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テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから(2)

この手紙の締めくくりにおいて、 パウロは、イエス様の再臨を心に留めながら、 テサロニケの人々がどのように生きるべきかを教えています。

パウロはこう語ります。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16-18)

テサロニケの人々は、迫害を受けていました。 それでも、その苦しみのただ中で、パウロは彼らにこう語りました。

「神様が望んでおられるのは、あなたがたがいつも喜び、 絶えず祈り、どんなときにも感謝することです。」

その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピでの経験を思い出していたかもしれません。

テサロニケに行く前、パウロとシラスはピリピで鞭打たれ、牢に投げ込まれたのです。 では、彼らはそのとき、どう反応したでしょうか。 彼らは主にあって喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝をささげました。

その結果、どうなったでしょうか? 神様は文字どおりその場所を揺り動かし、 パウロとシラスを解き放ち、 看守とその家族を救ってくださいました。

このような経験があったからこそ、 パウロはテサロニケの人々に対して、 同じように歩むことを勧めることができたのです。

そして彼は、さらに彼らに訓戒を与えました。

御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)

私たちは、どのようにして御霊とその働きを消してしまうのでしょうか。 最も大きな原因は、御霊の語りかけを聞かず、信頼しないことです。

イスラエルの民が約束の地を目前にしながら、 その御声に従おうとしなかった時、まさにそれが起こりました。 (ヘブル3:17−19)

ですからパウロは、こう語るのです。 「預言を軽んじてはいけません。」

今もなお、神様は人を通して語ることができます。 けれども私たちは、その人の語る言葉を吟味しなければなりません。 特に、その言葉が神様のみことばと一致しているかどうかを、 みことばに照らして確かめるべきです。

もし一致していれば、信じて受け取りましょう。 一致していなければ、拒むべきです。

しかし何よりも大切なのは、 神様が聖書を通して、あるいは人を通して語られるときに、 その声を無視してはならないということです。

その語りかけを退けてしまえば、 私たちは御霊を消すことになるのです。そして主の日に、神様はその責任をお問いになります。

最後に、パウロはこのように祈りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23)

そして、パウロは私たちに思い起こさせます。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)

主が再び来られるのですから、 私たちは責められるところのない者として歩むべきです。

しかし、そのような人生を、自分の力だけで生きることはできません。 だからこそ、私たちは御霊の力に頼らなくてはならないのです。

ですから、聖霊様にすがりつきましょう。 御霊を消してはなりません。 むしろ、御霊に満たされて歩みましょう。

そうすれば、聖霊様は私たち自身をきよめるだけでなく、 私たちのまわりの人々にも、触れてくださるのです。

私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)

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テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから

イエス様の再臨について語った後、 パウロは、私たちが教会全体として、また一人ひとりのクリスチャンとして、 どのように生きるべきかを教えています。

まず彼は、私たちの人間関係について語ります。

そして最初に、教会のリーダーたちに関してこう述べます。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。

あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:12ー13)

私たちは、自分の教会のリーダーたちを、 どれほど当たり前の存在として受け止めているでしょうか。 彼らが失敗したとき、私たちはどれほど彼らを批判し、 見下すような態度を取ってしまうでしょうか。

けれども実際には、私たちすべてに失敗はあります。 もし、誰もが私たちの生き方にスポットライトを当てていたとしたら、 私たちもまた、たびたび批判の的になっていたことでしょう。

もちろん、リーダーたちはより厳しい基準で量られるべきです。 それでも、パウロはこう語ります。

「リーダーたちを尊敬しなさい。 彼らは、あなたのために労苦しているのです。 あなたが知る以上に、彼らは労しているでしょう。

だから、彼らを尊敬するだけでなく、愛をもって、 この上ない尊敬を払いなさい。 彼らは神様とその御国のために、 そしてあなたのために、苦労しているのだから。」

では、なぜ私たちはそのようにするべきなのでしょうか。 それは、イエス様が間もなく戻って来られるからです。 今は、牧師の小さな失敗を一つひとつ取り上げて批判すべき時ではありません。

