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サムエル記第二

神様がはっきりと語られると

この後、ダビデは【主】に伺った。「ユダの町のどれか一つへ上って行くべきでしょうか。」

【主】は彼に「上って行け」と言われた。

ダビデは、「どこに上ればよいでしょうか」と聞いた。

主は「ヘブロンに」と言われた。(サムエル記第二2:1)

今朝、私が考えていたのは、「1節のように、神様がいつもはっきりと答えてくださればいいのに」ということでした。

けれども、次にこうも考えました。「もし神様がそのように語られたら、私はどうするのだろうか。」

神様がダビデをサウル王の後継者として立てられることを、イスラエルの民は皆知っていたようです。サウル自身も、ヨナタンも、アビガイルも、アブネルも、そしてイスラエルの長老たちも、それを知っていました。(サムエル記第一23:17;25:30;サムエル記第二3:18;5:2)

それでも、サウルが亡くなると、アブネルもイスラエルの民も、ダビデを王として受け入れるのがとても遅かったのです。

私は、神様がすでにはっきりと語られたことを拒み、歩まない者になりたくありません。もし私がそのようにするなら、神様が他のことについて語ってくださることはないでしょう。

天のお父様、あなたがすでにはっきりと語られたことに、私が素直に従う者としてください。 それは、他のことについても、私があなたのみ声を聞くことができるためです。

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サムエル記第二 歴代誌第一

罪の結果

この箇所は少し難解です。

第二サムエル記24章と歴代誌第一21章を比較すると、違いが見られます。

歴代誌第一21章には、こう書かれています:

サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(歴代誌第一21:1)

けれども、第二サムエル記24章によると、

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。

主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(サムエル記第二24:1)

どのようにしてその二つの箇所を説明できるでしょうか。確かに矛盾しているように見えます。私自身も完全には理解していません。

とはいえ、列王記第一22章19-22を読むことで、何らかのヒントが得られるかもしれません。

その箇所には、イスラエルの歴史の中で最も悪い王の一人が登場します。その王はアハブという人物でした。

そして、神様の御心はアハブが死ぬことでした。そのため、神様はこう問いかけられました。

だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないのか。(列王記第一22:20)

そして、ある霊(たぶん悪霊)はこう答えました。

私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。(列王記第一22:22)

だから、神様はその霊に許可を与えたため、結果的にアハブは死にました。

もしかすると、このダビデの話でも、同じようなことが起こったのかもしれません。

イスラエル人が罪を犯したために、神様は彼らを罰したいと望まれました。そのため、神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えました。

そして、ダビデは自分のプライドに負けて、イスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。

この罪、そしてほかのイスラエル人たちの罪を通して、神様は彼らを罰されました。

これは本当に理解が難しい箇所です。

一見すると、神様が不公平であるように感じられます。なぜなら、神様がダビデに罪を犯させたかのように見えるからです。

けれども、その考え方は誤りです。

神様はダビデに罪を犯させたのではありません。神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えましたが、ダビデ自身が罪を犯すかどうかを選択する責任がありました。

そして、ダビデは罪を犯す道を選びました。

ヤコブはこう書きました。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。

神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15)

つまり、私たちは自分の心の中にある悪によって誘惑されます。

私たちが善良な存在だったのに神様が私たちに悪を植え付けたというわけではありません。

私たちの心には悪があり、それが誘惑によって引き出されるのです。

しかし、忘れてはならないのは、悪が現れるのは私たち自身の選択によるということです。

サタンがダビデを誘惑する前から、ダビデの心の中にはプライドが存在していました。サタンはただそのプライドを引き出したに過ぎません。

そのプライドは罪を生み、そして罪が熟すと死を生みました。罪の結果は死だからです。

悲しいことですが、死と破壊は罪の避けられない結果なのです。

神様にとって罪は本当に深刻なものです。神様は罪を必ず罰しなければなりません。

しかし、素晴らしい知らせがあります。それは、神様がその代価をすでに払ってくださったことです。

ダビデは、自分の罪のためにいけにえをささげる際、必要なもの(土地と牛)を所有者から購入しようとしました。

けれども、その所有者はこう言いました。「すべてを王に差し上げます。」

(おそらく、剣を持つ天使を見て恐怖を感じ、それを言ったのかもしれません。)(歴代誌第一21:20、27)

それに対して、ダビデはこう答えました。

いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(第二サムエル記24:24)

神様は同じようなことを語られました。「私は費用をかけずにいけにえを捧げない。代価が必要です。」

そのため、神様は人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために命を捧げてくださいました。その死によって、神様は罪の結果に対する代価を永遠に払ってくださいました。

そして、死の剣がさやに納められ、神様はすべての人に永遠の命を提供してくださいます。

ローマ6:23には、このように書かれています。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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サムエル記第二

いいリーダーの特徴

これは、ダビデの「最後の言葉」です。(実際には、ダビデの言葉はさらに多くあります。)

それにしても、ダビデの言葉は非常に興味深いものです。

おそらく、ダビデが王になった時に、神様がこの言葉をダビデにお与えになったのではないでしょうか。

すべてのリーダーがこの言葉を思い起こし、それに従って生きたならば、より良い結果を生み出したかもしれません。

義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、

太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。(サムエル記第二23:3-4)

どれほど、リーダーたちは義を持たずに人々を治めるでしょうか。そして、どれほど彼らは神様を恐れずに治めるのでしょうか。

多くのリーダーたちは、自分の利益を追い求めます。そのため、ほとんどの国において、政治家は悪い評判を得ています。

私たちはどれほどリーダーについて、次のように言うことができるでしょうか。

「太陽の昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。」

このように語れるリーダーがどれほどいるでしょうか。

そして、ダビデはこう言いました。

まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。

まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。(5)

実際、ダビデは家庭において失敗してしまったのです。

つまり、彼の家族は混乱状態に陥っていたのです。

これを書いた時点では、彼の家族の状況が少し良くなったかもしれません。

しかし、ダビデが亡くなる前には再び問題が生じました。具体的には、ダビデの息子たちであるアドニヤとソロモンが王位をめぐって争いました。

良いリーダーは、まず自分の家族をきちんと治める必要があります。それができなければ、その人が良いリーダーだと言えるでしょうか。

もし自分の家族を治めることができないのであれば、どうやって他の人々を治めることができるでしょうか。

だからこそ、私たちは自分の家庭内でどのようなリーダーであるかを深く考える必要があると思います。

神様は私たちの家族を見て喜んでくださるでしょうか。あなたの家族は互いに愛し合い、尊敬し合っているでしょうか。私たちの子供たちは私たちを尊敬してくれるでしょうか。

それとも、家庭内が全体的に混乱している状態でしょうか。

そして、家庭の外では、あなたはどのようなリーダーしょうか。

あなたは人々を大切にし、世話をしているでしょうか。そして、神様はあなたのリードする方法を見て喜んでくださるでしょうか。

あなたは人々を育て、彼らに喜びを与えているでしょうか。

それとも、あなたは彼らを傷つけているでしょうか。または、あなたの行動によって彼らが苦々しい思いを抱えているでしょうか。

リーダーとして、あなたの特徴はどのようなものなのでしょうか。

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サムエル記第二

私たちの祈りを聞き、助けと力を与えてくださる神

「神様はどこでしょうか。」

時々、試練の中で、私たちはこのように問いかけます。

「神様は私を見ていてくださるでしょうか。私の声を聞いてくださるでしょうか。」

ダビデもそのように感じることがあったのではないでしょうか。

けれども、自分の人生を振り返った時、ダビデはこの詩篇を書きました。

その時、ダビデは神様が自分をどれほど守り、祝福してくださったかを悟りました。そして、彼はこう書きました。

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。(第二サムエル記22:5-6)

ダビデは、サウルやアブシャロムのことについて考えていたかもしれません。

また、ある戦いの記憶が頭をよぎっていたのかもしれません。その戦いの日、イシュビ・ベノブというペリシテ人が、疲れ果てたダビデに向かって「今、あなたを殺す」と宣言しました。

ダビデは、命の危険を感じて本当に恐れていたに違いありません。けれども、アビシャイがダビデを助け、そのペリシテ人を打ち倒しました。

それが、ダビデにとって最後の戦いとなりました(第二サムエル記21:16–17)。

そのことを思い起こしながら、ダビデは歌いました。

私は苦しみの中にを呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。。。

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。(第二サムエル記22:7,17-20)

この言葉を見るたびに、神様が私たちを罪からどのように救ってくださったかを思い起こします。

私たちの罪によって、私たちは死に値していました。しかし、私たちが神様に向かって叫んだ時、神様は私たちの声を聞き、大水から引き上げてくださいました。

自分自身では救われることができない時、神様は私たちを救い、広いところへ導き出してくださいました。

さらに、私たちが神様の助けが必要だと気付く前に、神様は人間としてこの世界に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、ダビデのように私たちもこう言うことができます。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、

わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。(第二サムエル記22:2-3)

神様は私たちを救うだけではなく、私たちが戦う時には力を与えてくださいます。ダビデはこう書きました。

この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。

彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。(第二サムエル記22:33-34)

神様は私たちを救われた後、「では、自分自身の力で生きなさい」とは決して言われません。

むしろ、私たちがこの人生を歩んでいる間、神様は常に私たちと共に歩み、助けてくださいます。

鍵となるのは、私たちが神様に目を留め、謙遜に従うことです。

そして、ダビデはこう言いました。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。(第二サムエル記22:26-28)

ペテロもこう書きました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ5:6-7)

あなたは悲しんでおり、神様が本当におられるのか、また神様があなたを愛してくださっているのか問いかけているかもしれません。

そのような時は、ダビデの歌を思い出してください。そして、その歌を心の中で歌い続けましょう。

ダビデを助けてくださった神様は、きっとあなたも助けてくださいます。

だからこそ、謙遜な心で神様に従い続けましょう。

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サムエル記第二

情熱はあるけど、間違っている

情熱があることは良いことです。特に、神様とその民のために何かをする時に情熱を持つことは、本当に素晴らしいことです。

私たちが神様への愛に動かされて何かをする時、神様はそれを大いに喜んでくださいます。ただし…

ただし?

