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エペソ人への手紙

一致して祈り合う

エペソ人への手紙についての最後の記事を書くにあたって、 あらためて、この手紙の中心的なテーマを皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

――そうです、もう覚えておられるでしょう。 そのテーマは、「一致」です。

パウロは、霊的な戦いについて語り、 私たちがどんな武具を身につけるべきかを教えました。

そしてその直後、パウロはこう語っています

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。

宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(エペソ人への手紙6:18-20)

もちろん、私たちは神様の武具を身につけるべきですが、 その力がどこから来るのかを忘れてはなりません。 その力は、私たち自身からではなく、神様から来るのです。

ですから、私たちはあらゆる祈りと願いをもって、 どんなときにも御霊によって祈るべきです。

では、「御霊によって祈る」とはどういう意味でしょうか。 それは、御霊の導きに従って祈るということです。 祈りの初めに、 「今日、どう祈ればよいでしょうか」と御霊に尋ねるのが良いでしょう。

しかし、多くの場合、私たちは自分の思いだけで祈ってしまいます。 そのため、神様がどのように祈ってほしいかを知らずに終えてしまうのです。

ですから、祈るときには、 聖霊様の導きに心を向けましょう。 聖霊様の祈りを、あなた自身の祈りとしましょう。

良い時にも、悪い時にも、祈りましょう。

あらゆる祈りをもって祈りましょう。 感謝の祈り。賛美の祈り。罪の告白の祈り。 そして、自分自身の必要のためにも祈りましょう。

また、共に立って祈りましょう。 もう一度言います。私たちは一人で この霊的な戦いを戦ってはならないのです。 この戦いのただ中で、私たちは「一致」を守らなければなりません。 だからこそ、互いのために祈り合いましょう。 そして、ともに祈りましょう。

特に、この霊的な戦いの最前線に立つ人々のために祈るべきです。 すなわち、福音を宣べ伝える者たちのために祈りましょう。

神様が彼らにふさわしい言葉を与えてくださるように祈りましょう。 御霊によって、彼らに力が与えられるように祈りましょう。 そして、その語られる言葉を通して、多くの人々の心が変えられるように祈りましょう。

もしあなたが今、最前線で戦っているのなら、 あなたは決して一人ではないことを忘れないでください。 パウロのように、ほかのクリスチャンたちの祈りを求めてください。

自分の経験や思いを分かち合ってください。 自分だけで頑張る必要はありません。 私たちは互いになくてはならない存在なのです。

ですから、あなたがどこにいても―― 共に立ちましょう。 そのとき、私たちは勝利を得るのです。

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エペソ人への手紙

私たちの武具

前回の記事で私は言いましたが、 私たちは霊的な戦いを人間的な武器で戦うのではありません。 つまり、銃や政治、議論などに頼るのではないということです。

誤解しないでください。 私は、政治や議論を用いること自体が悪いとか、 それらの武器を絶対に使ってはならないと言っているのではありません。 実際、パウロ自身も政治家や哲学者と対話する中で、 そうした道具を用いたのです。

けれども、それらの武器“だけ”では、霊的な戦いに勝つことはできません。

攻撃を受けるとき、私たちが堅く立つためには、 神様の武具が必要です。

その武具は、何から成り立っているのでしょうか。

1つ目は、真理の帯です(14a)。 私たちは常に真理を語る者であるべきです。 私たちは正直な人として知られるべきなのです。 私たちの周囲で、人の嘘やサタンの偽りが語られるとき、 私たちは神様の真理を口にすべきです。

偽善者や信仰を軽んじる人々を見ることがあるかもしれません。 けれども、私たちは自らの誠実さによって知られるべきです。 預言者ダニエルとその友人たちはまさにそのような人々でした。 (ダニエル書1章〜6章)

そして、私たちの心を守るために、正義の胸当てを着けるべきです(14b)。 罪を犯すと、私たちの心は汚れ、弱くなってしまいます。 ですから、たとえ責められても、私たちは誘惑に屈してはならないのです。

ダニエルとその友人たちは、幾度となく責められました。 けれども彼らは、自らの信仰を決して汚すことなく、正しい行いを貫きました。

また、私たちは攻撃されても、仕返しを求めてはなりません。 むしろ、私たちはペテロの言葉に従うべきです。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(第一ペテロ4:19)

そして、足には、平和の福音の備えを履くべきです(15)。

どこに行くときでも、私たちは神様の平和によって安心すべきです。 なぜなら、たとえどのような試練に直面し、たとえ死に至るとしても、 私たちは救いの確信を持っているからです。

また、私たちは周りの人々にも神様の平和を知ってもらうために、 その福音を彼らに伝えるべきです。

さらに、信仰の盾を取るべきです(16)。 そうすれば、サタンが疑いの火矢を放つときに、 私たちはその火矢を消し去ることができます。

困難のとき、あるいは迫害のとき、 私たちが神様を疑いたくなるのは自然なことです。 「神様、あなたは本当にここにおられるのですか? なぜ、こんな問題をお許しになるのですか?」

けれども、私たちは、神様が今なおこの世界を支配しておられ、 最終的に私たちに報いを与えてくださることを信じることで、安心すべきなのです。

そして、私たちは救いのかぶとをかぶるべきです(17a)。 私たちの内に住んでおられる御霊によって、 私たちの思いは日々新しくされるべきです。 御霊とともに歩む中で、私たちの心と生活は、 少しずつ変えられていくはずです。

最後に、私たちは御霊の剣、すなわち神様のみ言葉を手に取るべきです(17b)。 それは、私たちに与えられたただ一つの攻撃的な武器です。

サタンが荒野でイエス様を試みたとき、 イエス様はいつもサタンの偽りに対して、 神様のみ言葉を用いて応戦されました。

神様のみ言葉によって、私たちは真理を知ることができます。 そのみ言葉と、聖霊の力によって、 神様は私たちの思いや生活を造り変えてくださいます。

また、人々が福音の光を見るために、 神様のみ言葉は彼らの心を深く貫きます。

ですから、私たちが神様のみ言葉をよく知っていることは非常に大切なのです。 あなたは、そのみ言葉をどれほど深く知っているでしょうか。

そして、あなたは日々、神様の武具を身につけているでしょうか。 もしかすると、サタンの攻撃を受けると、すぐに倒れてしまうかもしれません。

この暗闇の世界にあって、 あなたは堅く立つ備えができているでしょうか。

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エペソ人への手紙

共に立ち、サタンに対抗する

私たちは敵国に住んでいます。 あなたがそれを知っているかどうかは分かりません。 でも、それは真実です。

パウロはこう言います。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人の手紙6:12)

「この暗闇の世界。」 言い換えれば、「敵が支配しているこの世界。」

けれども、その敵は人間ではありません。 それらは霊的な存在、すなわちサタンや悪霊たちです。 彼らはこの世界を支配しています。 だからこそ、この世界は“暗闇の世界”なのです。

その現実は、私たちにもはっきりと見えてきます。 人々の道徳は次第に崩れてきています。 かつて善とされたことが、今では悪と見なされ、 逆に、かつて悪とされたことが、今では善と見なされています。

このような状況について、預言者イザヤは語りました

わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。(イザヤ書5:20)

パウロもまた、同様のことを語りました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。(第2テモテ4:3)

そのときは、すでに来ています。 それこそが、今私たちが生きている世界です。 だからこそ、パウロは私たちに訓戒を与えるのです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:13)

「邪悪な日」とは、どういう意味でしょうか。 おそらく、パウロは迫害について語っているのでしょう。

ある時、人々はもはやキリスト教を受け入れなくなります。 アメリカでは、実際に迫害を受けているクリスチャンたちがいます。 カナダでは、「憎悪犯罪法」によって、ラジオ番組やYouTubeなどで クリスチャンたちの声が検閲されることもあるのです。