神様ご自身が、リーダーたちの責任を問われます。 裁くのはあなたではなく、神様です。だからこそ、リーダーたちの人生を苦しめるのではなく、 「互いに平和を保ちなさい。」(13b)

忘れないでください。 リーダーたちは、主にあってあなたを導く人たちです。 けれども同時に、彼らはあなたの兄弟であり、姉妹でもあるのです。

だからこそ、神様があなたやリーダーたちを導いておられるその中で、 彼らに逆らって戦うのではなく、共に働いていきましょう。

パウロは、さらにこう語ります。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。(14節)

批判の対象となるのは、牧師やリーダーたちだけではありません。 教会のメンバーたちもまた、ときに批判されることがあります。 もちろん、彼らが罪を犯しているのであれば、 私たちは正しく彼らを訓戒するべきです。

しかし、そのほかの人々は、 小心で、霊的な敵に脅かされていることもあります。 だからこそ、私たちは彼らを励まし、 彼らのそばに立って、ともに戦いましょう。 その困難な状況の中で、彼らを強めるのです。

また、体力的に、精神的に、感情的に、あるいは霊的に弱っている人もいます。 彼らは、私たちの兄弟であり姉妹なのです。 ですから、私たちは彼らを助けるべきです。

そして、イエス様が私たちに寛容でいてくださったように、 私たちも、互いに寛容であるべきです。 神様が私たちを見捨てずにいてくださるのなら、 私たちもまた、兄弟姉妹を見捨ててはなりません。

最後に、パウロはこう語ります。

だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。(15)

教会の中においても、 人々が私たちを傷つけることはあります。 どうしても、相手を許せないと感じるときもあるでしょう。

しかし、私はもう一度、はっきりと言います。 主は再び来られます。 だからこそ、恨みや苦々しい思いを抱いてはなりません。彼らの裁きを、神様に委ねましょう。 そして、彼らに優しく接するのです。

それは教会の中に限ったことではありません。 教会の外でも、同じように生きましょう。 そうすれば、人々はイエス様の愛を目にして、 その愛に心を奪われるかもしれません。

主は、まもなく来られます。 あなたは、牧師やリーダーたちをどのように扱っているでしょうか。 兄弟姉妹をどのように扱っているでしょうか。 あなたの周囲の人々を、どのように扱っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

主が来られる日に備えて

多くの人々は、イエス様がいつ帰って来られるのか疑問に思っています。

パウロの時代、テサロニケの人々も同じようにそのことを尋ねました。 そして今でも、たくさんのクリスチャンたちがその時を気にかけています。

パウロは、基本的にイエス様ご自身のことばを繰り返しています。 つまり、イエス様がいつ帰られるかは、誰にも分からないのです。

だからこそ、私たちはいつでも備えているべきなのです。 そのようにしていれば、突然の出来事に驚かされることはありません。

パウロはこう語っています。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(テサロニケ人への手紙第一5:1-9)

イエス様が帰って来られる日について、私たちがよく知っているのは、 この世の人々が自己満足し、安心しているということです。 彼らは神様から離れていながらも、自分の人生は順調だと思っているのです。

イエス様によれば、その日、人々は食べたり、結婚したり、商売したり、 植えたり、建てたりしているでしょう。

ノアの時代、洪水が来る前も、人々はそのように過ごしていました。 また、ソドムとゴモラが滅ぼされる前にも、人々はそうしていたのです。

もちろん、それらの行動自体が悪いわけではありません。 けれども、その人々は神様に背を向け、 悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼んでいたのです。

あなたのまわりにも、そのような光景が見えるでしょうか。 私は、はっきりと見えます。

神様が彼らを裁かれたように、 イエス様が帰って来られると、神様は全世界を裁かれます。 ノアやロトのような人々だけが救われるのです。

どうして彼らは救われたのでしょうか。 それは、彼らが裁きの日に備えていたからです。

ですから、パウロが語ったように、 罪の暗闇の中で生きるのではなく、 光の子どもとして歩みましょう。たとえ私たちの行いが明るみに出されたとしても、 恥じることのない人生を送りましょう。

信仰という武具を身に着けましょう。 神様が私たちを愛しておられること、 そして私たちの最善を願っておられることを、信じましょう。

愛をも身に着けましょう。 神様への愛、そして周囲の人々への愛を身に着けるのです。 その愛が、私たちの態度と行動を形づくっていくでしょう。

救いの希望をかぶりましょう。 そうすれば、試練に直面しても、私たちは絶望せずに済むのです。 神様があなたを御怒りに定めたのではなく、 救いを受けるように召してくださったことを、喜びましょう。

私たちはいつか、イエス様とともに御国にいることになります。 けれども、その関係を今この時から喜びましょう。 私たちが地上にいる間も、イエス様が望んでおられるのは、 私たちがイエス様との交わりを喜び楽しむことなのです。(10)

そして、もう一つ覚えていてください。 「主の日」――それは将来、イエス様がこの世に戻られる日です。

しかしあなたにとっての「主の日」とは、 イエス様があなたを迎えに来られる、その日なのです。 それは、いつ訪れるか分かりません。

明日、交通事故で命を落とすかもしれません。 心臓発作が起きるかもしれません。 地震に巻き込まれるかもしれません。

神様は、あなたに明日を約束しておられません。 だからこそ、備えていましょう。

あなたはどうでしょうか。 あなたは、今、備えができているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

私たちの希望

「希望は、生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」

古代ギリシャの詩人がそう語りました。 パウロの時代、多くの人々はそのように死を受けとめていたのです。

実際、私が多くの日本人と話すとき、彼らもほとんど同じようなことを言います。 死後について、希望を持っていないのです。 彼らにとって、この人生こそがすべてなのです。

周囲の影響を受けて、テサロニケの人々もまた、死後の希望を十分に持っていなかったようです。 そして、信仰のゆえに殺されるクリスチャンたちの姿を見て、彼らは問いを抱いたのです。

「イエス様がこの世に帰ってこられるとき、 すでに死んだクリスチャンたちはどうなるのか。 彼らはその日の喜びと希望を取り損ねてしまうのだろうか。」

しかし、パウロは彼らにこう語ったのです。

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。

こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:13-18)

どうして、私たちは死後の希望を持つことができるのでしょうか。 それは、イエス様ご自身が死んで、よみがえられたからです。 イエス様は私たちにこう語られました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きる。(ヨハネ14:19)

また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻られるとき、 すでに死んだ人々は復活し、空中でイエス様と会うのです。

さらにこの手紙の中で、パウロは、私たちが死ぬとすぐに主のみもとに行くと教えています。(第一テサロニケ1:23)

また、ルカの福音書では、イエス様が悔い改めた犯罪人にこう約束されました。 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ですから、イエス様が再び来られるとき、 死んだクリスチャンたちの遺灰や骨はよみがえり、 新しいからだに変えられて、天にいる霊とひとつにされます。

そのあと、生きているクリスチャンたちも引き上げられ、 そのからだも変えられて、空中で主と出会うのです。

その新しいからだは、朽ちることのない、死を超えたからだなのです。(第一コリント15:51ー53)

ところで、私は、反キリストが現れるとき、 クリスチャンたちはまだこの世に存在していると考えています。 この考えが間違っているなら、むしろ嬉しいのですが、 聖書を読むかぎり、それが私の結論です。