その通りです。例外があります。つまり、神様は私たちの情熱そのものには関心をお持ちではありません。

神様は、私たちが正しいことを行うことを望んでおられます。そして、もし情熱が原因で私たちが悪いことをするならば、それは神様を喜ばせるものではありません。

これが、この話のポイントです。2節にこう書かれています。

ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。(サムエル記第二21:2)

ヨシュアの時代に、ギブオン人たちはイスラエル人を欺き、平和条約を結びました。(ヨシュア記9章)

騙されても、イスラエル人はその条約を守る必要がありました。

ところが、サウルはイスラエル(と神様?)への熱心さのあまり、ギブオン人を殺そうとしました。1節によると、サウルの家族も多くのギブオン人を殺害したようです。

そのため、イスラエルには三年間の飢饉が起こりました。しかし、ダビデがサウルとその家族の罪を解決した後、その飢饉は終わりました。

同様の問題は、クリスチャンの歴史の中にも見られます。例えば、十字軍やスペイン異端審問所は、クリスチャンの汚名として記憶されています。

多くの人々は神様への熱心さを持っていましたが、その結果、酷いことをしてしまったのです。

今でも、そのような問題を見ることができます。それは暴力的な行動に限りません。

多くのカルトの信者は神様への熱心さを持っています。例えば、モルモン教やエホバの証人です。彼らは宣教旅行に出かけ、多くの人々と神様について話します。

とはいえ、彼らの教えは誤っています。そのため、神様は彼らの活動を喜んでおられません。

毎年、多くの人々が「イエス様は今年戻られる」と信じ、自分の持ち物を売り、仕事を辞めて主を待ち望むことがあります。

彼らもまた、熱心さはありますが、誤った方向に向かっています。

では、問題は何でしょうか。パウロがその答えを示しています。

 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ書10:2)

この箇所で、パウロはイスラエル人について語っています。彼らは律法によって神様の前に義と認められるよう努力していました。

彼らも熱心さを持っていましたが、それは間違った方向に向かっていました。

しかし、パウロの言葉には一般的な真理が示されています。知識に基づかない熱心さでは、神様を喜ばせることはできません。むしろ、神様はそれを全く喜ばれません。

では、知識はどこから来るのでしょうか。それは神様の御言葉から来ます。

だからこそ、自分に問いかけるべき質問は次のとおりです。

「私はどれほど神様の御言葉を知っているでしょうか。神様の御心を知らずに、情熱だけがあるのではないでしょうか。」

このように問わなければならないのは、ある日あなたが神様の前に立つ時、本来なら神様に誉められるべきところで、神様から叱責を受ける可能性があるからなのです。

あなたの熱心さは知識に基づいたものでしょうか。

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サムエル記第二

破壊するプライド

プライド。

私たちのプライドがどれほど問題を引き起こし、関係を壊し、悪い行動を促すでしょうか。

プライドは新しい問題ではありません。聖書の初めにさかのぼっても、アダムとエバの話でその例を見ることができます。

彼らは自分のプライドによって、善悪の知識の木の実を食べました。

サタンが「あなたたちは神のようになる」と言ったことで、彼らはそれを信じて食べてしまったのです。

同じ問題はこの箇所でも見ることができます。

イスラエルの部族の中から10部族がダビデに願いました。「もう一度私たちの王になってください。」

けれども、ユダの人々は何かためらいがありました。それでも、ダビデが彼らに手を差し伸べたことで、彼らはダビデに従うことを決めました。そして、彼らはダビデと共にヨルダンを渡りました。

このことが他の部族の怒りを引き起こし、彼らは文句を言い始めました。

われわれは、王に十の分け前を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っているはずだ。

それなのに、なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言いだしたのは、われわれではないか。(サムエル記第二19:43)

それは、本当に些細なことでした。しかし、彼らはそのことを大きくしてしまいました。

ユダの人々の返事はその状況をさらに悪化させました。そのため、その状況はますます大変なものになりました。

なぜでしょうか。それは、プライドが原因でした。

どれほど、私たちの間でそのようなことが起こるのでしょうか。

どれほど、私たちは侮辱されたと感じた時に、喧嘩を始めるのでしょうか。そして、相手が謝罪せず、強い言葉で言い返すとどうなるでしょうか。

一方は侮辱されてプライドが傷つき、許すことができない。

もう一方は相手の感情を認めず、恵みを与えず、謝らないプライドを抱いている。

もしあなたか相手がそのプライドを手放さない場合、その関係は壊れてしまうでしょう。また、さらに悪い事態が起こる可能性もあります。

自分のプライドが傷ついたシェバという人は、ダビデに反抗を始めました。その結果、シェバは死にました。

ヨアブもまたプライドが傷つき、ダビデがアマサをヨアブの代わりにイスラエルの将軍に任命すると聞き、アマサを殺しました。その結果、ヨアブも最終的には命を落としました(列王記第一2:5ー6;28ー34)。

あなたが尋ねるべき質問は次のとおりです。

「私は自分のプライドを持っているでしょうか。それとも、私のプライドが私を支配しているでしょうか。」

自分のプライドを持っているとは、あなたの価値が神様から来ることを理解することです。つまり、神様があなたを造られ、あなたが神様の作品であることを認識することです。

そのため、他人と自分自身を比べる必要はありません。

そして、侮辱された時でも、それを無視することができます。なぜなら、あなたの価値はその人ではなく神様から与えられているからです。

あなたのプライドは神様のご意見によるものであり、人々の言葉に左右されることなく、ただ神様を喜ばせたいと願うからです。

一方、プライドがあなたを支配している場合とは、あなたのプライドがあなたの行動を支配し、自分や他人を傷つける状態を指します。

たとえば、他人と常に比較や競争をし、自分のプライドのために他人を踏み台にするような行動を取ります。

さらに、傷ついた際には相手を許さず、復讐しようとします。その結果、関係を壊してしまうことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分のプライドを持っているでしょうか。

それとも、プライドがあなたを支配しているのでしょうか。

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サムエル記第二

王が帰る時

ダビデはイエス様の先祖ですが、多くの点でダビデはイエス様の予表とされています。

ダビデは愛する人々に裏切られ、王位を奪われましたが、やがてその王位に返されました。

同じように、イエス様は私たちを愛してくださいましたが、私たちはイエス様に反抗し、サタンがこの世界の支配者となりました。

しかし、やがてイエス様はこの世界に戻り、その王位に返されるでしょう。

さらに、ダビデと同様に、キリストが帰られる時には三つのことが起こります。それは、あわれみ、裁き、そして報いです。

あわれみ:

シムイは罰に値していました。王を呪ったため、死に値するものでした。そのため、アビシャイはシムイを殺したかったのです。けれども、ダビデは彼にあわれみを与えました。

同じように、キリストが帰られる時、私たちも本来なら死に値するものです。

それでも、もしあなたがクリスチャンであるなら、すなわち、イエス様を信じ、キリストの十字架の働きを信じているならば、罰を受けることなく、あわれみを受けることができます。

とはいえ、私たちが受けるあわれみとシムイが受けたあわれみには、大きな違いがあります。

シムイのあわれみには代価がなく、その後、彼の行動によってダビデの息子ソロモンに裁かれ、命を落としました。

一方、私たちが受けたあわれみはイエス様の血によって払われました。そして、イエス様のいけにえのおかげで、私たちのあわれみは決して取り消されることはありません。

裁き:

イエス様が帰られる時、私たちは皆、自分の善行や悪行について裁きを受けます。クリスチャンも裁きに向き合います。

パウロはこのように記しました。

主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(第一コリント4:5)

クリスチャンであれば、罪のために地獄に行くことはありません。それでも、神様は私たちの人生を照らし、行いと動機の両方を評価して、私たちを誉めたり、叱ったりされます。

ダビデはメフィボシャテを裁きました。つまり、ダビデがアブシャロムから逃げていた時に、メフィボシャテはダビデを支えることなく、喜んでいたと言われています。

けれども、私の考えでは、多分メフィボシェテのしもべであるツィバの方に問題があったと思われます。

ツィバはダビデから報いを得るために、メフィボシェテについて悪口を言った可能性があるのです。

ダビデはどちらが嘘をついているかを見分けることができなかったため、メフィボシャテとツィバにサウルの土地を分け与えるよう命じました。

しかし、ダビデと異なり、神様には何も隠されていません。

神様は私たちの心と動機を完全にご存じであり、正しい裁きをされます。

報い:

ダビデとその民が逃げていた時、金持ちのバルジライは彼らを助けました。そのため、ダビデは帰還後にバルジライに報いを与えたいと思いました。

同様に、イエス様が帰られる時には、忠実なクリスチャンに報いを与えられるのです。

イエス様はこのように語られました。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。。。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。 (マタイ25:34-36,40)

キリストはいつの日か王位に戻られるのです。

その日に、イエス様はあなたに何を語られるでしょうか。

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サムエル記第二

苦手な人から良いことを取捨選択する

多分、ダビデはすでにヨアブにうんざりしていたのでしょう。

まず、ダビデがイスラエルを統一しようとしていた時に、ヨアブはアブネルを殺しました。

さらに、ダビデが「私の息子アブシャロムを殺してはならない」と命じたにもかかわらず、ヨアブはアブシャロムを殺しました。

ダビデがそのことを知っていたかどうかは聖書に記されていません。とはいえ、ダビデの兵士の言葉によれば、「王には、何も隠すことはできません。」(第二サムエル記18:13)

また、ダビデはアブシャロムの将軍を自分の将軍にしようとしていたのです。

そして、ヨアブの弟アビシャイがシムイを殺そうとした時、ダビデはこう言いました。

ツェルヤの子らよ(ツェルヤはアビシャイとヨアブの父だった)。あれは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。

あなたがたは、きょう、私に敵対しようとでもするのか。(第二サムエル記19:22)

確かに、ダビデはヨアブにうんざりしていたことでしょう。

ヨアブは自己中心的で残酷な人でした。それでも、この箇所では、ヨアブはダビデに重要な助言を与えました。

ダビデはアブシャロムのために泣きすぎており、自分の涙が民に与える影響を理解していませんでした。

民はダビデのために戦い、ある者はダビデのために命を落としました。けれども、ダビデがアブシャロムのために涙を流していることを聞くと、彼らは恥ずかしさを感じ、町にこっそり戻ったのです。

そのため、ヨアブはダビデにこう告げました。

あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。

あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとって取るに足りないことを明らかにされました。

今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったでしょう。

それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。

私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。

そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。(サムエル記第二19:6-7)

ダビデはその言葉を聞いた時、きっとその助言を拒否するのは簡単だったでしょう。また、ヨアブへの怒りによって耳を閉ざすことも簡単だったはずです。

その言葉はダビデにとって苦しく響きました。さらに、ヨアブがアブシャロムを殺していたため、ダビデの心は複雑であったことでしょう。

けれども、ダビデはヨアブからの助言でさえも取捨選択することができました。彼は民のもとへ行き、感謝を述べ、彼らを励ましたのです。

時には、私たちもそのような態度を取る必要があります。

あなたには苦手な人がいるかもしれません。

親族かもしれないし、同僚や上司、あるいは教会の人かもしれません。過去に、その人から傷つけられたことがあるかもしれません。

しかし、そのような人が私たちの最善のために有益なことを言う場合があります。

その時には、ダビデのように、自分にとって好ましくない人の言葉を選別し、受け入れる姿勢が求められます。

それには謙遜が必要です。そして、聞く耳を持つことが求められます。

神様の言葉は、時に予想外の場所から与えられることがあります。

自分の感情によって、その大切な言葉を聞き逃すことのないようにしましょう。

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サムエル記第二

人々が滅びるときに、神様はどう感じるでしょうか

悪い人々が亡くなる時、多くの人々は喜ぶことがあります。

例えば、麻原彰晃が死刑執行された際、多くの人々が喜びを感じたかもしれません。その感情を私は理解できます。

しかし、そのような人々が亡くなる時、神様はどのように感じるでしょうか。

神様の心にかなう存在であったダビデの姿を見ると、神様の感情を少し理解できるのではないかと思います。

ダビデの息子アブシャロムが亡くなった時、ダビデはどのように反応したのでしょうか。アブシャロムはダビデを憎み、ダビデの王位を奪おうとしました。

それでもなお、ダビデはその息子の死を聞いた時、泣きながらこう言いました。

わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブシャロム。わが子よ。わが子よ。(サムエル記第二18:33)

