王の前で悲しい顔をすることは死刑に値するかもしれなかったからです。

けれども、アルタシャスタはネヘミヤを尊敬していたので心配しました。

だから、ネヘミヤは速やかに祈り(おそらく、一時間もの祈りをする時間はなかったでしょう)、アルタシャスタにエルサレムの困難について話しました。

神様はアルタシャスタの心を変え、ネヘミヤは王の好意を得ました。なぜアルタシャスタの心が変わったのでしょうか。

もちろん、神様が王の心に働いたからです。でも、それだけではなく、おそらくアルタシャスタはネヘミヤの謙遜と忠実な働きを見続けていたので、ネヘミヤを信頼していたのです。

アルタシャスタは思ったかもしれません。

「もしネヘミヤがエルサレムの城壁を修理する責任を持っていたら、ユダヤ人はペルシャに反抗しないだろう。この忠実なユダヤ人は、他のユダヤ人がペルシャに反抗すると思ったら、こんな要望をしないだろう。」

だから、アルタシャスタはネヘミヤの望みを叶えました。

私たちはこの話から二つのことを学ぶことができます。

一つは、私たちが神様の国のためにつまらないと思うものが、最終的に非常に重要になるかもしれないということです。

ネヘミヤが献酌官として不実だったら、アルタシャスタはネヘミヤの要望を叶えなかったでしょう。しかし、ネヘミヤが忠実なしもべだったので、王は彼を信頼しました。

あなたは自分の仕事が神様の国に関係ないと思うかもしれません。けれども、忠実で上手に仕えることによって、周りの人々にクリスチャンがどのような人であるかを示すことができます。そして、あなたは彼らに影響を与えることができます。

その一方、あなたが不実で努力しないと、彼らにクリスチャンについて悪い印象を持たせてしまうかもしれません。

二つ目は、祈りには心を変える力があるということです。あなたは自分の夫、妻、上司、周りの人々を見て、彼らが全く変わることができないと思うかもしれません。しかし、彼らのために祈り、良い証を立てることで、神様は彼らの心に働かれます。

あなたは誰かの人生に変化を望んでいるでしょうか。キリストの弟子の模範となりましょう。彼らのために祈りましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれます。

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エズラ記

この世のものと結婚する

この箇所は少し難しいです。なぜなら、神様は離婚を嫌うと言われる一方で、エズラは異邦人と結婚した男性たちに、その妻と別れるように命じ、その子供たちも追い出すように指示したからです。

どうしてエズラはそのようなことをしたのでしょうか。

一番重要な理由は、神様の律法によれば、その結婚が違法だったということです。神様はイスラエル人にはっきりと「カナン人と結婚してはならない」と命じられました。(出エジプト記34:15-16;申命記7:1-6)

では、どうして神様はその命令を与えられたのでしょうか。それは、神様がイスラエル人がカナン人の酷い行動を模倣することを望まれなかったからです。例えば、売春や子供をいけにえにすることなどが含まれます。

だから、神様の目にはその結婚は違法でした。

預言者マラキもこのことについて語りました。マラキがこれを書いた時期は不明ですが、おそらくエズラとネヘミヤの時代に記されたと考えられます。

マラキ書の中で、神様はこう言われました。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。

まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ2:11)

マラキはすぐに妻と離婚した男性たちを批判しました。

どうしてでしょうか。おそらく、その男性たちは外国の女性と結婚するために、自分のユダヤ人の妻と離婚したからです。その結果、神様の目には、その「結婚」は姦淫となり、本当に違法なものとなりました。

さらに、偶像礼拝している女性との結婚を通して、ユダヤ人はバビロンに追放される以前に犯していた罪を繰り返し始めてしまいました。(エズラ記9:1-2)

そのため、エズラはそのニュースを聞くと深く悲しみ、イスラエル人のために悔い改めの祈りを捧げました。彼はこう祈りました。

「私たちの悪い行ないと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、――事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました――私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行ないをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。

あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。

イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。

ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」(エズラ記9:13-15)