私がそう考える理由の一つは、「主と会う」という表現に、 大切な方を迎えに出て、その方を町にお連れするという意味が含まれているからです。

つまり、パウロの描写はこうです: クリスチャンたちは空中で主を迎え、 地上でイエス様をお守りしながらお連れするというものです。

そのとき、イエス様はこの世界を千年間統治されます。 そしてその後、最後の戦いにおいてサタンを打ち倒し、 私たちは永遠に主とともに生きることになるのです。

これこそが、私たちの希望です。 この希望を、希望を持たない人々にこそ分かち合うべきなのです。

兄弟姉妹が苦しみ、もう限界だと感じるとき、 この希望のことばで励ましましょう。

私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。 イエス様は再びこの世に来られ、正義をもたらしてくださいます。

だから、この希望を胸に抱き、安心して歩みましょう。

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テサロニケ人への手紙第一

クリスチャンとして、目立つ理由は?

「偽善者」。

日本ではどうか分かりませんが、欧米の多くの国々では、 クリスチャンはしばしば「偽善者」と呼ばれます。

残念なことですが、多くのクリスチャンたちは、その評判に値してしまっています。

パウロの時代にも、偽善的なクリスチャンたちがいました。 彼らの生活によって、イエス様の御名が汚されてしまったのです。 そのため、パウロはテサロニケの人々に、そのことについて書き送りました。

第4章でパウロは、私たちが神様を喜ばせるように、どのように生きるべきかを教えています。 前回の記事では、私たちが神様のための聖なる宮となることについて取り上げました。

現代と同じように、その時代にも性的な罪が多くありました。 だから、パウロは、彼らのからだが神様の宮であることを思い起こさせ、 その宮を汚さないようにと、性的な清さを守るように促したのです。

清さを失った生き方を選べば、私たちはこの社会に自然と溶け込んでしまいます。 けれども神様は、私たちがこの世に同化するのではなく、 その中で目立つ者として生きるように呼んでおられます。

そして、パウロはこの世の中で目立つためのもう一つの方法を示しています。 彼はこう語っています。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:9-10)

この世界の人々は、情欲についてはよく理解しています。 けれども、愛についてはあまり分かっていないため、 彼らはその一生を通して、愛を追い求め続けるのです。

だからこそ、イエス様はクリスチャンたちにこう語られました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

私たちがキリストの教会として、互いに愛し合うとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

何年経っても、クリスチャンの夫婦がなお愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

性格も背景も異なる人々が、教会で互いに愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

クリスチャンたちが、苦しんでいる人々に愛をもって触れるとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

なぜでしょうか。 それは、クリスチャンたちが、ノンクリスチャンたちの持たないものを持っているからです。

そういうわけで、パウロはテサロニケの人々にこう語っています。

「あなたがたが互いに愛し合っていることは、素晴らしいことです。 けれども、さらに豊かに愛し合いなさい。 あなたがたの愛を通して、あなたがたの光を輝かせなさい。」

それでも、テサロニケの教会には、ある問題がありました。

主がすぐに戻られると信じていた一部の人々は、 「なぜ働く必要があるのか」と考え、 働かずに、他のクリスチャンたちから食べ物やお金を受け取るようになっていたのです。

まるでヒルのように振る舞いながら、 彼らはその生き方によって、イエス様の御名を汚してしまっていました。

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。

外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(11-12)

ヒルのような生き方では、私たちはイエス様の光を輝かせることはできません。 ヒルを好む人など、誰もいないのです。

それだけではなく、第2テサロニケによれば、あるクリスチャンたちは、 おせっかいばかりしていました。 その姿を見て、周りの人々は「本当にあれがクリスチャンなのか」と思ったのです。

だから、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。 「働きなさい。ヒルのようになってはいけません。 きちんと働けば、周りのノンクリスチャンたちはあなたを尊敬するようになるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。 人々があなたを見たとき、そこにどんな人を見出すでしょうか。