人々が滅びる時、神様も同じように感じられます。

たとえ私たちが神様を憎み、神様の王位を奪おうとしても、私たちが亡くなる時には、神様の心が苦しみ、涙を流されます。

だからこそ、約二千年前、神様はこの世界に来て、私たちの罪のために死んでくださいました。

私たちは死に値しましたが、神様が私たちの罰を受けてくださったのです。その生け贄によって、私たちは永遠の命を受けることができます。

パウロはこのように書きました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:7ー8)

もし、神様が良い人々のために死なれたのなら、それは私たちにとって理解しやすいでしょう。けれども、事実はこうです。私たちは皆、罪人であり、地獄に値します。

それでも、神様は私たちを愛してくださったので、私たちが地獄に行くのを避けるために、ご自身の命を捧げてくださいました。

悪い人々が亡くなる時、あなたはどう感じますか。また、あなたを傷つけた人が苦しんだ時、あなたはどう感じるでしょうか。

神様が私たちに与えてくださった恵みを覚え続けましょう。そして、その恵みを私たちを傷つける人々にも分かち与えましょう。

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復讐の感情に負ける危険

聖書で、アヒトフェルはあまり知られていない人物です。この話を読み返すまで、私もアヒトフェルのことをあまり覚えていませんでした。

いずれにせよ、以前言ったように、彼はダビデの議官であり、バテ・シェバのお祖父さんでした。つまり、ダビデはアヒトフェルの孫と姦淫を犯し、バテ・シェバの夫を殺しました。

もし、なぜアヒトフェルがダビデを裏切ったのか知りたいなら、それが彼の動機であった可能性が高いと思われます。

ダビデの行動は、アヒトフェルの家名を汚したのです。

そのため、アブシャロムがアヒトフェルを味方に勧誘した時、アヒトフェルは全くためらわなかったのではないかと思います。

アヒトフェルの最初の助言は何だったのでしょうか。

それはイスラエルの人々の前で、アブシャロムがダビデのそばめたちと関係を持つことでした。

おそらくアヒトフェルは、それがこの場合の正義だと考えたのかもしれません。

けれども、それだけではなく、アヒトフェルのアブシャロムに対する戦略の助言を見ると、彼の感情がより鮮明に見えてきます。

私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、

彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。

私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。(サムエル記第二17:1-3)

彼の言葉をよく見てください。

に一万二千人を選ばせてください。は今夜、ダビデの後を追って出発し、彼を襲います…は王を打ち殺します。」

アヒトフェルは復讐を求め、自分自身がその戦いを指揮し、ダビデを自らの手で殺すことを望んでいました。

しかし、それは実現しませんでした。

フシャイはアブシャロムに「私はあなたに仕えたい」と言いましたが、実際にはダビデの友人であり、ダビデのためにスパイとして活動していました。

フシャイはアブシャロムに別の助言を与え、アブシャロムはアヒトフェルの助言を捨てて、フシャイの助言に従いました。そしてフシャイは、その情報をダビデに送ったのです。

アヒトフェルはその状況を目にして、アブシャロムの計画が失敗することを悟り、自分の首をくくって命を絶ちました。

私たちは復讐の感情に負けると、どのような結果を招くでしょうか。

1.私たちは神様が与えてくださった恵みを忘れてしまいます。そして、神様が他者に恵みを与えることを恨むようになります。

アヒトフェルの怒りは理解できます。ダビデは確かにひどい罪を犯しました。

しかし、アヒトフェルが忘れていたのは、彼自身も神様の恵みを必要としていたということです。彼自身も罪を犯していたのです。

このことを理解できなかったために、彼はダビデを許すことができなかったのです。

2.私たちは愚かな選択をすることがあります。

アヒトフェルが実際にその戦いをリードするつもりだったのか、私は分かりません。彼は当時、60代から70代だった可能性が高いと思います。

彼がその戦いを指揮した場合、生き延びることができると本当に思ったでしょうか。けれども、彼は復讐を求めたため、そのリスクを取ろうとしたのです。

3.結局、復讐心は私たち自身を滅ぼします。

たとえ死に至らなくても、その感情は私たちから平和と喜びを奪います。

私たちはその痛みに焦点を当てるようになり、人生の良いことを見ることができなくなります。

そして、神様が私たちのために用意してくださっている良い計画を見ることもできなくなります。

あなたはどうですか。傷つけられたことがあるでしょうか。

その傷を手放しましょう。苦々しい思いを手放しましょう。復讐心を手放しましょう。

そうしなければ、最終的に滅びるのはあなた自身です。

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サムエル記第二

忍耐

英語では、「忍耐」というのは「Patience」と言います。

けれども、英語には他にもさまざまな表現があります。その一つが「Longsuffering」です。つまり、「長く苦しむこと」です。

ダビデは本当に長く苦しんでいました。

ダビデの息子はダビデの王位を奪い、ダビデの議官は彼を裏切り、さらにダビデの友人の息子も彼を裏切ろうとしていました。

そして、このサウル王の親戚はダビデを呪い始めました。

ダビデと同じ状況に置かれたら、多くの人々が罪に陥るのではないかと思います。

ダビデの甥アビシャイはこう言いました。

この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。

行って、あの首をはねさせてください。(サムエル記第二16:9)

しかし、愛している親しい人々からさまざまな傷を受けても、また知らない人から侮辱を受けても、ダビデは怒りによって行動することはありませんでした。

むしろ、ダビデはこう言いました。

見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。

ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。

たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。(11-12)

人々があなたを傷つけたとき、あなたはどう反応しますか。相手に仕返しをしようとするでしょうか。

それとも、その痛みを手放し、神様の手に委ねるでしょうか。

それは簡単なことではありません。

私は、そういうときにただ黙るべきだとは言いません。できる限り、その人と和解しようと努力することが大切です。

とはいえ、それが無理な場合もあります。

ダビデの場合、和解はできませんでした。なぜなら、和解には相手も和解を求める姿勢が必要だからです。

でも、パウロが言ったように、

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

和解できないのであれば、あなたの傷を神様に委ねましょう。そして、相手を許せるように祈り、また知恵を求めて祈りましょう。

つまり、相手に関してどうすれば良いかを神様に尋ねましょう。

そして、イエス様のようになりましょう。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:23)

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サムエル記第二

愛によって従う

この箇所では、裏切りと尽きることのない忠実さのテーマを見ることができます。

ダビデの息子アブシャロムや議官アヒトフェルからは、裏切りを見ることができます。

その一方、ダビデの友人であるイタイ、フシャイ、そして祭司たちからは、忠実さを見ることができるのです。

中でも、イタイは最も素晴らしい人物だと思います。

彼は外国人であり、亡命者でした。ダビデはイタイを受け入れて世話をしましたが、突然、ダビデ自身も亡命者となりました。

それにもかかわらず、イタイはダビデと共に行くことを望みました。

ダビデはイタイがエルサレムに残ることを説得しようとしてこう言いました。

どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。

戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。

あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。

あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。(サムエル記第二15:19-20)

でも、イタイはこう答えました。

主の前に誓います。王さまの前にも誓います。

王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。(21)

ダビデはイタイに親切を示したので、大変な状態になっても、イタイはダビデに従うことを決心していました。

イエス様も私たちにそのような愛と決心を望んでおられます。

弟子になりたい人に対してイエス様が語られた言葉は、ダビデがイタイに語った言葉に似ているのです。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ 8:20)

つまり、イエス様に従うことは時々難しいです。いつも楽なことばかりではありません。

だから、私たちが自分自身に問いかけるべきことは、次のことです。

「私はどれほどイエス様を愛しているでしょうか。イエス様はサタンの国から私たちを救い出し、私たちの罪を赦してくださいました。そして、今、私たちは神様の子供となりました。だから、大変な時が来ても、私はイエス様に従い続けるでしょうか。」

マタイはイエス様の弟子になりたい人の選択について記しませんでした。

彼らは弟子になったのでしょうか。

それとも、難しすぎると思い、イエス様のもとを去ってしまったのでしょうか。

あなたはどうでしょうか。何を選びますか。

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サムエル記第二

正義とあわれみ

ダビデは難しい問題に直面しました。息子アブシャロムを愛していました。

けれども、アブシャロムは兄アムノンを殺しました。なぜなら、アムノンは妹タマルに関係を強いたからです。

アムノンが悪かったことは明らかですが、アブシャロムも罪を犯したため、イスラエルから追放されました。

とはいえ、第二サムエル記13章39節にはこう書かれています。

ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。

アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。

どうやって正義とあわれみのバランスを取るべきでしょうか。残念ながら、ダビデはそのことをよく理解していませんでした。

ヨアブの助言によって、ダビデはアブシャロムの追放を終わらせました。それでも、アブシャロムがダビデに会うことを許しませんでした。

その結果、アブシャロムの怒りはさらに大きくなり、その心には恨みが渦巻いていきました。

アブシャロムはこう言いました。

なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでしたのに。(サムエル記第二14:32)

結局、ダビデはアブシャロムと和解することができました。しかし、悪いことに正義が無視されました。

神様もそのような問題に直面されました。私たちを愛しておられましたが、アブシャロムのように、私たちは自分の罪によって神様の臨在から追放されました。

どうやって神様の愛と聖なる性格のバランスが取られるのでしょうか。

どうやって正義とあわれみのバランスが取られるのでしょうか。

神様は私たちを愛しておられ、方法を見つけてくださいました。

ヨアブがダビデに遣わした女の人の言葉が私は大好きです。

私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。

しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。(サムエル記第二14:14、新改訳2017)

神様の計画は何でしたか。それはイエス・キリストの十字架です。

約2000年前に、イエス様はこの世に来て、私たちの罪のために十字架で死なれました。

つまり、イエス様は私たちの罰を受けてくださったのです。その働きによって、神様は私たちと和解してくださいました。

ペトロはこのように書きました。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(第一ペテロ3:18)

