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エゼキエル書

新しい遺産

今日、私はエゼキエル書の最後の箇所を読みます。

この箇所では、神様がイスラエルの新しい遺産について語られています。それは、実に新たな遺産です。

神様はイスラエルの民を先祖の土地に連れていくことを約束されましたが、その時、遺産の形が変わります。つまり、土地の分割方法が変わるのです。

ヨシュアの時代、その土地は等しく分割されていませんでした。それぞれの部族の人口に応じて分割されたのです。(申命記26:52-54)

例えば、イッサカルとゼブルンは小さな遺産をもらいましたが、ユダとマナセは大きな遺産を受け取りました。けれども、新しい遺産は等しく分割されます。(エゼキエル書47:14)

さらに、古い遺産によって、ダン、マナセ、ガドの部族は他のイスラエルの民から離れ、神様が約束された土地からも離れ、ヨルダン川の向こうに住んでいました。

しかし、新しい遺産によって、すべての部族が神様の約束された土地に住むようになります。

最後に、外国人がイスラエルの民の中に住みたいと願うなら、彼らも遺産を受け取ることが許されます。

この箇所から、いくつかの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様の国では私たち全員が等しい遺産を受け取ることです。私たちの行動や国籍によって遺産を受け取るのではなく、その救いの遺産は神様の恵みによって与えられます。

そして、ユダヤ人も異邦人もその遺産を受け取ることができるのです。

パウロはこう記しました。

そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3:11)

二つ目の教訓は、神様の国において私たちは次善のものを相続することはないということです。

ヨシュアの時代、ダン、マナセ、そしてガドの部族は次善の土地を受け取りました。しかし、神様は私たちに次善のものではなく、最善のものを与えることを望んでおられるのです。

三つ目の教訓は、私たちの本当の遺産は天国ではなく、神様そのものだということです。

イスラエルの新しい遺産では、神様の地域は他の部族の地域の真ん中に置かれています。そして、神様は新しいエルサレムが「主はここにおられる」と呼ばれると言われました。

クリスチャンの生活の最大の喜びは、神様が私たちと共におられ、そして私たちの心の中に住んでおられることです。

ダビデはこう記しました。

主は、私へのゆずりの地所、また私へ[祝福」の杯です。(詩編16:5)

主よ、あなたが私の遺産であることに感謝します。あなたの恵みによって私を救ってくださったことを感謝します。

それだけでなく、あなたは私の心に住み、決して私を捨てないお方です。

あなたが私に次善ではなく、最善を与えようとしてくださることに感謝します。

どうか毎日私と共に歩んでください。そして私の神として導き続けてください。アーメン。

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生ける水

上の写真は死海です。なぜ「死海」と呼ばれるのでしょうか。

それは、この海の塩分濃度が非常に高いため、魚や貝などの生物が生きることができないからです。緑藻類や菌類を除いて、何も生きることができないのです。

しかし、この箇所では、神様はこの「死んだ海」と呼ばれる場所がいつか変わると語っています。

将来、神殿の敷居の下から東へ向けて水が流れ出します。その流れは小さな水流から始まりますが、やがて大きな川へと変わります。そして、その川は最終的に死海へと注ぎ込みます。

そして、

海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。

この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水が入ると、そこの水が良くなるからである。

この川が入る所では、すべてのものが生きる。(エゼキエル47:8-9)

それだけではなくて、

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。(12)

それはいつか本当に起こると信じますが、その預言は私たちの人生を描いた美しい絵だとも感じます。つまり、天国の王座から生ける水の川が流れ出し、それが私たちの人生に注ぎ込まれるということです。

さらに、罪の中に死んでいた私たちから、神様の命が溢れ出します。私たちの人生は実を結び始め、その実が私たち自身の魂を癒し、栄養を与えるのです。

しかし、それだけではありません。その実は私たちの周りの人々にも癒しをもたらし、彼らの魂にも栄養を与えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37ー38)

主よ、どうかあなたの聖霊で私を満たしてください。私の魂にあなたの生ける水を注ぎ、私を癒してください。私があなたのために実を結ぶ者となることができますように。

そして、私を通して、あなたの生ける水を流してくださり、私の周りの人々の魂を癒し、彼らの魂にも栄養を与えることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様に心を捧げる?

この箇所では、神様がイスラエルの民の帰国について語られます。

それはまだ遠い未来のことでしたが、彼らが帰国する時のために、神様はいくつもの命令を与えられました。

その大部分は、何百年も前に神様がモーセに伝えられた命令を繰り返すものです。特に43ー44章では、それが明確に示されています。

けれども、一つの箇所が特に私の心に深く響きました。

あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。。。

その周囲の全域は聖なる地である。。。

そして、その中に聖なる至聖所があるようにせよ。(エゼキエル書45:1,3)

つまり、「私たちがあなたに与えた土地に帰る時、私のために場所を整えなさい。なぜなら、私はあなたの主であり、あなたがたの中に住むからです。」

私はそれを読むとき、ペテロの言葉を思い出します。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。(第一ペテロ3:15)

それはどういう意味でしょうか。それは、神様にあなたの心の王座を捧げることを意味します。そして、神様だけのために、あなたの心を整えることです。

その後、神様は別の命令を与えられ、君主たちにこう言われました。

イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。(エゼキエル書45:9)

神様は私たちにも同じことを語っておられます。もし私たちが神様を主としてあがめるなら、自分の罪を止め、神様の目にかなった正しいことを行うべきです。

また、神様は祭司たちに雄牛をいけにえとして捧げるよう命じられました。そして、その血を用いて聖所を清めなければなりませんでした。彼らはそれを毎年行う必要がありました。

このように、私たちも清い聖所を保ち続けるべきです。

つまり、私たちの体が神様の宮であるため、私たちは自分の罪を告白しなければなりません。そして、イエス様の血によって清められ、神様が私たちの罪を赦してくださるよう祈るべきです。

神様はその祭司たちにこう言われました。

あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない。(20)

私たちは意識的に罪を犯していなかったかもしれません。しかし、その罪のためにイエス様は贖いをしなければなりませんでした。

だからこそ、ダビデが祈ったように、私たちも次のように祈るべきです。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(詩篇19:12-13)

そして、神様はイスラエルの民に過越の祭りを守るよう命じられました。その祭りの時、彼らは神様がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを思い起こしたのです。

同じように、私たちもサタンの国と罪から救い出されたことを思い起こすべきです。なぜなら、私たちはしばしば、なぜ神様に心を捧げるのかを忘れてしまうからです。

その理由は、神様が私たちを愛しておられること、そして神様の救いに感謝することにあるのです。ヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。第一ヨハネ4:19)

46章では、供え物に関する内容の中で、神様は45章のテーマを再び繰り返されています。

全焼のいけにえは、罪の贖いのためのものでした。さらに、イスラエルの民は神様に心のすべてを捧げることを表しました。(そのいけにえは完全に燃やされました。)

穀物のささげ物は、神様への感謝を表すためのものでした。

和解のいけにえも、全焼のいけにえと同じく、贖いのためのものでした。つまり、捧げられた動物は人の代わりに、その人の罪のために命を犠牲にしたのです。

けれども、もうひとつの意味が込められていました。それは、その動物の血によって、私たちには神様との間に平和があることを示すということです。

最後にもうひとつ重要な点があります。

イスラエルの民が礼拝のために宮に来たとき、一つの門を通りました。(北の門でも、南の門でもよかったのです。)

しかし、帰るときには、必ず反対側の門を通らなければなりませんでした。

なぜでしょうか。それは、おそらく、私たちが神様の前で礼拝をすることで心が変えられるからではないでしょうか。

イエス様の血によって、私たちは清められ、神様の目には義と認められました。そして、イエス様は私たちの心の王座に座っておられます。

その結果、私たちは新しい人として生まれ変わるのです。

パウロはこう書きました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

新しく造られた者として、毎日、神様に心を捧げましょう。

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私たちの心に入るもの

子供の頃、私は日曜学校でこの歌を歌いました。

あなたが見ることに気を付けて。

そして、

あなたが聞くことに気を付けて。

この歌はシンプルですが、本当に大切なメッセージを持っています。私たちは、自分の心に入り込むものに注意しなければなりません。

なぜでしょうか。それは、私たちの体が聖霊の宮だからです。

だから、神様はエゼキエルにこう言われました。

宮に入れる者と、聖所に入れないすべての者を心に留めよ。

あなたは、反逆の家、イスラエルの家にこう言え。神である主はこう仰せられる。

イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌みきらうべきわざは、もうたくさんだ。あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した。

あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血とをささげたが、あなたがたのすべての忌みきらうべきわざによって、わたしとの契約を破った。(エゼキエル書44:5ー7)

祭司たちだけが聖所に入ることが許されていました。しかし、イスラエルの民は神様を信じない外国人をその聖所に入らせてしまったのです。

その結果、彼らは神様の宮で偶像を礼拝し始め、宮を汚してしまいました。

そのため、神様は偶像を礼拝した先祖を持つレビ人に対し、祭司となることを禁じられました。そして、神様に忠実であったレビ人だけが祭司となることを許されたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの宮の門、つまり、あなたの目と耳には何が入っているでしょうか。あなたの心に何を住まわせているでしょうか。

あなたはテレビでどんなものを見ていますか。どんな音楽を聴いていますか。どんなメッセージを耳にしていますか。そして、何があなたの心を治めているでしょうか。

もし私たちが不潔なものを心に入れたなら、神様の宮は汚れてしまいます。お金の偶像、持ち物の偶像、あるいはセックスの偶像を心に住まわせたなら、神様の宮は汚れてしまうのです。