キリストの愛に満ちた人でしょうか。 誠実に働く、勤勉な人でしょうか。

あなたは今、良い理由で目立っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

性的な清さを守る

新約聖書の著者たちの時代と同じように、 私たちもまた、性的な罪に満ちた世界に生きています。

テレビ番組や映画、インターネットなど、 どこを見ても、そのような罪に満ちた描写があふれています。

しかし、セックスに関するこの世の考え方を受け入れてしまうなら、 私たちは、神様が与えてくださる本物の祝福の代わりに、安っぽい偽物を買ってしまうことになります。

神様が私たちのために備えておられる計画は、 夫婦が一つとなり、永遠に続く関係の中で結ばれることです。

けれども、多くの人々は、一時的な快楽で満足してしまいます。 その結果、やがて人生は壊れ、心は空しさに満たされていくのです。

性的な罪によって壊された人々の数は、数えきれません。 離婚、父親不在の家庭、母親不在の家庭、望まれない妊娠、中絶、性病、 そして深く傷ついた魂――そういった現実が、私たちのまわりに溢れています。

要するに、神様のご計画に反して、私たちは壊れた存在なのです。

だからこそ、パウロはテサロニケの人々、そして私たちにこう語りかけます。

 最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。

私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

あなたがたが淫らな行いを避け、 一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。

私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。(テサロニケ人への手紙第一4:4-6)

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」

それは、どういう意味でしょうか。

それは、私たちが神様のご目的のために選ばれたということです。 私たちは神様の宮とされたのです。 神様は、私たちのうちに住んでおられます。 パウロによれば、私たちのからだそのものが、神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

しかし、聖なる者となるためには、私たちは性的にも清くなければなりません。

なぜなら、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは自分自身のからだに対して罪を犯しているからです。(第一コリント6:18)

言い換えれば、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは神様の宮を汚してしまうのです。

だからこそ、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と語ったあと、 パウロはこう命じています。 「淫らな行いを避けなさい。」

要するに、結婚していない者は、性的な関係を持ってはいけないということです。

私たちは、自分の本能のままに生きるだけの存在ではありません。 また、神様とその御心を知らない者でもありません。

神様は、ご自身とその御心を、私たちに明らかにしてくださいました。 そして、私たちには選択する力を与えてくださったのです。

だから神様は、その選択について、私たちに責任を問われます。

私たちが性的な罪を犯すとき、 それは共に罪を犯す相手に対しての罪でもあります。

また、その人が他の誰かと結婚しているなら、 その人の配偶者に対する罪となります。

そして、もし自分自身が結婚しているなら、 不倫によって自分の配偶者に罪を犯すことになります。

パウロは、そうしたことのゆえに、私たちは裁きを受けるのだと語っています。

神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。(7)

神様がご自身の聖なる民とするためにイスラエルの民を選ばれたように、 神様は、私たちもまた、ご自身の聖なる民となるように召してくださいました。

あなたは、聖なる人でしょうか。

パウロは、性的な聖さに関して非常に厳格でした。 彼はこのように語っています。

ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。(8)

要するに、パウロは自分の意見を述べているのではありません。 彼は、神様のことばを伝えているのです。

ですから、もしそのことばを拒むなら、 私たちはパウロをではなく、神様ご自身を拒んでいることになるのです。

あなたは、結婚している人々への神様の賜物を乱用してはいないでしょうか。

あなたの生活の中で、神様を拒んでしまってはいませんか。

パウロのことばを心に留めておきましょう。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19-20)

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テサロニケ人への手紙第一

迫害と向き合う覚悟をする

迫害を受けるのが好きな人など、誰もいないでしょう。 また、憎まれて喜ぶ人もいないはずです。

それでも、クリスチャンとして、そうなる可能性を覚悟しておかなければなりません。 私たちが信仰に生きるなら、ある人々は私たちを憎むことがあるのです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人々に警告しました。

私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。

あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。

あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(テサロニケ人への手紙第一3:2-4)

