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テサロニケ人への手紙第二

平和を見出すために

テサロニケ人への手紙第一5:23〜24で、パウロはこう語りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23〜24)

そして、この手紙では、パウロは似たことを言いました。そして、パウロは第二の手紙の中でも、似たことばを語っています。

どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。

どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。(テサロニケ人への手紙第二3:16)

テサロニケの人々は、さまざまな問題に直面していました。迫害を受け、愛する者たちが殺され、その人々が死後どうなったのかと疑問に思ったのです。

さらに、偽教師たちが教会に入り、「イエス様はすでにこの世に戻られた」と教えたことで、彼らは主の再臨を見逃したと思い、混乱に陥りました。

加えて、怠け者たちも教会に入り込み、さまざまな問題を引き起こしました。

パウロはそうしたすべての問題に応答したあと、テサロニケの人々が神の平和を知るようにと祈りました。

試練のただ中での平和のために祈り、愛する者を亡くしたときにも、平安があるように祈り、そして最後には、イエス様が必ずもう一度来られると彼らが確信をもって知り、平和を持つことができるように祈ったのです。

どんな状況に直面していても、神様が望んでおられるのは、私たちが平和を持つことです。では、私たちはどのようにして平和を知ることができるのでしょうか。それは、神様との関係を通してです。

神様が私たちを御自分の子どもとして受け入れておられることを知っているからこそ、私たちは平安を持つことができます。また、神様が始められたことを必ず完成してくださるという確信も与えられています。

それだけではなく、私たちは、神様が私たちを完全に聖なる者としてくださることを知っています。つまり、いつの日か、私たちが完全にイエス様の姿を映し出すようになると信じているのです。

さらに、たとえ大きな試練の中にあっても、神様は私たちを見捨てておられないと知っています。そしてその試練は永遠には続かず、主は再び来られ、神の正義をもたらされます。この真理によって、私たちは平安を得ているのです。

最後に、私たちは自分の罪を言い表し、神様の力によってその罪を捨てるとき、平和を知ることができます。

あなたは平和を知りたいと願っていますか。平和は、最初から最後まで、神様から与えられるものです。言い換えれば、平和は神様ご自身のうちにこそあるのです。

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テサロニケ人への手紙第二

兄弟姉妹を戒めるとき

クリスチャンの兄弟姉妹を戒めることは、決して楽しいことではありません。それを楽しんでいるような人は、そもそも相手を戒めるべきではありません。

それでも、ときには兄弟姉妹を戒めなければならない時があります。

今日の箇所では、パウロがどのようにそれを行うべきかを教えています。前回の記事で私たちが見たのは、あるテサロニケの人々が怠け者で、健康であるにもかかわらず、働くことを拒んでいたということでした。

パウロはテサロニケにいたとき、彼らを戒めましたし、最初の手紙の中でも再び彼らを戒めました。それでもなお、彼らは働くことを拒み続けたのです。だからこそ、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。(テサロニケ人への手紙第二3:6)

それは、かなり厳しいことばでした。パウロが意図していたひとつは、もしその怠け者たちが食べ物やお金を求めてきても、テサロニケの人々は助けるべきではないということです。しかし、それだけではなく、パウロはさらに踏み込んだ、より厳しい指示を語ったのです。

もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。(14)

さらに、パウロは二つの重要な注意点を挙げています。第一に、テサロニケの人々は、怠けている兄弟たちの影響を受けないように気をつけるべきでした。そのため、パウロは彼らにこう語ったのです。

兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。(13)

第二の注意点は、兄弟姉妹を戒めるときにこそ、私たち自身の態度に細心の注意を払うべきだということです。つまり、

敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。(15)

敵対的な態度ではなく、神の愛をもって、そうした人々に接するべきです。私たちの目的は、相手を滅ぼすことではなく、むしろ引き戻すことだからです。

あなたのまわりに、神から離れている兄弟姉妹はいませんか。 そのとき、あなたはどう応じるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

偽善か模範か

多くのクリスチャンたちは偽善者と呼ばれます。残念なことですが、実際に偽善的な行動をとってしまうクリスチャンも多くいます。

しかし、パウロは偽善者ではありませんでした。

彼がテサロニケに行ったとき、教会の中に怠け者がいました。その状況があまりにも深刻だったため、パウロはこのようなルールを定めたほどです。「働きたくない者は食べてはならない。」(10節)

しかもパウロは、そのルールを定めただけでなく、自身の日常でもその姿勢を貫いていました。彼は福音を伝えるために報酬を受ける正当な権利を持っていましたが、その権利をほとんど行使しませんでした。むしろ、パウロはこう語ったのです。