そうではなく、私たちの心を汚すものに対して心の戸を閉ざしましょう。むしろ、神様に心の戸を喜んで開き、心の王座を神様に捧げましょう。

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新しくなった

最近、私は出エジプト記25ー27章を読みました。

その箇所を「つまらない」と言いたくはありませんが、幕屋の作り方が非常に詳細に書かれているため、読んでいるうちに少し眠くなってしまいました。

このエゼキエル書の箇所は、その出エジプト記の箇所と非常に似ています。けれども、エゼキエルは幕屋についてではなく、将来の主の宮について語っています。

エゼキエルの時代、イスラエルの罪のゆえに、神様の聖霊はその宮を去られました。その結果、宮は間もなく倒れ、その栄光は失われてしまったのです。

しかし、その後、神様はエゼキエルに新しい宮に関する幻を見せられました。そして、神様はその宮の形を非常に具体的に説明されました。

43章では、エゼキエルは神様の栄光がその宮に戻る幻を見ました。

神様が東の方から宮を去られたように(10:18-19)、再び東の方から宮に戻り、その宮を神様の栄光で満たされたのです。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。

イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。。。

今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。(エゼキエル書43:7-9)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様との関係を持つために造られました。そして、聖霊の宮となるために造られたのです。

けれども、私たちの罪のために、その宮を汚してしまい、私たちは神様から離れてしまいました。その結果、私たちの人生はめちゃくちゃになってしまったのです。

それでも、私たちが神様に立ち帰るなら、神様は私たちの中からそのごみを取り除き、私たちを新しくしてくださいます。

神様はご自身の霊を私たちに注ぎ、最初から計画されていたように、私たちは神様の宮となるのです。

そして、神様がイスラエルの民に語られたことを、私たちにも語っておられます。パウロはこう書きました。

私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6:16-18

また、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

イエス様の血によって、私たちは清められ、新しくされました。

ですから、私たちの罪を捨て、私たちを救ってくださった神様と共に歩みましょう。

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神様の目的のため、神様の栄光のため

この箇所では、エゼキエルが将来の戦いについて語ります。その時、いくつかの国々がイスラエルを打ち破ろうとして攻撃しますが、神様はその国々を滅ぼされます。

この箇所についてはさまざまな議論が交わされていますが、このブログではその議論には触れません。なぜなら、それは非常に複雑であり、私よりもはるかに賢い人たちが議論しているからです。😊

私が特に注目したいのは、なぜ神様がその戦いを許されるのかという点です。神様はその将来のリーダーたちにこう言われます

あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。。。

わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。(エゼキエル書38:16)

そして、その国々の裁きについて語った後、神様はその裁きの理由を説明されます。

わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(38:23)

39章でも、そのテーマは続いています。

わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。

諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。(エゼキエル書39:7)

そして、イスラエルの癒しについて語る際に、神様はこう言われます。

わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示す。。。(39:27)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様はご自身の目的を果たすために働いておられます。また、神様はご自身の栄光を現すために働いておられるのです。

そして、神様の御業の目的は、この世が神様を知ることにあります。つまり、神様は他の「神々」よりも優れたお方です。なぜなら、それらの「神々」は本当の神ではないからです。

そして、最後の日に、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられる。。。(ピリピ2:10-11)

神様はイスラエルの民を、ご自身の民とするために呼んでくださいました。しかし、アブラハムとその子孫が他の人々よりも優れていたわけではありません。

アブラハムとその子孫の話を読むと、彼らもまた罪人であったことがわかります。

それでも、神様の恵みによって彼らが呼ばれたのです。

神様はご自身の目的のために彼らを選ばれました。神様は彼らが罪を犯すことをすでに知っておられましたが、それでも彼らを通してご自身の栄光をこの世に現すことを計画されたのです。

神様はイスラエルの民を通してイエス様を送り、私たちを贖い、神様がどのような方であるかを示されました。

そして、終わりの日に、神様はイスラエルを守り、ご自身の民に聖霊を注ぎ、彼らの罪を赦されます。その御業を通して、神様はご自身の栄光と力、そして恵みをこの世に現されるのです。

その同じ理由で、神様は私たちクリスチャンを選ばれました。

私たちは他の人々よりも優れているわけではありません。また、私たちの目的や栄光のために選ばれたのでもありません。

むしろ、神様の恵みによって、そして神様の目的と栄光のために私たちは選ばれたのです。

この世が神様を知るために、神様は私たちを選んでくださいました。その神は、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。。。(出エジプト34:6-7)

私たちは神様の目的と栄光のために生きましょう。

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死者をよみがえらせる方

この箇所を読むとき、私はイースターについて思い浮かべます。なぜなら、この箇所を通してイースターの意味を鮮明に見ることができるからです。

37章で、エゼキエルは不思議な幻を見ました。谷には、たくさんの干からびた骨が広がっていました。そして、神様はエゼキエルに問いかけられました。

人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。(エゼキエル書37:3a)

エゼキエルはこのように答えました。

神、主よ。あなたがご存じです。(3b)

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。

見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」(4-6)

エゼキエルは神様の指示に従いました。すると、すぐにその骨が人間となり、神様が彼らに息を与えると、彼らは非常に多くの集団となったのです。

その集団がエゼキエルの前に立ったとき、神様はエゼキエルにその幻の意味を説明してくださいました。

人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。

ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。

それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。

このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ――(11-14)

イスラエルの希望は本当に失われていました。彼らの王と祭司は殺され、イスラエルの民は追放されてしまいました。

けれども、神様は彼らにこう言われました。

「あなたはすべてを失ったと思うかもしれない。しかし、私は死者をよみがえらせる力を持つ神です。あなたの国が滅び、あなたがたが追放されたとしても、私の力によってあなたは自分の土地に戻るでしょう。

私はあなたの罪を癒し、壊れた関係を回復します。私の聖霊はあなたの中に宿り、あなたはもう一度生きるのです。

私はあなたの神となり、あなたは私の民となります。そして、私は永遠にあなたと共に住むでしょう。」

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの多くには、壊れた夢や壊れた人生があります。それらがすべて潰されて、もう修復されることはないと思うかもしれません。私たちはまるで干からびた骨のように感じることがあります。

しかし、神様はあなたに命を与えてくださいます。神様はあなたの人生と希望をよみがえらせることができるのです。

ある人はこう言いました。「イエス様がこの世に来られた目的は、悪い人を良い人に変えることではありません。イエス様が来られた理由は、死んだ人をよみがえらせることです。」

パウロは私たちについてこう書きました。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって。。。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ人への手紙2:1、12)

けれども、キリストにあって、私たちの罪は赦されます。壊れた人生は癒され、神様は私たちの干からびた骨を新しくしてくださいます。私たちが神様を呼び求めるなら、神様は必ず私たちを救ってくださいます。

パウロはこう書きました

同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:12-13)

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私たちが倒れると

この箇所では、神様は再びユダの周辺の国々を厳しく責められます。なぜなら、エルサレムが倒れたとき、彼らがそれを喜んだからです。

まず、神様はエドムを責められました。エドムはユダに対して悪意や妬み、怒りを抱いていただけでなく、ユダの苦しみを自分たちの利益のために利用しようとしました。

そして、神様はイスラエルにその国々の裁きとイスラエルの癒しについて伝えられました。

とはいえ、イスラエルはその憐れみにまったく値しませんでした。彼らが癒されるのは、イスラエルの性格によるのではなく、神様の恵みによるのです。

むしろ、彼らが癒されるのは、神様のご性質によるのです。

エルサレムの没落の際、周りの国々は神様に向かって「高慢なことばを吐いた」のです。(35:13)

けれども、神様がイスラエルを癒すとき、その国々は神様がどのようなお方であるかを知ることになります。

つまり、神様は力ある神であり、恐るべき神です。また、神様は約束を守られる神であり、罰を与える神でありながら癒す神でもあります。怒りの神でありながら、人を赦す神なのです。

したがって、イスラエルを通じて周辺の国々は、神様だけが主であることを知るようになります。

神様はどのようにしてイスラエルを癒されるのでしょうか。それは人間の心を変えることです。他の神々には決してできないことです。

そして、神様はこう言われました。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。

わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25ー27)

そのようにして、神様は私たちの心に働きかけておられます。私たちは神様に背を向け、自分の道を歩みましたが、それでも神様は私たちを救ってくださいます。

私たちの良い性格によってではなく、神様ご自身が素晴らしいお方であるからこそ、私たちを救われるのです。

私たちの行いによってではなく、むしろ神様の御業によって、私たちは救われます。

パウロはこう書きました。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:5-7)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちがどんなに倒れても、神様は私たちを救うことができます。神様は私たちを良い性格によって救われるのではありません。

もし私たちが本当に良い人であれば、救いを必要としないでしょう。しかし、私たちは罪人であり、救いが必要です。なぜなら、私たちは神様に背を向けて、自分の道を歩んだからです。

ですから、もしあなたが神様から遠く離れているのなら、神様に向き直りましょう。そして、神様の赦しを求めましょう。そうすれば、神様はあなたの声を聞き、あなたを癒してくださいます。

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エゼキエル書

リーダーって?