イエス様の死によって正義が行われました。そして、今、だれでもあわれみを受けることができます。

ヨハネはこのように書きました。

しかし、「イエス」を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

あなたはどうでしょうか。神様の赦しとあわれみを受け取ったでしょうか。

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サムエル記第二

父として失敗する

罪を犯すと、多くの場合、私たちが計画していない結果が起こります。

この箇所で、私たちはその真実を見ることができます。

ダビデはバテ・シェバと関係を持ち、姦淫を犯しました。そして、その主人を殺しました。

もし、その前にダビデが、自分の家族がどういう結末を迎えるのか知っていたら、まだその罪を犯したでしょうか。

英語では、諺があります。「この親にして、この子あり」。つまり、子供は親の例に従います。

ダビデの息子アムノンもそうしました。

お父さんのように、アムノンは女性を見て、自分の情欲を制することができませんでした。

だから、酷い罪を犯しました。つまり、異母姉妹タマルと関係を強いたのです。

ダビデはアムノンにとって悪い例でした。彼にどうやって自分の情欲を制するかを全然教えませんでした。

さらに、もう一つのことで失敗しました。ダビデはアムノンの罪について聞きましたが、全然何もしませんでした。

21節に書いてあるのは、ダビデが怒ったことです。けれども、それだけが書いてあります。ダビデは何もしませんでした。

結果は何だったでしょうか。タマルのお兄さんアブシャロムの心の中に、アムノンとダビデに対する怒りと恨みの種が蒔かれました。

そのため、アブシャロムはアムノンを殺し、最終的にはダビデの王位を取ろうとしました。

どうしてダビデは何もしなかったのでしょうか。私には分かりません。アムノンが長男だったからかもしれません。

しかし、もう一つの理由があったかもしれません。

ダビデはこう思ったかもしれません。「私も失敗した。バテ・シェバと関係を持ち、その主人を殺した。どうやってアムノンを罰することができるだろうか。」

とはいえ、アムノンを罰しなかったことで、ダビデは本当に失敗しました。

親として、私たちは神様から責任を委ねられています。つまり、子供を育てることです。

正直に言うと、私はその資格を持っていると感じません。私はよく、どうやって娘を育てるべきか悩んでいます。

それでも、良い例になる責任があるし、正しいことを教える責任があるし、時には彼女を躾ける責任もあります。

だからこそ、私は神様の助けを求めて祈ります。

あなたはどうですか。あなたはどのような親でしょうか。

あなたは子供にとって良い例でしょうか。彼らを躾けていますか。正しいことを教えていますか。

そうしないなら、私たちは子育てに失敗するだけでなく、神様から委ねられた責任を果たすこともできないのです。

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サムエル記第二

私たちが罪を犯す時

ダビデの罪が明るみに出ました。

預言者ナタンは、ダビデに面と向かって、素晴らしい知恵を持って、ダビデの罪について話しました。

その際、ナタンは羊の話を用いました。なぜなら、ダビデが若い時に羊飼いだったからです。

その話を聞いて、ダビデの心は本当に刺されました。

ナタンはこのように話しました。ある貧しい人は一匹の羊しか持っていませんでした。それゆえ、その羊が大好きでした。けれども、金持ちの人はその羊を奪い、焼いて、その羊肉を友達に与えました。

ダビデはそれを聞いて、本当に怒りました。ダビデはこう言いました。

主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。(サムエル記第二12:5)

ナタンは答えました。

あなたがその男です。(7)

それを聞いたダビデは、自分の罪が明るみに出たことを悟りました。

ナタンの言葉は、ダビデの心を深く刺しました。

あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。(9)

つまり、ダビデは自分の手でウリヤを殺したわけではありませんでした。それでも、ダビデの計画によってウリヤが殺されたため、その責任はダビデにありました。

ナタンは続けてこう言いました。

どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前で悪を行ったのか。。。

あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。(9-10)

私たちは罪を犯したとき、そのことについてどの程度深く考えるでしょうか。つまり、私たちが悪いことをするということは、神様とその言葉をさげすむ行為なのです。

「私はあなたの言葉を気にしません。あなたは私に愛とあわれみを与えてくださいますが、私はそれを気にしません。あなたを傷つけても気にしません。自分がしたいことをします。」

意図的に罪を犯すとき、私たちはそのような態度を取っているのです。

さらに、私たちが罪を犯すと、周囲の人々が神様をさげすむきっかけを与えてしまいます。

ナタンはダビデにこう言いました。

あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた。(14)

どれほど私たちの行動が原因で、人々がこう言っているでしょうか。

「この人はクリスチャンですか。神様はそのような方でしょうか。そうだとしたら、私はクリスチャンになりたくありません。」

さらに、私たちの罪は常に悪い結果をもたらします。

たとえダビデが悔い改め、祈ったとしても、彼とバテ・シェバの赤ちゃんは亡くなりました。

神様はダビデを赦してくださいました。そしてナタンはこう言いました。

主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(13)

ダビデの罪の永遠の結果は取り去られました。

しかし、この世での結果は依然として残り、それはダビデとその家族に長い間影響を与え続けました。

パウロはこのように書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7-8)

罪は本当に深刻な問題です。

私たちの罪が大したものではないと考え、自分自身を欺かないようにしてください。

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サムエル記第二

あなたの罪を隠すことができない

私はミステリーの本が大好きです。特に、アガサ・クリスティの本が大好きです。コロンボの番組も好きです。

アガサ・クリスティが好きな理由は、私が殺人者を見つけたいからです。

コロンボが好きな理由は、コロンボがどのようにして殺人者を見つけるかを見たいからです。

とにかく、神様はイスラエル人にこのように言われました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

ダビデはそう学びました。

彼は、自分の罪が完全犯罪だと思っていました。つまり、誰も自分の罪を知らないと考えていたのです。ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、彼女が妊娠すると、その夫であるウリヤを殺しました。

けれども、第二サムエル記11:27には次のように書かれています。

しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。

つまり、神様はダビデの行動を完全に知っておられました。ダビデがその罪を隠そうとしても、神様はすべてをご存じでした。

さらに、もしダビデが「誰も知らない」と思っていたなら、それは自分自身を欺いていたことになります。

ヨアブはきっと知っていたでしょう。そして、ヨアブがそのことを他の人々に話した可能性もあります。

ウリヤの死についてのメッセージを運んだ人々も、きっと何かを感じ取っていたでしょう。

「なぜウリヤの死がそれほど重要なのか」と疑問に思ったかもしれません。

けれども、バテ・シェバの妊娠とダビデがすぐに彼女と結婚したことを見れば、そのメッセージを運んだ人々は、その理由を理解した可能性があります。そして、おそらくその噂を広めたのでしょう。

ダビデの軍隊はどうでしょうか。その馬鹿げた作戦に疑問を抱いた者がいたかもしれません。

ウリヤはダビデの30人の勇士の一人でした。誰かが、「この作戦は馬鹿げています。なぜこのようなことをするのですか。これでは誰かが命を落としてしまいます」と考えた可能性があります。

多分、ヨアブはただ「黙れ。私の命令に従いなさい」としか言えなかったのでしょう。

ダビデが妊娠しているバテ・シェバと結婚した時、どのような噂が広まったのか考えてみてください。

そして、ダビデの議官アヒトフェルについても考えてみましょう。彼はバテ・シェバの祖父でした。また、彼の息子もダビデの30人の勇士の一人でした。

その息子は、ウリヤが戦死した時の状況について、いったい何を話したのでしょうか。

そして、ダビデが彼の孫であるバテ・シェバと結婚した時に、どのような疑惑が生じたのでしょうか。

私には分かりません。けれども、そのような背景があったために、アブサロムがダビデの王位を奪おうとした時、アヒトフェルはダビデに背を向け、アブサロムを助けたのでしょうか。

アヒトフェルがアブサロムに与えた助言は、本当に皮肉に満ちていたと思います。

それは、次のようなものでした。

父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。

全イスラエルが、あなたの父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。(第二サムエル記16:21)

アヒトフェルは、「ダビデはウリヤとバテ・シェバに酷いことをしたから、彼はこの恥に値する」と考えていたのでしょうか。

私のポイントは、私たちは自分の罪を隠すことができないということです。人々はその罪を知っているかもしれません。

私たちは、彼らを騙していると思うかもしれませんが、私たちが思う以上に彼らは知っている可能性があります。

たとえ他の人々を騙すことができても、神様を騙すことはできません。そして、ダビデを懲らしめられたように、神様は私たちを懲らしめてくださいます。

あなたはどうでしょうか。罪を隠していることはありませんか。周りの人々を騙していると思っていませんか。

他の人々を騙すことができても、神様を騙すことはできません。

だから、自分自身を騙さないでください。

罪を犯したなら、すぐに悔い改めましょう。

隠さないでください。その罪を告白しましょう。

いつか、その真実は明るみに出ます。

それがこの世界で明らかになるかもしれませんし、裁きの日に明らかになるかもしれません。

それゆえ、今すぐその罪を告白し、悔い改めるほうが良いでしょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが心を頑なにすると

今日は、ダビデの最も低い状態について考えます。

アメリカでは、ノン・クリスチャンがダビデを思い浮かべるとき、二つの出来事を連想します。ゴリアテとの戦い、そしてバテ・シェバとの不倫です。

一つはダビデの最大の勝利であり、もう一つはダビデの最大の失敗です。

いったいどうして、神様の心にかなうと言われたこの人物が、そんな最悪の事態に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼が自分の心を頑なにしてしまったからです。

以前言ったように、この罪の種は、その前に蒔かれていました。

神様がイスラエルの王たちに与えられた命令は、「多くの女性を妻にしてはならない」というものでした。

けれども、ダビデはその戒めを無視して、複数の女性を妻にしたのです。

その態度が原因となり、この箇所の問題が生じました。

少し想像してみてください。もしダビデが若い時から神様の戒めに従っていたらどうなっていたでしょうか。

罪を犯すこと自体はあり得たかもしれません。しかし、若い時に誘惑と戦い続けていたなら、つまりずっと情欲と戦っていたなら、バテ・シェバを見た時に誘惑から逃れられた可能性があるのではないでしょうか。

けれども、ダビデには他にも失敗がありました。

第二サムエル記と歴代誌第一によると、王たちが出陣するころ、ダビデはエルサレムに留まっていました。ダビデの軍隊とその将軍が出陣したのに対し、彼自身は自分の家にとどまっていたのです。