では、クリスチャンたちはどのように戦うべきでしょうか。

私たちは、自分の力で戦うのではありません。 パウロはこう語っています。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(10)

私たちは、銃や政治、議論、その他の人間的な武器に頼ってはなりません。 むしろ、パウロはこう語ります。

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(11)

私はもう一度言います。 私たちは人間と戦っているのではありません。 私たちは、この暗闇の世界の霊的な力と戦っているのです。

そして、もう一つのことを改めて強調したいと思います。 パウロは個々のクリスチャンに対して語っているのではなく、 教会全体に語りかけています。

もちろん、個々のクリスチャンも神の武具を身につけ、 悪魔の策略に立ち向かうべきです。 しかし、それは教会の一人ひとりが協力して行うべきことなのです。

パウロの言葉を言い換えると、こうなります―― 「皆さん。あなたがた全員が、悪魔の策略に立ち向かうことができるように、 神のすべての武具を身につけなさい。」

イエス様はこう言われました。

どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。(ルカ11:17)

もし教会が内輪で争っているなら、 サタンに対して堅く立つことはできません。 だからこそ、「一致」というテーマはこの箇所でも極めて重要なのです。

神様は、私たちをキリストのもとに一つとされました。 けれども、サタンは私たちを分裂させようとします。 内輪で争っている教会は、団結している教会よりも、 はるかに壊れやすいのです。

同じように、一人で立っているクリスチャンは、 支え合い、守り合っているクリスチャンたちよりも、 攻撃されやすく、滅ぼされやすい存在です。

ですから、この暗闇の世界と向き合うとき、私たちはどのように戦うのでしょうか。 分裂した教会としてでしょうか。 弱体化した教会としてでしょうか。 自分の力で、人間的な武器を用いて戦うのでしょうか。

それとも、私たちは一致して、主の力によって、 霊的な武具を身につけて戦うのでしょうか。

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どのように仕えるか

今日の箇所で、パウロは家族関係についての教えを締めくくり、 私たちとキリストとの関係を描写する、もう一つのたとえを与えています。

これまで学んできたのは、親子関係が私たちと天の父との関係を描写し、 また、夫婦関係が私たちとイエス様との関係を映し出しているということでした。

けれども、パウロによれば、主人と奴隷の関係もまた、 私たちとイエス様との関係を映すものとして描かれているのです。

現代の私たちの文化では、奴隷制度と家族関係はまったく異なるものですが、 ローマ時代の文化においては、奴隷たちはその家庭の一員と見なされていました。

パウロや他の使徒たちが、なぜ奴隷制度そのものを直接批判しなかったのか―― それは、私たちにとって少し理解しにくいことかもしれません。

しかし、それでも彼らの語った言葉は、 人々が奴隷をどのように見なすかを大きく変えました。

それ以前、人々は奴隷を人間としてではなく、 自分の所有物として扱っていたのです。

それでも、パウロや使徒たちの教えを通して、 人々は奴隷を神のかたちに創られた人格として認め始めました。 そしてその結果、奴隷制度そのものも、やがて終わりへと向かっていったのです。

それでは、ここでパウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。

ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。(エペソ人への手紙6:5-8)

先ほども述べたように、パウロは主人と奴隷の関係を、 私たちとイエス様との関係にたとえています。

けれども、夫婦関係や親子関係とは異なり、 主人と奴隷の関係は、神様が定められた秩序ではありません。 それは人間によって作り出された制度でした。

だからこそ、パウロはコリントにいたクリスチャンの奴隷たちに、次のように語りました

もし、自分の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(第一コリント7:21-23)

それでも、この手紙でもあの手紙でも、パウロは私たちをキリストの奴隷にたとえています。 だから、パウロは奴隷たちにこう言います。

「イエス様に従うように、自分の主人に従いなさい。 それだけでなく、恐れおののいて、真心から彼らに従いなさい。 主人があなたを見ていなくても、心から従いなさい。」

どうして奴隷たちはそうするべきだったのでしょうか。 なぜなら、最終的に私たちはキリストの奴隷であり、 イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

もちろん、現代では私たちは奴隷として働いているわけではありません。

それでも、多くの人は職場で働いたり、教会でボランティア活動をしたりしています。 そして、私たちは同じ態度を取るべきです。 私たちはキリストに仕えていることを覚え、良い態度を保つべきです。 でも、私たちはそうしているでしょうか。

正直に言うと、私はそうしない時もあります。 そんなとき、私は自分の悪い態度を悔い改める必要があります。

私たちはキリストを敬って従うように、上司たちをも敬って従うべきです。

その反面、パウロは主人たち(または、上司たち)にこう言います。

主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。(エペソ人への手紙6:9)

言い換えれば、あなたは目下の人を公平に扱わなければなりません。 もし彼らが給料やボーナスに値するなら、正当に与えるべきです。 イエス様が忠実な者に報いを与えられるように、 あなたも忠実な従業員に報いを与えなければなりません。

また、彼らを脅かしてはなりません。 なぜなら、あなた自身も天におられる主に仕えているからです。 結局のところ、あなたにも従業員にも、同じ主に対する説明責任があるのです。

イエス様は、あなたに目下の人々を委ねられました。 ですから、彼らを扱うときには、 あなた自身もイエス様に対して忠実であるべきなのです。

あなたはどうでしょうか。

従業員の皆さん――神様が任命された上司に対して、 どのように仕えているでしょうか。

上司の皆さん――従業員を扱うとき、 あなたは忠実にイエス様に仕えているでしょうか。

私たちがどんな状況に置かれていても、 常にイエス様に忠実に仕える者でありますように。

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エペソ人への手紙

私たちの天の父の模範に従う

今日の箇所では、私たちの人間関係が、どのように天の父との関係を映し出しているかが分かります。

エペソ人への手紙5章では、パウロは私たちと神様との関係を結婚に例えています。 教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきです。

そして、キリストが教会を愛し、ご自身のからだの一部として大切にされたように、 夫たちも妻を愛し、自分のからだの一部として扱うべきなのです。 なぜなら、神様の目には、夫婦はすでに一つとされているからです。

6章では、パウロは神様との関係を親子関係に例えています。 パウロはこう語っています

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。(エペソ人への手紙6:1)

どうして、子どもが自分の両親に従うことが正しいのでしょうか。 それは、神様が子どもたちを両親に委ねられたからです。 子どもが成長する間、神様は子育ての責任を両親に託しておられます。

ですから、たとえ両親の指示や戒めの理由が理解できなくても、子どもたちは両親に従うべきなのです。

もう一つの理由は、親子関係が、私たちと神様との関係を映し出すものだからです。

神様は、私たちの天の父です。 そして、私たちの地上の両親とは違って、神様は常に何が最善であるかをご存じです。 ですから、たとえ神様の指示や戒めの理由が理解できなくても、私たちは御言葉に従うべきです。 そうしてこそ、私たちは神様の祝福を受けることができるのです。

このような理由から、パウロは語っています

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(エペソ人への手紙6:2-3)

両親に対する子どもたちの従順によって生まれる祝福は、 私たちの神様への従順によってもたらされる祝福を映し出しているはずです。

ところが、すべての親子関係がその祝福を映しているわけではありません。 どうしてでしょうか。 それは、両親の行いが、必ずしも神様のご性質や行いを正確に表しているとは限らないからです。

ある両親は、子どもたちをきちんと懲らしめません。 または、彼らの懲らしめはあまりにも厳しすぎることがあります。

ある両親は、子どもを褒めることなく、常に批判を繰り返します。 そのようなやり方が、子どものやる気を引き出すと思っているからです。

また、子どもたちが困難に直面しているとき、 彼らに共感を示さない親もいます。

こうした行いによって、親子の関係は壊れてしまい、 子どもたちの神様に対するイメージも歪められてしまうのです。

だからこそ、パウロは両親に命じているのです

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)

