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コロサイ人への手紙

忠実

この箇所を一言でまとめるとすれば、それは「忠実さ」です。

テキコは「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、そして同労のしもべ」と呼ばれています。

オネシモはかつて不忠実なしもべでした(ピレモンへの手紙参照)が、今では「忠実な、愛する兄弟」となりました(コロサイ人への手紙4:9)。

アリスタルコは忠実な人だったので、主のためにパウロと共に牢に入っていました。

マルコはバルナバのいとこであり、かつてのオネシモのように不忠実な人でした。パウロとバルナバの宣教旅行に同行しましたが、その途中で彼は引き返してしまいました(使徒の働き13:13)。

けれども今、彼は忠実な人となり、ユストと共に、獄中のパウロを励ましています(コロサイ人への手紙4:10ー11)。

エパフラスは忠実にコロサイの人々のために祈りに励んでいました。さらに、彼は彼らのために多くの苦労を重ねていました(12ー13)。

残念ながら、デマスは最終的に不忠実な人となってしまいました。彼はこの世を愛して、パウロを見捨てたのです(第二テモテ4:10)。

そしてこの手紙を締めくくる前に、パウロはアルキポという人にひとこと訓戒を与えました。

主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。(コロサイ人への手紙4:17)

簡単に言えば、それは「忠実に生きなさい」ということです。

あなたはどうですか。あなたは忠実な人でしょうか。

もしあなたが、今の自分は忠実だと思うなら、どうかデマスの例を思い出してください。この世への愛ゆえに、忠実さを失ってしまってはなりません。

反対に、自分はまだ忠実とは言えないと思うなら、マルコやオネシモのことを思い出してください。彼らもかつては不忠実な者でしたが、神は彼らにもう一度チャンスを与えてくださいました。

同じように、神は今もあなたに、もう一つのチャンスを与えてくださるのです。

ですから、忠実に生きましょう。そうすれば、やがて裁きの日に、私たちは神に誉められるのです。

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コロサイ人への手紙

知恵を持って、歩む

外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。(コロサイ人への手紙4:5-6)

「知恵をもって行動しなさい。」――直訳すると、「知恵をもって、歩みなさい」という意味です。

「機会を十分に活かしなさい。」

私たちは、どれほど多くの福音の機会を逃してしまっているでしょうか。

なぜ、その機会を取り損ねるのでしょうか。それは多くの場合、そもそもその機会を探していないからです。私たちは、与えられるすべての機会を活かしているでしょうか。

私が娘と過ごしていたあるとき、ひとつのユニークな機会が与えられていました。

娘が6歳のとき、毎晩寝る前に、私と妻は娘に聖書の話を読んで聞かせ、一緒に祈りました。また、娘はずっと日曜学校にも通っていました。

それでも、私が福音を伝えるたびに、娘には信じたいという気持ちはあまり見られませんでした。

けれどもある日、娘が日曜学校の先生の話を振り返って語ってくれました。その話とは、「イエス様は人の心に住まわれる」というものでした。

それを聞いた娘は、とても嬉しそうでした。そこで私は娘に尋ねました。「イエス様を、あなたの心に住んでくださるようにお招きしたことがあるかな?」

それを聞いた娘は、少し静かになって、こう答えました。「いいえ。」

そこで私は、娘にこう伝えました。「人がイエス様を心に住んでいただくようにお招きしてこそ、イエス様はその人の心に住み始めてくださるんだよ。」

そして私はもう一度、娘に福音を説明しました。そのとき娘は、初めて、始めから終わりまで真剣にその話を聞いてくれました。そしてそのあと、娘は祈り、イエス様を受け入れました。

私はずっと娘のために祈ってきたので、その機会が与えられたとき、備えることができました。

けれども私は、どれほど多くの機会を、準備ができていないために逃してきたでしょうか。

私は、外の人々に対して知恵をもって歩まないことで、どれほど機会を逃しているでしょうか。私の言葉が親切ではなく、むしろ不平や批判に満ちていることで、どれほど機会を取り損ねているでしょうか。