この箇所では、神様はユダの政治的および霊的なリーダーたちを厳しく責められます。なぜでしょうか。それは神様が彼らにこう言われたからです。

ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。(エゼキエル書34:2)

この牧者たちの問題は、彼らがその羊に仕えることなく、むしろその羊に彼らを仕えるよう求めたことにあります。

彼らは自分の立場を利用して、力やお金、名誉を手にしましたが、その人々を世話しませんでした。むしろ、彼らは自分の利益のためにその人々を利用したのです。

そして、神様はこう言われました

あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。(3-4)

つまり、彼らはできる限り羊から多くのものを奪いましたが、その羊には何も返しませんでした。むしろ、彼らは暴力によってその羊を支配したのです。

その結果はどうだったでしょうか。「狼」がその羊を攻撃したとき、その羊は無力でした。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。(5)

だから、神様はそのリーダーたちにこう言われました。

「私の民の没落の責任をあなたがたに問います。私はあなたがたの立場を取り去り、私自身がイスラエルの民の羊飼いとなるのです。」

神様はその約束を守られました。神様はご自身の力でイスラエルの民をバビロンから彼らの国に導かれました。

そして、イエス様が来られました。イエス様は神様でありながら、人間の姿を取られたのです。そして、イエス様が来られたとき、こう言われました

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)

イエス様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は良い羊飼いであり、私たちを愛してくださったので、私たちの罪のために死なれました。

私たちは神様から遠く離れていましたが、イエス様の血によって近い者とされたのです。(エペソ2:13)

イエス様は私たちの傷を癒し、私たちを完全にしてくださいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私はどんなリーダーだろうか。」

あなたはこう言うかもしれません。「私が?私はリーダーじゃない。」

ですが、もしあなたが親であれば、あなたはその子供のリーダーです。

夫であれば、あなたは家族のリーダーです。上司であれば、あなたはリーダーです。そして教会でミニストリーを行い、誰かがあなたについてきているなら、あなたもリーダーです。

もしあなたがリーダーであるなら、私たちはイエス様の例に従うべきです。

あなたについていく人々を世話するべきです。あなた自身の必要よりも、彼らの必要を優先するべきです。そして、できる限り、彼らの傷を癒し、彼らを導くべきです。

イエス様は私たちのためにそうしてくださいました。私たちも周りの人々のためにそうしましょう。

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どうやって私は生き続けることができるの?

この箇所では、エゼキエルは以前のテーマを繰り返して言っています。

神様はもう一度エゼキエルに警告されました。

「私があなたに『このメッセージを伝えなさい』と言うとき、あなたは決して黙っていてはいけません。なぜなら、もしあなたが何も言わず、その人が自分の罪によって死ぬなら、彼の血の責任をあなたに問うことになるからです。」

その後、神様はエゼキエルにイスラエルの民が言っていることを教えられました。

私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。

私たちはどうして生きられよう。(エゼキエル書33:10)

私たちはよく同じようなことを言います。私たちを束縛している自分自身の罪を見ますが、文句を言います。

「私の罪のせいで、私の人生はめちゃくちゃになってしまった。神様が私を罰しておられるでしょう。神様がこんなにも私に反対しているなら、どうやって私は生き続けることができるのでしょうか。」

けれども、神様はイスラエルの民にこう言われました

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(11)

神様は私たちにこう言われます。「私があなたの苦しみを見ることを喜ぶと思うのですか。人々が地獄に行くとき、私がそれを喜ぶと思うのですか。

そうではありません。悔い改めなさい。私がその苦しみを許す理由は、あなたが悔い改めることを望んでいるからです。なぜあなたはその死の道を歩み続けるのですか。」

ところが、イスラエルの民は神様の言葉に耳を傾けませんでした。

彼らはエルサレムの没落について聞きましたが、それでも自分たちの努力を通じていつかイスラエルに戻れると信じていました。

そこで、神様は彼らにこう言われました。「あなたがたは自分の力によって帰国することはできない。もしあなたがたが私に背き続けるならば、あなたがたは死ぬことになる。」

そして、神様はエゼキエルにこう言われました

彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。

彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。

あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。(31ー32)

彼らは神様の御言葉を聞きたがり、神様を礼拝したいふりをしていました。しかし、彼らの心は神様から遠く離れていました。

彼らにとって、エゼキエルの言葉はただのエンターテインメントに過ぎませんでしたが、その言葉には従いませんでした。

時々、人々は同じような態度を持って教会に行きます。彼らはショーを観たい、楽しい時間を過ごしたいと思っています。教会で良い気分になれるから行くのです。

けれども、彼らが神様の御言葉を聞いても、その言葉に従うことはありません。その結果、彼らは生きているように見えても、罪によって霊的に死んでいるのです。

そして、いつか裁かれる日が来るでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで苦しんでいるのではありませんか。

神様はあなたが滅びることなく、救われることを望んでいます。神様はあなたが罪から解放され、真の命を見つけることを望んでおられるのです。

2000年前、イエス様は十字架であなたの罪のために死なれました。そして、3日目にイエス様はよみがえられました。だから今、イエス様はあなたに赦しと永遠の命を提供しておられます。

神様はあなたの心を見通しています。たとえ神様に従うふりをしても、神様を欺くことはできません。神様はあなたの罪をすべて知っておられるのです。

だからこそ、悔い改めて、神様に従う生活を始めませんか。

イエス様、私の罪のせいで私の人生はめちゃくちゃになっています。私は自分の道を選んで歩んだために、今苦しんでいます。どうか私を赦してください。

あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。私の心を清め、私を変えてください。そして、私の人生を新しくしてください。どのように生きれば良いか教えてください。

これからはあなたに従って生きたいと思います。アーメン。

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エゼキエル書

壊れやすいものに頼る?

少し皮肉なことですが、神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出されたにもかかわらず、バビロンがイスラエルを攻撃した際、イスラエルの民はエジプトの助けを求めました。

エルサレムが包囲されたとき、エジプトの軍勢はイスラエルを助けるためにバビロンと戦い、バビロンの包囲は一時的に停止しました。

けれども、すぐにバビロンはエジプトを打ち破った後、エルサレムに戻り、エルサレムはその後すぐに陥落しました。

この箇所では、神様がエジプトの没落を預言されたことが記されています。神様は、エジプトを川から引きずり出され、砂漠に取り残され死にかけている鰐にたとえられました。

では、エジプトはなぜ裁きを受けたのでしょうか。その理由は複数ありますが、そのうちの一つは、イスラエルが神様に向かわずにエジプトの助けを求めたことです。

そのため、神様はパロにこう言われました。

エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。

彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。。。

イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。(エゼキエル書29:6-9、16)

エジプト人は自分たちが強大な力を持っていると信じていました。そして、パロの誇りによって、自らを神と見なすまでになりました。彼はこう言いました。

川は私のもの。私がこれを造った。(エゼキエル書29:9)

実は、彼の名前ホフラは、「強い腕を持つ者」という意味を持っています。

しかし、神様は彼にこう言われました

人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。

見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。(エゼキエル書30:21-22)

エジプトは他の国々との同盟に頼り、自分たちの神々を信頼していました。しかし、神様は彼らにこう言われました。

エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ。。。

神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。(30:6-13)

31章では、神様がバビロンにアッシリヤの没落を思い出させました。アッシリヤもまた、自分たちの力と美しさを誇り、数多くの同盟を結びました。それにもかかわらず、バビロンは彼らを打ち破りました。

そこで、神様はエジプトにこう言われました。「アッシリヤはあなたよりも優れた国でした。それでも彼らは倒れた。どうしてあなたが立ち続けることができると思えるのですか。」

続けて、32章では、神様がエジプトに警告を与えられました。

「多くの国々は自分のプライドに基づいて立ちましたが、結局彼らは地獄に行ってしまいました。あなたもその運命から逃れることはできません。」

ここから私たちは何を学べるでしょうか。

私たちは何に頼っているでしょうか。他の人々に頼っているでしょうか。それとも、自分自身の力に頼っているでしょうか。

この世の神々、つまり、お金、持ち物、権力に頼っているでしょうか。

これらのものは壊れやすいものです。人々はあなたを失望させるでしょう。あなた自身の力も最終的には消え去ります。お金や持ち物もいつかはなくなります。

そのすべてがなくなったとき、あなたは何に頼るのでしょうか。

頼るべきお方は、ただお一人。それはイエス様です。

この世のすべてのものは、最終的に崩れ去ります。しかし、イエス様だけは決して崩れません。

イエス様こそが、あなたの人生をその上に建てることのできる、決して揺るがない岩なのです。

イザヤはイエス様についてこう言いました。

見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。

これを信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)

あなたは誰に頼っているでしょうか。

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ひとりの神しかおられない

この箇所では、私たちは興味深い「ツロの君主」に関する言葉を目にします。

多くの聖書学者によれば、「ツロの君主」とは人間の王を指しており(1-10節)、「ツロの王」はサタンを表しているとされています(11-19節)。

とはいえ、それが本当かどうかは私には分かりません。「ツロの君主」と「ツロの王」は同一人物、つまり人間の王を指している可能性もあります。彼が自分を神々のようになりたいと願ったのかもしれません。

ただし、その王がサタンであれ人間であれ、神様のポイントは明確です。一人の神しか存在しません。そして、「ツロの君主」もサタンも神様ではないのです。

ツロの君主は自分の力とその都市の繁栄を見て、こう言いました。

私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている。(エゼキエル書28:2)

でも、神様は彼に言われました。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。。。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。(2、8-9)