天の父が私たちを愛し、育ててくださるように、 私たちも自分の子どもを愛し、育てなければなりません。

では、次の二つのことを考えてみてください。

1.ご両親があなたを育てたとき、その育て方はどれほど神様のご性質を映していたでしょうか。 もし彼らの模範が良くなかったとしても、彼らから目を離して、神様に目を向けてください。 あなたの両親がどれほど失敗したとしても、神様は決して失敗されません。

2.あなたは、自分の子どもに神様のことを正しく映し出しているでしょうか。 彼らは、あなたのうちに神様を見ることができるでしょうか。

私もまた、失敗するときが多くあります。 ですから、神様が私を変えてくださるようにと祈っています。 すなわち、娘が私のうちに神様を見出せるようにと願っているのです。

あなたは、良い親でしょうか。

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一致する結婚(2)

この箇所で興味深いのは、パウロによれば、結婚が私たちとキリストとの関係を描くものであるという点です。 パウロはこう語りました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったのでしょうか。 イエス様は天を離れ、この世に来られました。 そして、十字架の上でご自身のいのちを捧げられました。

今もなお、イエス様は私たちの世話をしてくださり、 私たちの物理的な必要や霊的な必要に応え、 神様の愛をもって私たちを養い、育ててくださっています。

なぜイエス様はこのようにしてくださるのでしょうか。 それは、イエス様がご自身を愛するように、私たちを愛しておられるからです。 実際、イエス様は私たちを、ご自身のからだの一部として見なしておられます。

夫も同じようにするべきです。 彼は親を離れ、自分の妻と一つになります。 妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、 妻の物理的な必要や霊的な必要に応え、 愛によって妻を養い、育てるべきです。

なぜ夫はそのようにすべきなのでしょうか。 それは、彼が自分自身を愛するように、妻を愛するべきだからです。 実際、神様の目には、妻は夫のからだの一部と見なされているのです。

いろいろな意味で、夫は妻にとってイエス様の姿を映す存在であるべきです。 同じように、妻はイエス様を敬い、その導きに従うのと同じように、 自分の夫を敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたは、どれほどイエス様を妻に反映しているでしょうか。 あなたは、妻をあなた自身の一部として扱っているでしょうか。

もしかすると、妻をそこまで敬っていないかもしれません。 しかし、キリストは教会をそのように深く愛しておられます。 だからこそ、私たちもそのように愛すべきなのです。

妻たち。あなたはどれほどイエス様に従っているでしょうか。 もしイエス様に従うことが難しいと感じるなら、 自分の夫に従うことは、なおさら難しいかもしれません。

このようにして、パウロはこの教えを次のようにまとめています

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうでしょうか。 あなたの結婚は、イエス様と教会との関係を映し出しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚

今日の箇所でパウロは結婚について語っていますが、実のところ、彼は以前に語った真理を別の形で応用しているのです。

では、パウロは以前に何を語ったのでしょうか。 それは、イエス様にあって、教会の人々が一つとされたということです。 私たちの間に立っていた「隔ての壁」は、打ち壊されたのです。

しかし、多くの結婚関係において、夫婦の間にはいまだに敵意が存在し、 彼らの間には隔ての壁が残ったままです。

(もちろん、私はエペソ2:14で語られているようなモーセの律法そのものではなく、 異なる壁について話しています。)

私たちはその壁の起源を、創世記3章に見ることができます。 アダムとエバが罪を犯した後、神様はエバに次のように言われました

また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記3:16)

その言葉は、ヘブル語でも日本語でも、カインに対する神様の言葉に似ています。

罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)

神様の言葉を言い換えるなら、こう言えるでしょう。 「罪はあなたを支配したいと願っている。それでも、あなたはそれを支配しなければならない。」

同じように、アダムとエバの時代から、 多くの妻たちは神様のご計画に逆らって、夫を支配しようとしてきました。 けれども、夫の肉体的な力によって、多くの妻たちは束縛されてしまいます。 彼女たちは、愛によってではなく、恐れによって夫に従うようになってしまうのです。

残念なことですが、妻を支配するために、自分の妻を虐待する夫たちも存在します。 そしてそのような関係の中で、妻たちは虐待から逃れようとします。

その結果として、結婚は壊れてしまいます。 夫婦は本来、キリストにあって一つとされるべき存在ですが、 敵意によって、夫婦の間に隔ての壁が築かれてしまうのです。

では、その解決とは何でしょうか。

パウロはこう語りました

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。(エペソ人への手紙5:22-24)

エペソ1:22では、私たちは、神様が教会の益のためにキリストを教会のかしらとして任命されたことを学びました。 だからこそ、私たちはイエス様に従うことによって、祝福を受けるのです。

同じように、神様は妻たちの益のために、夫を妻のかしらとして任命されました。 ですから、教会がキリストに従うように、妻もまた夫に従うべきなのです。

言い換えれば、妻はイエス様に従うのと同じように、自分の夫にも従うべきです。 そうすることで、妻は祝福を受けるのです。

しかし、祝福を受けていない妻たちもいます。 そのため、彼女たちは自分のかしらと戦おうとします。 なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、多くの夫たちが非常に大切なことを忘れてしまっているからです。 神様は、夫たち自身の益のために、彼らを妻のかしらとして任命されたのではありません。 むしろ、妻の益のために、夫をかしらとして任命されたのです。

私たち夫は、自分の妻を祝福する者であるべきなのです。

パウロは、エペソ5:25〜26で、そのことをはっきりと教えています。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。。。(25-26)

その言葉には、深い皮肉が込められています。 イエス様が教会を祝福されたことによって、教会はキリストにとっての祝福となりました。 こうして、イエス様と教会は一つとされたのです。

同じように、夫たちが自分の妻を祝福すればするほど、 妻もまた夫にとっての祝福となり、 その夫婦は神様のご計画どおりに一つとなるのです。

このことについては、次の記事でさらに詳しく取り上げていきます。

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私たちがどのように歩んでいる?

私は、この箇所でパウロが「歩む」という言葉をどのように用いているかが好きです。

「愛のうちに歩みまさい。」(エペソ人への手紙5:2)

「光の子どもとして歩みなさい。」(8)

「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)

要するに、この人生において、私たちは一歩一歩進むごとに、神様の愛をより深く知るはずです。 そして、その愛は私たちを通して流れ出すはずです。

また、周囲の人々が私たちの人生を見るとき、そこに神様の光を見出すはずです。

だから、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、 その選択が私たちをどこへ導くのかに注意を払うべきなのです。

パウロはこの教えを、次のようにまとめています。

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。

悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

言い換えれば、私たちは愚かに生きてはならないのです。 かつて私たちは、死に至る道を歩んでいました。 だから、再びその道に戻ってはなりません。 また、いまもその道を歩んでいる人たちと、共に歩んではならないのです。

もちろん、私たちは彼らを完全に避けて生きることはできません。 けれども、彼らが私たちに影響を与えることを許してはなりません。 むしろ、私たちこそが彼らに影響を与えるべきなのです。

そしてパウロは、ほとんど同じことを二度にわたって語っています。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)

また、

主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)

私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに語っているのではありません。 彼は、キリストにあって一つとされた「からだ」としての教会に語っているのです。 パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがた皆は、キリストのからだとして、知恵をもって歩みなさい。 教会として、あなたがたは時を賢く用いていますか。 神様の教会として、与えられた機会を十分に生かしなさい。」

けれども、現実には多くの場合、神様の民はそのように歩んでいません。 教会は、暗闇の中に輝く光ではなく、 むしろ、暗闇の業に加わってしまうことすらあるのです。

また、私たちは互いに噛み合い、食い合い、 心に苦々しさを抱き、他のクリスチャンを許さずに恨んでしまうこともあります。

だから、パウロは言います。 「そのような態度を捨てなさい。 それは神様の御心ではありません。 そのように生きることは、愚か者の道です。 あなたがたは、自分たちに与えられた時間と機会を無駄にしているのです。