つまり、ダビデは自分の国を守ることもせず、また神様が「取りなさい」と命じられた土地を取ることもしないまま、自宅で寛いでいたのです。

英語のことわざに、「怠け者の頭は悪魔の仕事場」というものがありますが、ダビデの場合、このことわざがまさに当てはまりました。

私たちも、するべきことを放棄してずっと寛ぐならば、誘惑に対して脆弱になってしまいます。

特にインターネット上のポルノに関して、多くの男性はこの真理を理解できるのではないでしょうか。

私たちは退屈を感じ、何気なくインターネットを始めた結果、罪に陥ってしまうことがあるのです。

ダビデはさらに大きな過ちを犯しました。

彼は屋上からバテ・シェバが体を洗っているのを目にしましたが、すぐに自分の部屋に戻ることはせず、その場に立ち続けて彼女を見続けました。

その後、バテ・シェバについて尋ねました。

ダビデがすぐに知ったのは、彼女がダビデの30人の勇士の一人の娘であり、さらにダビデの議官アヒトフェルの孫であるということでした(第二サムエル記23:34)。

そして、彼女は30人の勇士の一人、ウリヤの妻でもあったのです。

それでも、ダビデは自分の心を頑なにし、バテ・シェバを呼び寄せて彼女と関係を持ってしまったのです。

その結果、バテ・シェバが妊娠すると、ダビデは自分の罪を認めることをせず、それを隠そうとしました。

彼はウリヤを呼び戻し、戦争がうまくいっているかどうか尋ねました。その後、ダビデはこう言いました。

「では、どうぞ家に帰ってください。疲れているでしょう?リラックスしてください。」

もちろん、ダビデの真の意図は、ウリヤがバテ・シェバと寝ることで、自分の罪を隠そうとすることでした。

ところが、ウリヤは家には帰りませんでした。

ダビデが「どうして帰らないのか」と尋ねると、ウリヤは答えました。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。

それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。

あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。(第二サムエル記11:11)

ダビデはそれを聞いたとき、その心が刺されたかもしれません。

ウリヤがダビデに本当に忠実であったにもかかわらず、ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、そのことについて彼を欺こうとしたのです。

その後、ダビデはウリヤを欺くことができなかったため、ウリヤを殺し、バテ・シェバと結婚しました。

将軍ヨアブがダビデにウリヤの死を伝える場面を見ると、私たちはダビデの心の状態をよく理解することができます。ダビデはこう言いました。

このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。(第二サムエル気11:25)

ダビデの心は本当に冷たかったです。

どうやって神様の民は罪に落ちるのでしょうか。

それは、私たちが心を頑なにするときです。心が硬くなれば硬くなるほど、心は冷たくなります。

そして、心が冷たくなればなるほど、罪はますます深く、悪くなっていくのです。

あなたの心はどうですか。心を罪に対して頑なにしていますか。

そのようにすれば、ダビデのように罪に落ちます。

ダビデはおそらく、そのような罪を決して犯さないと思ったかもしれません。あなたもそのように思うかもしれません。

しかし、私たちが心を硬くするなら、私たちもダビデのようになるかもしれません。本当に酷い罪を犯すかもしれません。

どれくらい、クリスチャンのリーダーが罪に落ちたという話を聞いたことがあるでしょうか。

もし彼らが失敗するなら、私たちも失敗する可能性があります。

ですから、心を守り、神様に対して柔らかくあり続けるようにしましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが弱い時

この箇所では、興味深く学ぶべき点がたくさんあります。

一つ目は、誰に助言を求めるか注意した方が良いということです。

アモン人の王が亡くなった際、その息子ハヌンは悪いアドバイスを受けました。具体的には、ダビデがその父を悔やむために家来を派遣した際、ハヌンのアドバイザーがこう言ったのです。

ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。

この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。(サムエル記第二10:3)

そこで、ハヌンはダビデの家来に恥をかかせて追い出しました。その侮辱が原因で戦争が始まりました。

二つ目の学びとして、アラム人はアモン人と一緒にイスラエル人と戦った際、一度打ち負かされても再び団結し、戦い続けたということです。

同じように、私たちがサタンと戦う時、サタンが一度敗北しても決して諦めることはありません。むしろ、後になって再び攻撃してくるので、私たちは常に警戒しなければなりません。

けれども、一番印象に残るポイントは、ヨアブとその弟の軍隊が敵に囲まれる状況を理解した際、彼らが二つのグループに分かれ、ヨアブがこう言ったことです。

もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。(第二サムエル記10:11)

時々、私たちは霊的な攻撃に直面します。それはサタンからの誘惑かもしれませんし、試練かもしれません。そして、その時、私たちは自分が弱く、倒れそうだと感じることがあります。

もちろん、私たちは神様に頼るべきです。しかし、神様の御心は、私たちが力を得るために互いに助け合うことでもあります。

パウロはこう言いました。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい(ガラテヤ6:2)

あなたは弱さを感じていますか。倒れてしまいそうだと思っていますか。

そんな時は、互いに重荷を負い合い、一緒に祈り合い、支え合いましょう。

そうすることで、ヨアブとダビデが得たような勝利を私たちも得ることができるのです。

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サムエル記第二

神様の恵み

聖書を通読したことがあり、この箇所を何度も読んだことがありますが、今日、初めて気づいたことがあります。

第3節で、ダビデはこう言いました。

サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。(サムエル記第二9:3)

印象深い言葉は「神様の恵み」ということです。ダビデはただ「その者に恵みを施したい」と言ったのではありません。彼は「神様の恵み」を与えたいと思っていました。

おそらく、ダビデは自分の人生の中で神様の恵みを覚えていたのでしょう。彼は末っ子で、貧しい羊飼いであり、決して重要な人ではありませんでした。

それでも、神様はダビデを選び、祝福されたのです。だからこそ、ダビデはヨナタンのためにサウルの家に属する者を祝福したいと思ったのです。

メフィボシェテという人は、ヨナタンの息子でした。けれども、サウルの子孫であることから、ダビデの王位に対する脅威となる可能性がありました。

そのため、メフィボシェテはおそらく「私は殺されるかもしれない」と思ったでしょう。

実際、彼は非常に困難な人生を歩んできました。ヨナタンが殺された日に事故があり、その結果、メフィボシェテの足は不自由になってしまったのです。

けれども、ダビデはメフィボシェテを殺すのではなく、神様の恵みを与えました。彼はサウルの土地をメフィボシェテに返し、さらにメフィボシェテが生涯にわたってダビデと共に食卓を囲むことを許しました。

神様の恵みとは何でしょうか。

それは、私たちが本来値しないのに、なお与えられるものです。

私たちは救いに値せず、神様の賜物にも値しません。しかし、神様はそれを私たちに与えてくださいました。それこそが恵みです。

一方で、私たちは罪のために罰に値し、死に値します。それでも、神様は私たちを赦し、私たちが本来値するものを与えませんでした。それが憐みです。そして、それは神様の親切さそのものです。

一方で、私たちは罪のゆえに罰に値し、死に値します。それでも、神様は私たちを赦し、本来私たちが受けるべきものを与えられませんでした。

それが憐れみです。そして、それこそが神様の親切さそのものなのです。

あなたは、この神様の親切さを周囲の人々に分け与えていますか。神様から恵みと憐みを受けたように、あなたは家族や友人、同僚、そして隣人にその親切さを示しているでしょうか。

私たちもダビデのように、この世界に神様の親切さを与えましょう。その愛と恵みによって、この世界に良い影響を広げていきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

勝利を得るため

この箇所を見ると、ダビデの勝利によって、初めてカナンに入ったイスラエル人が「勝利できない」と言ったのは、ただの言い訳であったことが分かります。

士師記には繰り返しこのような話が登場します。つまり、イスラエル人の敵が鉄の馬車などを持っていたため、イスラエル人はカナン人を追い払うことができなかったというものです。

けれども、ダビデの敵はさらに優れた武器を持っていたにもかかわらず、ダビデは勝利を収めました。なぜでしょうか。それはダビデが神様に信頼したからです。一方、その時代のイスラエル人はそうしませんでした。

神様は私たちに勝利を与えたいと望んでおられます。それにもかかわらず、私たちはしばしば自分自身を説得して「勝利できない」と思い込んでしまいます。

例えば、良い仕事を探す時、良い妻や夫を見つけようとする時、また罪と戦う時に、よくこう思うのです。「私は勝てない。」

「この仕事には絶対に就けないから、面接に挑戦するのはやめておこう。」

「その人とデートをしても、どうせ最後には捨てられるだろう。」

「この罪と何度も戦ってきたけれど、いつも負けている。もう戦い続ける意味があるのだろうか。」

しかし、私たちが自分自身に問いかけるべき質問があります。

「神様は本当に私と共にいてくださるでしょうか。神様は本当に私の味方でいてくださるでしょうか。神様は私のために良いことを望んでおられるでしょうか。」

もしそう信じなければ、私たちは信仰によって踏み出すことができません。むしろ、恐れによって立ち止まったままになります。

あなたはどうでしょうか。今、勝利を得ていると感じていますか。

私は正直に言います。多くの場合、恐れが私の前進を妨げています。「やっぱり、私はできない」と思ってしまうのです。

私はもっと神様に信頼し、信仰によって歩む必要があります。

だから、これを書きながら、自分自身に語りかけているのです。

主よ、私の人生において、勝利が欲しいです。けれども、「私はダメだ」と思ってしまうことが多いのです。また、過去の失敗を思い出して「無理だ」と感じてしまいます。

どうか、私が初期のイスラエル人のようにはならないようにしてください。むしろ、ダビデのように信仰によって踏み出し、勝利を得られるよう助けてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様は私のことを考えておられる

きれいな夜に星空を見上げたことがありますか。日本に来てから、私はそれをあまり見ません。時々、星が見えることもありますが、ほんの少しだけです。

けれども、ハワイの山にいた時、その星空は本当に素晴らしいものでした。その時、私は自分の小ささを感じました。そして、こう思いました。

「この宇宙がこんなに大きいのに、神様は私を愛しておられるのでしょうか。私の名前を知っておられるのでしょうか。私のために計画を持っておられるのでしょうか。信じられない。それは本当に素晴らしいことです。」

ダビデも、同じように感じたのです。新しい宮殿で王座に座りながら、彼はこう思いました。「私はこの素晴らしいところに住んでいるのに、神様は天幕にしかおられないのですか。」

そこで、ダビデは神様のために素晴らしい宮を建てる計画を立て始めました。

ところが、神様はダビデの計画を止められました。なぜでしょうか。第一の理由は、神様には宮が必要なかったからです。なぜなら、神様は霊であり、物理的な場所を必要とされなかったからです。

第二の理由は、ダビデが戦争で多くの人々を殺してきたことです。そのため、神様はそのような人が宮を建てることを望まれなかったのです。

おそらくダビデにとって、神様の言葉は少し辛いものであったかもしれません。けれども、神様はすぐにダビデを励まされました。神様はこう言われました。

「あなたは私のために家を建てたいと思いましたが、実際には私はあなたのために家を建てます。そして、あなたの王国と家を永遠に堅く立てます。」(第二サムエル記7:11-16)

イエス様は神の子でありながら、人間としてはダビデの子孫です。そのため、イエス様がこの世界に戻られる時、その預言を成就して、この世界を永遠に支配されます。

では、ダビデの反応はどのようなものだったのでしょうか。

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。

神、主よ。これが人の定めでしょうか。(第二サムエル記7:18-19)

「私はいったい何者でしょうか。」

ダビデが理解したのは、自分が決して重要な人ではなかったということです。けれども、神様はダビデを粗末な場所からこの素晴らしいところまで導かれました。それはダビデ自身の栄光のためではなく、神様の栄光のためでした。