「苦難にあうように定められている。迫害にあうように定められている。」

クリスチャンは、そんな言葉を聞きたくはないでしょう。 けれどもパウロは、その可能性についてテサロニケの人々に警告しました。

その結果、実際に迫害がやって来たとき、彼らの心はすでに備えられていたのです。 彼らの信仰は揺らぐことなく、むしろ堅く立ち続けていました。(3:6〜8)

私たちもまた、そのように歩むべきです。

でも、覚えておいてください。 神様は、私たちに「自分の力」で立つように命じておられるのではありません。 むしろ、私たちは神様の力に拠り頼まなければならないのです。

では、どのようにすれば、神様の力に頼ることができるでしょうか。 一つの方法は、みことばを読むことです。 そうすれば、自分の信仰は養われ、成長し続けるのです。

パウロは、テサロニケの人々にこう語りました。

私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)

イエス様についての知識を完全に持っている人は、誰一人いません。 だからこそ、私たちの人生においては、その知識と信仰が成長し続けるべきなのです。

それは、私たちが教会に行く理由の一つでもあります。 なぜなら、霊的な栄養を受けることによって、試練に直面するときにも、堅く立つ力が与えられるからです。

もちろん、説教を通して霊的な栄養を受けることができます。 しかし、それだけではありません。 兄弟姉妹との関係を通しても、私たちは豊かな霊的な養いを受けるのです。

神様が私たちの心に愛を注いでくださるとき、 私たちは互いに愛し合うことを学び、 教会の外にいる人々をも愛することを学んでいきます。(12)

けれども、霊的な栄養の源は、神様ご自身です。 私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して、 神様は私たちの心を日々強めてくださいます。

だからこそ、パウロはこのように祈ったのです。

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)

私たちがイエス様のために生きるなら、 サタンは必ず、私たちに反対してきます。 それは、クリスチャンにとって当然のことなのです。

実際、パウロも、テサロニケの人々も、 そして初代教会から現代に至るまでの数えきれないクリスチャンたちも、 迫害を受けてきました。

あなたは、そのような迫害に直面する覚悟ができているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

神のみ言葉?人間の言葉?

私たちはふだん、聖書を「神様のみことば」と呼んでいます。 けれども本当に、私たちは聖書をそのように扱っているでしょうか。

そのことばが、確かに神様から来たものだと信じて、 従おうとしているでしょうか。

それとも、聖書のことばをただの人間の言葉として扱っていないでしょうか。 自分の好みに合わない箇所に出会ったとき、 私たちはそれを無視する自由があると思っていないでしょうか。

第13節には、テサロニケの人々が取った選択が記されています。 そこでパウロは、こう語っています。

こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。

あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。

この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(テサロニケ人への手紙2:13)

私たちがみことばを聞き、それを受け入れるとき、 神様は私たちの心のうちに働かれます。 けれども本当に、私たちはそのことばを受け入れているでしょうか。

私たちにとって、受け入れやすいことばもあります。 神様の愛や恵みについて聞くとき、私たちはそれを喜んで受け入れるでしょう。

しかし、受け入れにくいことばもあります。 たとえば、聖なる人生を生きるようにという命令や、 イエス様に応える責任があるという教えなどです。

もちろん、最も大切なことばは福音です。 つまり、イエス様とその十字架のわざだけを通して、私たちが救われるということです。

私たちは、自分自身を救うことはできません。 私たちの救いのためには、イエス様を信じなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、そのことをすぐに信じました。 けれども、他の人々は信じようとしませんでした。

ユダヤ人の指導者たちは、かつて預言者たちを、そしてイエス様ご自身をも殺しました。 また、パウロが福音を宣べ伝えようとしたとき、 彼もそのような指導者たちによって追い出されたのです。

パウロは、彼らについてこう語っています。

ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。

彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。

しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。(15-16)

そのユダヤ人たちや、一部のテサロニケの人々は、神様のみことばを、 単なる人間の言葉として扱ってしまいました。 その結果、彼らは罪を重ね、神様の御怒りに触れることとなったのです。