そうではなく、キリストのからだのために、神様のみこころを正しく知りなさい。」

では、神様のみこころとは何でしょうか。

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(エペソ人への手紙5:18-21)

「御霊に満たされなさい」という言葉を見るとき、私たちはしばしば個々のクリスチャンのことを思い浮かべます。 つまり、一人ひとりのクリスチャンが御霊に満たされるべきだと考えるのです。

しかし、パウロが語っているのは、 「あなたがたはキリストのからだとして、御霊に満たされるべきである」ということです。

教会にとって最も必要なのは、御霊に満たされることです。 けれども、多くの場合、教会は貪りや恨み、分裂的な思いに満ちてしまっています。

もし神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、 御霊の力によって歩んでいるならば、 この世界にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

もし神様の教会の人々が互いに引き裂き合わず、 御霊による喜びに満たされ、賛美をもって互いに励まし合っているならば、 この世にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

また、もし教会の人々が恨みや分裂的な思いに満たされず、 互いに敬意を払い合い、キリストを畏れつつ互いに従い合っているならば、 どれほどこの世は変えられることでしょうか。

私たちは、そのように生きているでしょうか。 教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。 また、個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。

あなたは、今、どのように歩んでいるでしょうか。

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罪を軽く見る

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く見ることです。 罪について冗談を言ったり、それを誇ったりする人さえいます。 けれども、罪は決して軽く見てよいものではありません。 特に、クリスチャンは罪を軽視してはならないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(エペソ人への手紙5:3-4)

要するに、周囲の人々が私たちの行いや言葉を責める余地もないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。 もう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはなりません。

けれども、テレビ番組や映画のことを語るとき、 「このドラマでは主人公が罪を犯していた」と私たちはどれほど言うでしょうか。

あるいは、歌を聴くとき、 「この歌の歌詞は罪を売り込んでいる。この歌詞に従えば、やがて人は神様に裁かれる」と考えることは、どれほどあるでしょうか。

私たちは、ふつうそのようには考えないのです。

あなたはこう言うかもしれません。 「そんな考え方は真面目すぎます。それがこの世の文化というものでしょう。」

ところが、まさにその態度こそが問題なのです。 多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンのように、罪についてあまりに軽く考えすぎています。 けれど、パウロは私たちに思い出させてくれます。

に軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は極めて深刻な問題です。 人は自らの罪のゆえに、神様の怒りを受けるに値します。 さらに、地獄にさえ値するのです。 そのような現実を思うとき、どうして罪を軽く見ることができるでしょうか。

だから、パウロはこう言うのです。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民とは異なる者として召しておられます。 この世の人々は、罪の暗闇の中に生きています。

かつて、私たちもその暗闇の中を歩んでいました。 けれども、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。 それゆえ、私たちは光の子どもらしく歩むべきなのです。

私たちは、罪の実を結んではなりません。 むしろ、あらゆる善意と正義と真実の実を結ぶべきです。

ですから、私たちは罪を祝ってはならず、 むしろキリストの光によって、その罪を明るみに出さなければなりません。 罪が人を滅ぼすものであることを、はっきりと示さなければなりません。

そして、私たちは周囲の人々にこう語るべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうでしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。 罪の深刻さを忘れてしまってはいないでしょうか。

イエス様が、私たちの罪のために死ななければならなかったことを心に留めておきましょう。 イエス様は、私たちと私たちの周囲の人々を、罪の暗闇から出て、新しい命へと入るように招いておられます。

あなたは、その新しい命の光の中を歩んでいるでしょうか。 そして、周囲の人々を、あなたとともにその道を歩むように招いているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように(2)

言葉は力あるものです。 言葉によって、人は建て上げられ、言葉によって、人は取り壊されます。

だからこそ、パウロはこう言いました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ人への手紙4:29)

「悪い言葉」とは、「腐った言葉」と訳すこともできます。 私たちは、そのような腐った言葉を一切口にしてはいけません。

では、「腐った言葉」とは何でしょうか。 31節を見ると、いくつかの例が挙げられています。 無慈悲な言葉、怒りの言葉、ののしりの言葉、悪意に満ちた言葉などです。

このような言葉によって、聖霊が悲しまれるのです。 なぜなら、それらの言葉はキリストのからだを分裂させるものだからです。

忘れないでください。この箇所の中心テーマは、キリストのからだの一致を保つことです。 けれども、もし、私たちの言葉によって、互いにかみつき合い、食い合っているなら、 その一致を保つことはできません。(ガラテヤ5章15節)

では、私たちはどのような言葉を語るべきでしょうか。 それは、成長に役立つ言葉や、聞く人に恵みを与える言葉です。 人々にそのような言葉が必要なとき、私たちはそれを語るべきです。

注目すべき点が二つあります。

一つ目は、話す前に、何を言うべきかを考える必要があるということです。 私たちは周囲の人々を見るとき、彼らのニーズを考えるべきです。

しかし多くの場合、深く考えずに言葉を発し、相手を傷つけてしまいます。 もし私たちが相手のニーズに心を留めるなら、不用意に傷つけることはないでしょう。

二つ目は、私たちの言葉が恵みに満ちたものであるべきだということです。 言い換えれば、私たちの言葉は人々に恵みを与えるものであるべきなのです。

私たちの口からどんな言葉が出ているでしょうか。 裁きの言葉でしょうか。責める言葉でしょうか。 それとも、恵みの言葉でしょうか。

けれど、私たちの言葉だけでなく、行いもまた恵みを表すべきです。 だからこそ、パウロはこう言います。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(32)

場合によっては、それは難しいこともあるでしょう。 相手を親切に扱うのが難しい時もあります。 相手に憐れみを持てない時もあります。 相手を許すのが辛い時もあります。

しかし、私たちは神の親切や憐れみや赦しに値しませんでした。 むしろ、私たちは神の怒りと裁きを受けるにふさわしい者でした。

それでもなお、神様はご自身の憐れみと恵みを私たちに注ぎ、 私たちの罪を赦してくださいました。

だからこそ、パウロはこう言います。

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。

キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(エペソ人への手紙5:1-2)

私たちのために十字架でご自身のいのちをささげたとき、イエス様は天の父にとって芳ばしい香りとなりました。

同じように、私たちが神様の子どもとして歩み、周囲の人々に神様の愛と恵みを表すとき、 私たちも天の父にとって芳ばしい香りとなります。

そして、私たちが人を愛する時、特に愛しにくい人を愛する時、 私たちは本当に神様の子どもであることを証しするのです。 そのようにして、私たちクリスチャンはイエス様にあって一つとされていきます。

あなたはどうですか。 あなたは自分が神様の子どもであることを証ししていますか。 あなたは日々、周囲の人々を愛し、建て上げていますか。

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように

5年前にこの箇所を読んだとき、私は改めてパウロの言葉を認識しました。 それ以前は、パウロの言葉をどのように自分の人生に当てはめられるかを考えていましたが、実際には、彼が語っていたのは個々のクリスチャンではなく、教会全体についてであると気づきました。

ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁は取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つにされました。

この文脈の中で、パウロは今日の箇所を書きました。 彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことができるかということです。

25節から、パウロはそのことを強調しています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(エペソ人への手紙4:25)

真実を語らなければ、一致を保つことはできないでしょう。 友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でも、それは同じです。

時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないものでしょうか。)

また、兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人の反応を恐れて何も言わないことがあります。

しかし、15節によれば、私たちは愛を持って真理を語るべきです。 その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということは非常に大切です。 ある人は自分の正直さを自慢しますが、彼らの目的は相手を建て上げることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。

