少しエレミヤ書から離れ、ゼパニヤ書に目を向けましょう。ゼパニヤはエレミヤと同時代に生きた預言者です。
ナホム書と同様に、ゼパニヤ書について詳しく説明する時間はそれほど取らないつもりです。理由は、ゼパニヤのメッセージがイザヤやエレミヤのメッセージとほぼ一致しているからです。具体的には、それは裁きのメッセージです。
ゼパニヤ書1章からそのメッセージを知ることができます。
わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ――
わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ――(ゼパニヤ書1:2-3)
他の預言者たちと同様に、ゼパニヤはユダの民の偶像礼拝(1:4-6)、澱んだ態度(1:12)、服従の欠如(3:1)、そしてリーダーたちと民の不正義(3:3-4)を厳しく責めました。
そのため、ゼパニヤは来るべき裁きについて警告しました。
主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。
わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。(ゼパニヤ書1:14-17)
しかし、ゼパニヤはユダだけを警告したのではありません。その周辺の国々にも警告を与えました(2:14-15)。その理由は、彼らも偶像を礼拝していたからです。それに加えて、彼らは神様が選ばれた国、つまりユダ王国を侮辱し、脅かしました。
この箇所を読むと、パウロの言葉が思い起こされます。
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:5-11)
パウロはゼパニヤの時代の後に生きていましたが、その言葉はゼパニヤの時代においてもふさわしいものでした。
ゼパニヤのメッセージは、パウロが示した裁きのパターンに一致していました。ユダの民はまず裁かれ、その後、異邦人も裁かれました。
なぜでしょうか。それは、ユダの民が神様の言葉を知っていたからです。他の国々はモーセの律法や預言者の言葉を知らなかったのです。
そして、いつの日か神様は私たちをも裁かれるでしょう。ゼパニヤのメッセージは私たちの時代においてもなお、ふさわしいものと言えます。
恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。
主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。(ゼパニヤ書2:1ー3)
つまり、悔い改めなさい。神様の前にへりくだり、近づきなさい。神様の道を求めなさい。そうすれば、主の日に私たちは救われ、サタンは裁かれるでしょう。そして、イエス様が王としてこの世を治め、災いや悪は完全になくなるのです。(3:15)
その日、私たちは救いを目の当たりにして喜ぶでしょう。しかし、主ご自身が私たちを見て喜ばれるのです。ゼパニヤはこう語りました。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)
また、
その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。
わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。(ゼパニヤ書3:20)
ゼパニヤは特にイスラエルの民について語りますが、その日、私たちすべてが神様と共にいるようになります。また、この世は再びエデンの園のような姿を取り戻すでしょう。
その日が待ち遠しいですね。