私のことばが塩気のあるものでないことで、どれほど福音の機会を失っているでしょうか。私のことばが塩のように人の心にしみこむことがあるとしても、その言葉はいつも神の愛に満ちていなければならないのです。

私は、その与えられた機会を逃したくありません。

あなたはどうですか。私たちの人生はとても短いものです。あなたは、与えられた機会を活かしているでしょうか。

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最前線に立っている人のために祈るとき

私たちは霊的な戦線の最前線にいるわけではないかもしれません。それでも、私たちの祈りがどれほど大切であるか、私たちは本当に理解しているでしょうか。

牧師や宣教師をはじめ、多くの人々が霊的戦いの最前線に立っています。にもかかわらず、私たちはしばしば、あたかも彼らには私たちの祈りが必要ないかのように振る舞ってしまいます。なぜなら、彼らが霊的に強い人々だと思い込んでいるからです。

しかし実際には、こうした人々こそ、特に私たちの祈りを必要としているのです。パウロはその必要性をよく理解していました。だから、彼はコロサイの人々にこう語ったのです。

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

「たゆむことなく祈りなさい」とは、しつこく、神様の手を放さず、しがみつくように祈ることです。

つまり、ただ軽く祈ってから自分のことに集中するのではなく、心を込めて神様への祈りに専念するべきなのです。

さらに、パウロは「目を覚ましなさい」と言います。神様があなたの周りで何をなさっているのかに注意を向け、どのように祈るべきかを神様に尋ねるべきです。

また、感謝の心を常に持つことを忘れてはなりません。

祈りを「お願いリスト」にしてはなりません。むしろ、神様がどのようにあなたを祝福してくださったかを思い起こし、感謝しましょう。

そしてこのあと、パウロは、私たちがどのように最前線に立つ人々のために祈るべきかを教えてくれます。

同時に、私たちのためにも祈ってください。

神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。

また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。(3-4)

「福音を語ることは、そんなに難しいことでしょうか?そのメッセージはとてもシンプルなのに。」──そう思う方もいるかもしれません。

確かに、福音のメッセージはシンプルで、変わることのない真理です。しかし、サタンは不信者の心と思いを暗くし、真理を受け取れないようにしています。そのため、福音を担う人々には、みことばをどのように語るべきかという知恵が必要なのです。

ですから、あなたが知っている牧師や宣教師たちのことを思い出すとき、どうかそのように祈ってください。彼らには、あなたの支えが必要なのです。

それに加えて、ぜひこう伝えてください。「私は、あなたのために祈っています。」

その言葉を聞くだけで、彼らは大きな励ましを受けるでしょう。自分が一人で戦っているのではなく、あなたに支えられていることを知るからです。

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キリストの代表者として生きる

私は、ある英語の聖書翻訳者がコロサイ3:17をどのように訳しているかを、とても気に入っています。

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの代表者として行いなさい。(コロサイ人への手紙3:17、NLTの翻訳)

「誰かの名前において行う」とは、「その人の代表者として行う」という意味です。その翻訳を読んだとき、私はこの言葉の重みを改めて認識しました。そして、続くパウロの教えも、あらためて深く心に留まりました。

妻たちよ。夫に対して、イエス様の代表者として、夫を敬い、従いなさい(3:18)。

夫たちよ。妻に対して、イエス様の代表者として、妻を愛しなさい。決して辛く当たってはいけません(3:19)。

子どもたちよ。両親に対して、イエス様の代表者として、従いなさい(3:20)。

父たちよ。子どもに対して、イエス様の代表者として、子どもを苛立たせてはいけません。それは、子どもたちが意欲を失わないためです(3:21)。

奴隷たちよ。イエス様の代表者として、あらゆることについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌を取るようなうわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から仕えなさい(3:22〜25)。 (もちろん、日本には奴隷制度はありませんが、従業員たちはそのように仕えるべきでしょう。)