もしそのような態度であるならば、黙っていた方がよいでしょう。 けれども、神様の前で「私はこの人を愛し、建て上げたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そして、パウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもよいのです。 けれども、その怒りをどのように処理するでしょうか。

あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。 あるいは、その怒りを静かに心に留め、苦々しい根を張るでしょうか。

もしそうすれば、あなたは悪魔に自分を操る機会を与えることになります。

しかし、もう一度言います。 パウロは主に教会に向けて語っています。

もし教会のメンバーが心の中で怒りを持ち続けるなら、サタンはその機会を利用して教会を分裂させ、壊そうとするのです。

そして、パウロは続けて言います。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉から、重要な原則を見ることができます。 単に相手を傷つけることをやめるだけでは不十分なのです。 私たちは相手を建て上げなくてはなりません。

なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建て上げることだからです。

次の記事でこの話を続けますが、その前に少し考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。 あるいは、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させてしまっているでしょうか。

私たちはキリストのからだを建て上げているでしょうか。 それとも、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちの目的を果たすには

ディズニー映画『アナと雪の女王』では、エルサ女王が自分の力を現してしまい、人々の恐れによって王国を離れざるを得なくなります。

それまでエルサは、自分の力を周囲の人々から隠していました。けれども、追放された後、彼女は「ありのままの姿を見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決意します。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか、自分を試してみたい。

英語では、彼女はこう歌います。

正しいも悪いもない。
私にとって、もうそんなルールは存在しないのよ。
私は自由だから。

しかし、その「自由」は長くは続きませんでした。 妹のアナがエルサのもとを訪れ、彼女が「自由」を活用した結果、王国がどれほど混乱してしまったかを伝えます。

だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロールできない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナがエルサに「すべてを治せる」と説得しようとしたとき、エルサは答えました。

「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌を好みますが、エルサが最終的に何を悟ったのかを理解している人はどれほどいるでしょうか。

つまり、本当の自由はただ自分自身を理解することからは生まれないのです。

なぜなら、私たちの内にあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうからです。そして、私たちは自分自身を恐れるようになり、また、自分の問題を解決することができないと気づきます。

けれども、多くの人々はこのことに気づいていません。むしろ、パウロによれば、彼らはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ人への手紙4:18-19)

もちろん、このすべての言葉をエルサに当てはめることはできません。なぜなら、その映画はクリスチャンの寓話ではないからです。

とはいえ、エルサの知性が暗かったため、彼女は自分がどうあるべきかわかりませんでした。彼女を拒絶した人々の影響で心が頑なになり、彼女は自分の道を進むことで自由を得たと思いました。

同じように、多くの人々の知性が暗く、彼らは自分が何者であるべきかを理解できません。神様は愛を持って彼らを御自身の似姿に造られましたが、彼らは無知のゆえに神様に対して頑なな心を持っています。

そのため、彼らは善悪という「鎖」を捨て、自分の道を歩んでしまいます。そして、「自分の道を行けば自由を見つけられる」と思っています。

ところが、結局彼らは自由を得ることはありません。むしろ、人生は混乱し、何をすればよいのかわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。

むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣も捨てなくてはなりません。 なぜなら、それらは腐敗したものであり、それに従い続ければ、私たちは滅びてしまうからです。(22)

特に、私たちは一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。 自分の道を行くことで自由を得ることはできません。むしろ、その道は呪いとなり、私たちを縛ってしまいます。

だから、パウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えてくださるように祈るべきです。 そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23ー24)

私たちはそのような人になるべきです。私たちは神様のように歩むべきです。

もちろん、クリスチャンにはそれぞれ違いがあります。私たちは多様な賜物を与えられており、それぞれの性格を持っています。 クリスチャンになったからといって、それらを失うわけではありません。

むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様の計画のもとで美しく輝くものとなります。 また、神様の御心に従うことで、私たち自身も神様が意図された通りに美しい創造物となります。

しかし、その美しさを持つためには、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立を求める思いを捨てなくてはなりません>。 そして、私たちは自分が何者であるべきかを忘れずに歩まなくてはなりません。

それは、神様の似姿に造られた者であるということです。

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エペソ人への手紙

キリストの満ち満ちた身丈にまで達する

この世を見れば見るほど、私たちはその混乱の深さに気づかされます。そして、自分自身の人生を振り返ると、それもまた壊れ、乱れていることを認めざるをえません。

この世も、私たちの人生も、壊れた、不完全なものなのです。その壊れた世界と人生を癒すことができるのは、ただお一人――イエス様だけです。

そのために、イエス様はこの世に来られました。第9〜10節によれば、イエス様は人間としてこの地に来られ、私たちの罪のために命をささげてくださいました。そして、死を打ち破って復活され、天へと昇られました。

その目的とは何でしょうか。それは、「キリストがすべてのものを満たすため」であると書かれています。

つまり、イエス様は人を内側から満たし、壊れた人生を癒し、渇いた心に命を注いでくださるお方です。そして最終的には、罪によって傷ついたこの被造世界全体をも、完全に回復してくださいます。

パウロはこう言いました。

(イエス様)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。(エペソ人への手紙4:8)

「捕虜」とは誰のことでしょうか。もしかすると、イエス様に敗れた悪霊たちかもしれません。けれども、より可能性が高いのは、彼らがイエス様によって自由にされた罪の奴隷たちであった、ということです。イエス様は彼らを解放し、神の御国へと導き、さらに贈り物を与えてくださいました。

その贈り物とは何でしょうか。

第一に、永遠のいのちです。

第二に、御霊です。御霊は私たちのうちに住み、新しく生まれ変わらせ、私たちをますますイエス様のかたちに変えていってくださいます。

第三に、使徒、預言者、伝道者、牧師および教師といった、キリストのからだに仕える人々です。

たとえば、パウロやペテロのような使徒たちは、初めて福音を宣べ伝えました。

預言者たちは神様のことばを語り、私たちを教え、励まします。

伝道者たちは人々をイエス様のもとへ導いてくれます。

牧師と教師たちは、私たちの霊的な必要を養い、イエス様について教え、正しい道へと導いてくれます。

しかし、これらの人々がすべての奉仕を担うわけではありません。先ほども述べたように、彼らは教会への神様の贈り物なのです。では、なぜ神様はそのような人々を教会に与えてくださったのでしょうか。

それは、聖徒たち(つまり、すべてのクリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(12-13)

要するに、私たちは互いに建て上げ合い、互いの信仰を強め合い、イエス様について教え合う存在であるべきです。その結果として、私たちは成熟へと導かれていきます。

もちろん、一人ひとりのクリスチャンが成熟することも大切ですが、同時に教会全体がキリストにおいて成熟していくのです。

教会があらゆる点においてイエスのかたちに近づくとき、私たちがこの世に触れるにつれて、イエス様はすべてのものを満たされます。

ここで注目すべきは、パウロが「私たちは一人の成熟した大人となる」と語っていることです。

「多くの成熟した大人たちになる」とは言っていません。むしろ、「一人の成熟した大人となる」と強調しています。私たちは一つのからだとして結び合わされていきます。すなわち、完全に成熟したキリストのからだへと成長していくのです。

では、私たちはどのような者になってはいけないのでしょうか。私たちは、あらゆる教えの風に吹き回され、もてあそばれる子どものようになってはなりません(14節)。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(15-16)

そうすれば、私たちは個々のクリスチャンとしても、教会としても、イエス様にあって完全なものへと成長していくのです。そして、私たちを通して、イエス様はすべてのものを満たし、癒してくださいます。

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エペソ人への手紙

教会の一致を守る

1〜3章で、パウロは「キリストにあって私たちは一つとされた」という真理を語っています。

モーセが受けたシナイ契約によって、ユダヤ人たちは異邦人たちと隔てられていましたが、イエス様の十字架によってその隔ての壁は打ち壊されました。こうして今、ユダヤ人も異邦人も、ただ一人のかしらであるキリストのもとに結び合わされているのです。