私たちは埃のように取るに足らない存在です。宇宙の中では小さな一点に過ぎません。しかし、神様は私たちに目を留め、私たちを愛しておられます。

それだけではありません。神様の手は私たちの上にあり、私たちを支え続けてくださいます。

ダビデはそれを理解し、こう記しました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(詩編139:6)

あなたは、自分が愛されていないと感じることがありますか。必要とされていないと思うことがありますか。自分は取るに足らない存在だと思ってしまうことがありますか。

そんなときは、このことを思い出してください。

「神様は私のことをいつも心に留めておられます。

この広大な宇宙の中で、また、この世界で数え切れないほどの出来事が起きている中で、神様は私のことを考えておられるのです。神様は私を知っておられます。

そして、神様は私のために計画を持っておられます。」

私は一体何者なのでしょうか。
世界でただ一人の主が、
私の名前を覚えていてくださるとは。
私が悩んでいるときに、
神様が同情してくださるとは。

私は一体何者なのでしょうか。
明るく輝く明けの明星が、
迷い続ける心のために、
道を照らしてくださるとは。

私だからという理由ではなく、
あなたの行いによって、
私が何かをしたからではなく、
あなたの性格が素晴らしいからです。

私はすぐにしぼんでしまう花、
今日はあっても明日には消える存在、
海に打ちつけられる波、
風の中に漂う霧のようです。

それでもあなたは、
私が呼ぶときに耳を傾け、
倒れそうなときに助けてくださいます。
そして、あなたは私に、
「あなたは私のものだ」と教えてくださいました。

私は誰を恐れるでしょうか。
なぜなら、私はあなたのものだからです。

ーージョン・マーク・ホール

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サムエル記第二 歴代誌第一

苦々しい心は私たちを食い尽くす時

喜びの日であるはずだったのに、その最後はそうではありませんでした。

ダビデは自分の過ちに気づき、神様がオベデ・エドムという人をどのように祝福されたかを見て、その箱をエルサレムに運ぶことを決意しました。

ダビデは祭司たち、レビ人、ミュージシャン、歌手、イスラエルの長老、そして軍隊を集め、一緒にその箱を運びました。

その間、ダビデは飛び跳ねながら喜び踊っていました。

けれども、ある人がダビデを見ていました。それは妻のミカルでした。そして、それを見たとき、ミカルは心の中でダビデをさげすんだのです。

ダビデが家に帰ったとき、ミカルはこう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。

ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前に裸におなりになって。(第二サムエル記6:20)

この箇所を読むと、私はこう思います。「ミカルは本当にダビデの行動に反対していたのでしょうか。それとも、ミカルの心の中にはもっと深い問題があったのでしょうか。」

少し考えてみましょう。その前に、ミカルの父親と兄弟たちは戦争で命を落としていました。また、ミカルは愛していた夫から引き離されていました。(第二サムエル記3:13-16)

さらに、今のミカルはダビデの愛を巡り、6人の妻と競わなければならない状況にありました。

彼女が苦々しい思いを抱く権利があったとしても不思議ではありません。おそらく、ミカルの言葉はその苦々しい心から来たのだと思います。

私がダビデの行動を正当化しているわけではありません。ダビデは6人の妻と結婚し、神様の戒めを守りませんでした。(申命記17:17)

その時代の文化においてはダビデの行動は受け入れられていたかもしれませんが、神様は「多くの妻を持つことは禁じられています」と言われました。

さらに、私が以前言ったように、ダビデはミカルに「私に戻りたいですか」と尋ねるべきでした。

けれども、ダビデはミカルにその選択肢を与えませんでした。

それにしても、ミカルは自分の苦々しい心が自分自身を食い尽くすことを許したため、大変な状態は本当にみじめな状態へと変わりました。

第二サムエル記6:23の意味は少し微妙です。どうしてミカルは子供ができなかったのでしょうか。

神様が彼女の胎を閉じられたのでしょうか。

それとも、ダビデがミカルを避けたのでしょうか。

または、ミカルがダビデを避けたのでしょうか。それは明確には示されていません。

はっきりしていることは、その苦々しい心がミカルの死ぬまで続き、彼女自身をみじめにさせたということです。

あなたの心にはどうでしょうか。苦い根があるでしょうか。あなたは苦々しい思いを抱く権利があると思っているかもしれません。それは事実かもしれません。

しかし、重要なのは、あなたにその権利があるかどうかということではありません。むしろ、あなたがその苦い心があなたを滅ぼすことを許してしまうかどうかということです。

もしあなたが自分の苦々しい思いが自分を食い尽くすことを許してしまったら、次第にあなたの喜びは失われてしまいます。

私たち全員が辛い状況を経験します。私たちには皆、苦々しい思いを抱く理由があるかもしれません。

それでも、心に留めておいてください。私たちは常に状況をコントロールすることはできませんが、自分の反応をコントロールすることはできるのです。

あなたは苦々しい思いを抱き続けますか。それとも、自分の痛みを神様に委ね、神様の癒しを受け入れますか。

神様が私たちの問題を取り去られないこともあるかもしれません。しかし、苦難の中でも、神様はあなたに平和と喜びを与えてくださいます。

そして、神様はあなたの人生を意味あるものへと変えてくださるのです。

あなたはどちらを選びますか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

情熱はあるけど、服従がない

神様は情熱のある人々を好まれます。とはいえ、情熱だけでは十分ではありません。神様は服従も求められます。

この箇所で、ダビデはそのことを学びました。

ダビデは神の箱をエルサレムに持ち帰ることができて、本当に嬉しかったのです。

サウルの時代にはその箱が無視されていましたが(歴代誌第一13:3)、ダビデはサウルの過ちを繰り返したくありませんでした。神様がダビデの王国の中心におられることを望んだからです。

その箱をエルサレムに運んでいる間、ダビデとその民は力の限り踊り、歌い、楽器を演奏していました。

しかし、一つの問題がありました。昔、神様はその箱の運び方について具体的な指示を与えられていました。つまり、レビ人だけがその箱を運ばなくてはならなかったのです。

それにもかかわらず、ダビデはそれを守りませんでした。なぜでしょうか。おそらく、それを知らなかったからでしょう。または彼がこう思ったのかもしれません。

「一番運びやすい方法はカートだろう。では、新しいカートを作って使おう。」

そして、神の箱をその新しいカートの上に置き、牛に引かせる形にしました。

けれども、箱を運んでいる間に、牛がそれをひっくり返しそうになったため、ウザという人がその箱を押さえました。けれども、箱に触れることは禁じられていたのです。その結果、神様が彼を打たれたので、彼は死んでしまいました。

ダビデはそれを見たとき、非常に神様に怒りを覚えました。

しかし、後に彼は自分の罪に気づきました。ダビデは神様に対して情熱を持っていたものの、服従が欠けていたのです。

そのため、後にダビデはこう言いました。

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。

私たちがこの方を定められたとおりに求めなかったからです。(歴代誌第一15:13)

その日、ダビデは本当に大切なことを学びました。情熱があることは素晴らしいことです。けれども、服従も必要です。情熱だけでは十分ではありません。私たちは神様の戒めを守るべきです。

時々、人々はこう考えます。

「どうして、天国に行きたいなら、イエス様しか行く方法がないのでしょうか。たくさんの誠実な人々が正しいことをしようとしていて、彼らは熱心に神様を求めていますが、クリスチャンではありません。どうして、彼らは天国に行くことができないのでしょうか。」

その理由は、真実さと情熱だけでは十分ではないからです。完全な情熱と完全な真実があったとしても、もし神様の戒めを守らなければ、それには意味がありません。

では、神様の命令とは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(第一ヨハネ3:23-24)

一番大切な命令はイエス様のみ名を信じることです。つまり、私たちの救いのためにイエス様を信じることを意味します。そうしないなら、私たちの真実さと情熱には意味がありません。

情熱のない服従は良くありません。なぜなら、神様は私たちの心を求めておられるからです。

とはいえ、服従のない情熱も良くありません。不従順は私たちが神様に信頼していないことを示します。

もう一度言います。神様は私たちの心を求めておられます。

そして、服従はその信頼の証しとなるのです。

あなたはどうでしょうか。従順さのない情熱を持っているでしょうか。

それとも、情熱のない服従をしているでしょうか。

あるいは、その両方があるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

欠点のある人々、力をもつ人々

たくさんの箇所をスキップしましたが、心配しないでください。明日、戻ります。けれども、年代順に話を進めたいので、この話はここで触れる方が良いと思います。

この箇所は、非常に興味深い人々についてです。ダビデがサウルから逃げていた時、この人々はダビデの元に集まってきました。そして、サウルが亡くなった後、この人々はダビデが王になることを助けました。

しかし、彼らはどのような人々だったのでしょうか。

第一サムエル記22:2には、このように書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

そのような人々はダビデの軍隊となりました。つまり、欠点のある人々がダビデの民となったのです。

ヨアブ、アビシャイ、そしてアサエルを見ると、それがよく分かります。この三人は本当に殺伐な人々でした。彼らは相手を殺すのも早く、復讐するのも早かったのです。

ダビデの民のすべては、欠点のある人々でした。けれども、彼らには共通点がありました。彼らはダビデを愛し、ダビデに忠実だったのです。

ある日、ダビデがのどの渇きを覚えた時、彼の民はペリシテ人の陣営を突き抜けて、水を取って戻ってきました(第二サムエル記23:15–17)。

その後、ベニヤミンの人々(つまり、サウルの部族の人々)はダビデの元に行き、こう言いました。

ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。

平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。(歴代誌第一12:18)

そのダビデに対する愛と忠実さによって、彼らは素晴らしいことを成し遂げることができました。

私たちの神様との関係も同じです。私たち全員は欠点のある人々です。私たちは罪を犯し、弱さを抱えています。時には、その欠点に気づけないこともあります。

それでも、もし私たちが神様を愛し、心を尽くして神様に従うなら、神様は私たちを素晴らしいことを成すために用いてくださいます。

神様はどんな人でも、男性でも女性でも、用いることができます。しかし、神様はあなたの心を必要としておられます。神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

敵に追われている。神様を求めている。

ペリシテ人はすぐに、ダビデがイスラエルの王になったことを知りました。

ペリシテ人の王アキシュはどう感じたのでしょうか。驚いたでしょうか。裏切られたと思ったでしょうか。

とにかく、ペリシテ人はすぐに反応しました。彼らは皆、ダビデを狙って攻め上がってきたのです。もちろん、彼らはダビデを殺したかったのだと思います。

ペリシテ人がダビデを狙い、倒そうとしたように、サタンも私たちを狙って倒そうとします。

私たちがクリスチャンになる前は、サタンは私たちをあまり気にしませんでした。しかし、私たちが神様の国に入ると、サタンはすぐに私たちに注意を払うようになります。

それは、私たちがサタンの国から逃れ、その国にとって脅威となるからです。つまり、私たちは他の人々をサタンの国から救い出し、神様の国へと導く存在となるからです。

だからこそ、サタンは私たちにすぐ攻撃を仕掛けてくるのです。

それは、家族や友達、または同僚からの迫害であるかもしれません。あるいは、もっと微妙な方法を使ってくるかもしれません。例えば、サタンはいろいろな誘惑を通して私たちを倒そうとします。