主人たちよ(現代で言えば、上司たちよ)。イエス様の代表者として、奴隷(現代で言えば、従業員)に対して、正義と公平を示しなさい(4:1)。

要するに、私たちはどのような人間関係においても、誰を代表しているのかを常に覚えていなければなりません。私たちはイエス様の代表者なのです。私たちの夫、妻、子ども、両親、従業員、上司に対して――私たちはイエス様の代表者として接しているのです。

夫を敬わないなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

妻に辛く当たるなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

両親に従わないなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

子どもたちを苛立たせるなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

いい加減に働くなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

従業員たちに対して正義と公平を示すなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

友人、隣人、同僚、そして教会の兄弟姉妹に対して、あなたはどのような代表者でしょうか。

周りの人々は、あなたのうちにイエス様を見ることができるでしょうか。それとも、ただあなた自身しか見ることができないのでしょうか。

あなたは、イエス様の代表者です。あなたは、良い代表者でしょうか。

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キリストこそ私たちの命

「イエス様は私の命です。」

クリスチャンとして、あなたはこの言葉を心から告白できるでしょうか。たとえ私たちがその真理を認めても、あるいは認めなくても――イエス様は実際に、私たちの命なのです。

パウロはこう語っています。

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ人への手紙3:3)

この世の人々にも、そして私たち自身にも、私たちがキリストにあって何を持っているのかは、今は完全には見えないかもしれません。けれども実際には、私たちはキリストから数えきれないほどの祝福を受けているのです。

私たちは罪から救われ、神様と和解させていただきました。今もなお、私たちは聖霊様の力によって、日々イエス様のかたちへと変えられつつあります。

そしていつの日か、イエス様が私たちのからだを贖い、完全に罪から解き放たれる時が来ます。その日、私たちは天の御国の相続を受け、栄光の冠を戴くのです。

とはいえ、今はそのすべてが隠されています。私たちは今、その栄光をわずかに垣間見るにすぎません。しかし、イエス様が再びこの世に現れられる時、私たちに与えられているすべては明らかになります。

パウロはこの真理を、次のように表現しました

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(4)

それなら、なぜ私たちの多くは、イエス様とそのうちにある宝に目を留めずに、この一時的な世界のものをひたすら追い求めてしまうのでしょうか。

パウロは、そんな私たちに対して、力強く訓戒します

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(1-2)

「上にあるものを求めなさい。」

言い換えるなら、永遠に価値あるものに目を向けなさい、ということです。では、永遠に価値あるものとは何でしょうか。

それは、神様との関係です。そして、御国に属する民との関係もまた、永遠に続くものです。だからこそ、その関係を妨げるものを取り除かなければなりません。では、その妨げとなるものとは何でしょうか。

パウロは、このことについて私たちに教えています。

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。

貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。

あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。(5-7)

こうしたものは、私たちの関係を妨げます。これらの罪を抱くとき、私たちは神様よりも自分自身を大切にしてしまいます。神様の御心を求めず、自分の欲望を求めてしまいます。

お金や性、またはその他のものを、私たちは偶像にしてしまいます。そして私たちは、神様を退けて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という命令に背いてしまうのです。

また、私たちは兄弟たちや姉妹たちとの関係を妨げるものも捨てなくてはなりません。だからパウロはこう言います。

しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。(8-9)

なぜでしょうか。それは、キリストにあって私たちは一つだからです。私たちの間には、人種による隔たりも、性別による壁も存在しません。私たちは一つの家族です。

だからこそ、私たちは互いを家族として尊重し合い、愛をもって扱うべきなのです(8ー11)。

だからパウロはこう語ります

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(12-15)

そしてパウロはこう言います。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(16)

その「ことば」とは何でしょうか。それは、福音です。

私たちは、十字架で成し遂げられた御業と、自分が受けた恵みを思い巡らしているでしょうか。私たちの人生は、イエス様の愛と恵みに根ざしているでしょうか。イエス様の教えは、私たちの考え方や生き方を変えているでしょうか。