そしてその驚くべき一致の真理を語り終えたあと、パウロはこう言いました

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ人への手紙4:1)

言い換えるなら、「神様に召された教会として、その召しにふさわしく歩みなさい」ということです。

では、その召しとは何でしょうか。それは、キリストにあって一つの体となることです。そして、その体を通して、神様はご自身の知恵と栄光をこの世に現したいと願っておられます。

この手紙の残りの部分で、パウロは、私たちがどのように「キリストのからだ」として生きるべきかを教えています。つまり、キリストのからだとして、どのようにして神様の栄光と知恵を現していけるのでしょうか。

パウロは、こう語ります。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)

「謙遜の限りを尽くしなさい。」

私にとって、これは決して簡単なことではありません。子どもの頃からクリスチャンとして育ち、さまざまなことを学んできた私にとって、プライドを抱くのは容易なことです。

でも実のところ、私はいまなお学びの途上にあり、失敗もすれば、罪を犯すこともある者です。だからこそ、周りの人々に接するとき、私は自分の弱さを心に留めていなければなりません。

他の人の失敗や罪を目にするとき、私は謙遜をもって、柔和な心をもって接するべきです。

さらに、神様が私に寛容を示してくださったように、私も他の人々に寛容を示すべきです。だからこそ、私は人々を軽蔑せず、彼らの失敗や弱さ、罪に対しても、憐れみの心で応じる者でありたいのです。

そしてパウロはこう語ります。「御霊による一致を、平和のきずなで熱心に保ちなさい。」

私たちは一つです。神様は私たちを一つの教会とされました。しかし、この一致を守るには、意識的な努力が求められます。私たちの罪深い性質のゆえに、この一致は簡単に壊れてしまうおそれがあるからです。

だからこそ、私たちは平和のきずなを大切にし、積極的にその一致を守り続けていかなければなりません。

私たちは、御霊による一致を熱心に保っているでしょうか。あるいは、兄弟姉妹の罪や過ちを見て、すぐに心の中で彼らを引き離してしまってはいないでしょうか。

このような問いかけの中で、パウロは私たちにもう一度思い起こさせてくれます。

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。(4-6)

簡単に言えば、私たちは一つのからだです。同じ御霊が私たちのうちに住んでおられます。

イエス様にあって、私たちは同じ希望を持っています。私たちは同じ救い主に属し、同じ信仰を持ち、皆がイエス様の御名によってバプテスマを受けました。

私たちは同じ父に属しています。その父なる神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父です。

それが真実なら、なぜ私たちは互いに引き裂き合おうとしているのでしょうか。

サタンは分裂した教会を見ると喜びます。分裂した教会には、神様の知恵と栄光をこの世に現す力がありません。

だからこそ、その分裂的な霊を捨て去りましょう。

神様は私たちを一つとされました。その一致を、熱心に保ち続けましょう。

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エペソ人への手紙

私たちが神様の栄光で満たされるように

歴代誌第一には、ソロモンが神殿を完成させた後のこの出来事が、このように記されています。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

ソロモンの神殿が主の栄光で満たされたように、神様の望みは、ご自身の教会がその栄光で満ちることです。だから、パウロはそのために祈ったのです。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:16-19)

パウロは、ただ一人のエペソのクリスチャンに宛てて書いたのではありません。むしろ、すべてのエペソのクリスチャンたちを対象として書いていました。彼は「あなた」ではなく、「あなたがた」と記していたのです。

もちろん、パウロは個々のクリスチャン一人ひとりのためにそれを願っていました。

しかし、この祈りを記したとき、彼はエペソの教会のクリスチャンたちを「一つのもの」として捉えていました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンは一つだからです。

第2章では、パウロはそのことを繰り返し強調しており、第3章と第4章でも同じテーマが続けて語られています。

パウロの祈りを言い換えると、次のようにまとめることができます。

神様、あなたの御霊を通して、一人ひとりのクリスチャンの内に働いてくださる中で、あなたの教会全体に力を与えてください。

イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、どうか彼らの心のうちに住んでください。

天のお父様、彼らがあなたの愛にしっかりと根を下ろすことができますように。その愛が彼らの人生の土台となりますように。

そして、その愛に深く根差すにつれて、彼らが互いの兄弟姉妹への愛にも生きることができますように。

そのように愛に生きる中で、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さを共に理解し、知る者となりますように。

そして、かつてソロモンの神殿があなたの栄光で満たされたように、あなたの教会があなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。

それこそが、教会に対する神様の望みです。神様のご計画は、私たちが神様の神殿となり、神様の栄光に満たされて、その栄光をこの世に映し出すことです。

しかし、それは私たち自身の努力によって成し遂げられるのではありません。むしろ、神様が教会に力を与え、教会のうちに働いてくださるときに、そのことは実現するのです。

ですから、自分自身や教会を見て落胆しそうになるときには、思い出してください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うこと、思い描くことのすべてを、はるかに超えて成し遂げることのできるお方です(エペソ3:20)。

神様は今も奇跡を行われます。壊れた人生や教会を、栄光に満ちたものへと変えてくださるのです。私たちがすべきことは、ただ神様と協力することです。

そして、いつの日か、神様は私たちのうちにおいて、また、十字架で流された血によって私たちを贖われた御子において、栄光を受けられるのです。

ですから、絶望しないでください。むしろ、パウロの賛歌を私たちの祈りとして歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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エペソ人への手紙

自由と確信

私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。

パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。

もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。

しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)

その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。

おそらく、そうではなかったでしょう。

彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。

また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。

そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。

しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。

私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)

なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。

さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。

もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。

そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた者ですが、多くのクリスチャンはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私にはできません。私はただの普通のクリスチャンですから。」

けれども、神様はあなたをパウロのように召しているのではありません。あなたもパウロも神様の恵みの務めを与えられた者ですが、それぞれ異なるかたちでその務めを果たすのです。

それでも、神様があなたを導いてくださる中で、あなたは福音を語り、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格がありません。その働きにふさわしくありません。」

実は、パウロ自身もそう感じていました。彼はこう語っています。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(エペソ人への手紙3:7-8)

パウロは、自分が神様の恵みの務めを受けるにふさわしくない者だと感じていました。彼は「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さい者です」と語りました。

なぜパウロはそう感じたのでしょうか。それは、彼がかつて教会を迫害し、多くのクリスチャンを逮捕したり、殺したりしていたからです。

それにもかかわらず、彼はこう言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に伝えるために、私は神様の恵みを与えられたのです。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、こう語りました。「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、私は福音に仕える者となったのです。」

神様はあなたもまた、福音に仕える者となるよう召しておられます。あなたも神様の恵みの務めを与えられたのです。なぜでしょうか。それは、神様がその恵みをあなたに豊かに注いでくださったからです。

良いしもべとなるために、特別な資格や賜物は必要ありません。自分の知恵や力に頼る必要もないのです。

むしろ、この恵みの務めを果たすためには、あなたは神様から与えられた恵みと力に頼るべきです。その恵みと力によって、あなたはこの務めを忠実に果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様のご計画は、教会を通してご自身の多面的な知恵をこの世に示すことです。

しかし、「教会」とは建物を指しているのではありません。教会とは、あなたと他の信じる者たちのことなのです。あなたを通して、神様はご自身の知恵を現したいと願っておられます。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様がどうやって私を用いられるのでしょうか。」

あなたが弱く、平凡な存在であるからこそ、神様はあなたを用いることができるのです。なぜなら、弱くて平凡な人々は、神様の力にすがる以外に道がないからです。

パウロはこう言っています。「私たちが弱いときにこそ、私たちは強いのです。」(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(コリント人への手紙第一1:26-27)