では、あなたはどうでしょうか。 あなたは、聖書をどのように扱っているでしょうか。

聖書を、神様のみことばとして受け止めているでしょうか。 そのことばに従うべきものとして、耳を傾けているでしょうか。

それとも、聖書を、ただの参考程度に過ぎない人間の意見として、 無視しても構わないものだと思っているでしょうか。

あなたが神様のみことばを聞くとき、 神様はあなたの応答に責任を問われます。

だからこそ、みことばを大切にし、従いましょう。 そうするなら、私たちは神様の祝福にあずかり、 日ごとに、神様のかたちに似た者へと造り変えられていきます。

今、神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

本物の仕える者

『ピリピ人への手紙』では、パウロは福音が広められているのを見て、神様をほめたたえました。 けれども不思議なのは、福音を宣べ伝えている人々の中に、悪い動機を持つ者たちもいたということです。(ピリピ1:15-18)

この箇所から私たちが学ぶのは、たとえ人々の動機が不純であっても、 神様はそのような人々をも通して福音を語られるということです。 しかし結局、そうした人々は神様からの報いを受けることはありません。

それに対して、パウロは自らのミニストリー全体を通して、 本物の神様に仕える者として歩んでいました。 今日の箇所にも、その姿がよく表れています。

パウロは迫害にあっても、大胆に福音を宣べ伝えました。(第一テサロニケ2:2、また、使徒の働き16〜17章)

そして、彼は神様のみことばを語るときに、 正確に語り、テサロニケの人々を操ろうとしたことも、 欺こうとしたこともなく、ただ清い動機に基づいて語っていたのです。(第一テサロニケ2:3,5)

さらにパウロは、まわりの人々ではなく、神様に認められることを望み、 神様から福音をゆだねられた者として語り続けました。(第一テサロニケ2:4〜6)

時に、人々は神様のみことばをオブラートに包むことがあります。 相手が真理を聞いて不快に思うかもしれないからです。

実際、イエス様のことばによって、多くの人々が心を騒がせました。 とくに、パリサイ人や他の宗教的な指導者たちは、激しく反発しました。

イエス様は、神様の愛だけでなく、神様の裁きについても語られたのです。 ご自身を拒む者は裁かれると、はっきりと教えておられました。(マタイ7:21〜23;25:31〜46 など)

パウロは、イエス様の模範に従いました。 彼はエペソの人々に、こう語ったのです。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。

私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

パウロは、エゼキエル書33章に言及しています。 その箇所で、神様はエゼキエルに対し、こう警告されました。 「わたしの民に裁きについて警告しなさい。もしそれをしなければ、彼らの血の責任をあなたに問う。」

このような背景を踏まえ、パウロが福音を宣べ伝えるときの目的は、 人々に受け入れられることではなく、主に喜ばれることでした。

それでもなお、パウロはまわりの人々を深く愛していました。 彼は使徒としての権威を決して乱用せず、 むしろこう語ったのです。

キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。

私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(第一テサロニケ2:7-8)

母のように、パウロは彼らの信仰を養いました。

父のように、パウロは彼らから金銭を求めることなく、霊的に支えるために、自ら働き続けました。 そして父として、彼らを慰め、励まし、 神様にふさわしく歩むようにと、勧めたのです。(第一テサロニケ2:6〜12)

彼らの霊的な父として、パウロは模範そのものでした。 彼は敬虔に、正しく、また責められるところのないようにふるまっていたのです。(第一テサロニケ2:10)

それこそが、本物の仕える者の姿です。

このことを考えるとき、 つい自分の牧師を批判したくなるかもしれません。 けれども、どうかそうしないでください。 むしろ、自分自身を省みてください。 なぜなら、神様はあなたをご自身に仕える者として呼ばれたからです。

あなたは、家族や友人、そしてまわりの人々に仕えるように召されています。 彼らに対して、あなたは神様の使節なのです。(第二コリント5:20)