さらに、私たちはそのことを思い起こすとき、神様に対する感謝の思いが湧き上がり、兄弟姉妹たちとその祝福を互いに思い出させ合っているでしょうか(3:16)。

そして最後に、私たちが何をするにも、すべてを主イエスの御名において行っているでしょうか(17)。

私たちは、イエス様の代表者としてふるまっているでしょうか。

イエス様は、まさに私たちの命そのものです。けれども私たちは、本当にそのように生きているでしょうか。

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キリストにあって満たされる

「満ち満ちる。」

どうやら、それはコロサイの教会に入り込んできた偽教師たちの合言葉だったようです。そこでパウロは、この手紙の中であえてその言葉を取り上げ、偽教師たちにこう言い放ったのです。

「あなたがたは“満ち満ちる”ということの本当の意味を知らないのではないか。」

そしてパウロは、コロサイの人々にこう語ります。

「あなたがたはキリストにあって成熟した者とされるのです。これこそが、私の務めの目的なのです。」

パウロはさらに続けて言います

私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ人への手紙2:2〜3)

つまり、「知恵と知識の宝はこの偽教師たちからではなく、キリストこそから来る。だから、彼らのもっともらしい議論に騙されないように」と、パウロは語ったのです(2:3〜4)。

そしてパウロは、コロサイの人々にこう語ります。 「知恵と知識の宝は、イエス様のうちに見出すことができるのだから、キリストに根ざし、キリストにあって建て上げられなさい。

あなたがたは、どのように救われたかを思い出しなさい。あなたがたの救いは、イエス様を信じる信仰によって始まりました。あなたがたはイエス様との関係に入れられたのです。

だから、これからの日々も、その信仰によって、イエス様と共に歩み続けなさい。そして毎日、イエス様を信じながら、イエス様があなたのためにしてくださったことを思い起こしつつ、喜びをもって感謝しなさい」(2:6〜7)。

さらにパウロは警告します。 「キリストからあなたがたを引き離そうとする哲学に注意しなさい。そのような哲学は空しく、人間の言い伝えや、この世のもろもろの霊に由来するものなのです」(2:8)。

「もろもろの霊」とは、おそらく悪霊のことです。つまり、その哲学の背後にある霊的な源は、悪霊なのです。

そして最後に、パウロはコロサイの人々に二つのことをはっきりと語ります。 「神様の満ち満ちたご性質を知りたいのですか。イエス様を見なさい。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(2:9)

パウロは続けてこう言います。

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(2:10)

つまり、こういうことです。「本当に満たされたいなら、この偽教師たちではなく、ただイエス様だけを求めなさい」(2:9〜10)。

なぜでしょうか。それは、キリストにあってのみ、私たちの罪深い心が取り扱われるからです。

人間の努力ではどうにもできません。ただキリストだけが、私たちの罪深い心に割礼を施すことができるのです。

言い換えると、イエス様だけが、私たちの罪を根本から取り除くことができるのです。

キリストの力によって、私たちは古い生き方に死に、イエス様にあって新しい人としてよみがえらされます。だから、もはや私たちは自分の力によって生きるのではなく、神様の力によって生きるのです(2:11〜12)。

私たちは以前、霊的に死んでいました。自分自身を救うことなど到底できませんでした。

けれども神様は、私たちにいのちを与えてくださり、すべての罪を赦してくださいました。

私たちは、自分の罪のゆえに神様に対して負債を負っていました。しかし神様は、その債務証書を取り除き、十字架に釘付けにされたのです。

そして、イエス様は十字架で死に、よみがえられました。その御業によって、キリストは私たちに敵対するサタンと悪霊たちを打ち破られたのです(2:13〜15)。

だから、パウロはこう語ります。 「イエス様の十字架の御業に、自分の努力を加えようとしてはなりません。あなたがたはイエス様にあって、すでに満たされているのです。

ユダヤ人たちの伝統的な修行に戻ってはなりません。イエス様こそが実体であり、彼らの霊的な儀式や犠牲は、すべてその影に過ぎません。

祭りも、儀式も、すべてはイエス様を指し示していたのです。イエス様はすでに来られたのですから、その影ではなく、イエス様ご自身に目を向けなさい」(2:16〜17)。

そしてパウロは続けて語ります。

「偽りの宗教的体験に巻き込まれてはなりません。天使たちや他の被造物を拝んではならないのです。そんなことをすれば、キリストから離れてしまいます。キリストにあってこそ、あなたは成熟し、完全とされるのです。」

