カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマス12日目

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。

それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男でしたが、イエス様はユダの系図に属しておられるので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、ヤコブの愛で心の穴を埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。ただ一日だけでもなく、一週間だけでもなく、一ヶ月だけでもなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題や苦しみから目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう。

「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマス11日目

彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。

彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。

彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(創世記35:16-18)

ベン・オニとは、「私の悲しみの子」という意味です。

その反面、ベニヤミンとは、「右手の子」という意味です。

どちらの名前も、イエス様に当てはめることができます。

預言者イザヤは、イエス様についてこう語りました。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)

でも、十字架の後、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20-21)

「悲しみの子」であり、「神の右手の子」であるイエス様をほめたたえましょう。

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマス10日目

神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言った。

彼女は、その子をヨセフと名づけ、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」と言った。(創世記30:22-24)

ヘブライ語では、ヨセフは「取り去られた」を意味する言葉に聞こえますが、「加える」ことを意味します。

神様がラケルに息子を与え、彼女の汚名を取り去られたように、イエス様の十字架の働きによって、神様は罪による私たちの汚名を取り去ってくださいました。

さらに、イエス様のおかげで、神様は毎日、私たちに恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。

背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。

私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:13-14)


私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマス9日目

レアはまた身ごもって、ヤコブに六番目の男の子を産んだ。

レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶでしょう。彼に六人の子を産んだのですから。」

そしてその子をゼブルンと名づけた。(創世記30:19-20)

ヘブライ語では、ゼブルンは「尊ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

私たちは何をしても、望んでいる人から名誉を受けることはないかもしれません。レアがヤコブに6人の子を産んだにもかかわらず、聖書にはヤコブがラケルを尊んだように、レアを尊んだという示唆は見られません。

しかし、神様はイエス様を信じる私たちに、栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。それは私たちの行いによるのではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことによるのです。

「あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」。。。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(へブル2:7-10)


ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマス8日目

神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。

そこでレアは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。(創世記30:17-18)

ヘブライ語では、「イッサカル」は「報酬」を意味する言葉に聞こえます。

レアが女奴隷をヤコブに与えたことによって、神様が本当にレアに報酬を与えられたのかは、疑わしいところです。

しかし、それは罪の問題です。罪は、私たちに良いものを与えていると主張し、私たちを欺こうとします。罪は、「神様があなたに報酬を与えてくださっている」とさえ主張することがあります。

それよりも、イエス様にある神の無償の賜物を受け取る方が、はるかに良いのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの7日目

レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。

レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。(創世記30:12-13)

アシェルとは、「幸せ」という意味です。

レアは心の穴を埋めるために、女奴隷であるジルパをヤコブに差し出し、ヤコブはジルパと関係を持ちました。そうすることで、レアは幸せを感じました。しかし、その幸せはすぐに消えてしまいました。

創世記30章20節では、レアはなおもヤコブの愛によって心の穴を埋めようとしています。

けれども、何百年も後、アシェルの子孫であるアンナは、本当の幸せがどこから来るのかを知りました。

ルカの福音書2章36〜38節には、アンナの物語が記されています。アンナは若い頃に結婚しましたが、7年後に夫を亡くしました。その後の人生、彼女は昼も夜も神を慕い求め続けました。

そしてある日、アンナはイエス様を見て、その心の穴が埋められました。

ちょうどそのとき(アンナ)も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの購いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子ことを語った。(ルカ2:38)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの6日目

レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。

レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。

レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。(創世記30:9-11)

ガドとは、「幸運」という意味です。

子どもはもちろん、神様からの祝福です。

しかし、レアはその「幸運」のために代償を払わなくてはなりませんでした。彼女がヤコブにもう一人の女性を提供したことで、ヤコブは4人の妻と関係を持つことになりました。

それは本当に幸せなことでしょうか。それは本当に幸運と言えるでしょうか。

私たちがそのような「幸運」を求めることがありませんように。むしろ、キリストにある祝福を求めましょう。

その祝福の中で、最も嬉しいことをご存じでしょうか。

それは、イエス様が十字架でその祝福の代価を支払ってくださったということです。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの5日目

ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。

そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。(創世記30:7-8)

ヘブライ語では、「ナフタリ」は「私の戦い」を意味する言葉に聞こえます。

心の穴を埋めることができないもののために、私たちはどれほど多く、相手と戦ってしまうことでしょう。ラケルの場合、彼女はヤコブの愛を求めてレアと争いました。

しかし、最終的に、私たちが戦い終えたあとでも、心の穴は残ります。神様こそが、その穴を埋めることのできるお方です。

だから、賜物そのものではなく、賜物を与えてくださる方を慕い求めましょう。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:1-3)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの4日目

そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。

それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。(創世記30:6)

結婚式の夜、ラケルはレアにヤコブを奪われました。しかも、ヤコブはその後ラケルとも結婚し、レアよりもラケルを愛していました。 それでも、レアにはすでに4人の息子がいたのに対し、ラケルにはまだ子どもがいませんでした。

そこで、ラケルは自分の女奴隷をヤコブに差し出しました。ヤコブはビルハと関係を持ち、その子どもたちはラケルの子どもとして認められました。

ヘブライ語では、「ダン」は「裁く」や「正当化する」を意味する言葉に聞こえます。

神様が実際にレアとラケルの間で、どちらに有利な判断をくだされたのかは、本当に分かりません。

しかし、神様がイエス様を信じる私たちに有利な判断を下されたことは確かです。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの3日目

彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。

それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(創世記29:34)

「レビ」は、ヘブライ語で「結ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブの愛を切望し、彼と結ばれることを願っていました。

多くの人々もまた、そのような愛を切望します。

イエス様において、神様は愛を与えてくださり、私たちは神様と結ばれました。

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:12-13)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの2日目

彼女は再び身ごもって男の子を産み、「主は私が嫌われているのを聞いて、この子も私に授けてくださった」と言って、その子をシメオンと名づけた。(創世記29:33)

「シメオン」は、ヘブライ語で「聞く」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブに嫌われ、軽んじられていたため、深く傷つき、苦しんでいました。

しかし、神様はレアの叫びを聞いてくださいました。同じように、神様はご自分を愛する人々の叫びをも聞いてくださいます。

また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。

すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4)


主の目は、正しい人たちの上にあり、主の耳は、彼らの叫びに傾けられる。。。

苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:15,17-18)

カテゴリー
クリスマスの12日

クリスマスの1日目

メリークリスマス!

今日から、クリスマスの12日間のために、特別なデボーションを始めます。このデボーションは、私の最近の説教に基づいています。それをこちらで聞くことができます。

その説教では、私はヤコブの12人の息子たちの名前を取り上げました。ラケルとレアの苦悩の中で生まれた名前でしたが、クリスマスと私たちへの神のメッセージに照らして、その意味を再解釈しました。

今日は、ルベンの話を取り上げます。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。

レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名づけた。

彼女が、「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と言ったからである。(創世記29:31-32)

ルベンとは、「子を見よ」という意味です。

レアはヤコブに、「見てください。私はあなたに息子を生みました。私を愛してください」と言っていました。

しかし、神様は私たちを見て、こう言われます。「見よ、私の子を与えた。私はあなたを愛している。」

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4:9)