私たちはどうすれば良いでしょうか。ダビデのように、私たちは神様を求めるべきです。

ダビデが神様を求めた時、神様は敵の攻撃からどう守るかを教えてくださいました。そしてダビデは勝利を収めました。

私たちも同じです。サタンがあなたを狙っているでしょうか。周りの人々から攻撃を受けていますか。それとも誘惑に直面していますか。

神様を求めてください。そして、神様の助けを求めてください。

そうすれば、神様はどうすれば良いかを教えてくださり、勝利を収めるための力を与えてくださいます。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様の栄光と国と民のため

長い間逃亡者として生きていた後、ダビデはついに全イスラエルの王となりました。その印の一つとして、ダビデのために宮殿が建てられました。そして、その王座に座ったとき、ダビデは悟りました。

主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされた。(第二サムエル記5:12)

ダビデが理解したのは、神様がダビデ自身の目的のために彼を王にされたのではないということです。むしろ、神様の目的のためにダビデを王にされました。

そして、その民がダビデに仕えるためではなく、むしろダビデがその民に仕えるために、神様は彼を王にされたのです。

私たちはこのことを理解しているでしょうか。つまり、神様はあなたをご自身の子供として選ばれ、ご自身の国においてあなたにポジションを与えられました。

しかし、それはあなたの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたが自分の国を築くためではなく、むしろ神様の国を築くためなのです。

また、あなたの立場は、他の人々があなたに仕えるためではなく、むしろあなたが他の人々に仕えるために与えられたのです。

この真実を理解していないと、神様が私たちのために用意してくださっている目的を見失ってしまいます。

多くのクリスチャンが自己中心的で、自分のことや自分の立場、自分の栄光ばかりを考えます。

私もそのように考えてしまうことがあります。

しかし、私たちの人生は自己中心的であってはなりません。むしろ、神様中心であり、神様の目的を中心としたものであるべきです。

あなたは誰に仕えていますか。誰の栄光を求めていますか。誰のために生きていますか。

私はある曲の歌詞が大好きです。

あなたの栄光のために、
御国のために、
あなたの御名のために、
私はここにおります。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様が私たちの味方であれば

「私はこの罪を乗り越えることができない。勝利をおさめることができない。」

そう思ったことはありませんか?私も罪と戦う中で、時々がっかりすることがあります。そのような時、サタンは私を見て、さらに責め立てます。

「あなたは本当にクリスチャンなのですか?あなたなんて絶対だめです。他のクリスチャンは罪に勝つけれど、あなたはいつも負けるのです。この罪はあまりにも強大で、あなたは決して乗り越えることなどできない。」

ダビデとその民がエルサレムの城壁の外にいた時、敵は同じようなことを言いました。彼らはダビデを侮辱し、こう言い放ちました。

あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。(第二サムエル記5:6)

その時、彼らはこう思いました。「ダビデがここに来ることはできない。」

同じように、サタンは「私は勝った。このクリスチャンはその罪を決して捨てることができない。」と思うとき、私たちを侮辱し始めます。

けれども、ダビデはどうしたでしょうか。彼は作戦を立てました。そして、彼はその民にこう言いました。

だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む、目の見えない者、足のなえた者を打て(第二サムエル記5:8)

そして、ヨアブの助けによって、その敵を征服することができました。

しかし、良い作戦とヨアブの助けだけではなく、神様の力によって征服することができました。第二サムエル記5:10にはこう書かれています。

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。

つまり、神様がダビデとともにおられたからこそ、勝利を収めることができたのです。

もちろん作戦は必要でした。もちろん、他の人々の助けも必要でした。

けれども、結局のところ、ダビデが勝利できたのは神様の力によるものでした。

同じように、私たちが罪と戦う時も作戦が必要です。もし欲情と戦うなら、ある場所を避けた方が良いでしょう。例えば、ビデオレンタル店を避けるべきかもしれません。

また、他の人々の助けが必要な場合もあります。私たちのために祈り、アドバイスを与え、「今週はどうですか」と尋ねることで私たちを助けてくれるでしょう。

しかし、結局のところ、私たちが勝利するのは神様が私たちの味方であるからです。それは私たちの力や努力だけによるものではありません。

パウロはこう言いました。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:13)

あなたは罪と戦っていますか。落ち込んでいますか。

神様があなたの味方であることを心に留めておきましょう。作戦を立てましょう。他の人々の助けを求めめましょう。

けれそも、最終的には、私たちが勝利できるのは、神様の恵みと助けによるものだということを覚えておきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様を待ち望む

私は待つのが本当に大嫌いです。店でレジの列に並ぶのも嫌いだし、交差点で信号を待つのも嫌いです。病院で待つことも大嫌いです。

だから、ダビデの態度がよく理解できません。想像すらできません。

ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、ダビデは10歳の時にサムエルから油を注がれました。その際、サムエルは「あなたは次のイスラエルの王になる。神様があなたを選ばれた」と告げました。

もし10歳だったとすると、ダビデはユダの王になるまで20年間も待ち、さらに全イスラエルの王になるまで27年間待ったことになります。

ダビデは忍耐強く待ち続けました。それだけでなく、待つ間にさまざまな試練を経験しました。

最初はイスラエルのヒーローとして称えられたのに、その後すぐに逃亡者となり、何度も命を狙われる状況に直面しました。

それでもなお、良い時でも悪い時でも、たとえ疑いが生じたとしても、ダビデは神様を待ち望むことを決して諦めませんでした。

ダビデは二度、神様を待ち望まずに王になるために行動する機会がありました。つまり、サウルを殺すことができる状況が二度あったのです。

しかし、それをしないでダビデは神様を待ち望み続け、神様のタイミングを信じて待ちました。

どうしてそれができたのでしょうか。私にとって、赤信号で待つだけでも非常に辛いです。

その鍵は、ダビデが神様が約束を必ず守る方であると信じていたことにあります。

ダビデは自分の手でコントロールしようとせず、神様の手に全てを委ねました。また、神様の戒めを忠実に守り続けました。

その結果、神様はダビデを良いところへと導いてくださいました。

私たちもダビデの例に従うなら、神様は私たちに対しても同じようにしてくださるでしょう。

一方、サウルはそれができませんでした。ペリシテ人がイスラエルを攻撃した時、サウルはサムエルや神様の救いを待たずに、自分でいけにえを捧げて罪を犯しました。

さらに、彼は神様の祝福を待たずに、自ら祝福を得ようとしました。

例えば、イスラエル人がアマレク人との戦いの前に、神様はこう言われました。「彼らを征服したら、彼らの物をすべて私に捧げなさい。」

それなのに、サウルは自分のために一番良いものを持ち帰りました。

この二つの事件によって、神様はサウルをイスラエルの王として退けました。

あなたはどうでしょうか。 あなたは何のために待っていますか。仕事ですか。妻ですか。夫ですか。

神様があなたの必要を備えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

また、神様が良い未来を与えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

ですから、神様の言葉に背いて、「私は自分の力で何かをしなければならない」と考えないでください。

神様を待ち望み続けましょう。神様に信頼し続けましょう。神様の言葉を守り続けましょう。

そうすれば、神様は必ず約束を守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。。。

私たちのたましいは主を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。(詩篇33:18、20-22)

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サムエル記第二

リーダーがしっかりとリードしないと

イシュ・ボシェテの王位はあまり長く続きませんでした。彼の民はイシュ・ボシェテを殺し、その首をダビデに持参しました。

当然、ダビデは怒り、その人々を殺しました。(けれども、これを読むと、私はこう思います。「ダビデは、この人々を殺人の罪で即座に殺したのに、なぜヨアブを同じ罪で罰しなかったのだろうか。」)

とにかく、この箇所を読むと、一節が特に印象に残ります。

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。イスラエル人もみな、うろたえた。(サムエル記第二4:1)

多分、イシュ・ボシェテの民が彼を殺した理由は、彼が弱いリーダーだったからです。彼はアブネルにあまりにも依存していたため、アブネルが死んだ後、イシュ・ボシェテは希望を失いました。

問題は、リーダーがしっかりとリードしないと、彼の民に悪影響を与えてしまうことです。イシュ・ボシェテの恐れが彼の民の恐れとなったのです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

「私はリーダーじゃない」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたに子供がいるなら、あなたは子供のリーダーです。先生や日曜学校の先生なら、生徒のリーダーです。もし誰かのロールモデルであるなら、あなたはその人のリーダーです。

そして、困難な時、彼らはあなたの指示を求めます。

その時、あなたはどうしますか。あなたは他の人々に頼るでしょうか。他の人々の力に頼るでしょうか。

もちろん、そのような人々がいることは良いことです。しかし、もし彼らがいなかったら、あなたはパニックに陥るでしょうか。

それとも神様を仰ぎ、知恵と助けを求めて祈るでしょうか。

私たちは、神様に頼るリーダーにならなければなりません。そうでなければ、イシュ・ボシェテのようにパニックに陥り、私たちに従う人々も同じ状況に陥ってしまいます。

そして結局、私たち自身にも、また私たちに従う人々にも、すべてが悪い結果となるでしょう。

あなたは、どのようなリーダーでしょうか。

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サムエル記第二

自分の動機を問う

この箇所には多くの政治的な陰謀があります。そして、この箇所を読むと、私は自分の動機を問うことの大切さについて考えさせられます。

アブネルは正しいことをしました。つまり、ダビデを支持したのです。とはいえ、それは悪い理由によるものでした。

サウルの息子イシュ・ボシェテは、アブネルにこう言いました。

あなたはなぜ、私の父のそばめと通じたのか。(サムエル記第二3:7)

アブネルがその罪を本当に犯したかどうかは分かりません。けれども、もしイシュ・ボシェテの告発が本当だったとすれば、その文化においては、アブネルが王位を狙っていたという意味になります。そのため、イシュ・ボシェテは怒りました。

アブネルはその言葉を聞いて怒りました。もしその告発が間違っていれば、それは当然のことです。もしその告発が本当だったとすれば、おそらくアブネルは自分の罪について聞きたくなかったのでしょう。

とにかく、アブネルはこう言いました。

主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私が彼に果たせなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられますように。(9)

つまり、アブネルはダビデが神様に選ばれたことを知っていました。

それにもかかわらず、最初アブネルはダビデに従わず、イシュ・ボシェテに従い続けました。

しかし、アブネルがイシュ・ボシェテに怒りを覚えたとき、ダビデに従い始めました。

ヨアブはさらに悪い行動を取りました。悪い理由で悪いことをしたのです。

彼は復讐のためにアブネルを殺しました。なぜなら、アブネルが戦争の中でヨアブの弟を殺したからです。ヨアブは戦争中にアブネルを殺さず、一対一の戦いでも殺しませんでした。むしろ、アブネルが何も予期していないときにヨアブは彼を殺しました。