キリストにあって、あなたはすでに古い宗教的な経験に対して死んだのです。だから、それらに戻ってはいけません。

見た目には良さそうな宗教的ルールであっても、あなたの罪深い心を本質的に変えることはできないのです(2:20〜22)。

要するに――イエス様こそがすべてです。 満たされた人生を望むなら、イエス様を求めなさい。

でも、あなたは今、どうしているでしょうか。 あなたの根はどこに根ざしているのですか。イエス様ですか? それとも、他のものですか? あなたの人生の中心に、誰がいますか?

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イエス様ただお一人

ある偽教師たちとその教えが、コロサイの教会に入り込んできたようです。

彼らが具体的に何を教えていたのかは、私たちには完全には分かりません。しかし、はっきりしているのは、彼らが「イエス様だけでは不十分である」と教えていたことです。

要するに、「神様のもとに近づくためには、さまざまな天使の助けが必要であり、その天使たちをも礼拝すべきだ」と語っていたのです。

さらに彼らによれば、コロサイの信徒たちはまだいくつもの奥義を学ぶ必要があり、それを教えることができるのは偽教師たちだけだという主張でした。

つまり、「神様に義と認められるためには、さまざまな儀式を行い、修業に励まなければならない」と教えていたのです。

だから、この箇所でパウロが強調しているのは、「私たちに必要なのは、ただイエス様だけである」ということです。

では、なぜ私たちには、イエス様だけが必要なのでしょうか。

なぜなら、イエス様は、すべての創造物にまさって偉大なお方だからです(コロサイ人への手紙1:15)。

パウロが「イエス様はすべての造られたものより先に生まれた方」と語ったのは、イエス様が創造物の上におられる方だという意味です。

エホバの証人は、神様がすべての創造物に先立ってイエス様を創造したと教えます。しかし、それはパウロが意図したことではありません。パウロの意味するところは、イエス様の立場が創造物よりもはるかに高く、すべてを支配するお方であるということです。

では、なぜイエス様はそのような高い立場を持っておられるのでしょうか。

それは、イエス様がすべてのものの創造主だからです。万物はイエス様にあって造られ、イエス様のために造られたのです。天使たちも、あらゆる霊的な力も、そして私たち人間も、すべてイエス様によって造られました(16)。

さらに、イエス様はすべてのものに先立って存在し、イエス様にあって万物は保たれ、秩序づけられています。もしイエス様がほんの一瞬でもこの世界から御手を離されたら、この世界は崩れ去ってしまうでしょう(17)。

また、神様はイエス様を教会のかしらとしてお立てになりました。天使や人間ではなく、イエス様ただお一人を、教会のかしらとして任命されたのです。

そして、イエス様は十字架で死に、よみがえられたことによって、私たちにとって模範となられました(18)。

それだけではなく、神様はご自身の満ち満ちたものをすべて、イエス様のうちに宿らせてくださいました。だから、イエス様は見えない神のかたちなのです。

ですから、もし神様を知りたいと願うなら、イエス様を見ればいいのです(15、19)。

そして、イエス様の十字架の死によって、私たちは神様と和解させていただきました。私たちには、もはや他の仲介者は必要ありません。

イエス様を通して、神様は私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として、ご自身の御前に立たせてくださいました(20〜22)。

偽教師たちは神様の奥義について語っていましたが、イエス様にあって、最も大切な奥義はすでに現されたのです。

その奥義は、世々にわたり多くの世代に隠されていましたが、今や私たちに明らかにされました。

その奥義とは何でしょうか。それは、イエス様を信じる信仰によって、イエス様ご自身が私たちのうちに住んでおられるということです。

ユダヤ人であれ、アメリカ人であれ、日本人であれ、イエス様が私たちのうちにおられるので、私たちはイエス様にあって一つのからだ、一つの教会とされたのです。そして、私たちはこの世において、神様の栄光を映し出す者とされました。