ここから、私たちは何を学べるでしょうか。

あなたは「私は神だ」と口にしないかもしれません。けれども、神様のように振る舞ってはいませんか。

どれほど、あなたは自分の成功や実績を誇り、周囲の人々を見下しているでしょうか。彼らを兄弟ではなく、自分のしもべのように見てはいませんか。

また、どれほど、あなたは心の王座から神様を追い出し、その王座に自分が座ろうとしているでしょうか。どれほど、神様の御心を求めず、自分の道を歩もうとしているでしょうか。

そのようにして、あなたもツロの王が知ったことを理解することになるでしょう。たとえあなたが美しくても、賢くても、どれほど成功していても、あなたは神様ではなく、ただの人間なのです。

そして、もしあなたが神様に反抗し、その王座を奪おうとするならば、あなたはかえって低くされてしまいます。

唯一の神が存在します。私たちはその神ではありません。

だからこそ、神様の前にへりくだり、仕えましょう。そして、神様を私たちの王として認めましょう。

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悪意の心

それでは、バビロンにいるエゼキエルに話を戻しましょう。この預言はエルサレムの包囲と没落の後に与えられたものです。

この箇所では、エゼキエルはユダの周囲の敵に対する預言を語ります。それはアモン人、モアブ人、エドム人、ペリシテ人、ツロ人、そしてシドン人に関するものでした。

彼らには共通点がありました。それは、ユダに対して悪意の心を抱いていたことです。

バビロン人がユダを攻撃したとき、これらの国々はその状況を喜びました。ある国々はユダの苦しみを自分たちの繁栄のために利用し、またある国々は復讐を行いました。

そのため、神様は彼らを裁き、彼らの没落を預言されたのです。

私たちはここから何を学べるでしょうか。

私たちは周囲の人々に対してどのような心を持っているでしょうか。悪意の心を抱いているでしょうか。

例えば、相手があなたを傷つけたとき、あなたはその人を許すことができるでしょうか。また、その人に悪いことが起きたならば、あなたはそれを喜び、「彼はその悪いことに値する人だ」と言うでしょうか。

さらに、相手が困っているとき、彼らを助けるのではなく、彼らの苦しみを利用しようとするでしょうか。

神様はそのような態度を非常に嫌われます。神様の民として、私たちは心の中にそのような態度を抱いてはいけません。

ダビデのことを考えてみましょう。ダビデを殺そうとしたサウルが殺されたとき、ダビデは喜ぶどころか、彼のために涙を流しました。さらに、サウルとその息子ヨナタンのために哀歌を書いたのです。

また、サウルの子イシュ・ボシェテが自分の民によって殺されたとき、ダビデは「この国を団結させる絶好の機会だ。きっと私は王になるだろう」と考えることなく、その殺人者たちを罰しようとしました。

ダビデは決して完璧な王ではありませんでした。しかし、彼は悪意の心を捨てて憐れみの心を抱きました。そのため、神様は彼について「この人はわたしの心にかなった者だ」と語られたのです。

では、あなたの心はどうでしょうか。あなたの心は悪意に満ちているでしょうか。それとも、憐れみに満ちているでしょうか。イエス様は次のように言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43-45)

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無駄な涙

この箇所では、ユダ王国の没落が間近に迫っています。

エレミヤやエゼキエルは長い間ユダの人々に警告してきましたが、ついにバビロンがユダを攻撃するためにエルサレムに到着しました。

包囲が始まった時、神様はエゼキエルにこう言われました。「これは裁きの日である。この国は罪に満ち、人を殺しておきながらその罪を隠そうともしない。

私はこの国を清めようとしたが、彼らは私の警告を無視し続けた。だから、私の忍耐は尽きた。彼らに憐れみをもう与えない。今は裁きの時だ。」

さらに、神様はエゼキエルに非常に辛い知らせを伝えられました。「あなたの妻が亡くなる。」

それでも神様はエゼキエルにこう命じられました。

嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。

頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。(エゼキエル書24:16-17)

なぜでしょうか。それはエルサレムが倒れると、ユダの人々がそのように反応するからです。

彼らの砦、彼らの栄光、彼らの喜び、そして彼らの子どもたちすべてが取り去られます。その時、彼らの憂いは非常に深くなり、どれだけ泣いても慰められることはありません。

それでもなお、彼らは悔い改めようとしないのです。むしろ、彼らは、

自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。(23)

だから、神様はユダ人にこう言われました。

エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(24)

私たちはここから何を学べるでしょうか。

時には涙を流すことが良いのです。もし私たちの涙が悔い改めへと導き、神様に向かわせるなら、神様は私たちを慰め、癒してくださいます。

イエス様はこのように言われました。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)

けれども、ある人は自分の罪によって心が堅くなり、すべてを失っても、またその苦しみに耐えられなくても、悔い改めることがありません。むしろ、彼らは神様を責め、自己憐憫に浸るのです。

ユダの人々も同じようにしました。私たちの心が罪によって堅くなるとき、私たちも彼らと同じような反応をするかもしれません。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで、あなたの心は堅くなっているでしょうか。絶望しているでしょうか。神様を責め、自己憐憫に浸っているでしょうか。

どうか悔い改めてください。あなたの罪の結果に対してではなく、あなた自身の罪そのもののために涙を流してください。

そうするなら、神様はあなたに触れ、あなたを赦し、そして癒してくださるでしょう。

悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。かつて、使徒パウロはキリストを冒涜し、多くのクリスチャンを迫害しました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロはこう記しました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:15-16)

パウロの涙は、悔い改めへと導かれました。あなたの涙もまた、悔い改めへと導かれますように。

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あなたの滅びる情欲

この箇所では、たとえ話を用いて、エゼキエルは北イスラエル王国とユダ王国を責めています。

この話は二人の売春婦についてのものです。彼女たちは姉妹であり、姉の名前はオホラ、妹の名前はオホリバでした。

オホラは北イスラエル王国の首都サマリヤを象徴します。

ユダ王国から分離したとき、北イスラエル王国は自分たちの礼拝所を建設しました。それを「神様のため」と言いましたが、実際には偶像を礼拝するための場所でした。(「オホラ」という名前は「彼女自身の幕屋」という意味です。)

オホリバはユダ王国の首都エルサレムを象徴します。ユダ王国には神様の宮がありました。(「オホリバ」という名前は「彼女に私の幕屋がある」という意味です。)

このたとえ話では、その姉妹はかつてエジプトで売春婦でしたが、神様が彼女たちをその生活から救い出しました。

この意味は、エジプトにいたとき、イスラエルの人々が他の神々を礼拝していたにもかかわらず、神様が彼らに偶像を捨てて自分に従うようにと呼びかけたということです。

その後、オホラはアッシリヤ人を恋い慕い、姦淫を犯しました。けれども、最終的にアッシリヤ人によって彼女は殺され、その子どもたちは奴隷にされました。

これは、北イスラエル王国がアッシリヤと同盟を結び、その神々を礼拝するようになったものの、最終的にアッシリヤ人に滅ぼされ、追放されたことを象徴しています。

一方、オホリバは姉の罪から何も学びませんでした。そのため、彼女もアッシリヤ人を恋い慕い、さらにはバビロン人も恋い慕いました。

けれども、後に彼女の心はバビロン人から離れ、再びエジプト人に戻りました。それでも、将来バビロン人が彼女を追ってきて、彼女を殺し、その子どもたちを奴隷にすることになります。

その意味は、ユダ王国がアッシリヤ人、バビロン人、そしてエジプト人と同盟を結び、それぞれの神々を礼拝していたということです。ところが、最終的に彼らはバビロンに追放されることになりました。

神様の言葉はすべて成就しました。

この話から二つの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様は私たちに神様に従うことを強制されないということです。

私たちが神様から離れようとするならば、神様は私たちを止めません。むしろ、神様は私たちを、私たちが恋い慕うものに引き渡されます。

二つ目は、私たちが恋い慕うものは、最終的に私たちを滅ぼすということです。

それらが喜びや安全、そして祝福を与えてくれるように思えるかもしれませんが、実際には私たちを奴隷にし、滅ぼします。

パウロはこのように言いました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。。。

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。(ローマ6:16、20-21)

イスラエルの人々はそのような経験をしました。そして、私たちも同じような経験をする可能性があります。

どれほど多くの夫が不倫によって自分の家族を壊しているでしょうか。彼らの行動は妻や子どもたちを深く傷つけます。

そのような夫は自分の行動がもたらす結果を十分理解しているにもかかわらず、自分自身を止めることができません。

また、どれほど多くの人々がアルコールや麻薬によって自分の人生を破壊しているでしょうか。

さらに、お金への執着のあまり、働きすぎて家族や健康を損なう人々はどれほど多いでしょうか。

多くの人は、自分の情欲に従って生きることを「自由」だと思っています。

しかし、自分自身を止められないなら、それは本当に自由でしょうか。情欲によって自らの人生が壊れることが自由と言えるでしょうか。

あなたを滅ぼすものから解放するために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様はあなたが真に生きるために命を捧げられたのです。

けれども、自分に問いかけなければならないのは、「私は本当に自由になりたいのだろうか」ということです。

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破れ口に立つ?