神様はご自身の知恵を現すために、強い者たちを募集しておられるのではありません。むしろ、神様は弱い者を求めておられるのです。

なぜでしょうか。それは、人々があなたの人生において神様がなされたこと、また神様があなたを通して周囲にどのように触れておられるかを見るとき、驚かされるからです。

そのため、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ペテロとヨハネのことに驚いたのです。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、私たちを見た人々は、驚かされることでしょう。

彼らが私たちを見るとき、私たちがイエス様と共に歩んできた者であることが、彼らにも分かるように。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人

2節で、パウロはこう言いました。

あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。(エペソ人への手紙3:2)

パウロのように、私たちは神様の恵みの務めを与えられました。神様が私たちに恵みを与えてくださった理由は、私たちがただその恵みを浴びるからではありません。周りの人々に触れるとき、私たちはその恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、パウロの恵みの務めは、私たちの務めと違うところがあります。パウロはいろんな教会を始めたり、神様の恵みに関する聖句、また、福音の奥儀に関する聖句を書いたりしました。

今なお、教会を始める賜物を持っている人がいるけど、すべての人々がその賜物を持っているというわけでもありません。そして、ある人は聖書を教える賜物を持っているけど、新しい聖句を書く賜物を持っている人は誰もいません。

でも、私たち皆は自分の賜物を用いて、恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、私たちは周りの人々に福音を宣べ伝えるべきです。さらに、私たちは神様の愛で周りの人々に触れるべきです。周りの人々は私たちを見ると、神様の恵みの務めを与えられた人々を見るはずです。

でもまず、我々クリスチャンたちは、互いにその恵を与え合うはずです。パウロはこう言いました。

それ(つまり、キリストの奥儀)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ人への手紙3:6)

神様は初めてアブラハムを呼んだとき、「すべての部族は、あなたによって祝福される」と約束しました。(創世記12:3)

でも、どのように神様がその約束を守るか何年も不明でした。しかし、パウロは「その答えは啓示されました」と言います。

つまり、イエス様とその十字架の御業によって、私たち皆は、ユダヤ人でも、異邦人でも、アジア人でも、白人でも、黒人でも、男性でも、女性でも、神様の相続人になったということです。私たち皆はイエス様を通して神様の約束を受けます。

そして、神様の意図は、イエス様において成し遂げられた、永遠のご計画によって、教会を通して、神様の極めて豊かな知恵が天上にある支配と権威に知らされることです。(10-11)

教会を見ると、天使たちと悪霊たちは神様の極めて豊かな知恵を見ます。

特に、彼らは神様の計画の不思議さを見ます。それは、いろんな国からの人たちは、男性でも、女性でも、神様から豊かに与えられた愛で、互いに愛し合うということです。

その互いの愛によって、クリスチャンたちは、神様が彼らを造った目的を果たして、神様に栄光を反映します。

天使たちと悪霊たちだけではなく、この世界の人々はそれを見るはずです。そう見ると、彼らも神様の恵みに驚いて、魅せられます。

でも、それは実際に起こっているでしょうか。多くの場合、私たちはこの世界に対して、またほかのクリスチャンたちに対して、忠実に神様の恵みの務めを果たさないので、ノンクリスチャンはそれを見ないでしょう。

あなたはどうですか。その務めを忠実に果たすでしょうか。あなたの教会は?

あなたを見ると、周りの人々は神様の愛と恵みがあなたから彼らに、またほかのクリスチャンたちに流れることを見るでしょうか。

あなたは忠実に務めを果たしているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神に受け入れられた

キリスト教が始まった当初、異邦人に対するクリスチャンのユダヤ人たちの考え方がどれほど変わったかは、驚くべきことです。

それ以前、ユダヤ人は神様との関係が自分たちだけに属するものだと考えていました。もし異邦人が神様との関係を望むならば、ユダヤ教の規律に従わなければなりませんでした。

そのため、神殿の中庭には「隔ての壁」が設けられていました。異邦人は異邦人の庭まで入って礼拝することはできましたが、その壁には次のような警告が記されていたのです。

「これより中に入る異邦人は、死刑に処す。」

パウロは、エペソの信徒たちにこの問題を思い起こさせました。

そのころ(異邦人たちがクリスチャン人なる前)は、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(エペソ人への手紙2:12)

神様はアブラハムとの契約やモーセとの契約を通して、ユダヤ人と特別な関係を結ばれました。そして、神様はユダヤ人に対し、「メシアが来て、あなたを救う」と約束してくださったのです。

その一方、異邦人は部外者でした。彼らは神様との関係を持っておらず、その約束も彼らには当てはまりませんでした。そのため、彼らは神様から遠く離れ、救いの希望を持つことができませんでした。

言い換えれば、神の国の門は異邦人に対して閉ざされ、鍵がかけられていました。さらに、そこには「部外者立ち入り禁止」と記された看板が掲げられていたのです。実のところ、私たちもかつては同じ状態にありました。

ところが、パウロはここで続けて語ります。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。

キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(13-17)

パウロによれば、十字架の御業によって、イエス様は隔ての壁である敵意を打ち壊されました。

けれども、パウロが「隔ての壁」と言うとき、それは物理的な壁のことではありません。むしろ、パウロはモーセの律法について語っていました。

イエス様が十字架で死なれる前、その律法はユダヤ人と異邦人の間にそびえる大きな壁でした。ユダヤ人は律法を守る者でしたが、異邦人は律法の外にある者でした。

ところが、実際には、ユダヤ人も律法を完全に守ることができませんでした。そのため、律法はユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、大きな壁となり、誰一人として神様に近づくことができなかったのです。

しかし、キリストが来られたとき、彼は律法を完全に成就し、私たちの罪の罰を十字架において支払ってくださいました。それゆえ、神様と私たちの間の壁だけでなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁も取り除かれたのです。

クリスチャンにとって、「内」と「外」という区別はもはや存在しません。むしろ、イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、皆が一つとなったのです。

イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、すべての人には天の父に近づく道が開かれています。

私たちは別々の方法で天の父に近づくのではなく、同じ御霊を受け、その御霊を通して天の父に近づくのです。

神の国には、市民と外国人の区別はありません。むしろ、イエス様を信じるすべての人が神の国の市民となります。そして、私たちは皆、神様の相続人としての権利をすべて持っているのです。

だから今、私たちは皆、神様が住んでおられる一つの宮となります。私たちを通して、神様はご自身をこの世に現してくださいます。イエス様は私たちの要の石であり、使徒と預言者の言葉は私たちの土台です。

それなら、教会の兄弟姉妹を見るとき、私たちは彼らをどのように見ているでしょうか。もしかすると、彼らの人種や性別のゆえに、私たちは彼らを二流市民と見なしてしまうでしょうか。また、別の理由で彼らを見下してしまうことがあるでしょうか。

私たちは皆、イエス様への信仰によって、神様に受け入れられた者です。だから、敵意と隔ての壁を捨て去りましょう。

むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)

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エペソ人への手紙

神様の作品

私は、今日の御言葉が本当に大好きです。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

ある英語の聖書では、「作品」という語を「傑作」と訳しています。

神様は退屈しのぎに私たちを造られたのではありません。いい加減な思いつきでもありません。

神様は、愛と喜びを込めて、私たちを造ってくださいました。ご自身のご計画に従って、私たちを形づくられたのです。そして神様は、私たちをご覧になると、心から誇っておられるのです。

さて、私はもう一つの語句に目を留めました。それは、「キリスト・イエスにあって造られた」という表現です。

この語句を以前に読んだとき、私はパウロが、母の胎内で私たちが形づくられることを指しているのだと思っていました。

しかし今回、「キリストにあって」という言葉をあらためて読むと、パウロがまったく別の創造について語っているのではないかと気づかされました。

もちろん、神様は私たちが母の胎にいるときから造っておられます。でも、私たちがキリストにある者となるとき、神様は私たちを「新しい創造」として、もう一度お造りになるのです。