では、なぜ私たちは「ほかのものが必要だ」と思ってしまうのでしょうか。

本当は、私たちには他の何も要りません。だからこそ、パウロはこう言うのです。 「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています」――イエス様にあって、私たちは成熟した者とされるのです(28)。

それなのに、どれほど私たちは「イエス様以上の何かが必要だ」と思って生きていることでしょうか。私たちは他の宗教を追い求めたり、特別な霊的経験を渇望したり、あるいはこの世のものをひたすら追いかけたりします。

けれども、そうしたものは私たちを本当に満たすことはできません。イエス様だけが、私たちの心を満たすことができるのです。

あなたはどうですか。自分の人生を満たすために、何を求めているでしょうか。

イエス様だけが、あなたを満たすことができます。 あなたにとって必要なのは――イエス様ただお一人なのです。

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すべての信者のための祈り

クリスチャンの友人のために祈りたいと思っても、「○○さんを祝福してください」という祈りにとどまらず、もっと深く祈りたいと願うなら、パウロの祈りに目を向けてみると良いでしょう。

パウロの模範から、私たちは神様の御心に従って人々のためにどのように祈るべきかを学ぶことができます。

その一つの模範は、コロサイ人への手紙第1章に見られます。パウロはコロサイの人々に会ったことはありませんでしたが、エパフラスという人から、彼らの信仰について報告を受けていました。

彼らの信仰を聞いたとき、パウロは心から喜びました。そして彼は、コロサイの人々のために、非常に具体的な内容をもって祈りました。彼は何を願って祈ったのでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(コロサイ人への手紙1:9)

クリスチャンとして、私たちは皆、そのような知恵と理解を必要としています。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいと願うなら、また、実を結ぶ者となりたいなら、私たちは神様の御心を知らなければなりません。

そして、神様がその知恵と理解をもって私たちを満たしてくださるにつれて、私たちは神様のことをより深く知るようになります。神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを知るようになるのです。

私たちは、神様のことについて知るだけでなく、神様ご自身を知るようになります。特に、神様がその力をもって私たちを強めてくださるとき、私たちは神様をさらに深く知るようになるのです。

だからこそ、パウロはコロサイの人々のために、こう祈ったのです。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力でクリスチャン生活を送ることを望んでおられません。

多くのクリスチャンは、確かに試練に耐え、寛容を示してはいますが、そこに喜びが伴っていないのが現実です。なぜでしょうか。それは、彼らが神様の力ではなく、自分の力に頼っているからです。

パウロの祈りは、コロサイの人々が自分の力によって試練に耐えるようにというものではありませんでした。むしろ、神様の力に満たされ、喜びをもって忍耐し、歩むことができるようにと祈ったのです。

またパウロは、彼らが自分自身に焦点を当てるのではなく、神様に目を向けるようにと祈りました。パウロの祈りの根底には、コロサイの人々が自分の努力ではなく、神様の恵みによって多くの祝福を受けたことを思い起こすように、という願いがありました。

私たちが神様の相続にあずかることができるのは、神様が私たちにその資格を与えてくださったからです。

それだけではなく

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

もう一度、はっきりと言います。それらすべては、神様の働きです。

神様は、私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。そして、私たちを御子のご支配の中へと移してくださいました。私たち自身によってではなく、イエス様にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

ところが、多くのクリスチャンはこの真理を忘れてしまいます。そのため、自分の力や知恵によって生きようとして、やがて喜びを失ってしまうのです。

しかし、私たちが神様の知恵と知識、そして力に満たされ、自分の努力ではなくキリストの働きから祝福がもたらされていることを思い起こすとき、私たちは喜びを知るようになります。

ですから、クリスチャンの兄弟姉妹のために祈るとき、ただ「神様、この人を祝福してください」と祈るだけで終わらないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分自身のためにも、そのように祈りましょう。