私たちは、この世の悪を目にするたびに、しばしば文句を言います。けれども、本当にそれを気にかけているのでしょうか。その悪に対して、私たちは具体的にどのような行動をしているのでしょうか。

この箇所では、神様はエゼキエルに、間近に迫ったイスラエルの裁きについて警告するよう命じられました。

すなわち、バビロンを通して、イスラエルのリーダーたちの地位が取り去られることになるのです。祭司たちの被り物は剥ぎ取られ、王の冠は取り去られます。(エゼキエルしょ21:25-26)

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。(21:6)

なぜなら、そのように裁きの日が来ると、イスラエルの人々は皆嘆くことになるからです。

では、どうして裁きが来るのでしょうか。それは彼らの罪のためです。イスラエルには、偶像礼拝があり、殺人事件があり、性的な罪があり、その他さまざまな堕落がありました。

簡単に言うと、イスラエルの人々は神様を忘れ、自分の道を歩んでいたのです。(22:1-12)

しかし、22章の最後で、神様はとても興味深いことを語られます。

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(30-31)

壊れた石垣を築く者、破れ口を修理する者。

昔の都市の防御は石垣でした。その石垣が壊れると、その都市は敵の攻撃を受けやすくなります。

イスラエルの霊的な石垣は崩れ、大きな穴が開いてしまいました。つまり、彼らは神様に背を向け、さまざまな罪を犯していたのです。

そこで、神様は問いかけられました。「その道徳の石垣を修理する者はいないのか。私の律法は彼らを守るためのものだったが、彼らはその律法を取り壊してしまった。」

けれども、神様はもう一つのことを示されているようです。

日本語の聖書では、「破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めている」と訳されていますが、ヘブル語で使われている「修理する」という語には、複数の意味があります。その一つが、「立つ」という意味です。

英語の聖書の多くでは、この箇所がそのように訳されています。つまり、「神様は破れ口に立つ者を探している」という表現になっています。

神様はその破れ口に入ろうとされています。そして、そのまま裁きが訪れます。果たして、誰かがその破れ口に立つでしょうか。

誰もいないなら、多くの人々が滅びることになります。しかし、誰かがその破れ口に立ち、そこから人々のために祈るならば、神様は憐れみを与えるかもしれません。

何度もモーセはイスラエルの人々のために祈り、神様は彼らを滅ぼさずに憐れみを与えられました。モーセはその破れ口に立ち、祈り続けたのです。

けれども、エゼキエルの時代には、ほとんど誰もそのように立ち上がる者はいませんでした。その結果、裁きが訪れることになりました。

では、あなたはどうでしょうか。この世の悪を見るとき、ただ文句を言うだけでしょうか。ただ嘆くだけでしょうか。

それとも、何か行動を起こすのでしょうか。エゼキエルのように、正義のために戦いますか。周りの人々に裁きについて警告しますか。

あなたは彼らのために祈りますか。

聖霊が彼らの心に働いて、その破れ口を修理するように祈りますか。イエス様がその破れ口の中に立ち、彼らを救ってくださるように祈りますか。

私たちがただ涙を流すだけでは十分ではありません。その破れ口に立たなければなりません。

あなたはその一歩を踏み出すでしょうか。

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裁きの神、憐みの神

私は以前にも言いましたが、預言書を読むのは時々少し辛いものです。なぜなら、預言者のメッセージの大部分が裁きのメッセージだからです。

この箇所もそうです。イスラエルの長老たちは主に助言を求めるためにエゼキエルのもとを訪れました。しかし、彼らは心から主を求めてはいませんでした。

そこで、神様はエゼキエルにこう言われました。「彼らのために私からのメッセージはありません。

ただし、もしあなたが良ければ、彼らに自分たちの歴史を思い出させ、彼らの罪について気付かせてください。そして、どうして私が彼らに直接語らないのかを教えてください。」(エゼキエル書20:4-32)

それにもかかわらず、この箇所にはある重要な真理が繰り返し現れています。つまり、神様は憐れみ深い神です。神様がイスラエルの歴史について語られる際には、その真理が幾度となく現れます。

イスラエルの人々は何度も神様に反抗しましたが、神様は彼らを完全に滅ぼすことはされませんでした。むしろ、神様は彼らに憐れみを与えてくださったのです。

それは彼らの行動のゆえではなく、神様ご自身が憐れみ深いお方だからです。

何度も神様はこう言われました。「私の名のためにあなたを滅ぼさなかった。周りの国々が、たとえあなたが忠実でなくても、私が忠実であることを知るために、私はあなたを諦めなかった。

周りの国々が私が憐れみ深い神であることを知るために、私はあなたの罪を赦した。」

そして、イスラエルの人々が悔い改めるその日に、

わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書20:44)

ダビデはこう書きました。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(詩編103:10)

私はこの素晴らしい真理に喜びます。私は神様の裁きを受けるに値する者です。それでも、神様がイスラエルに憐れみを与えられたように、神様は私にも憐れみを与えてくださいます。

神様は私を暗闇の王国から救い出し、光の王国へと導いてくださいました。そのことを心から神様に感謝します。

神様、あなたが私の罪に従って私を扱われないことに感謝します。あなたは私を赦し、毎日私を新しく変え続けてくださっています。

どうか私が自分の罪を憎む者となれますように。そして、私があなたのように変えられますように。

さらに、あなたが私に憐れみを与えてくださったように、私も周りの人々に憐れみを示すことができますように。アーメン。

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私たちの国の希望はどこから来るか

私たちの国の希望はどこから来るのでしょうか。

イスラエルの人々は自分たちのリーダーたちに信頼を置きました。彼らは、そのリーダーたちの力と知恵によってイスラエルが栄えることを願い、希望しました。

そして、アッシリヤやバビロンの軍隊が攻撃してきたとき、イスラエルの人々は救いをリーダーたちに求めました。

けれども、彼らの希望は虚しいものでした。この箇所は、そのことについて語っています。

雌獅子はイスラエルを象徴していました。その最初の子獅子はエホアハズでした。彼はユダの王となりましたが、三か月後にはエジプトへ追放され、そこで死にました。

次に王となったのはエホヤキムでした。けれども、彼もまたユダを救うことはできませんでした。それどころか、彼はエジプトのしもべとなりました。

その後、バビロンがエジプトを打ち破ると、エホヤキムはバビロンのしもべとなり、最終的にはバビロンへ追放されることになりました。

だから、

雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。(エゼキエル書19:5)

その若い獅子はエホヤキンでした。しかし、彼もまたバビロンへ追放されてしまいました。

そのため、エゼキエルはイスラエルのために深く悲しみました。かつてイスラエルは実を結ぶ良い枝のようであり、国々の中で力強い存在でした。

ところが、自分たちの罪のゆえに、ユダは、

憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。(12)

そして、ユダは、

荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ「た」。(13)

つまり、彼らはバビロンに追放されました。(10-14)

その結果、結局イスラエルの人々が信頼して委ねた王たちは皆、いなくなってしまいました。

多くの国々の希望は、そのリーダーたちにかかっています。そのリーダーたちの知恵と力によって、その国が栄えることを望んでいます。

しかし、その国民が神様に背を向けて自分の道を進むなら、どれだけリーダーが優れていても、命の源から離れてしまえば国は枯れ始めます。

もしそのリーダーが悪い者であれば、その国はさらに早く滅びます。

国の救いは政治家にはありません。国の救いは人々の心から始まります。一人一人が神様に向かい、自分の心を捧げるなら、国は変わり始めるのです。

私は政治が重要ではないと言っているのでしょうか。そうではありません。とはいえ、私たちの国が神様に向かわなければ、希望はまったくありません。

ですから、あなたはどのように行動していますか。周りの人々に神様の愛をもって接していますか。

神様は私たちに暗闇の中の光となるように呼びかけています。私たちはその光となりましょう。

神様こそが、この国の希望です。神様こそが、この世界の希望です。

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エゼキエル書

曲がった正義感

「神様はフェアじゃない。」

人々がそんなことを言うのは、どこか皮肉なことです。なぜなら、神様は完璧で聖なる方だからです。一方で、私たちの心は罪によって堕落しています。

それでも、堕落した心を持つ私たちは、神様の裁きを批判して「これはフェアじゃない」と口にします。

90年代に、ジェフリー・ダーマーという殺人者がいました。彼の犯罪は非常に酷いものでした。けれども、彼は刑務所にいる間にクリスチャンとなりました。その後、他の囚人によって彼は殺されました。

そして、私はダーマーについてクリスチャンたちの様々な意見を目にしました。

死ぬ前、ダーマーはインタビューで自分の証しを語りました。そのインタビューを見たクリスチャンたちは、彼が本当に悔い改めたと考えました。

けれども、インタビューを見ていないクリスチャンたちは、彼をただのモンスターと見なしました。ある一人はこう言いました。

「神様がそんなに悪い犯罪者を赦すはずがありません。彼が心から悔い改めたはずはない。」

多くの人々はこの最後の意見に同意します。

けれども、そのような人々も、自分の罪によって苦しむ時、神様に文句を言います。「神様、どうして私を罰しているのですか。」

しかし、彼らはそのように文句を言いながら、自分の責任を見落としています。

イスラエルの人々もそのような態度をとっていました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、「主の態度は公正でない』と言っている。

さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。

イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」(エゼキエル書18:25-29)

イスラエルの人々は苦しんでいたため、神様を不正義な方だと非難しました。けれども、彼らの罪が神様の裁きを招いたことを無視していました。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたを懲らしめるとき、あなたは怒りますか。それとも、神様が他の人々に憐れみを与えるとき、あなたは憤りますか。