それゆえ、パウロは次のように語っています。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

神様が私たちを新しく造られたときの目的は、私たちが再び罪に戻り、自分自身のために生き続けることではありません。むしろ、神様のご計画は、私たちがご自身があらかじめ備えてくださった良い行いのうちを歩むことなのです。

言い換えれば、神様は私たちを新しく造る前から、すでに私たちのためにご計画を持っておられました。私たちが歩むべき働きも、出会うべき人々も、神様はすでに整えてくださったのです。

ですから、私たちは日々こう祈るべきです。「神様、今日、あなたのご計画は何でしょうか。私は何をするべきでしょうか。今日、私は誰に触れるべきでしょうか。」

けれども、現実にはそのように祈ることを忘れてしまいがちです。そのために、神様が整えてくださったチャンスを見逃してしまうことがあるのです。私自身も、神様が備えてくださった機会を見過ごしてしまったことがあったと感じます。

私たちは、そのように生きないようにしましょう。今日という日は、ただの「普通の日」ではありません。むしろ、神様があなたのために特別なご計画を持っておられる一日なのです。

だからこそ、神様が今日整えてくださったことを、心を開いて探し求めましょう。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの不思議さ

1章では、パウロは、エペソの信徒たちがキリストにあって自分たちが何を受けているのかを正しく理解できるようにと祈りました。

そして2章では、パウロはその真理を、彼らに対して明確に語り始めます。

私たちも神様のことばを伝えるとき、同じようにすべきです。まず、神様が語る相手の霊的な目を開いてくださるように祈り、そして神様のことばを、相手が理解できるように明確に語る責任があります。

さて、今日の箇所では、私たちは神様の恵みの深く不思議な性質を見ていきます。

私たちはかつて、自分の罪の中で死んでいました。霊的な命をまったく持っていませんでした。私たちはサタンの支配のもとを歩み、神様に背を向けていました。神様を喜ばせようという思いなど一切なく、むしろ自分自身の欲を満たすことのために生きていました。

私たちは、生まれながらにそのような心を持っていたのです。

だから、パウロはこう言いました。

私たちもみな。。。ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2:3)

私たちは、生まれた日から神様に背く心を持っていたため、神様の御怒りを受けるべき存在でした。

パウロの時代のユダヤ人たちのように、ある人は、神様を信じる家庭で育ち、御言葉に親しんできたことから、自分は神様に受け入れられていると思っているかもしれません。

しかし、パウロはユダヤ人について次のように語りました。「神様に背く私たちの心のゆえに、私たちもまた、神様の御怒りを受けるべきでした。私たちは律法を与えられていましたが、その律法を全うすることができなかったのです。」

今日も同じように、多くの人が教会に通い、聖書を読み、道徳的には他の人よりも良い人であるかもしれません。けれども、彼らもまた神様の律法を完全に守ることができないため、神様の御怒りを受けるべき存在なのです。

だから、ローマ書の中で、パウロはこう述べています。

そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることが出来ず。。。(ローマ書3:22-23)

神様はその私たちの姿をご覧になって、私たちを見捨ててしまわれたのでしょうか。「彼らはもうだめだ」と呆れ果てて宣言されたのでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。むしろ、パウロはこう語ります。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。(エペソ2:4-7)

私たちは、かつて罪の中で死んだ者でした。死んだ者に何ができるでしょうか。何もできません。

けれども、神様は私たちをよみがえらせ、ご自身に応答できる心を与えてくださいました。そして、私たちが信仰をもって神様に立ち返ると、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。

神様は、罪という泥沼から私たちを引き上げ、清めてくださいました。そのため、私たちは神様の目において完全な者とされたのです。

もし神様がそれだけしてくださったのだとしても、私たちはその恵みの驚くべき豊かさにただただ圧倒されたことでしょう。

ところが、神様はそれ以上のことをなしてくださいました。神様は私たちを、イエス様とともに天に座らせてくださいました。さらに、私たちを御子として養子にしてくださったのです。そしてある日、神様の相続人として、私たちはイエス様とともに治めることになるのです。

なぜ、神様はそこまでしてくださるのでしょうか。それは、ご自身の恵みの豊かさをあらわすためです。神様は、私たちがその恵みの素晴らしさをたたえるようにと望んでおられたのです。

そして、パウロはこの恵みの物語を、次のように締めくくります。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(8-9)

神様の恵みの不思議さとは、こういうことです。私たちは救いを求めようともせず、その救いにふさわしくもなかったのに、神様はなおも私たちを救ってくださいました。

私たちの救いは、ただ神様から来たものです。そして、私たちの信仰さえも神様から与えられたものです。「私は救いに値する」と誇ることができる人は、だれひとりいません。救いは初めから終わりまで、完全に神様の賜物なのです。

さらに神様の恵みの不思議さは、私たちを単に救ってくださったということだけではありません。神様は私たちを養子として迎えてくださいました。そして私たちを、ご自身の相続人としてくださったのです。

だからこそ、私たちは日々その恵みに驚き、心からたたえましょう。

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エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の愛によって選ばれて、祝福された

エペソ人への手紙1~2章を読むと、神様がイエス様を信じる私たちに何を与えてくださったのか、その驚くべき恵みにあらためて心を打たれます。

パウロは、この手紙を賛美の言葉で始めています。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

私たちは、どのような祝福を受けたのでしょうか。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ。。。(4-8)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。パウロによれば、神様はこの世を造られる前から、すでに計画を持っておられました。神様は、私たちがご自分の御前で聖く、傷のない者となるように、私たちを選ばれたのです。

私たちが罪深く、反抗的な者になることをよくご存じであったのに、それでもなお神様は私たちを選ばれました。

そのため、神様は私たちを救い、ご自分の子として養子にする計画を立ててくださいました。

私たちの罪が赦されるようにと、イエス様をお遣わしになりました。イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださいました。

イエス様の血によって、神様は罪の奴隷であった私たちを自由にし、ご自分に愛されている息子や娘として、私たちを養子にしてくださいました。

さらに、「聖霊様は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(14節)

聖霊様は私たちを守り、サタンが私たちの神様との関係を壊そうとする試みを阻んでくださいます。また、聖霊様の臨在と、私たちの人生におけるその働きは、天国の片鱗です。なぜなら、天国に行けば、私たちは神様の御業を見、神様のみ顔を仰ぐことができるからです。

なぜ神様はそのように私たちを祝福してくださるのでしょうか。それは、私たちの良い行いへの報いなのでしょうか。いいえ、そうではありません。神様のみこころの良しとされるところに従って、そうしてくださったのです。

神様が選ばれたとき、誰を救い、誰を救わないかを無作為に決められたのではありません。むしろ、パウロによれば、神様は愛をもって私たちを選ばれました。私たちはその愛にふさわしくなかったのに、それでも神様は愛をもって、私たちに豊かな恵みを注いでくださいました。

神様がなぜ私たちを選ばれたのか、私たちには決して分からないでしょう。しかし、神様はご自身のご計画に基づいて、私たちを愛してくださったのです。

そういうわけで、救いの栄光は私たちに属するものではありません。むしろ、この個所で、パウロは三度こう語っています。「このすべては、神様の栄光のためです。」(6、12、14)

簡潔に言えば、私たちは神様の驚くべきご計画の一部です。その計画とは、この反抗的で罪深く、混乱した世界を、イエス様の支配のもとに一つにまとめ上げることです。

率直に言うと、私はこの真理の素晴らしさを十分に伝えることはできないと感じています。

神様とその恵みの素晴らしさを語り尽くせる言葉は、私にはないと思います。

だからこそ、私はしばらく黙って、その恵みを静かに噛み締めたいと思います。