そのあとで、10章では、エズラはイスラエル人にその罪を清めるよう命じました。偶像礼拝をしている女性と結婚した男性たちは、その妻と子供を追い出さなければなりませんでした。

10章には、本当に印象的なシーンがあります。イスラエル人は大雨の中に座り、その罪のために泣いて悔い改めました。

この箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

たとえあなたがノン・クリスチャンと結婚しているとしても、私は「離婚しなさい」と言うわけではありません。なぜなら、私たちはモーセの律法の下に生きているのではなく、恵みの契約の下に生きているからです。

さらに、パウロはこう教えました。

信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。(第一コリント7:12-13)

むしろ、私たちは彼らの救いのために祈るべきです。彼らと結婚している間、神様は彼らの人生に働いて、救いの可能性を与えてくださるかもしれません。とはいえ、彼らの救いが約束されているわけではありません。(第一コリント7:14-16)

しかし、私たちは一つの原則を覚えておかなければなりません。それは、私たちがこの世の物と「結婚」すると、その物が私たちを神様から引き離してしまうということです。

時々、その外国の女性たちのように、その物は美しいかもしれません。けれども、その物に引っ付くと、私たちの心は神様から引き離されてしまいます。

お金と「結婚」する人もいます。彼らにとって、お金が一番大切なものです。

持ち物と「結婚」する人もいます。

力と「結婚」する人もいます。

もちろん、ノン・クリスチャンと結婚したい人もいます。だから、彼らは神様との関係を一時的に置いておいて、そのロマンチックな関係を求めます。

けれども、それは霊的な姦淫です。その行動によって、私たちは神様に「この物はあなたよりも大切だ」と言っているのです。

あなたはどうでしょうか。この世のものを愛しているでしょうか。その「結婚」は、あなたの神様との関係にどんな影響を与えているでしょうか。

そのようなものを、私たちの人生から追い出しましょう。

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エズラ記

神様の恵みの御手

今日、エズラ記に戻ります。アハシュエロス王は亡くなり(彼は側近に殺されました)、その息子アルタシャスタが王になりました。

その時、ペルシャに住んでいる祭司エズラは、ユダヤ人に神様の言葉を教えるためにエルサレムに帰ることを決心しました。

エズラ記7-8章では、何度も繰り返されるフレーズがあります。それは、「神様の御手」、または「神の恵みの御手」という表現です。

主の御手がエズラの上にあったので、王はエズラの願いをすべてかなえてくださいました。つまり、いけにえの捧げものを買うために銀と金を与え、小麦、ぶどう酒、油、塩を提供してくれたのです。(エズラ記7:6-20)

主の恵みの手によって、シェレベヤともう二人の人が来ました。そして彼らは他の人々を主の宮で仕えるために連れて行きました。(エズラ記8:18-20)

神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から彼らを救い出してくださいました。だから彼らは無事にエルサレムに到着しました。(エズラ記8:31)

どうして神様の恵みの手が彼らの上にあったのでしょうか。エズラはアルタシャスタにこう言いました。

私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。(エズラ記8:22)

エズラは心から神様を求めました。彼は真剣に神様の言葉を学び、すべての人が神様の言葉を知るようにと願いました。だから、神様は彼を祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生の上に神様の御手が見えるでしょうか。もし見えないなら、その理由は何でしょうか。

あなたは心から神様を求めているでしょうか。あなたの人生の中心に神様がいらっしゃるでしょうか。朝起きた時、神様について考え、寝る前にも神様について思い巡らせるでしょうか。神様の働きと御言葉に専念しているでしょうか。

もしそうなら、神様は人々に触れるためにあなたの内に働き、あなたを通して働かれます。

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エズラ記

私たちが神様に専念すると

イスラエル人は長い間主の宮の再建に専念しませんでした。しかし、ゼカリヤとハガイの励ましによって、彼らはもう一度再建を始めました。

ところが、再建を始めると、再び反対が来ました。総督タテナイとシェタル・ボズナイ(おそらく彼は調査官のような役割の人物でした)は、ユダヤ人に尋ねました。

だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。。。この建物を建てている者たちの名は何というのか。(エズラ記5:3-4)