神様が正義の方であることを常に覚えていてください。あなたは神様の決断に同意しないかもしれませんが、神様は常に正しいことをされます。

神様の決断が間違っているのではありません。歪んでいるのは、あなたの正義感です。

ですから、神様の御前でへりくだる心を持つよう努めましょう。周りの人々が悔い改めるなら、彼らに憐れみを示しましょう。また、神様があなたを懲らしめられるなら、悔い改めましょう。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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エゼキエル書

優しい方

時々、私たちが旧約聖書を読むと、神様を非常に厳しい方だと思うことがあります。また、私たちが失敗すると、神様はすぐに怒り、私たちを罰するのではないかと感じるかもしれません。

しかし、この箇所では、神様はいつか来られる優しい方について語っておられます。神様はこう言われました。

神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。

わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。

このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。

主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:22-24)

この預言には二つの成就があると考えられます。

一つ目の成就は、エホヤキンの孫であるゼルバベルの人生に見られます。

ゼルバベル(柔らかい若枝とも呼ばれる)と大祭司ヨシュアは、追放されていたイスラエル人たちをバビロンからエルサレムへ導きました。

(この時、イスラエル人全員が帰還したわけではありませんが、ゼルバベルとヨシュアは最初のグループを導きました。)

その後、ゼルバベルはユダの総督に任命されました。

神様の恵みによって枯れ木のようであったイスラエルは徐々に復活しました。一方、緑の木であったバビロンはメド・ペルシャ帝国によって低くされました。

とはいえ、二つ目の成就はイエス・キリストの人生に見られます。この箇所はイザヤ書53章の記述に似ています。

彼(つまり、イエス様)は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)

イエス様は高貴な家庭で育ったのではありません。彼は小さな町ベツレヘムで生まれ、普通の町ナザレで成長されました。

実際、多くの人々はナザレの人々を見下していました。また、イエス様の父親は貧しい大工であるヨセフでした。

その後、イエス様は十字架で死なれました。その時代において、十字架による死は最も恥ずかしく、残酷な死に方とされていました。

しかし、その後、イエス様はよみがえられました。そして、

それゆえ神は、この方(つまり、イエス様)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

この箇所には、「柔らかい枝」という表現が書かれています。

ヘブル語で「柔らかい」という言葉は、「優しい」とも翻訳できます。(例えば、申命記28:54)

そのため、この「柔らかい枝」は優しい方を指しています。そして、イエス様の恵みの翼の下に宿ることができるのです。

私たちの人生が枯れてしまった時、イエス様は命の水を与えてくださり、私たちをもう一度栄えるようにしてくださいます。

ですから、神様があなたに怒り、あなたを諦めたと思う時には、イエス様を心に留めておきましょう。

神様は私たちが神様の愛と恵みを知ることができるように、この優しい方であるイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちの壊れた人生は癒されるのです。

その真理を心に留めておきましょう。

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エゼキエル書

あなたの約束を破る?

関係を保つためには、相手を信頼することが非常に大切です。そのため、神様は正直さを重んじておられます。

私たちが神様に祈るとき、神様は正直な態度を望まれます。また、神様は私たちが周りの人々に対して正直に話すことを求められます。

この箇所では、ゼデキヤ王とイスラエルの人々について語られる中で、神様がどれほど正直さを大切にしておられるかが示されています。

ここで、エゼキエルは一つのたとえ話を伝えます。このたとえ話では、大鷲が杉の木のこずえを取り、商人の町に植えました。その後、大鷲は地の種を取り、別の場所に植え、その種がぶどうの木に育ちました。

このたとえの意味は、バビロン(大鷲)がユダの王(エホヤキン)やその他の指導者たち(杉の木のこずえ)をバビロンに追放するということです。

その後、ネブカデネザルはエホヤキンの後任であるゼデキヤ(ぶどうの木)と同盟を結びました。その同盟において、ゼデキヤはネブカデネザルに仕えることを約束しました。

しかし、たとえ話の中で、もう一羽の大鷲が現れます。植えられたぶどうの木はその新しい大鷲から潤いを求めました。

この二番目の大鷲はエジプトを象徴しています。つまり、このたとえ話は、ゼデキヤがバビロンとの約束を破り、バビロンと戦うためにエジプトと同盟を結ぼうとしていたことを意味しています。

このため、神様はゼデキヤについて次のように言われました。

彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。(エゼキエル書17:18-19)

ゼデキヤは神様の名前によってネブカデネザルに仕えることを誓いましたが、神様の警告を無視して、その同盟を破り、エジプトに助けを求めました。

それだけでなく、ゼデキヤは神様とイスラエルとの契約をも破りました。つまり、彼は他の神々を礼拝し続けたのです。そのため、神様は「バビロンを通して裁きが来る」と告げられました。

あなた自身はどうでしょうか。約束をしたとき、その約束を確実に守りますか。それとも、すぐにその約束を破ってしまうでしょうか。正直さを大切にしていますか。

神様にとって正直さは非常に重要です。ですから、神様に対しても、周りの人々に対しても、正直に話すことを心がけましょう。

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エゼキエル書

姦淫

この箇所はホセア書に似ています。ホセアがイスラエルを姦淫する妻と例えたように、エゼキエルもエルサレムを姦淫する妻と例えています。

まず、エゼキエルはエルサレムに対する神様の愛について語ります。

悪人、つまりエモリ人とヘテ人がエルサレムを建て、その都市が嫌われる存在となったにもかかわらず、神様はエルサレムを世話し、美しく整えてくださいました。

ダビデがエルサレムの王となったとき、彼は契約の箱をエルサレムへ運びました。

その後、ソロモンが神様のために宮を建てました。この時、神様はエルサレムを祝福し、御自分のものとされました。

ソロモンの時代、エルサレムは大いに栄え、銀はほとんど価値がないほどでした(列王記第10:21)。

けれども、すぐにエルサレムの没落が始まりました。ソロモンが多くの女性と結婚し、その妻たちの影響によって、ソロモンは偶像を礼拝するようになったのです。

偶像礼拝はたちまちイスラエル全土に広がりました。彼らは神様から与えられたものを他の神々を礼拝するために使いました。さらには、神様の宮で他の神々を礼拝することさえありました。

また、彼らはエジプト人、アッシリヤ人、バビロン人と同盟を結び、神様を拒絶して、その国々の神々を礼拝しました。

神様はこう言われました。

遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。

だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。

あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。(エゼキエル16:33-34)

その罪を犯しても、エルサレムの人たちは「私たちはそんなに悪くはない」と言いました。

しかし、神様はこう言われました。

「あなたは北イスラエル王国の首都サマリヤよりも悪い。あなたはソドムよりも悪い。私は彼らを裁いたが、あなたと比べれば、彼らは正しい者だった。」(46-52)

だから、神様は「あなたを裁く」と言われました。

しかし、神様はもう一つのことも言われました。それは、いつの日か神様が彼らを癒し、彼らの罪を赦してくださるという約束です。また、神様は彼らの恥を取り去ることをも約束されました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、神様が私たちのためにしてくださったことを決して忘れるべきではないということです。

神様は私たちを罪と恥から救い出し、私たちにイエス様の義と美しさを着せてくださいました。

私たちが赦されるためにイエス様が十字架で成し遂げた働きを思い出し、感謝を捧げましょう。そして、私たちを恥ずかしくするものに戻って霊的な姦淫を犯すことがないようにしましょう。

二つ目は、自分が自分自身を救ったと思って、自分を欺くことがないようにするということです。「自分の力と知恵によって祝福された」と思い上がることは避けましょう。

ヤコブはこう書きました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(ヤコブ1:17)

「誰も私に何も与えてくれなかった。私はその物のためにちゃんと働いた」と思うかもしれません。

けれども、神様はあなたの命、才能、力を与えてくださいました。すべては神様からのものです。

三つ目は、私たちが自分自身を周りの人々と比べるべきではないということです。つまり、「私はその人ほど悪くはない」と言うべきではありません。

なぜなら、多くの場合、私たちの標準は神様の標準とはかなり異なるからです。

私たちは自分の行動がそれほど悪くないと思うかもしれませんが、神様はその行動を罪と呼ばれるのです。そして、神様の目には、私たちの行動が他の人々の行動よりも悪いと映ることもあります。

四つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様の約束は決して変わらないということです。私たちが忠実でなくても、神様は常に忠実です。(第一テモテ2:13)

エルサレムの人々は完全に失敗しましたが、結局、神様は彼らを癒されました。同じように、神様はあなたをも癒してくださいます。

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エゼキエル書

実りのない人

私は農家でも大工でもありません。それでも、この箇所を通して、私はぶどうの木の枝について学びました。つまり、実を結ばない枝は全く価値がないということです。

実際、私は「この椅子の木材はぶどうの木から来た」と聞いたことは一度もありません。

エゼキエルの時代、ぶどうの木が実を結ばない場合、人々はその枝を薪として使いました。それ以外の用途はありませんでした。

現代では、ぶどうの木には他の使い道があります。インターネットによると、ぶどうの木で花輪を作る人もいるそうです。

また、別のウェブサイトでは、ぶどうの木について興味深い情報がありました。その情報を読んで、なぜぶどうの木が他の使い方に向かないのかが理解できるようになりました。

それは、ぶどうの木の枝を切るとすぐにその枝が枯れ、割れやすくなるということです。

だから、神様はイスラエル人をぶどうの木の枝と比べられました。聖書の中で、神様はイスラエルをしばしばぶどう園に例えられます。

神様は、イスラエルが実を結ぶぶどうの木になることを望まれました。つまり、彼らが周りの国々に神様の栄光を表す存在になることを望まれたのです。

また、彼らが周りの国々に対して祝福となることを望まれました。

しかし、イスラエルの罪と偶像礼拝によって、彼らは実を結ばないぶどうの木となりました。周りの国々に光をもたらすことはなく、むしろ彼らのようになってしまいました。

命の源から離れたことで、彼らは枯れて、割れやすくなり、全く価値のない存在になりました。

そのため、バビロンが来て、彼らの都市、宮殿、神殿、そしてイスラエル人の家を焼き尽くしました。

私たちクリスチャンも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。。。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:4-6,8)