ヨアブにはもう一つの動機があったかもしれません。つまり、ダビデがヨアブを捨ててアブネルを将軍にするのではないかと恐れていたのかもしれません。

ダビデの行動も少し疑わしいところがあります。ダビデはイシュ・ボシェテにこう言いました。

私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。(14)

通常の場合、その願いは珍しいものではありません。

けれども、ダビデがサウルから逃げている間、サウルはミカルを別の男性に与え、彼らは結婚しました。そして、その男性はミカルを本当に愛していました。

ミカルがどう感じていたかは分かりませんが、彼女の後の行動を見ると、おそらく彼女もその人を愛していたのではないかと思います。ダビデはミカルが何を望んでいるのかを尋ねるべきでした。

なぜ、ダビデはそのような行動を取ったのでしょうか。ダビデはまだミカルを愛していたかもしれませんが、彼には他の妻たちもいました。彼が彼女を本当に愛していたのでしょうか。

もしかすると、彼は「もしサウルの娘と結婚すれば、イスラエル人は私を王として受け入れるだろう」と考えたのかもしれません。

ダビデの動機は分かりませんが、彼の行動が正しいかどうか疑問に思います。

最後の質問は、なぜダビデがヨアブの裏切りを罰しなかったのかということです。

神様の律法によれば、ヨアブは殺されるべきでした。それでも、ダビデはそれをしませんでした。それはなぜでしょうか。

ダビデはこう言いました。

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々(つまり、ヨアブとその兄弟たち)は、私にとっては手ごわすぎる。(39)

多分、ダビデが考えたのは、もしヨアブを殺せば、彼の軍隊が崩れてしまうということだったのでしょう。なぜなら、ヨアブは本当に優れた将軍だったからです。

さらに、ダビデは自分の甥を殺したくなかったのかもしれません。(ヨアブはダビデの甥でした。)

後に、ダビデはソロモンにヨアブを罰するよう願いましたが、ダビデが生きている間に何もしませんでした。それは悪い決断だったと思います。

私たちの人生には、何をするのか、そしてその動機は何なのかという問いがあります。

最終的に、私たちは神様からその問いを受けるのです。

私たちは良い答えを差し出すことができるでしょうか。それとも、恥ずかしさを覚えることになるのでしょうか。

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自制心がない

ダビデの性格で最大の問題は、女性に関して自制心がなかったことです。彼はいつも美しい女性を集めていたようで、自分自身を抑えることができませんでした。

神様が結婚を設計された時、神様の意図は、一人の男性が一人の女性と結婚することでした。神様はアダムとエバ、そしてサラやマリアを同時に造られたのではなく、アダムとエバだけを造られました。

けれども、ダビデはその計画を無視しました。息子のソロモンほどではありませんでしたが、ダビデも多くの女性と結婚しました。

ただ、ダビデだけが多くの女性と結婚したわけではありません。アダムとエバの罪の後、人々はすぐに結婚の理想から遠ざかりました。そして、ダビデの時代には、多くの王が多くの女性と結婚しました。

ダビデの弱さは、バト・シェバの事件において顕著に見られます。けれども、その問題の根源はここから始まりました。この箇所で息子たちの名前を見るだけでも、その悪い結果がはっきりと現れています。

長男アムノンは異母姉妹のタマルをレイプしました。

タマルの兄アブサロムはアムノンを殺し、ダビデの王位を奪おうとしました。

そして、ダビデがバト・シェバの息子ソロモンを次の王として選ばれたにもかかわらず、ダビデの第五の妻の息子アドニヤはソロモンから王位を奪おうとしました。

つまり、ダビデの家族は本当にめちゃくちゃになりました。なぜなら、女性に関してダビデは全く自制心がなかったからです。

もし私たちが、自分自身の弱さに負けて、神様が私たちのために計画された道から外れるなら、私たちの人生もめちゃくちゃになるでしょう。

ある人々には、女性や男性に関しての弱さがあります。他の人々には、ギャンブルやポルノ、アルコールに関する弱さがあります。

また、ある人々は、いつも食べ過ぎてしまう問題を抱えています。さらに、家族を傷つけてでも、自分の趣味に没頭しすぎる人々もいます。

何事も極端に行えば、あなた自身、家族、そして周りの人々を傷つけます。そして、あなたの人生はめちゃくちゃになってしまいます。

あなたの場合はどうですか。何があなたを支配しているのでしょうか。あなたの人生を傷つけても、それを止めることができないのでしょうか。

今、その問題を解決するべきです。そうしなければ、もっと大きな問題へと発展してしまうでしょう。

神様の前に行き、その問題について祈ってください。また、信頼できるクリスチャンの友人と話し、「私を助けてください。私のために祈ってください」と頼むのが良いかもしれません。

しかし、何もせずにその行動を続けるなら、あなたの人生は深刻な状況に陥り、あなたが大切にしているものを壊してしまうことになるのです。

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サムエル記第二

いつ戦いをやめるべきかを知る

彼はサウルの息子イシュ・ボシェテの将軍アブネルをずっと追い続け、諦めませんでした。多分、彼はアブネルを殺せばヒーローになれると思ったのでしょう。なぜなら、アブネルを殺せばダビデがすぐに王になるからです。

アブネルはアサエルを見たとき、二回「もう諦めなさい」と言いましたが、アサエルは諦めませんでした。だから、結局、アブネルは立ち止まり、アサエルと戦い、彼を殺してしまいました。

その後、アブネルは彼の民を集めて、アサエルの兄ヨアブに叫びかけました。(ヨアブはアサエルの兄だけでなく、ダビデの将軍でもありました。)

いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟を追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

アサエルとは異なり、ヨアブはいつ戦うのを止めるべきかを理解していたため、彼は答えました。

神は生きておられる。もし、おまえが言いださなかったなら、確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。(27)

そして、ヨアブは角笛を吹いて、その民は立ち止まり、帰りました。

時々、私たちが喧嘩をしていると、「この喧嘩を続けても、私たちはますます怒り、互いに傷つけ合っているだけだ」と気づくことがあります。

その時、私たちはどうするべきでしょうか。喧嘩を続けるべきでしょうか、それともその喧嘩から立ち去るべきでしょうか。

もちろん、妥協せずにその人と話し続けるべき時もあります。

しかし、時々「私たちは同意できないので、この会話をここで終わらせましょう」と言う方が良い場合もあります。

また、時には、同意できなくても相手の意見に譲る方が良い場合もあります。

いつ話し続けるべきでしょうか。いつその喧嘩を止めるべきでしょうか。

自分自身に問いかけなければならないのは、「結局、どちらの方がより悪い結果を招くだろうか」ということです。

ただあなたのプライドが傷つくだけでしょうか。その場合、おそらく止めた方が良いでしょう。

もし、相手の意見に譲ることで、相手または自分自身を傷つけることになるでしょうか。その場合、譲ってはいけません。

どの喧嘩でも、多くの場合、同意できず、ますます怒りが増しているときは、とりあえずその喧嘩を止めて、落ち着いた後にもう一度話し合った方が良いです。

そうすれば、より論理的に考えることができ、その会話がよりスムーズに進むでしょう。

いつ喧嘩を止めるべきか、あなたは知っているでしょうか。

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サムエル記第二

あなたを憎む人を愛する

ダビデの哀歌を読むと、ダビデがヨナタンのために泣いたことは当然だと思います。なぜなら、彼は友人だったからです。

けれども、ダビデがサウルのためにも泣いたことには驚きました。そして、私は彼の恵み深い言葉を完全には理解できません。

サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも早く、雄獅子よりも強かった。

イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。(サムエル記第二1:23-24)

サウルがダビデを憎んだにもかかわらず、ダビデは恵み深い態度を示しました。

だからこそ、神様はダビデについて「彼は私の心にかなう人だ」と言われました。

イエス様は、このように言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:43-45)

多くの人々にとって、その言葉は無理だと思います。良い言葉ですが、理想的な言葉にすぎません。全く実用的な言葉ではありません。しかし、ダビデにとっては、その言葉は理想だけではありませんでした。

いったいどのようにして、私たちは私たちを憎む人を愛することができるでしょうか。

鍵は、神様がその人々を見られるように、見ることです。つまり、ただ彼らの態度や性格、言葉、行動を見るだけではなく、神様が彼らを造られたときにどのような計画を持っておられたのかを考えることです。

そうすれば、苦々しい思いや怒りを抱くことなく、彼らのために悲しむようになります。なぜなら、サタンが彼らから神様の良い計画を盗んでしまったからです。

そして、私たちは彼らも壊れた人々であることに気づきます。罪によって、彼らは壊れました。

このように考えると、神様が人々をご覧になるように見始めることができます。

それでも、それは難しいですね。

神様、あなたの目を私に与えてください。ある人々は私を傷つけました。また、私を憎む人々がいます。あなたの憐れみ深い心を私に与えてください。

サタンが、あなたが彼らに与えたい喜びを盗んでしまったので、彼らはそのように行動しています。彼らにあなたの憐れみを与えてください。そして、彼らの痛みを癒してください。

もし、彼らの癒しのために私をお用いになることができるのであれば、どうぞ私を用いてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二

誰も傷つけないでしょう?

この嘘によってだれも傷つけないだろう。

アマレク人がダビデにサウルの死について伝えたとき、彼はそう考えたのかもしれません。そのため、彼は真実を言わず、少し嘘をつきました。

もしかすると、彼はサウルが武器持ちに自分を殺すように頼むことに耳をしていたかもしれません。

おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。(第一サムエル記31:4)

多分、そのアマレク人はこう思ったのかもしれません。

「もし私がダビデの敵であるサウルを殺したと言えば、報いを受けるかもしれません。

サウルはもう死んでいるでしょう。私の嘘によって誰も傷つけないでしょう。そして、もし私が利益を得ることができたなら、それで良いのではないでしょうか。」

ところが、ダビデの反応はアマレク人の予想通りではありませんでした。報いを得るどころか、そのアマレク人は殺されてしまいました。

ダビデはこう言いました。

おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、「私はに油そそがれた方を殺した」と言って証言したからである。(サムエル記第二1:16)

アマレク人の行動は誰を傷つけたでしょうか。結局、自分自身を傷つけました。

罪とはそのようなものです。罪は私たちを滅ぼします。小さい罪であっても、私たちを滅ぼしてしまいます。

アダムとエバも、アマレク人と同じように思ったかもしれません。「この果物を食べたら、誰を傷つけるでしょうか。」

しかし、結局彼らは、その罪によって死にました。

聖書にはこのように書かれています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ 6:23)

罪が大きくても、小さくても、関係ありません。その結果は同じです。すべての罪の結果は死です。

ですから、自分自身を欺かないでください。「小さい罪だから、誰も傷つけないでしょう?」と言ってはいけません。神様は罪を深刻に考えておられるので、私たちもそのように考えるべきです。

ペテロはこのように書きました。

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ1:14-16)