彼らがユダヤ人の答えを聞いた後、ダリヨス王に手紙を送りました。

その結果はどうだったでしょうか?ダリヨス王はクロス王の命令を見つけました。つまり、クロス王はユダヤ人が主の宮を再建することを許しました。だから、ダリヨスはタテナイとシェタル・ボズナイにこう命じました。

この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちにこの神の宮をもとの所に建てさせよ。(6:7)

それだけでなく、ダリヨス王の命令によって、タテナイとシェタル・ボズナイはその再建のために費用を負担しなければならなかったし、宮の捧げ物のためにさまざまなものをユダヤ人に与えなければなりませんでした。

神様がそのように働かれたことは、素晴らしいと思います。ユダヤ人に反対した人々は、結局ユダヤ人を手伝わなければなりませんでした。

さらに、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

もし神様がご自身の仕事をするために私たちを呼び、私たちがその仕事に専念するなら、その仕事を完成するために神様は私たちのすべての必要を与えてくださいます。

そして、もし反対する人々が来るなら、神様はその状況の中で働かれ、その仕事は必ず完成されます。

だから、私たちは自分自身に一つの質問をするべきです。

「私は神様の仕事にどれほど専念しているのだろうか。」

私たちの状況が大変になったら、私たちはすぐに諦めるでしょうか。それとも、お金や持ち物や私たちの欲望を求めるために、神様の仕事を忘れるでしょうか。

神様は素晴らしいプランを持っておられ、私たちがそのプランに参加するように呼んでおられます。あなたはどれぐらいそのプランに対して応え、専念しているでしょうか。

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エズラ記 ハガイ書

優先順位を正しくする

以前言ったように、エズラ記の年代順は少し複雑です。もし私がその年代順を正確に理解できているならば、おそらくエズラ記4:1-5の後に記されている4:6-23の出来事は、すぐに起こったわけではないでしょう。

さらに、エズラ記7章から最後までの出来事は、4:6-23の前に起こったと考えられます。

そして、ネヘミヤ記の出来事は、エズラ記4章の後に起こりました。

少し混乱するかもしれませんが、心配しないでください。このブログを読み進めることで、徐々に理解が深まるでしょう。🙂

では、もし6-23節の出来事が1-5節の後にすぐ起こったわけではないのなら、なぜそのように記されているのでしょうか。

その理由は、記述が共通のテーマに基づいているからかもしれません。すなわち、ユダの民が城壁、その礎、そして宮を再建する際に直面した反対に焦点を当てているのです。

いずれにせよ、その反対のために彼らは宮の再建を中断しました。(エズラ記4:1-5)

しかし、ハガイ書によれば、宮の再建が中断された理由はもう一つありました。それは、ユダの民にとって、主の宮を再建することが必ずしも最優先事項ではなかったということです。

そこで、預言者ハガイは彼らにこう言いました。

「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。」(ハガイ1:2-4)

つまり、彼らは自分自身の生活を優先するあまり、主の宮を顧みませんでした。

私たちも同じようなことをしているのではないでしょうか。私たちの霊的な生活や神様との関係が重要ですが、時には家計や仕事、家族のことをさらに重要視してしまうことがあります。

もちろん、これらは非常に大切なものです。しかし、もしそれらを神様よりも優先してしまうなら、私たちは罪を犯しているのです。

神様はユダの民にこう言われました。

今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。

かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。(ハガイ1:5-6)

なぜ彼らの状態がそのようになってしまったのでしょうか。それは、彼らの優先順位が完全に狂っていたからです。彼らが神様を顧みず無視したため、神様はもはや彼らを祝福されませんでした。そこで、神様は彼らにこうこう言われました。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。(ハガイ1:7-8)

神様は私たちに同じことを語られています。

「あなたの現状をよく考えなさい。あなたの神様との関係を最優先にしなさい。神様とその御国を何よりも大切にしなさい。そうすれば、あなたは神様の祝福を知ることができるでしょう。」

イエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

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エズラ記

反対

これから、エズラの年代順は少し複雑になります。ここでは私の考えを述べますが、聖書学者たちは年代順だけでなく、エズラ記の中に登場する人物に関しても議論しています。

おそらく、エズラ記4章のアハシュエロス王とアルタシャスタ王は、紀元前486年から423年に治めたペルシャの王たちでした。

その仮定に基づき、私はエズラ記の順番を少し変更します。

エズラ記の年代順は複雑ですが、主の宮を再建するユダヤ人たちにとって、その状況も複雑でした。

再建中、サマリヤ人は手伝いを申し出ました。そのサマリヤ人は北イスラエル王国の残った人々(つまり、追放されなかった人々)の子孫と、メソポタミアとシリアからの移民でした。

彼らは本当の神を礼拝していましたが、他の神々も礼拝していました。だから、エズラと他のユダヤ人たちは彼らの助けを断りました。

そういうわけで、そのサマリヤ人たちはユダヤ人たちが主の宮とエルサレムの城壁を再建することに反対し始めました。エズラ記とネヘミヤ記では、サマリヤ人が反対している様子がよく描かれています。

この話から大切なことを学ぶことができます。私たちが神様に従って、私たちの宮(つまり、私たちの体)を神様に捧げ、また私たちの霊的な力を強める時、それに対して反対するものが現れます。

時々、周りの人々が私たちの変化を見ると、彼らは喜んで私たちを応援します。しかし、私たちの信仰が彼らの信仰とは異なる場合、彼らは私たちがそれほど真剣に神様に従わないよう説得しようとします。

例えば、仏教の葬式で焼香するよう説得されるかもしれません。また、彼らは私たちが道徳的な基準を妥協するように説得しようとするかもしれません。そして、私たちが妥協しないと、彼らは怒るでしょう。

イエス様は、私たちが彼に従うと、すべての人々が私たちを好きになると約束されませんでした。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人々もいました。だからイエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。(ヨハネ15:18)

だから、私たちは自分自身にこの質問をするべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。神様でしょうか。それとも周りの人々でしょうか。」

神様の賞賛をほかの人々の賞賛よりも求めましょう。反対が来ても、神様の賞賛を求めましょう。また、私たちの人生がつらくなっても、神様の賞賛を求めましょう。

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エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

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エズラ記 歴代誌第二

呼ばれた

私が歴代誌について書き始めたのは、約2年前でした。今日はやっとその話を終えることができます。列王記と歴代誌の話はずっと続いてきました。

この箇所では、また、エズラ記の初めに、ユダヤ人がイスラエルに戻ることについて読みます。なぜ彼らは帰国できたのでしょうか。

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。』」(エズラ記1:1-3)

2節は私の心を打ちました。「天の神、主(つまり、ヤハウェ)は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」

ペルシャ人が自分の神々を礼拝していたのに、どうしてクロスはイスラエルの神ヤハウェをほめたたえたのでしょうか。

おそらく、彼は預言者イザヤの言葉を知っていたからです。クロスが生まれるずっと前に、イザヤはこの言葉を書きました。

わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」(イザヤ44:28)

また、

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。。。

それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(イザヤ45:1、3)

おそらくその言葉によって、クロスはその宣言を伝えました。また、彼はネブカデネザルが取った主の宮の用具を返し、その宮の修理のために、イスラエル人の隣人にこう命じました。

残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。(エズラ1:4)

そして、クロスの応援で、神様が言われたように、イスラエル人は帰国しました。

神様がクロスを神様の目的を果たすために呼ばれたように、神様は私たちを呼ばれました。私たちが自分自身のために生きるように呼ばれたのではありません。私たち自身の目的を果たすために呼ばれたのでもありません。むしろ、私たちが神様のために生きるために、神様は私たちの名前を呼ばれました。

パウロはこう書きました。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

あなたは誰のために生きているでしょうか。神様はご自身の目的のためにあなたの名前を呼ばれました。その召しに応えるでしょうか。