神様は私たちがイエス様にとどまることを望まれます。イエス様にとどまるなら、私たちは神様のために多くの実を結びます。そして、私たちは周りの人々に光をもたらし、神様がどんな方であるかを示す存在となります。

しかし、私たちがイエス様にとどまらない場合、私たちは枯れて、割れやすい枝となります。そのような枝では、神様は私たちを用いることができません。

それでも、私たちの救いが失われることはありません。

イスラエルが不忠実だったとしても、神様は忠実で、約束は変わりませんでした。同様に、私たちが不忠実であっても、神様の私たちに対する約束は変わることがありません。

ただし、私たちが悔い改めない場合、神様は私たちを懲らしめられるでしょう。

あなたはどのような枝でしょうか。実を結んでいる枝でしょうか。それとも、枯れてしまった枝でしょうか。

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エゼキエル書

私たちの責任、相手の責任

私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」

そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。

もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。

パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。

聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。

例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。

もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)

なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)

つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。

もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。

さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。

人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)

また、神様はこう言われました。

たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。

ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)

この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」

そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。

パウロはこう書きました。

義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)

旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。

とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。

ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。

私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。

それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」

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エゼキエル書

表裏のある人

だれも表裏のある人を好みません。そして、神様もそのような人々を嫌われます。

この箇所では、イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとを訪れ、神様からのメッセージがあるかどうか尋ねました。その時、神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(エゼキエル14:3)

つまり、「これらの人々が偶像を礼拝しているにもかかわらず、私の心を知りたいと言うのでしょうか。それは許されません。私は答えないのです。」

その時、神様はこう言われました。

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。

悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。

イスラエルの家の者でも、イスラエルにいる在留異国人でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ね求めようと、預言者のところに来る者には、主であるわたしが答えよう。

わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(エゼキエル書14:6-8)

あなたはどうでしょうか。神様のみ心を知りたいと言いながら、この世の物をあなたの神々にしてはいないでしょうか。

あるいは、あなたの未来を知るために、占い師に相談してはいないでしょうか。

神様を本当に求めるのであれば、そのような心の状態ではいけません。

神様は私たちに一心を求めておられます。神様を一心に求めなければ、神様は私たちを受け入れてくださいません。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

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エゼキエル書

真理を白く塗る?

「私は本当におばあさんに福音を伝えなくてはならないでしょうか。彼女はクリスチャンではありませんが、本当にいい人です。神様はきっと彼女を受け入れるのではないでしょうか?」

どれほど多くのクリスチャンがそのようなことを言うでしょうか。あるいは、彼らは言葉にしなくてもそのように考えているかもしれません。

その結果、愛する人に福音を伝えることを決してしないのです。

「皆は結局救われる」と語る牧師もいます。彼らはこう言います。

「皆はいつか天国に行きます。だから、地獄について教える必要はありません。神様の愛だけを伝えた方が良いのです。」

しかし、もし私たちがそのようなことを言うなら、真理を白く塗りつぶすことになります。神様は、真理が塗りつぶされることを非常に嫌われます。

この箇所では、その罪のために神様は偽の預言者たちを責められました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。(エゼキエル書13:5)

また、

実に、彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。

しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。

人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか』と言わないだろうか。(10-12)

これらの預言者たちは何をしていたのでしょうか。彼らはイスラエル人にこう言いました。

「あなたの神様との関係は大丈夫です。裁きについて心配する必要はありません。」

イスラエル人は、自分たちの罪によって倒れそうな壁のような状態でした。それにもかかわらず、その偽の預言者たちは悔い改めのメッセージを伝えませんでした。

もし彼らがイスラエル人を警告していれば、その「壁」を強めることができたかもしれません。

しかし、むしろ彼らはイスラエル人の罪を平和の言葉で白く塗ったのです。

(「白く塗る」というのは英語からの翻訳です。日本語の翻訳では、彼らはイスラエルの罪の罅をしっくいで上塗りしました。その「しっくい」は偽の預言者たちの慰めの言葉でした。)

その結果はどうなったでしょうか?それは、裁き、追放、そして死でした。

もし私たちが愛する人々の罪を白く塗るなら、彼らも同じ裁きを受けることになります。

もし彼らが神様との平和を持っていないのに、私たちが「平和だ」と伝えたなら、最終的に彼らは裁かれるのです。

ですから、真理を白く塗ってはいけません。神様から離れている人々に、真理をはっきりと伝えましょう。悔い改めのメッセージを語りましょう。

そうすれば、彼らは神様に向かうかもしれません。そして、彼らは本当の命を見いだすことができるでしょう。

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エゼキエル書

神様が言われた通り

この箇所では、私たちは神様の忠実さをはっきりと見ることができます。つまり、もし神様が何かを語られるなら、私たちはその言葉を信じることができるのです。

この箇所では、神様はエルサレムの追放について話されています。具体的には、神様はユダの最後の王ゼデキヤの追放について語られました。

そのため、神様はエゼキエルにユダ人の前で小さな劇を演じるよう命じられました。

エゼキエルはゼデキヤの役を演じました。夕方、彼は家の壁に穴を開け、捕囚のための荷物を持ってその穴から出て行きました。そして歩きながら顔を覆いました。

その劇が意味することとは何でしょうか。

ゼデキヤは暗闇の中、エルサレムから逃げざるを得ませんでした。しかし、彼は捕らえられ、目を潰されてバビロンの王ネブカデネザルの前に連れて行かれることになる、ということです。

さらに、イスラエル人は諸国に散らされました。神様が語られた通りに、すべてそのように起こったのです。

どうして神様はエゼキエルとイスラエル人にそのメッセージを伝えられたのでしょうか。

それは、その預言が成就したときに、彼らが神様だけが主であることを知るためです。

イスラエル人にとって、その真理を受け入れることは簡単ではありませんでした。そして、神様が長い間忍耐を示されたため、彼らは次第に神様の裁きの警告を信じなくなっていました。

彼らはこう言いました。

日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。(エゼキエル書12:22)

エゼキエルの時代には、それはよく知られたことわざでした。イスラエル人は、エゼキエルやエレミヤの幻を嘘や妄想だと思っていました。

しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。

かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する』と彼らに告げよ。

もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。

それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。

反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ――」(23ー25)

神様の言葉は、いつでも私たちが信頼することのできるものです。

神様からの預言だけでなく、神様の約束も信じることができます。神様が何かを約束されたなら、その約束は必ず守られます。

では、神様はどのような約束を私たちに与えてくださったのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1;9)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

それだけではなく、聖書には神様からの約束が数多く記されています。

ですから、私たちはその約束にすがり、信じ続けましょう。神様の言葉はいつでも私たちが頼ることのできるものだからです。

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真の宮、神様の真の民

私が子供の頃、日曜学校で何度もこの言葉を聞きました。「教会は建物ではありません。教会は人々そのものです。」

確かにそれは真実ですが、完全な定義ではありません。教会とは、神に属する人々のことです。つまり、彼らの心は神様のものです。

残念なことに、イスラエル人の心は神様のものではありませんでした。

彼らは「神様の民」と呼ばれていましたが、神様に背を向け、偶像を礼拝しました。さらに、彼らはその偶像を神様の宮に置きました。

そのため、ついに神様はその宮を立ち去られました。ソロモン王がその宮を建ててからエゼキエルの時代まで、神様の臨在はそこにありました。(歴代誌第二5:14)

とはいえ、ソロモンの時代ですら、その宮は実際の神様の家ではありませんでした。その時、ソロモンはこう言いました。

それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌第二6:18)

それでもソロモンは、神様がいつもその宮を見守り、その宮で捧げられる祈りを聞いてくださるように祈りました。(歴代誌第二6:20-42)

ソロモンが建てた宮は本当に素晴らしいものでした。その宮は栄光に満ちた場所でした。

しかし、イスラエルの罪と神様に対する不忠実によって、神様の臨在とその栄光はその宮から離れてしまいました。

11章では、私たちはイスラエル人の頑固さを目の当たりにします。

イスラエルのリーダーたちは頑なにこう言いました。「何も悪いことは起こらない。私たちは偉い人だから。」

そのため、神様は彼らを責められました。そして、しるしとして、神様はそのうちの一人を殺されました。

そのとき、エゼキエルは叫びました。

ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。(11:13)

けれども、神様はこう答えられました。「いいえ、そうではない。私はバビロンに追放されたイスラエル人と共にいます。」

エルサレムに残った人々は、追放された人々についてこのように言っていました。

主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。(11:15)

追放された人々は、もしかするとエレミヤの助言に従ったのかもしれません。つまり、彼らはバビロン人に降伏しました。(エレミヤ書27:17)

そのため、エルサレムに残った人々は彼らを売国奴だと考えた可能性があります。

エルサレムに残った人々は、神様が追放された人々を拒絶されたと思ったかもしれません。なぜなら、神様はイスラエル人にその土地を与えたのに、その「売国奴」はその土地を去ったからです。