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。

あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。(テサロニケ人への手紙第二3:7-8)

では、なぜパウロはそのような生き方を選んだのでしょうか。

私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。(9)

パウロが自らそのように生きていたからこそ、怠け者たちを厳しく戒めることができたのです。彼はこう語りました。

ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。

そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(11-12)

また、

もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。(14)

多くの人は、イエス様のこのことばを引用します。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」

けれどもイエス様が語られたのは、正しい裁きではなく、偽善的な裁きについてでした。なぜなら、自分の欠点を見ようともせずに、すぐに他人を批判する人がいるからです。

それに対して、パウロは単に相手を裁く人ではなく、良いクリスチャンの模範でもありました。

さらにパウロが明確に教えているのは、私たちクリスチャンが裁くべき相手は、教会の外にいる人ではなく、教会の内にいる人たちであるということです(第一コリント5:9〜13)。

しかし、たとえ教会の内にいる人たちを正しくさばくとしても、私たち自身が偽善者ではなく、むしろ良い模範であることに注意しなければなりません。周りの人々は、単に正しいことを語る人々ではなく、そのことばに従って生きる姿を見ているからです。

「完全でないから人をさばいてはならない」というわけではありません。けれども、私たちは神のみ前でいつも謙遜な心を持ち、他人の欠点を見る前に、自分自身の欠けに目を向けるべきです。

私たちがイエス様とその光に近づくほど、自分の罪や弱さはさらに明らかになります。

もし自分の欠けや罪に気づけないのだとすれば、それはイエス様にまだ近づいていないということかもしれません。

また、そのような状態では、パリサイ人のように偽善に陥る危険すらあるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは偽善者でしょうか。それとも、良い模範でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

試練に直面するとき

このブログで私は何度も語ってきましたが、神様は私たちに安楽な人生を約束されているわけではありません。パウロはまさに、そのような人生とはほど遠い歩みをしました。

パウロは福音のために鞭打たれ、迫害を受けました。海で遭難も経験し、耐えがたいほどの重圧にさらされました。そして最終的には、キリストのために命を落としたのです。

それでもパウロは、歩みを止めませんでした。どうして彼は、そこまでして耐え抜くことができたのでしょうか。

パウロは、テサロニケの人々にこう願い出ました。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。

主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。

また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。(テサロニケ人への手紙第二3:1-2)

おそらく、いくつかの理由があったからこそ、パウロは歩みを止めずに進み続けることができたのでしょう。

一つ目は、自らの苦しみの実を、目に見える形で見ることができたことです。すなわち、テサロニケの人々やピリピの人々を通して、神様が確かに働いておられることを見たのです。

そのことによって、パウロは自分の苦労と苦難が決して無駄ではないと確信し、励まされました。

二つ目は、パウロが人々の祈りに支えられていたことです。彼は決して「私は大丈夫、自分の力でこの試練を乗り越えられます」とは言いませんでした。

むしろ彼は、繰り返し願い求めました。「私のために祈ってください。私の周りには災いがあり、悪意ある者たちがいるのですから。」

三つ目は、敵対する者たちがいたとしても、主が真実であり、良い方であるとパウロが深く理解していたことです。パウロはこう語っています。

すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし悪い者から守ってくださいます。(2-3)

そしてパウロは、テサロニケの人々を励まして、こう語りました。

私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。(4)

最後に、パウロは、彼らが試練の中でもしっかりと立ち続けることができるように、その鍵を示しました。彼はこう祈ったのです。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

多くの場合、私たちは試練の中で怒りや苦々しさに陥り、「神様に見捨てられたのではないか」と感じてしまいます。そして、自分がかわいそうでならず、周りの人たちにも理解されていないと思ってしまうのです。

しかしパウロは、こう語ります。試練のゆえに神様から離れないでください。むしろ、その試練の中でこそ、神様に近づいていきましょう。神様のもとへ駆け寄りましょう。

さらに、パウロは私たちにこう勧めます。

「キリストを覚えなさい。イエス様があなたのために何を耐えられたのかを思い起こしなさい。

イエス様は、愛しておられた人々に裏切られ、見捨てられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられました。それでもイエス様は、すべてを耐え抜かれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様があなたを愛しておられるからです。」

だから、「もう耐えられない」と思うときには、イエス様を仰ぎ見ましょう。イエス様はあなたの痛みをご存じです。あなたを愛しておられるのです。あなたは決して、見捨てられていません。

そして、へブル書の著者はこう語りました。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

また、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

だから、もしあなたが見捨てられ、「もう終わった」と感じているなら、私もパウロのように、あなたのために祈りたいと願います。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケ3:5)

