この手紙の締めくくりにおいて、 パウロは、イエス様の再臨を心に留めながら、 テサロニケの人々がどのように生きるべきかを教えています。
パウロはこう語ります。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16-18)
テサロニケの人々は、迫害を受けていました。 それでも、その苦しみのただ中で、パウロは彼らにこう語りました。
「神様が望んでおられるのは、あなたがたがいつも喜び、 絶えず祈り、どんなときにも感謝することです。」
その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピでの経験を思い出していたかもしれません。
テサロニケに行く前、パウロとシラスはピリピで鞭打たれ、牢に投げ込まれたのです。 では、彼らはそのとき、どう反応したでしょうか。 彼らは主にあって喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝をささげました。
その結果、どうなったでしょうか? 神様は文字どおりその場所を揺り動かし、 パウロとシラスを解き放ち、 看守とその家族を救ってくださいました。
このような経験があったからこそ、 パウロはテサロニケの人々に対して、 同じように歩むことを勧めることができたのです。
そして彼は、さらに彼らに訓戒を与えました。
御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)
私たちは、どのようにして御霊とその働きを消してしまうのでしょうか。 最も大きな原因は、御霊の語りかけを聞かず、信頼しないことです。
イスラエルの民が約束の地を目前にしながら、 その御声に従おうとしなかった時、まさにそれが起こりました。 (ヘブル3:17−19)
ですからパウロは、こう語るのです。 「預言を軽んじてはいけません。」
今もなお、神様は人を通して語ることができます。 けれども私たちは、その人の語る言葉を吟味しなければなりません。 特に、その言葉が神様のみことばと一致しているかどうかを、 みことばに照らして確かめるべきです。
もし一致していれば、信じて受け取りましょう。 一致していなければ、拒むべきです。
しかし何よりも大切なのは、 神様が聖書を通して、あるいは人を通して語られるときに、 その声を無視してはならないということです。
その語りかけを退けてしまえば、 私たちは御霊を消すことになるのです。そして主の日に、神様はその責任をお問いになります。
最後に、パウロはこのように祈りました。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。
あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23)
そして、パウロは私たちに思い起こさせます。
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)
主が再び来られるのですから、 私たちは責められるところのない者として歩むべきです。
しかし、そのような人生を、自分の力だけで生きることはできません。 だからこそ、私たちは御霊の力に頼らなくてはならないのです。
ですから、聖霊様にすがりつきましょう。 御霊を消してはなりません。 むしろ、御霊に満たされて歩みましょう。
そうすれば、聖霊様は私たち自身をきよめるだけでなく、 私たちのまわりの人々にも、触れてくださるのです。
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)