ところが、エルサレムに残った人々は神様の民ではありませんでした。エレミヤは彼らに神様の言葉を伝えましたが、彼らはその言葉を拒絶しました。

むしろ、バビロンに行った人々こそが神様の民でした。神様は彼らについてこう言われました。

「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

それゆえ言え。

「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」(11:16ー17)

また、

わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。

こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(19ー20)

真の宮とは何でしょうか。それは建物ではありません。

では、神様の民とは誰でしょうか。ただ教会に通う人ではありません。また、ただクリスチャン・ホームで育った人でもありません。

神様の宮とは、神様が住んでおられるところです。神様の民とは、神様に属する人々のことです。

つまり、神様は彼らの心に住んでおられるのです。そして神様は彼らに新しく、柔らかい心を与えてくださいます。そのため、彼らは毎日神様に従います。

私たち一人ひとりに、そのような心を持つことができますように。

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エゼキエル書

隠れたものを見ておられる方

時々私たちは「神様は私たちが何をしているかご存じだろうか」と考えます。また、「神様は私のすることを気にされるだろうか」と思うことがあります。

けれども、この箇所で神様はこう言われます。「もちろん、私はあなたの行動に気づき、それを気にしています。」

この幻で、エゼキエルはエルサレムに連れて行かれ、そこで多くの罪を目撃しました。

彼は、主の宮の内庭で偶像を見ました。また、70人の長老たちが偶像を礼拝しているのを見ました。

エゼキエルが宮の門に戻ると、彼は地力と雨の神タンムズの前で泣いている女性たちを見ました。そして、太陽を礼拝している男性たちも目撃しました。

どうして彼らはそのような罪を犯したのでしょうか。それは、彼らがこう言ったからです。

主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。(エゼキエル書8:12)

だから、神様は彼らを裁かれました。

しかし、神様は隠れた悪だけを見ておられるのではありません。神様はご自身を愛する者たちのことも見ておられます。それゆえ、神様はある男(おそらく天使)にこう言われました。

町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。(エゼキエル書9:4)

そして神様はエルサレムの人々を裁かれましたが、しるしが付けられた人々を救い出されました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。他の人々が気づいていなくても、神様は私たちのすべての行動をご存じです。

私たちの罪は神様から隠れることがありません。そのため、いつか神様はすべての罪人を裁かれるのです。

とはいえ、もしあなたが神様に従い、この世の悪を見て心を痛めたとしても、失望しないでください。

この世では一時的に悪が支配しているように見えるかもしれませんが、最終的には神様が正義によってこの世を裁かれるのです。

その時、神様は私たちを覚えてくださり、救い出してくださいます。

さらに、神様は私たちに報いを与えてくださるのです。

主よ。あなたがすべてを見てくださることを感謝します。あなたの目から隠れるものは何一つありません。

私が人と一緒にいる時も、一人でいる時も、私の人生が清いものとなりますように。私がどこにいても、だれと一緒にいても、私の人生があなたを喜ばせるものとなりますように。アーメン。

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エゼキエル書

終わり

私が子供の頃、キカイダーというスーパーヒーロー番組を見ていました。最近キカイダーの映画が上映されて、私は驚きました。(私はその映画を見る興味はありませんが。)

さて、キカイダーはいつも怪獣と戦い、最後に「電磁エンド!」と叫びながらその怪獣を倒していました。

その時、英語の字幕はいつも「The end」とだけ表示されていました。(どうして「電磁」を翻訳しなかったのでしょうね。)

では、なぜ私はこのちょっと可笑しい話について話しているのでしょうか。それは、この箇所で神様がイスラエル人に同じようなメッセージを語られたからです。

「電磁エンド」とは言われませんでしたが、「終わりが来る」と語られました。

神様はこう言われました。

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。

しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。

わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。(エゼキエル書7:6-8)

つまり、「あなたの終わりが来る。あなたは何度も私に逆らった。けれども、裁きの日が来て、バビロン人が来て、あなたを滅ぼすだろう。」

この箇所を読むと、神様からの裁きについていくつかのことを学ぶことができます。

1つ目は、私たちが自分の罪によって裁かれるということです。

これまで、神様があなたを罰していないからといって、あなたは裁きが決して来ないと思うかもしれません。しかし、裁きの日には、神様は私たちの罪をすべて思い出し、私たちを罰されます。

2つ目は、神様の愛は裁きを止めるものではないということです。

神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(4)

多くの人は尋ねます。「もし神様が愛の方であるなら、どうして神様は人を地獄に行かせるのでしょうか。」

確かに神様は愛の神ですが、同時に正義の神でもあります。神様は清いお方であるため、罪を罰さなければなりません。

さらに、神様は罪を全く耐えることができません。そのため、罪によって汚された人は神様と交わることができません。そしてその罪のゆえに、人は神様から離れなければなりません。

それが地獄です。地獄とは神様から離れた存在のことです。

神様から離れると、私たちには絶望しか残りません。神様は私たちがそのような状態になることを望んでおられませんが、それでも私たちが神様に背を向ければ、そのような人生以外に道はありません。

3つ目は、私たちがこの世でどれほど多くの物を集めても、裁きが来るということです。

私たちはお金や持ち物で自分の救いを買うことはできません。神様はイスラエル人についてこう言われました。

 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。

銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。(19)

あなたが物を集めても、土地を買っても、お金を儲けても、裁きの日にはそれらすべてが無駄になります。

そして最後に、私たちは知っていることによって裁かれます。私たちが知らないことによっては裁かれません。神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27)

彼らの行い、つまり、彼ら自身の基準によって、神様はイスラエル人を裁かれました。

どの国にも、その国独自の基準があります。すべての国には、自国の法律があり、またそれぞれの道徳法則があります。

時には、それらの法律や道徳法則が神様の律法と異なることもあります。とはいえ、私たちの道徳感覚が曇っていても、私たちの心は善悪をおおよそ理解しています。

それにもかかわらず、私たちはその曇った基準に従わないことがあります。だから、人々は自分自身の基準によって裁かれるのです。

裁きの日には、神様は私たちにこう言われます。「あなたにはまったく言い訳がありません。なぜなら、あなた自身の基準によってあなたは裁かれるからです。」

では、私たちにはもう何の希望もないのでしょうか。私たち全員が裁きを受ける運命にあるのでしょうか。

決してそんなことはありません。イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。

だから、もしあなたがイエス様とその働きに信頼を置くなら、あなたの罪は清められます。(第一ヨハネ1:7)

ですから、私たちの罪を捨て、イエス様に心を向けましょう。イエス様にあって私たちには希望があります。

しかし、イエス様との関係がなければ、希望はまったくありません。

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真理を学ぶことが遅すぎると

私は子供の頃、レゴでいろんなモデルを作るのが大好きでした。

エゼキエルもモデルを作りましたが、それは決して楽しいものではありませんでした。

彼はエルサレムのモデルを作りましたが、神様はこう命じられました。「それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置しなさい」(エゼキエル書4:2)。

さらに、エゼキエルはそのモデルの隣で390日間左わきを下にして横たわるように命じられました。なぜなら、北イスラエル王国が自分の罪のために390年間罰を受けることを象徴していたからです。

その後、エゼキエルは右わきを下にして40日間横たわるように命じられました。それは、ユダ王国が40年間罰を受けることを象徴していました。

それだけではなく、エゼキエルは料理をするために牛の糞でパンを焼き、それを食べました。このため、1年2か月以上、エゼキエルはつらい生活を送りました。(4章)

けれども、エゼキエルを通して、イスラエル人は自分たちがバビロンに追放された理由を知ることができました。また、エルサレムが滅びる理由も理解しました。

さらに、神様はエゼキエルに頭と髭を剃るよう命じられました。430日間の(エルサレムのモデルの)包囲の後、エゼキエルはその髪の3分の1を町の中で焼き、3分の1を町の回りで剣で打ち、3分の1を風に吹き散らしました。

その意味は、生き残るイスラエル人もいれば、死ぬイスラエル人もいることを表していました。(5章)

6章では、神様がイスラエル人を引き続き警告されました。その警告の中で何度も繰り返される表現があります。それは「あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」というものです。

つまり、この預言の目的はイスラエル人に真の神が誰であるかを学ばせることでした。彼らが礼拝していた偶像は神ではありませんでした。彼らが拒絶した方が神様だったのです。

けれども、多くのイスラエル人にとって、それを学ぶのは遅すぎました。彼らの心が堅くなっていたため、裁きの日が来るまで真の神を知ることはありませんでした。

現代においても、多くの人々は神様に背を向け、自分の道を歩んでいます。

しかし、いつか彼らは神様の御座の前に立ち、真の神が誰であるかを知ることになるでしょう。けれども、それを知るのが遅すぎたために、彼らは裁きを受けることになるのです。

あなたはどうですか。神様を認めていますか。神様はあなたの王でしょうか。

今神様を認めていないなら、やがて神様の前に立つ時には必ず神様を認めることになります。けれども、その時まで待っていたら遅すぎます。

しかし、今神様を認めるなら、あなたは神様の赦しを知り、真の命を知ることができます。それは天国の命だけでなく、この世での豊かな人生をも知ることです。

パウロはこう書いています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。。。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:9-10,13)

あなたが神様に向かい、イエス様を主と認めることができるように祈ります。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。