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テサロニケ人への手紙第二

苦難のただ中にある希望

私は前にも述べましたが、クリスチャンたちは反キリストを見ることになり、迫害を受けると信じています。

そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼすために来られるまでは、ご自身の民を集められないと信じています。

どうして私がそう信じているのでしょうか。この箇所の言葉が、その理由の一つです。

一部のクリスチャンたちは、反キリストが現れる前に、イエス様がご自身の民を集めて天に連れて行かれると考えています。

彼らの主張によれば、もしキリストの再臨に先立って、ある「しるし」が成就しなければならないのだとすれば、「イエス様がいつでも来られる」とは言えなくなってしまう、というのです。

だから彼らの理解では、その「しるし」を見るまでは、私たちは特に準備をしなくてもよい、ということになります。

私は、その考えに対して二つの答えを持っています。

一つ目は、イエス様がご自身の民を集められる前に、いくつもの出来事が起こらなくてはなりませんが、それでもイエス様は、いつでもあなたを天に連れて行かれるかもしれません。

イエス様は、あなたに明日のいのちを約束しておられません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、犯罪者によって命を奪われるかもしれません。

そうしたことが起こったとき、あなたは何らかの備えをしているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話に出てくるように、神様が突然あなたを裁くために呼ばれるとき、あなたは何の備えもしていないかもしれません。(ルカ12:13〜21)

二つ目は、その議論がパウロの言葉と矛盾しているということです。パウロ自身がこう言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」

パウロの時代から今日に至るまで、何かが変わったでしょうか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはイエス様がいつ来られるのかを知りません。

ですから、もしパウロが今も生きていたら、私たちに同じように語るはずです。「イエス様はまだ来られていません。まだ、あるしるしが成就されなくてはなりません。」

もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは、不穏なことです。特にこれまで、私たちクリスチャンが反キリストを見ることは決してないと信じていた人々にとっては、そのような話は聞きたくないと思うかもしれません。

しかし、私たちには希望があります。

パウロによれば、酷い苦難の時、つまり反キリストの時代には、この世の人々が神様の御怒りを受けますが、私たちはその御怒りを受けることはありません(第一テサロニケ5:9)。

また、ペテロはこう語っています。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。

さらに、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。

神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。

そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(テサロニケ人への手紙第二2:13-14)

要するに、あなたは試練に遭うかもしれませんが、神様がすでにあなたを選んでおられるので、必ず救ってくださいます。そして、あなたはイエス様の栄光にあずかるのです。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)

私たちがどのようなことを経験しても、たとえ反キリストに直面するとしても、パウロは私たちにこう語っています。

「あなたが受けた真理にしっかりとしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、最も暗いときにこそ、イエス様は私たちに励ましと希望と力を与えてくださるからです。」

実のところ、もし私の考えが間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がないのだとすれば、それは私にとって本当に喜ばしいことです。

しかし、もし私たちが反キリストを見ることになるのなら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は、私たちがその試練を乗り越えることができるように助けてくださいます。

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テサロニケ人への手紙第二

なぜ多くの人々は滅びてしまうのでしょうか

第1章において、パウロは、かなり不穏なことを語ります。彼はテサロニケの人々にこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(テサロニケ人への手紙第二1:6,8-9)

地獄とは何かを知りたいなら、第9節がその核心を要約しています。それは――人々が永遠に、主の御前から退けられることです。

「永遠の滅び」と聞くと、「それは意識のない状態なのでは」と考える人もいるでしょう。けれども、聖書は明確に語ります。滅びた人にも意識はあります。

そして、神様が命と喜びと愛の源であるならば、その神様から切り離された状態こそが、まさに地獄なのです。

では、なぜ人々は神様から退けられるのでしょうか。

それについて、今日の箇所が答えを示しています。

第2章では、パウロはテサロニケの人々が抱いていた誤解を正します。パウロの以前の手紙を読んで、一部の人々は「すでにイエス様が帰って来られた」と思い、「自分たちはその再臨を見逃してしまったのでは」と不安になっていました。

しかし、パウロは彼らを励まします。「あなたがたはイエス様を見逃してはいません。イエス様が来られるとき、すべての人が必ずその姿を見ます。イエス様が来られるとき、あなたは必ず知るのです。」

そして、パウロは将来に何が起こるのかを説明します。

イエス様が来られる前に、反キリストが現れます。彼は神様に逆らって自らを高く上げ、ついには「自分こそ神だ」と宣言するのです。

実際、パウロの時代から――もっと前から――私たちはこの世界に働く不法の力を見てきました。その力の背後にいるのは、私たちを滅ぼしたいと願う偽りの父です。しかし今のところ、聖霊様がサタンを引き止めておられます。