神様は、あなたに福音をゆだねておられます。 あなたは本物の仕える者でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

本物の信仰

もしかすると、これがパウロの最初の手紙の一通かもしれません。 おそらく、第2番目の宣教旅行の最中に、彼はこの手紙を書いたのでしょう。

パウロがこの手紙の中で言及している出来事は、『使徒の働き』第16章と第17章に記されています。 そこには、ピリピで彼が経験した困難や、テサロニケで何が起こったかが描かれています。

『使徒の働き』第17章によれば、テサロニケにいたユダヤ人たちは福音を嫌い、町の役人たちにパウロのことで様々な嘘を言いました。 そのため、パウロはテサロニケから逃げなければなりませんでした。

そうした状況の中で、テサロニケの信者たちもまた、迫害を受けていたようです。 パウロは、彼らの信仰が揺らいでいるのではないかと案じました。 そこで、彼はテモテを送り、彼らの信仰の様子を確かめさせたのです。

幸いなことに、彼らは迫害の中にあっても、信仰をまっすぐに保ち続けていました。

そのようなわけで、手紙の冒頭でパウロはこう言います。 「あなたがたのことを思って、私たちは神様に感謝しています。」

この言葉には、本物の信仰のしるしが表れています。 それはいったい何でしょうか。

パウロは、こう語りました。

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

1.本物の信仰は、ただ座って何もしないようなものではありません。 本物の信仰は、やがて実を結びます。つまり、良い行いが現れるのです。

イエス様は、こう語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。。。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。(マタイ7:16-17)

2.本物の信仰による行いは、神様や他の人々への愛から生まれます。

そのような信仰は、神様や人々に仕えることを強いられているのではありません。 また、ただの義務感から仕えるのでもありません。 むしろ、その信仰は喜びをもって仕えるのです。

3.本物の信仰は、将来に対する希望を抱いています。 その信仰は、イエス様がやがて再び来られ、正義をもってこの世を新しくされることを信じています。 だからこそ、その信仰は試練や迫害に直面しても、耐え抜くことができるのです。

パウロは、テサロニケの人々の中に、そのような信仰を見出しました。

けれども、本物の信仰には、ほかにも特徴があります。

4.本物の信仰が生まれるのは、人が福音を聞いたときに、聖霊様がその人の罪を示され、悔い改めへと導かれるときです。 言い換えれば、もし自分の罪を悔い改めずに、罪を犯し続けているなら、その人が本物の信仰を持っているとは言えません。

本物の信仰とは、自分の罪の重さを認め、 イエス様が十字架の上で支払われた代価の大きさを知り、 神様への深い感謝にあふれる心を持っている信仰なのです。(5)

5.本物の信仰は、聖霊によって、人を変える力を持っています。 聖霊様は、私たちの罪を指摘されるだけでなく、 新しい人生を歩むために、私たちの心そのものを新しくしてくださいます。(5)

聖霊様は私たちのうちに住んでおられ、日々、私たちを新しく造り続けておられます。

6.本物の信仰は、試練に直面しても、聖霊によって、喜びに満ちています。

7.本物の信仰は、自分の証しをまわりの人々に伝えていきます。 そして、周囲の人々は、そのような人の姿の中に、確かな光を見出すのです。(8)

その光とは、いったい何でしょうか。

それは、私たちがもはやこの世の神々には仕えないという証しです。 私たちは、もはやお金や財産、性やその他の一時的なものを追い求めては生きていません。

もちろん、それら自体がすべて悪いわけではありませんが、 私たちにとって、それらは人生の最終的な目標ではないのです。むしろ、私たちは、どんなものにもまさって、生けるまことの神に仕えているのです。

だからこそ、私たちはこの世にあるものではなく、天にあるものに心を向けます。 そして、天にあるものに目を留めるとき、 私たちは、愛と希望と、言葉では言い尽くせないほどの喜びを知るのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。