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テトスへの手紙のデボーション

神様の愛といつくしみに応えて

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙3:4-5)

「人に対する愛。」

この言葉が私の目に留まりました。

なぜなら、3章でパウロはこのようなことも語っているからです。

あなたは人々に注意を与えて、その人々が。。。すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。(3:1)

神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

なぜ私たちはそうするべきなのでしょうか。

なぜなら、神様はまず私たちに愛といつくしみを与えてくださったからです。

だから、神様が言葉だけではなく、行為でも私たちを愛しておられるように、私たちも周りの人々を行為で愛するべきです。

今日、神様は私に尋ねられました。「私と同じように、周りの人を愛していますか。」

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真の礼拝

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトスへの手紙2:14)

最近、私はこの疑問について考えています。人々が「ワーシップするのが好きです」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。また、私自身は何を意味しているのでしょうか。

多くの人々がそう言うとき、「賛美するとき、私は本当に嬉しいです。神様の愛を感じるから。神様が私とともにおられることを感じるから」という意味で使っています。

実は、アメリカ人として、「ワーシップ」という言葉を聞くとき、賛美を思い浮かべるので、そのような人々に共感できます。

しかし、日本では、聖書の翻訳者たちは「ワーシップ」ではなく「礼拝」という言葉を用いています。

「礼拝」とは何でしょうか。それはただ賛美することなのでしょうか。礼拝は、神様に愛の歌を歌うことだけなのでしょうか。礼拝は、教会での日曜日の集まりだけなのでしょうか。

それは違います。

礼拝、すなわち真のワーシップとは、イエス様がその素晴らしいあわれみのゆえに十字架にかけられたことを認めることです。

さらに、真のワーシップとは、イエス様がなぜそのようにしてくださったのかを理解することです。 それは、私たちをご自分のものとし、罪から清め、良いわざに熱心な民とするためです。

私たちはイエス様のものとなりました。私たちはイエス様に属する者です。

ですから、礼拝—ワーシップとは—ただ神様に愛の歌を歌うことではありません。

ワーシップとは、「私の人生はすべてあなたのものです。私の時間も、お金も、すべてのものをあなたにささげます」と告白する生活を送ることです。

ローマ書11章から12章にかけて、パウロはこのことについて語りました。

彼は歌を歌いましたが、その歌は単なる神への愛唱ではありませんでした。むしろ、パウロはこう歌いました。

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ11:36)

そして、パウロは真のワーシップを定義します。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)

あなたはどうでしょうか。「ワーシップが大好き」と言うとき、あなたはパウロのワーシップの定義を用いているでしょうか。

天のお父さん、私が本当にワーシップを愛するように。私が何も隠さず、喜んで私のすべてをあなたに捧げるように。

あなたをそのようにワーシップするのは、ふさわしいことです。なぜなら、あなたは私を造り、あなたのみこころゆえに、私は存在し、また造られたのですから(黙示録4:11)。

すべてのものがあなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。だから、私の歌の中だけではなく、私の人生の全体において、あなたに栄光がありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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偽ることのない神

それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。(テトスへの手紙1:2)

「偽ることのない神。」

今朝、その言葉が何となく私の心に響きました。

それは、私の希望の土台です。神様は偽ることのない方だから、約束されたことを必ず実行されます。その中には、神様が永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちも含まれています。

その約束は、イエス様において成就しました。

私は、ルカの福音書にあるシメオンの言葉を思い起こしました。

主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。

私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。(ルカ2:29-32)

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神様が取りたい写真

今日の箇所を読んだとき、最近の教会のメッセージを連想しました。

神様の子供たちとして、私たちは偉大な恵みを与えられています。でも、神様は、私たちがただその恵みを楽しんでいるだけの「写真」を、望んでおられるわけではありません。

むしろ、パウロはこう言っています。

この言葉(つまり、神様の恵みと憐れみについての教え)は真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。

これらのことは良いことであり、人々に有益です。(テトスへの手紙3:8)

後で、彼はさらに具体的に説明します。

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

ただ神様の恵みを楽しむことは、実を結ぶことではありません。実を結ぶとは、苦しんでいる人々に触れ、彼らの差し迫った必要に備えることです。

そうするとき、私たちは、自分自身が受けた恵みを彼らに与えているのです。

神様は、そのような写真を撮りたいと思っておられます。

天のお父様、今日、私があなたのために実を結ぶように。アーメン

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希望によって形づくられた人生

クリスチャンとして、私たちの人生は希望によって形づけられているはずです。

その真理について、考えたことがあるでしょうか。

使徒たちはそのように信じていました。

彼らにとって、希望は非実用的で空しいものではありませんでした。

むしろ、希望は彼らの人生を形づくる力でした。

ヨハネは最初の手紙の中で、そのことを教えました。

しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

今日の箇所では、パウロも同じようなことを語っています。

というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトスへの手紙2:11-14)

どうして、私たちは不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するのでしょうか。どうして、私たちは良いわざを行う熱心を持っているのでしょうか。

なぜなら、私たちは希望を持っているからです。つまり、ある日、イエス様がこの世に戻り、すべての物を新しくするのです。

その日、この世のすべての悪は全滅させられます。さらに、私たちは、私たちを愛してくださるイエス様に似た者となります。イエス様はそのために、私たちを自分の民として選び、贖ってくださいました。

また、私たちの希望するほとんどのものと違って、イエス様にあるこの希望は確かなものです。

あなたは、どれだけその希望を考えるでしょうか。その希望は、どれだけあなたの人生、あなたの考え方や行動を形づけているでしょうか。