けれども、やがてそのときが来て、聖霊様が退かれると、サタンはこの世を自由に支配するようになります。

反キリストが現れると、偽りのしるしや不思議なわざを行い、 多くの人々を欺きます。人々は彼を本当のキリストだと信じてしまうのです。

その結果、彼らは滅びに至ります。(3〜10節)

では、なぜ彼らは滅びなくてはならないのでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(テサロニケ人への手紙第二2:10-11)

これこそが、人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。たとえ福音を直接聞いたことがなくても、彼らには創造物のあかしもあり、自分の良心のあかしもあるのです。(ローマ書1章)

それでも彼らは、救いへと導くその真理を愛することを拒みました。むしろ、自分の罪を喜んだのです。

多くの人々は、福音を信じられないわけではありません。むしろ、福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、それを受け入れるならば、悔い改めなくてはならないからです。自分の罪を捨てなくてはならないのです。しかし、彼らはそれを望まないのです。

それゆえに神様は彼らに言われます。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそのとおりにし、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めることはありません。だからこそ、彼らは地獄で滅びるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは真理を持っています。では、どう応答しますか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。それとも、自分の罪にしがみつき、滅びへと進むのでしょうか。

主のみことばを、しっかり心に刻みましょう。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたには、いのちを選ぶことができます。では、なぜ死を選ぼうとするのですか。あなたはどう応答するでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

イエスの御名があがめられ、私たちも栄光を受けるために

苦しみが好きな人は、誰もいないでしょう。どうして神様が私たちの苦しみを許すか、疑問に思うのは簡単なことです。でも、この手紙では、私たちはいくつかの答えを見つけることが出来ます。

私は以前にも言ったけど、テサロニケの教会は迫害の中で生まれました。パウロはテサロニケから追い出されて、その都市にもう一度入ることが出来ませんでした。

そういうわけで、テサロニケ人たちを励ますため、パウロは自分の代わりに、テモテを送ったし、手紙を二枚送りました。これは二番目の手紙です。

テサロニケ人たちの苦しみの結果は何だったでしょうか。パウロはこう言いました。

兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。

あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。(テサロニケ人への手紙第二1:3)

彼らが苦しみに直面していたにもかかわらず、パウロが祈っていたとおりに、彼らの信仰と愛は成長していきました。(第一テサロニケ3:11−12)

それゆえに、パウロはこう語ります。

ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。(4-5)

「それは。。。神の正しいさばきがあることの証拠です。」

では、パウロが意味したのは何だったのでしょうか。

それは、神様が決して誤ることのない方であり、常に正しくさばかれるということです。

ですから、神様が私たちの人生に苦しみや試練を許されるとき、 その出来事は私たちを滅ぼすためではありません。むしろ、私たちは火で精錬された金のように、清められ、鍛えられて出て来るのです。(ヨブ記23:10)

この真理は、テサロニケの人々の歩みにおいても現れました。 彼らは苦しみによって打ち砕かれたのではなく、かえって、その愛と信仰はますます強められていったのです。

だからこそ、パウロはこう語りました。「あなたがたは苦しみにあったが、神の国にふさわしい者として認められているのです。」

さらにパウロは、彼らをこう励まします。「たとえこの世で正義が実現しなくても、最後には神様ご自身が、あなたの迫害者をさばき、あなたに安らぎを与えてくださいます。」

黙示録6:9〜11において、神様は殉教者たちにも同じように語られました。

こうして、パウロはその日について、次のように語ります。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(10)

私は、この言葉が本当に大好きです。

イエス様が来られると、神様は、試練の中でもあきらめずに神のために生き続けた聖徒たちの間で、あがめられるのです。

同時に神様は、私たちの間で感嘆の的となられます。なぜなら、私たちはふさわしくない者であったのに、神様はその恵みによって、私たちを救ってくださったからです。

またその日、私たちははっきりと悟るでしょう。「神様が常に私たちとともにおられ、私たちを強めてくださったからこそ、私たちはこの試練を通り抜けることができたのだ」と。

だからパウロは、このように祈ったのです。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)

どうして私たちは、苦しみを経験するのでしょうか。その目的は、イエスの御名が私たちの間であがめられ、私たち自身も、主にあって栄光を受けることにあります。

そして、何に直面してもイエス様に従い続けるなら、神様は、私たちの善を求めるあらゆる願いと、信仰に基づく働きを実現し、祝福してくださるのです。

そのうえで、イエス様が来られるその日、私たちをご覧になって、こう言ってくださるのです。

よくやった。良い忠実なしもべだ。。。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

アーメン。主イエスよ、来てください。